2014年12月7日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/7礼拝説教「神と出会うとき」マルコ7:24~30

 
今日はマルコによる福音書7章の二つ目の話となります。舞台はシリア・フェニキアの町です。外国です。フェニキアというのは、航海術に長けた海洋民族の国です。アルファベットを発明した人々としても有名です。彼らは地中海を渡って、北アフリカの北岸、現在のチュニジア辺りにカルタゴというとても繁栄した植民地を築きました。ローマ帝国の強敵で将軍ハンニバルもよく知られた存在です。このカルタゴはアフリカでのフェニキアですが、それと区別するためシリア・フェニキアという呼び方が生まれるのです。

 ところでなぜイエスは外国へ行ったのでしょうか。冒頭に次のような言葉があります。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っていたが、人々に気づかれてしまった」。イエスは誰とも関わりたくなかったのです。その理由は、疲労困憊だったからではないでしょうか。

 ここに至るまで数多くの癒しがありました。5000人の群衆への対応もありました。弟子たちは自分たちだけで宣教活動もしました。ユダヤ教の指導者たちとの論争もありました。イエスの一行は疲れ切っていたはずです。もうそろそろ骨休めをしたい。次の活動への充電もしたい。そんな心境だったのではないかと思うのです。ですから、わたしはここは、イエスのバカンスだったと思うのです。

 さて本文を見て行きます。誰にも気づかれないようにしてひっそりと休息の時を得ていたイエスでした。しかし、せっかくのバカンスも人々に気つかれ、元の忙しい日々に引き戻されてしまいました。一人の女性がやって来ます。シリア・フェニキア生まれといいますから異邦人です。彼女は娘を助けて欲しいとやって来たのです。娘が汚れた霊に取り憑かれたというのです。しかも彼女はイエスの足もとにひれ伏しているのです。必死に懇願しているのです。


 この女性の姿は、当時としてはあり得ない事です。ユダヤ人と異邦人との間には深い隔たりがありました。その原因は、ユダヤ人による異邦人への差別です。それゆえに両者に間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人であるイエスに救いを願うなどあり得ない事だったのです。まして、ひれ伏して懇願するなど考えられないのです。

 したがってこの女性は、恥も外聞も何もかもすべて捨てているわけです。それほど切羽詰まっていたのです。何としても娘を救いたかったのです。それに対してイエスはこう言います。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。

 これはいったいどのような意味なのでしょうか。「子供たち」とはユダヤ人を意味します。「小犬」は異邦人です。つまりイエスは、「わたしの救い、わたしの恵みは、ユダヤ人のためにあるのであって、異邦人に与える分はない」と述べたのです。イエスの言葉はあまりにも冷たい。というか随分酷いことをいうものだというのが率直な感想です。

 だとしたら、イエスの真意は何だったのでしょうか。せっかくのバカンスの邪魔をされて苛立っていたのでしょうか。人間イエスという視点に立てば、それも十分あり得ます。だからつい本音が出てしまったのかも知れません。

 あるいは、イエスも時代の子だったのでしょうか。イエスはあくまでユダヤ人であり、ユダヤ教徒です。ユダヤ教の改革を目指してはいたでしょうが、異邦人にまで恩恵を拡大しようとは思ってはいなかったのかも知れません。それが本音だったことは十分考えられます。

 これに対して女性はどう反応したのでしょうか。「人を犬呼ばわりするとは何だ」。そういって怒り、恨み節の一つも言い返してその場を離れたのでしょうか。普通ならそうするはずです。すごい救い主で慈愛に満ちたお方だと聞いたから来たものの、とんだペテン師だった。やっぱり傲慢なユダヤ人の男に過ぎないと思われても不思議ではないのです。

 しかしこの女性は怒ったわけでも、立ち去ったのでもありません。こう言うのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。彼女はこれほどの侮辱を受けても怯みません。わたしたちだってユダヤ人のおこぼれに与れますというのです。

 この言葉をわたしたちはどう受けとめたらいいのでしょうか。これはあまりにも卑屈すぎる。彼女は人間の尊厳を否定している。いくら救って欲しいとは言え、ここまで自分を貶めるべきではない。そう考える人もいるのではないでしょうか。ほんとうに解釈が難しいところです。考えてみました。もしも、彼女が卑屈すぎる、人間の尊厳の否定だと思うならば、その前提は、自分は犬ではない。恵みを受けるに値する者、価値ある者という意識です。現代では当然の意識です。だから人間の尊厳とか人権という言葉も当たり前のように用いられるわけです。したがって人権侵害を赦してはならないということになるわけです。

 もしここで彼女がそう思っていたのなら立ち去ったはずです。しかし立ち去らなかった。それはなぜか。間違っているかも知れませんが、彼女の思いはこうだったのではないでしょうか。「わたしたちは惠に値するような人間ではありません。救いに与れるような人間ではありません。でも、いのちを与えられた以上生きてゆきたいのです。生きさせてください。どうか娘を助けてください」ということだったのではないでしょうか。民族とか人種とか身分とか、そんなことは一切関係のない、人間としての根源的な願いだったのではないでしょうか。

 イエスはこれに対してどう言ったのでしょうか。「それほど言うなら、よろしい、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。新共同訳ではこう訳されていますが、ここは訳するのがとても難しいところだそうです。岩波書店の聖書ではこうなっています。「そう言われてはかなわない。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出てしまった」。


 厳密には、う~んとうなって言葉にならないような感じだそうです。おそらくその感じを察して岩波では、そこまで言われたら、かなわないとなったと思います。つまりイエスは降参しているのです。自分の負けだ。自分は間違っていた。そう認めているのです。

 わたしたちはイエスをキリストだと信仰するあまり、イエスが間違いを犯す。そんなことはこれっぽっちも思わないはずです。常に完璧な方、一分の隙もない立派な方、慈愛に満ちた方、そう思っています。またそうではくてはならないと思っています。だから新共同訳では「そこまで言うなら、よろしい。家に帰りなさい」としか訳せないのです。でも、これではあまりにも上から目線です。彼女の頑張りに対して、だったら救ってやるぞと言わんばかりです。

 でも、イエスはそういう人ではなかったのです。人間ですから間違いも犯すのです。時代の限界もあったのです。そしてこの出会いがイエスを変えたのです。彼女の執拗な食い下がりによって、イエスは深く恥じ入り、回心したのです。

 わたしは自分の間違いを認め、自分を変えることができるのは、愛だと思います。愛があるから変えることができるのです。世の中には、絶対に自分を変えようとしない人がいます。ほんとうに正しいのならそれでいいでしょう。しかし自分が明らかに間違っていても変えようとはしない人がいます。自分は絶対に正しいという信念なのか、それとも意地なのか、あるいはトラウマからなのか、悔しさからなのか、その理由は様々です。

 でもそんな人にも、その頑なさを変えようとする機会がしばしば訪れるはずです。わたしはあえていうなら、それが神と出会っているときだと思いたい。イエスはまさにここで神と出会ったのではないでしょうか。そしてイエスは間違いを認めるのです。ユダヤ人として持っていた差別や偏見に気がついたのです。そして悔い改めたのです。


 この福音書記者は、イエスのイメージにとって都合の悪いこの伝承を残すことで、神と出会うときとは何か、神の御心に生きようとすることとは何か。それをイエスが自らの非を通して、自分のイメージダウンになることを通して示しているのだ。だからわたしたちも、そうできたらいいよね。そう伝えたかったのではないでしょうか。



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# by buku1054 | 2014-12-06 17:45 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年11月30日坂下教会礼拝メッセージ

2014年11月30日礼拝説教「いのちの掟」マルコ7:1~23

 今日からマルコによる福音書7章に入ります。この7章は三つの物語で構成されています。この三つはイエスの基本的な活動のすべてを反映していると思います。

 イエスの基本的な活動は大きく三つに分けることができます。まずは、ファリサイ派、律法学者といったユダヤ教の指導者たちとの論争です。これがイエスの死を早めたと思います。そして二つ目は、病人や障がい者の癒しです。イエスの最も中心的な活動です。イエスが殺される理由です。もう一つは、罪人とレッテルを貼られた人たちとの分け隔てのない自由な交流です。差別社会であった当時のユダヤにおいては革命的といっていい活動です。やはりイエスが殺される理由です。つまり、イエスの活動は、すべて当時のユダヤ教の考え方からすると殺されることになる理由だったのです。すなわち、イエスの活動はすべて命懸けだったといえます。自分の身を犠牲にしてまでやらなくてはならない。イエスはそう考えて行動したのです。

 今日のところは論争です。次の箇所、シリア・フェニキアの女の信仰のところは、癒しにも取れますが、彼女は異邦人だったので、罪人との自由な交わりともいえます。三つ目は、障がい者の癒しですが、ここも異邦人が対象ですので自由な交わりも重なっています。すなわち、イエスの基本的な活動のすべてがこの章では記されているのです。

 先取りするのですが、この福音書は全体で16章からなっています。次の8章で量的には丁度半分となるのですが、内容的にも分岐点になっています。8章からのイエスの歩みは、十字架へとまっしぐらに進んで行きます。その意味で7章までは、十字架に行かざるを得なかったイエスの生き様が記されていると言っていいのではないでしょうか。


 特に、この7章にイエスの生き様のすべてが記されていると思うのです。そう考えると、この福音書記者マルコは、イエスの生涯をここまで進めてきて、ここでイエスの生き様の一つの結論を示したかったのではないかと思います。

 では、順を追って考えて行きたいと思います。ここは、エルサレムからやって来たファリサイ派と律法学者たちという書き出しではじまります。わざわざユダヤ教の総本山から来たわけです。イエスの影響力が遠くエルサレムまで鳴り響いていたということです。このことは、ユダヤの指導者にしてみたら、たいへん深刻な事態だったのではないでしょうか。ですから彼らは、何としてでもイエスを貶めるためにわざわざガリラヤのゲネサレトまでやって来たのです。そして言いがかりをつける機会を狙っていたのです。

 すると一つのことが問題になったのです。弟子たちの中に手を洗わずに食事をする者がいたのです。それを非難の材料としたのです。もっとも弟子たちすべてではないのです。弟子の中の何人かです。つまり弟子の中で手を洗う者もいたということなのです。これは重要なことなのです。後でこのことには触れたいと思います。

 まずここで、食事の前に手を洗う行為ですが、これは衛生上のことではありませんでした。宗教的な意味があったのです。ユダヤ人にとって食事というのは、命を維持するための行為という意味だけではありませんでした。食事をすることは、神との交流という意味があったのです。

 もちろんこのことが意味することの本質は大切なことです。食べるという行為は、それを提供してくれる様々な命の存在や食べるにいたるまでの働きがあってこそあり得るわけですから、まさに恵みといっていい事柄です。わたしたちも、食前の祈りをすること、あるいは、いただきますと言って手を合わせることは大事なことです。


 しかしユダヤの指導者たちは、それに留まりませんでした。自分の身が穢れていることは神に対して申し訳ないと考えたのです。したがって穢れを清めるという考えが生じました。食前に手を洗うことはもちろんのこと、市場から帰ったら体を清めるということまでしたのです。ミクヴァーという水槽で沐浴をしたのです。なぜなら、異邦人に触れたかも知れないからということです。このように異常なほど穢れに固執する社会だったのです。

 汚れた身のままでは神に喜ばれない。神から裁かれる。そういう理解であっのです。ただしこれは律法の掟ではありません。昔からの人の言い伝えだったというのです。つまり、ある人たちが自分たちの価値基準で決めたことなのです。それがいつしか絶対の尺度となり、それを破った者は神を冒涜したというように見なされるようになったのです。

 イエスはこれに対して、どう言ったかというと、あなたがたは人の言い伝えを大事にして、神の掟を捨てていると非難したのです。かなり手厳しいです。自分たちこそ神の掟に忠実に生きていると信じ込んでいる者に向かって、いうなれば「お前ら、少しも神を大事にしていないじゃないか!」といったようなものです。当然、言われたファリサイ派、律法学者たちは怒り狂ったでしょう。イエスがやがて殺される運命になるのも仕方がないなと思います。でもイエスは黙ってはいられなかったのです。

 ところでイエスの言う神の掟とは何でしょうか。通常、神の掟とは「律法」を指します。でも、律法ならば他の箇所と同様に律法と記されているはずです。でもイエスは、律法とは言わず、あえて「神の掟」というのです。ということは、イエスは、律法のことを述べてはいないのです。では何でしょうか。

 神についてはいろいろな捉え方があると思います。捉え方がいろいろあるというのは、神を認識することができないからです。だから様々な捉え方になるのです。ですからどのような捉え方でもいいのです。というかどれが間違いだとか正しいとかはいえないのです。それぞれに信じていればいいのです。

 わたしもその都度変わりますが、今は、神とは「命の源」だと思っています。天地創造物語では、神がすべてのものを創られたとあります。やはり源です。ローマ書では「すべてのものは神から出た」とパウロは捉えているのです。したがって、神の掟とは、わたしなりに解釈すると、命の掟というか、命の根本精神というか、命についてのもっとも大切なことだと思うのです。

 命とは何でしょうか。つまり、生きているということは何でしょうか。こういう問いは学校で学ぶのでしょうか。少なくともわたしは学んだ記憶がありません。数学、英語、物理、国語、歴史に地理。学ぶべきことはたくさんあります。でも、わたしたちが生きる上でもっとも大切なこと、根源的なことは、学校では案外なおざりにされているような気がします。家庭でも、親からこのような話を聞いたことはありませんでした。

 命とは、生きるとは、あえて定義するならば、それは、関係的であるということ、つながりだということです。つまり、そのものの力、そのものの意志だけでは存在しえないということです。この真実には例外がありません。イエスだろうが、安倍首相だろうが、蛙だろうが、まったく同じです。したがって命には優劣はありません。誰もが皆かけがえない存在なのです。言い方を変えれば、どんな小さな者も大切だということなのです。これが神の掟が意味することではないでしょうか。

 人の言い伝えに固執するユダヤ教の指導者たちは、神の前では穢れていてはならないと思い込んでいます。特別でなくてはならないわけです。存在における差別を容認する考えです。自分で勝手に神の前で相応しい者はどんな者かということを決めているのです。しかし、この倒錯した状態に気がつかないのです。


 後半でイエスは語ります。悪いものは人の心の中から出ると。正確には自我から出るということでしょう。自我とは、自分の力だけで存在しているという意識です。そこから、自分を守るのは自分自身だということになります。ほんとうは、自分以外の存在があって守られているのですが、そこはすっかり抜け落ちるのです。自分だけなのです。したがって、他者は基本的に競争相手となるのです。場合によっては敵対の対象にもなります。ともかく自我は自己保身に執着します。さらに自己拡大へと進みます。貪欲な思い。弱肉強食の考えを生むのです。グローバル経済はその典型的な例といえます。

 結果として、他者を出し抜いてでも自分がよくなろうとする。そこで自分の方が優れていると思い込む。立派だと自負する。正しいと誇る。そして、それらの思いを正当化するための仕組み、きまり、考え方などをつくろうとする。まさにこれが、当時のユダヤ教の指導者たちの実態だったのです。彼らは神様、神様と敬虔ぶってはいますが、実はまったく神から離れているのです。心の深いところでは、少しも神を信じていないのです。でもそれに気がついていないわけなのです。

 ただ今日のわたしたちが、果たして、当時のユダヤ教指導者を非難できるかというと、口をつぐんでしまうと思うのです。わたしたちもまた同じような過ちを冒しているのではないでしょうか。

 冒頭で、手を洗う弟子もいたことが重要だと述べました。イエスは皆同じにしようとは思っていないのです。いろいろな考え、いろいろな立場があっていいと考えているのです。命はつながりであると同時にそれぞれに違いもあるのです。関係を大切にすることは、何でも同じにしなくてはならないということではありません。それでは同調圧力です。

 そうではなく、それぞれの違いを受け入れ合いながら支え合ってゆくということではないでしょうか。それがイエスの思いなのです。このイエスの考えを、今、個々の地域社会で、それぞれの国で、そして教会はどこまで実現しているのでしょうか。問われていると思います。


 今日から教会の暦でアドヴェントとなりました。クリスマスへの備えの時期です。備えの中心的な事柄は悔い改めです。この一年の来し方を振り返り、果たして自分はどう生きてきたか、自分に偽りなく向き合い、新たに生き直す決意をするときです。なぜこの時期にそうするのか。それは救い主が誕生したことの意味を思い起こすからです。

 イエスは救い主キリストとして誕生しました。初代教会が定めた信仰です。そしてその救いとは、信じた者が永遠の命を与えられるといった自分のことだけに留まるものではありません。先週も述べたように、救いとは、他者と共に愛し合って生きるように変えられるというところまで含まれるのです。

 これは最も難しいことです。一朝一夕にできることではありません。でも、だから、折に触れて自らを振り返るときが必要だと思うのです。礼拝を守るという修行が必要なのです。それは、そうしなくては駄目なんだとか、そうしなければ救われないとかいうことではありません。神の愛に対する応答なんです。その応答の日々がわたしたちの生きる意味だと思うのです。このアドヴェント少しでもそのような思いで過ごせたらと思うのです。



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# by buku1054 | 2014-11-30 17:47 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

坂下教会婦人会活動の一コマ

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婦人会では、毎年10月にいつもの教会での学びを離れて、小旅行をします。この写真は、多治見の修道院を訪ね、名古屋学院大学の瀬戸キャンパスで礼拝を守ったときのものです。ちなみにこの後は多治見の「スシロー」でお寿司をお腹いっぱい食べました。最後列右の方は、福井 智牧師でこの学校の先生です。毎年夏に坂下教会でメッセージをしていただいてます。
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# by buku1054 | 2014-11-24 18:55 | その他 | Comments(0)

葬儀メッセージ

あるときの葬儀メッセージ

今日ここにお集まりの皆さんにとって親しみを覚えておられたAさんが、その生涯を閉じられました。満50歳という若さでした。あまりにも早すぎる死といっていいでしょう。それだけに本人もそしてここにお集まりの皆さんも、無念というか悔しいというか深い嘆きを覚えていらっしゃると思います。

わたしたちは人生において、様々な経験をいたします。良いことも悪いことも、辛いことも悲しいこともあります。それが人生です。若いときは力が漲っています。希望があります。楽しいことが多い。しかし歳を重ね、衰えていきます。わたしもAさんとは同世代でして、50を過ぎた頃からでしょうか、漠然とですが、人生のゴールということを意識するようになってきました。

でもそれは、同時に死を意識することでもありますから、楽しいことではありません。むしろ不安であり、時に恐怖を感じることでもあります。なぜなら、死の先に何が待っているか。わたしたちにはわからないからです。そして、家族や親しい者たちとの関係を断ち切られてしまうからです。悲しいかなわたしたちは、例外なく死を迎えなくてはなりません。

ある日突然、自分でさえ気がつかないうちに一瞬にして命が奪い去られるならいいでしょう。長野県の標語である、ピンピンコロリと死ねたら最高です。しかし、難病であるとか重い病を宣告されたとか、死がヒタヒタと迫ってくる様な状況を迎えたとするならば、それは、相当に辛い心境に立たされるのではないでしょうか。

まさにAさんは、この若さで、それを徹底的に味わったのです。昨年の9月に癌の宣告を受け、余命1年という残酷な報せの中で、その苦しみはいかに凄かったのか。その辛さは同様の体験をした者でなければわからないことです。ほんとうに辛かったのだろうなと思います。ほんとうに恐かったのだろうなと思います。本当に悔しかったのだろうなと思います。

夫やこどもたちを残して逝くことも無念であったでしょう。悔しかったでしょう。わたしはAさんに何の慰めの言葉も掛けてあげられなかったことを悔やみます。何の力にもなってあげられませんでした。

でも今、Aさんは、そっとこの場にいるような気がします。何の根拠もありませんがそんな気がします。天国へと行く前に皆さんにお別れをするために、この場にいるような気がします。ですから、わたしは皆さんだけではなくAさんにも伝えたいのです。大丈夫だよ。何の心配もいらないんだよ。これから天国での新しい人生が始まるのだからと。

先ほど読みました聖書の言葉に、どんなものであっても、わたしたちを神の愛から引き離すことはできないとありました。これは見て確かめた言葉ではありません。信じるという信仰の言葉です。わたしはこの言葉を信じたいのです。皆さんにも信じて欲しいのです。

わたしたちの人生は、この世に命を与えられたはじまりと命を奪われる終わり。このはじまりと終わりの間にあるものです。間であるわたしたちの人生は、先ほど申し上げたように、幸不幸の繰り返しであり、様々なことがあります。多くの他者に支えられつつ、自らの意思や力で人生を切り拓くことができます。でも、誕生と死、これだけは自分ではどうすることもできません。

自分の力や意思で生まれてきた人はただの一人もおりません。また、自死であってもその後をコントロールすることもできないのです。わたしたちのはじまりと終わりは、わたしたちがどう逆立ちしても参与できないものです。何が言いたいかというと、わたしたちに命を与え、命を奪う何ものかがいるということではないでしょうか。

それを宇宙ということもできるかも知れません。自然という人もいるでしょう。グレート・サムシングという呼び方をする人たちもいます。わたしたちは神と呼んでいます。でも、呼び方は何でも良いのです。要は、わたしたちに命を与え、今生の人生での役割が終わったら、呼び戻す何かがわたしたちに関わっているということです。その意味でわたしたちは永遠に孤独ではない。死というものは、単なる通過点にしか過ぎない。わたしはそう信じたいのです。

Aさんの人生は終わりました。あまりにも短い人生でした。しかし、実は終わりではありません。わたしたちには想像できないけれど、イメージできないけれど、これから新たにはじまるのです。わたしたちより先に、それをはじめたに過ぎないのです。きっと、わたしたちが来るのを待っていてくれるはずです。

だから皆さんには、悲しいけれども、辛いけれども、必ずまたAさんと会える。どういう形かはわからないけれど、必ず会える。その希望と期待を持ってもらいたいのです。

どうか残された皆さんが、残された人生をそれぞれ精一杯生きてください。そして、天国でAさんと再会したとき、その人生の報告をしてください。また会えた喜びを分かち合ってください。ですから今日は、ほんとうは、Aさんとのお別れの日ではありません。天国での再会を約束する日なのです。希望に満ちた日なのです。



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# by buku1054 | 2014-11-23 18:27 | その他 | Comments(0)

2014年11月9日坂下教会礼拝メッセージ

201411/9礼拝説教「困難な状況で」マルコ64552



今日の箇所も、にわかには理解し難い出来事が描かれています。なんと、イエスが湖の上を歩くという記事なのです。これも聖書の中ではとても有名な箇所です。なんてったって水の上を歩くわけです。重力に逆らっているわけです。現実的には不可能です。ですからここは物議を醸す箇所です。こんなことはあり得ない。だから聖書は信用できない、馬鹿馬鹿しくて相手にする価値もないという立場が生じます。近代以降、科学的な証明がなければ認めないというものの見方からすれば、当然そうなります。

逆にイエスは本当に水の上を歩いたのだ。なぜなら神の子、救い主だから。これを信じないのは信者とは言えないという立場もあるわけです。わたしたちは信者ですから、基本的には聖書を信頼しています。でも、水の上を歩くとなると、自信を持って信じますとはいえないように思います。皆さんはどうでしょうか。

もし、本当にイエスが水の上を歩いたら、わたしならどう思ったか考えてみました。もちろんすごい!とは思ったでしょう。ただし、すごいとは思いますが、そこに何の意味があるのかと思うはずです。インドのヨガのすごい導師になると、空中浮遊する人が確かにいるといわれています。

にわかには信じられませんが、世の中には信じがたい能力を持った人もいるはずです。古代にはもっといたはずです。でも、ああすごいな、でもだからどうなんだという思いを超えられないのではないでしょうか。ましてやそこに、神的存在を読み込み崇めるのは如何なものでしょうか。

この箇所は、イエスが湖の上を歩いたこと、そのことに焦点を当てると、ピントが外れてしまうのではないだろうかと思うのです。これまで述べてきたように、聖書は歴史的事実を伝える書物ではありません。もし歴史的事実を伝えたものであるならば、そもそも説教など必要ありません。そのまま読めばそれで事足ります。

聖書は信仰の書です。ある出来事に相対して、その時人は神からどんなメッセージを見出したかということが表現されたものです。その表現には古代人らしく神話的な表現になるものもあるわけです。ですからわたしたちは神話的な表現の背後にある本質というか感動というかそういうことを見出すことが必要だと思うのです。それが聖書を読むということではないでしょうか。

わたしは湖の上を歩くイエス。神話的表現の可能性が強いと思います。神話的表現をとったというは、現実に生きる人間にとって、理解できない面があったということではないでしょうか。その理解できない部分を神話的に表現するのです。そう考えると最後の部分が理解の助けになると思います。湖の上を歩くイエスを見て、弟子たちは驚き。幽霊だと思うわけです。これは、パンの出来事が理解できず、心が鈍くなっていたからというのです。

パンの出来事とは「5千人の供食」の出来事です。でも、弟子たちがこの出来事を理解できなかったというのは解せないのです。弟子たちは現場にいました。群衆を実際に救済するためにそこにいたのです。しかしそれを理解できなかったというのです。いったい何を理解できなかったというのでしょうか。

パンの出来事とは、イエスが難民のような群衆を見て「腸がちぎれる」思いになり、群衆のために心底尽くしたという出来事です。それが前回のわたしの解釈でした。それはまさにアガペーの愛、無償の愛の行動に他ならないわけです。それを理解できなかったということは、無償の愛を理解できなかったということではないでしょうか。

わたしは弟子たちの気持ちがわかるような気がしました。100%純粋な愛、無償の愛。イエスはその愛を抱き実行できる方だったのでしょう。だから「神」と同一視もされたわけです。しかしそんな愛を、人はそう簡単には抱けません。人は皆、何らかの見返りを期待しながら善意を施す。そういうものです。こんなことをやって何になる。報いがないじゃないか。弟子たちはイエスに命じられるままに奔走しましたが、イエスのアガペーには気がつかなかったのではないでしょうか。このようなイエスと弟子たちとのずれ、それが最後の裏切りとなるのではないでしょうか。

さて問題の部分です。弟子たちはガリラヤ湖の真ん中。逆風に吹かれてなかなか前に進めず難儀していたといいます。そこへイエスが歩いてやって来ます。湖の上を歩くイエスが神話的表現ということであるならば、航行中に難儀した弟子たちとは、彼らの経験した何らかの困難を、この福音書記者はこのような描写で表現しということではないでしょうか。

神様なんかいないと思うことがあります。普通はそれで神を信じなくなるものです。現代の日本人は特にそうでしょう。悪いことがあれば「神も仏もない」とうそぶくこともしばしばあります。また、一度信仰を持っても、問題が解決されなかったり、良いことがなければ、いとも簡単に信仰から離れるものです。神とはわたしたちの思い通りのことを実現してくれる。願いを叶えてくれる。そう考える人がいかに多いかということです。

ハンガリー出身のユダヤ人作家であるエリ・ヴィーゼル、彼は194416歳でアウシュビッツ強制収容所に入れられます。奇跡的に生き延びた彼は、後に「夜」という題の小説を書きます。小説の舞台はアウシュビッツ強制収容所です。ある日発電所が破壊される事件が起こり、その犯人として3人のユダヤ人が見せしめのため公開処刑されることになります。その内の一人は子どもでした。

「ある日、私たちは作業から戻ってきたときに、三羽の黒い烏のごとく、点呼広場に三本の絞首台が立っているのを見た。点呼。縛り上げられた三人の死刑囚―そして彼らの中に、あの幼いピーペル、悲しい目をした天使。何千名もの見物人の前で男の子を絞首刑にするのは些細な仕事ではなかった。収容所長は判決文を読み上げた。すべての目が子どもに注がれていた。彼は血の毛がなく、ほとんど落ち着いており、唇を噛みしめていた。三人の死刑囚は、一緒にそれぞれの椅子にのぼった。『自由万歳』と二人の大人は叫んだ。子どもはというと、黙っていた。『神様はどこだ、どこにおられるのだ。』私の後で誰かがそう尋ねた。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。全収容所内に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。

 二人の大人はもう生きてはいなかった。晴れ上がり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし、三番目の綱はじっとしてはいなかった―子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである。30分あまりというもの、彼は私たちの目の前で臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死との間で闘っていたのである。そして私たちは、彼を真っ向から見つめねばならなかった。彼はまだ生きていた。かれの舌は赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。私の後で、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。『いったい、神はどこにおられるのだ。』

この後、ヴィーゼルは一つの答えを私たちに与えるのです。「そうして、私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。
『どこだって。ここにおられる。―ここに、この絞首刑台に吊るされておられる』。
これが、ヴィーゼルの出した最後の結論でした。

弟子たちはおそらく何らかの困難な状況にあったのでしょう。そして、その渦中では理解することができなかったけれども、後になって、ああ、あのとき、自分たちは神に支えられていた、神の愛に包まれていたという思いに至ったのではないでしょうか。

わたしは思います。神は、わたしたちが困難の中に立たされている、まさにその時、そこにいてくださるのではないかと。つまり、もっともわたしたちが神を感じられないときです。自分の願いが叶わず、思い通りに行かず、苦しさや辛さばかりが覆い被さってくるそのときです。そのときこそ神がもっとも近くにいるときです。これは理屈ではないのです。

神はわたしたちを支えている。もちろんそれは認識できないけれども、神はわたしたちを支えている。見守っている。無償の愛をもって包んでいる。それがこの箇所で表現されたこと、すなわち、湖の上を歩いてまで側に来てくださったイエスという記事が伝えようとした意味ではないでしょうか。最後にボンヘッファーの言葉を紹介して結びにしたいと思います。

「われわれが挫折する、その時こそ、神は信じがたいほど近くにいます神であり、絶対に遠くに離れたもう時ではない」


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# by buku1054 | 2014-11-23 16:44 | 礼拝メッセージ | Comments(0)