2015年2月1日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/1礼拝説教「あなたにとってメシアとは何か」マルコ8:27~38

 今日はマルコによる福音書、8章の最後の部分となります。二つの段落に分かれているので、別々に読んでもいいところですが、内容的に一つの物語だと考えて差し支えないので一気に読んでみることにしました。この部分は、これまでにおそらく3~4回は説教で取り上げたところです。たいへん有名なところです。この福音書の大きな分岐点といえると思います。

 それは、イエスとは何者なのかという根本的な事について述べられた箇所だからといえるのではないでしょうか。その意味でとても重要な箇所だと思います。今回この箇所に向き合うに当たって、以前作った説教を幾つか読み直してみたのですが、どうもしっくりこないというか、何か違うなという思いになりました。そこで今回は、以前作ったときの理解を一回リセットして新たな気持ちで読み直してみました。その結果を皆さんと分かち合いたいと思います。

 先週は、ベトサイダという町、ガリラヤの一地方での癒やし物語でした。そこからイエスと弟子たちは、フィリポ・カイサリアに行くのです。ここは、地中海に面したパレスチナの北の端に位置する町です。元々は別の名前の町だったようです。ところが、ヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・フィリィッポスが統治するようになって、町の名前が変わりました。フィリッポスは、ローマ帝国の皇帝アウグストゥス・カエサルに敬意を表して、フィリポ・カイサリアと命名したのです。つまり、自分の名前とローマ皇帝の名前を並記したのです。

 おそらくフィリッポスは、ここは、ローマとユダヤとが統治する理想的な町だという自負があったのではないでしょうか。あるいはフィリッポスとカエサルが神に等しい最高の存在なのだということを暗黙の内に強要したと思うのです。しかしそれを受け入れるのは、あくまでも権力の側にいる者たちです。民衆にとってはありがたいわけではありません。むしろそのことで、ほとんどの人々が踏みつけられていたと言えるのではないでしょうか。


 さて、イエスはここで弟子たちに一つの質問をするのです。「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」。弟子たちは答えます。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だと言っておりますと。

 これが、当時の人々の間に伝わっていたイエスのついての風評だったのです。この中で特にエリヤだと言われていたのは大きな事でした。当時のユダヤ社会ではエリヤに対する崇敬の念は相当大きかったようです。エリヤとは紀元前9世紀の北イスラエル王国で活動した預言者です。ユダヤ人の最大の祭り、過ぎ越の祭りの時、ユダヤ人は4杯のワインを飲むそうですが、そのとき、誰も飲まないワインをテーブルに置いておくのだそうです。それはエリヤのための杯なのです。ともかくイエスのことをエリヤの再来だと言っていた人たちがいたのです。つまりイエスへの最大級の評価をしていた人たちがいたということです。

 そこでイエスはさらに弟子たちに訊ねるのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いかけに、弟子たちはビックリしたと思います。というか困惑したと思うのです。自分のことをどう言ってるのか。そう問われたとき、他人がどう思っているかは容易に言えるのです。責任がないからです。だからエリヤだとかヨハネだとかサッと出てくるのです。しかし、いざ自分自身が本音を問われたとき困ってしまうと思います。

 おそらく弟子たちは答えに窮したと思います。直ぐに答えられなかったと思うのです。お互い顔を見合わせ困ってしまったのではないでしょうか。だからここではペテロが答えたとなっているのです。彼はリーダーという立場上、何か言わなくてはと思ったはずです。苦し紛れに答えたと思うのです。その答えが「あなたは、メシアです」だったのです。

 メシアとはキリストのことです。救い主です。答えとしては正解です。キリスト教は、イエスをメシア、キリストだと信じる宗教です。したがってペテロは最高の答えをしたことになります。これ以上の答えはないのです。100点満点です。


 しかしイエスは、これを褒めたのでしょうか。「お前の答えは正しい。なんだよくわかっているではないか。それでいいんだ。これを世に広めなさい」。そう言われたのでしょうか。違うのです。イエスは弟子たちに向かって、自分のことは誰にも話すなと戒めたというのです。より原文に忠実だと「叱った」というのです。ペテロのこの正しい答えをイエスは何故叱ったのでしょうか。つまり何故否定したのでしょうか。

 一つの解釈は、ペテロのメシア観の問題です。ペテロはその当時のユダヤ人のメシア観と同じだということです。すなわちダビデ、ソロモン王時代の栄光のイスラエルの復興をもたらすのがメシアなのだという理解だったということです。要するにユダヤ人である自分たちが、政治的にも、経済的にも、文化的にも、宗教的にも繁栄する国となる。それをもたらすのがメシアだということです。

 だからイエスはそれに対して否定したのだということです。で、イエスは次のところで、自分はユダヤ当局から排斥され、殺される。でも、復活すると述べています。弟子たちはこれがわかっていなかったのだというわけです。イエスが自分の近未来を語るこの件は、伝統的なキリスト教の教義が反映されています。

 今日の説教題を、「あなたにとってメシアとは何か」としました。「あなたにとって」とは、今のわたしたちにとってという含みがあります。わたしたち信仰者は、イエスをキリストだ。救い主だと信じているわけです。では、どう捉えているのでしょうか。どのような救い主だと信じているのでしょうか。おそらくそのほとんどは、伝統的に教えられてきた教義をそのまま信じていると思います。

 つまり、神を信じない人間、神に背く人間。それゆえに本来なら神に裁かれ、地獄に堕ちる人間、しかし、愛である神は、その独り子イエス・キリストをこの世に送って、イエスを犠牲にして、人間の罪を贖ってくださった。罪を赦してくださった。それゆえ人間は地獄に行かないで済んだ。ただし、このことを信じて公に告白し、洗礼を受けた者のみがこの恩恵に与れる。これが伝統的なキリスト教の理解です。厳密に言うと、カトリック教会とその流れを汲むプロテスタント教会の理解です。東方正教会は理解が違っています。


 ではペテロが、このような教義的に正しい理解でイエスをメシアと告白したら、イエスは大いに喜び、それを言い広めなさいといったのでしょうか。わたしは正直そうは思えないのです。なぜならそれは、イエスの理解ではないと思うからです。

 人はいかに生きるべきか、より充実した意味のある人生とは何か。そういうことを考えて悩み、葛藤する。それはとても真面目な態度です。また自分の身勝手さ、罪の深さに恐れをなし回心しようとする。そういう人には好感が持てます。でも、このことで悩めるのは恵まれている人かも知れません。言うなれば、先進諸国の比較的裕福な人、少なくとも日々の生活に困らない人々です。

 ここまでマルコ福音書を読んできてわかったことは、イエスが寄り添った人々、救済の対象にした人々、それは、人はいかに生きたらいいのか、どのような人生が意味ある人生なのか。そういうことを考える余裕のある人たちではないわけです。その日の食べることにも事欠く人々です。いわれのない差別をされ、踏みつけられた人々です。生きるために我が子を間引きしなくてはならない人々です。

 イエスは、今で言うなら、戦争や災害で故郷を追われた難民、貧困や飢餓で明日の命の保障がない人々、テロリストによって誘拐された少女たち、自爆テロを強要された少年少女、そのような人たちに心底寄り添った方です。世間から踏みつけられたそうした人々と一緒に泣き、一緒に笑い、一緒に食を分かち合い、一緒に希望を語り合った。それがイエスという方だったのです。

 ペテロを代表する弟子たちのメシア観は、栄光のイスラエルを復興してくれる存在です。わたしたちのメシア観は、天国での平安、永遠の命のために犠牲になってくださった存在です。どのメシア観が悪くて、どのメシア観が良いとは言えません。それぞれに信じていけばいいのでしょう。でも、このマルコ福音書を通して示されたイエスを思うと、イエスのメシア観は、当時のユダヤ人のそれとも違う、伝統的キリスト教の教義によって伝えられたそれとも違う。そう思うのです。

 もう30年近く前の映画ですが、「ミッション」という映画がありました。ご覧になった方もいると思います。18世紀の南米が舞台でした。宣教に赴いたイエズス会の宣教師が奮闘努力して、先住民をキリスト教信者に導き、自給自足の平和な集落をつくります。ある意味理想郷をつくります。しかし派遣した本国のスペインとポルトガルとの政治的な事情によって退去を命じられます。これに対して宣教師たちは抵抗するのです。最終的には武力によって退去させられるのですが、これに武力でもって闘う宣教師たちの一方で、非暴力を貫き、最後は非暴力の女性や子どもや老人たちと共に殺されてしまう神父の存在が印象的でした。

 映画のクライマックス、元奴隷商人で回心した神父が、銃に打たれ、死を迎える中で、無抵抗のまま殺されていく神父を目にして息を引き取る場面が秀逸でした。わたしは、息を引き取るその神父が見た、無抵抗のまま殺される神父にキリストを感じました。

 イエスは言います。自分は、必ず多くの苦しみを受け、権力から捨てられ、殺される。イエスは自分の運命がわかっていたと思います。このまま行けば、必ず殺される。しかも捨てられるというのです。殺されるだけなら名誉ある死、殉教、英雄に高められる栄光もあります。しかし捨てられるのです。価値がないのです。そこには、イエスを憎む者からだけではない。イエスを支持し慕う者からも、イエスを愛する者からも見捨てられる。裏切られるという絶望的な要素があると思うのです。

 しかしイエスは、捨てられるその道を選ぶのです。なぜなら、その道には、その途上には、もっとも弱くされた人々、もっとも小さくされた人々、今日生き延びることが困難な人たち、一切の希望が断たれた人たち、沈黙のまま誰にも看取られず息絶える人たちがいるからです。わたしは思うのですが、イエスという方は、小さな者たちに寄り添うためなら、たとえ地獄にまでも行く。そういう方だったのではないかと思うのです。


 イエスとは何か。キリストとは何か。救いとは何か。教会はこれまで1+1=2といったようにいつも明確にその答えを伝えてきました。信者の多くは、その答えに自分を合わせ、当然受け入れるべき正解として捉えてきました。

 しかし、果たしてどうなのでしょうか。ほんとうに、そう簡単に、イエスとはこういう方だ。キリストとはこういう意味だ。救いとはこういう事だ。そうハッキリと言い切っていいのでしょうか。事実先ほども少し触れたように、カトリックとプロテスタント、それに対して東方正教会のイエスの死についての理解は違います。東方正教会は、イエスの十字架を贖罪の死とは捉えていません。

 キリストとはこうだ。救いとはこうだ。そう断言したその瞬間、ひょっとするとわたしたちはイエスから叱られるのではないか、イエスが目の前から去っていくのではないか。わたしはそう感じるのです。むしろイエスがわたしたちに求めていることは、次のイエスの言葉だと思うのです。

 「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエスに従うことは、自分が安全地帯に入ることではない。苦難を受け入れていく覚悟を持つことなのだということです。どこまでできるかは別にして、この言葉に思いを集中してゆく、それがわたしたち信仰者に託されていることではないでしょうか。




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# by buku1054 | 2015-02-01 12:53 | Comments(0)

2015年1月25日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1月25日礼拝説教「村人の中に入ってはならない」マルコ8:22~26

 今日も引き続きマルコによる福音書を読んでゆきます。前回は、ガリラヤ湖を航行中にイエスと弟子たちとの間で交わされたやり取りについての話でした。そこでは、イエスと弟子たちとのズレがあまりにも大きかったことが示されていました。突き詰めれば、「救済についての考え方」の違いです。弟子たちは、あくまでも自分自身が救われる。それが救いでした。それに対してイエスは、誰もが分け隔て無く救われることを目指していたのです。

 救済ということで思い出したのですが、わたしが神学生時代に属した東京の三鷹教会の初代牧師、石島三郎先生は、その著書の中で、イエス・キリストとはどのような方だったかを説明する上で、次のような譬えを述べていました。「深い穴に落ち込んでしまった人がいる。とても自力では上れない。その状況で、上からロープを降ろして引き上げるのではなく、先ずは自分が穴に落ちた人のところまで下りていく」。それがイエスだということです。何よりもまず他者のことを考えるのがイエスの姿勢だというのです。

 イエスの一行はベトサイダに着いたとあります。ガリラヤ湖の北東部に位置する町です。ここは、注解書や辞典、その他の参考文献を見ても、特筆したことは書いてありません。つまり、ガリラヤのどこにでもある町だったということです。当時のガリラヤは、ローマ帝国の植民地であり、その直接の支配を任されたヘロデ・アンティパスの地域でした。そこで特筆したことがないということは、徹底してローマとその傀儡であるヘロデ政権の支配下にあったということではないでしょうか。住民はまったく手も足も出ない、そんな状況だったと思うのです。

 イエスはここで一人の盲人を救います。そして、最後のところで、「この村に入ってはいけない」と述べています。このことと、ここが権力によって徹底して支配されていたということに何らかの関係があるのではないか。それがこの物語を解釈する上でのポイントではないかと思いました。


 他の箇所と同じように、ここも、イエスがやって来ると、人々が障がい者を連れてくるのです。いつものパターンです。たぶん、イエスが病気治しの神様というか、特別な能力を持ったすごい存在だということが、かなり広まっていたことの証だと思います。それと、いかに、病いと障がいに苦しむ人たちがいかに多かったかということも示していると思うのです。

 さて、イエスは連れてこられた盲人を、村から連れ出したとあります。7章に同じような物語がありました。耳と口に障害がある人の癒しです。そこも、その人だけを連れ出して癒すのです。ただそこでは、群衆から連れ出したとなっています。でもここは、村から連れ出したとあるのです。しかも最後で、村には入るなとあるのです。どうも、「村」というのがこの物語の鍵だと思うのです。

 わたしたちは9年前に川上に住みました。川上は合併前は、旧川上村です。現在の人口は800人台です。わたしたちが住んでから約200人が減りました。自然環境が素晴らしく、人も穏やかです。その意味では、とても暮らしやすいところだと思います。

 でも、地域の縛りという意味では、坂下以上かも知れません。今年度、わたしが地区長なのですが、その任務を真面目に行ったら、かなり礼拝を休むことになります。さすがにそれはできないので、妻がわたしの代行をしています。正直言って、根が都会人のわたしにとって、このような地域の体制は嫌だなとは思います。でも、地域の立場からすれば当然のことです。

 わたしはこの地で18年やってきて思うのですが、農村では、クリスチャンとしても、教会としても、ものすごく不利だと思いました。都会とはまったく違います。地域を考えると、個々の自由は制約されます。かといって個々の主張を顕わにすれば、地域は煙たがります。場合によっては弾きます。教会の礼拝は地域活動の中心である日曜日ですから、当然、地域活動に参加できないことが多いわけです。したがって、日本の農村では、教会は振るわないのです。残念ですが、この先も変わることはないでしょう。


 ですからなのでしょうが、某大学の神学部は、かなり前に、農村伝道から撤退したと宣言したと聞きました。別の大学の神学部も農村は伝道の対象にはなっていません。昨年、日本創成会議だったでしょうか。21世紀内に日本の市町村の内、896箇所が消滅する可能性があると発表しました。そのことが各地で物議を醸しているようです。国の本音は、この分析を受けて、主要地域に百万人単位の都市を作り、そこに住民を集め、周辺は切り捨てるということが日本を救うと考えているようです。ものすごく暴力的な発想です。

でも、今の教団の主流は、否、教団だけではないでしょう。日本の教会の全体は、この考えとそう変わらないと思います。田舎の小さな教会は無くなってもいい。それに費やせる分を、成果が見込める都市部の教会へ支援した方が良いということです。実際,中部教区でそういうことを述べた牧師がいました。

 さて、本題から外れましたので戻ります。イエスはこの盲人を癒して見えるようにします。するとこんなことを言うのです。「この村に入ってはいけない」。そして、その人を家に帰されたとあります。この、さらっと書いてある部分が意外にも大切だと思うのです。盲人だったこの人の家は、この村にあるのでしょうか。だとしたら、村には入るなというのは矛盾しています。家には帰れません。

 ということは、この人の家は、村にはないということです。ならば何の問題もないと思うのです。村に行かなければいいのです。しかしイエスは、村には入るなというのです。どういうことなのでしょうか。

 今日の説教題を「村人の中に入ってはならない」としました。これは岩波書店の聖書の訳からとったのです。村に入るなということも、村人の中に入るなということも。同じ事です。村に入ることは、そこにいる村人と接することです。岩波の聖書は原文に忠実ですから、あえてそこに「人」を入れるのです。おそらくこの聖書記者は、この村の、「人」ということに重きを置いているのではないでしょうか。そこに入るなというのは、村の人たちと関わるなということではないでしょうか。

 わたしは思います。これは、この盲人が関わってきた、ある村の人々との関わりを捨てなさい。さもないと再び苦しむというか、問題が解決しないというか、ともかくあなたにとってよくないよ。ということではないでしょうか。では、村の人々との関わりとは何でしょうか。

 昨年から、川上では草刈り事業が増えました。それまでは年二回だったのが、年三回になったのです。特に三回目は10月の末なので草なんか伸びてない時期です。やる必要がありません。ならば何故行うのか。中津川市からの援助を受けるために実行するのです。実施は日曜日ですから、皆、休みを犠牲にします。水面下では不平や不満があります。しかし、上からの命令で抗えないのです。地区長のわたしは、礼拝のため出ないのですが、そうはいきませんので妻が代行します。

 もっとも、こんなことはまだ何とか我慢して対処できます。しかし、その地域の掟というか慣習といか、絶対に従わざるを得ない状況になったとき、抗うことは益々できません。村とはそういうものです。村の人たちに、帰属意識を高めるために、強制するのが村のあり方なのです。

 イエスによって癒されたこの盲人は、この村と何らかの関わりにあった人です。でも、イエスはこの村の人々とは関わるなというのです。冒頭で、この話の舞台であるベトサイダは徹底してローマの支配下にあると述べました。ローマに対して手も足も出ないということでした。こういう場合、ローマに対して抗うという気持ちはなくなると思います。するとどうなるでしょうか。おそらく、ローマに対して、さらにはユダヤ体制に対して、いい顔をしてうまく立ち回るという卑屈な精神が生まれると思うのです。

 ローマにもユダヤにも従っていれば、この村は安泰だという意識になるはずです。そこで生じるのは、ローマにもユダヤにも逆らう者を一切出さないということです。そのために相互監視が始まるのです。あいつはこんなことを言った。こいつはあんなことをした。けしからん。赦せん。村にとって不利になる状態は攻撃の対象になります。排除する対象になります。


 イエスによって癒されたこの人は、これまでのように監視され、差別され、排除される対象ではありません。しかし、このような村のシステムというか村の精神のあり方の中で、この人が、かつての自分と同じような苦しみにある人に同情し、手を差し伸べることができるでしょうか。

 できないと思います。手を差し伸べたその瞬間に本人も差別と排除の対象になるはずです。したがって、この人が村の人々と関われば、今度はこの人も、村のシステムと精神に取り込まれざるをえなくなると思うのです。つまり、この人自身が弱者を差別し、排除する側になってしまうということです。

 マルコ福音書の8章は、この福音書の分水嶺です。ここを境にしてイエスの十字架への歩みが一層濃くなってゆきます。それを臭わせるのがこの物語だと思います。というのは、イエスの十字架の場面で、何故助ける者がいなかったのか。何故イエスは孤独のままに死んでいったのか。イエスによって救われた者、助けられた者、癒やされた者はたくさんいたはずです。でも、そうした者の誰もイエスの側に立てなかったのです。それは今日の物語に見ることができます。

 イエスによって助けられた者たちは、その後、徹底したローマ支配、ユダヤ支配の中で、再び声を挙げられなくされてしまったのではないでしょうか。

 イエスは、穴に落ちてしまった人を上から引き上げるのではなく、自ら穴の底に降り、苦しみを共有した方です。そこから引き上げられた者が、今度は他者を穴に突き落とすことを望みはしなかったはずです。しかし、人間は弱いのです。自分が救われても、次には他者を穴に突き落とす側になることもあるのです。いや、そうならざるを得ない現実があるのです。それが人間の悲しさです。でもイエスは、そんなわたしたちをも庇うのではないでしょうか。十字架はそのことも顕しているのではないでしょうか。


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# by buku1054 | 2015-01-24 22:20 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

岐阜地区信徒大会

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2015年1月11日(日)~12日(月)2年に一度の地区信徒大会が開催された。今回の会場は下呂温泉老舗旅館「水明館」。これまでは講師を招き話を聴くというい学習スタイルだったが、趣を変えて地区の交流を主とした。
各教会、関係施設からの発表(現況や課題など)を分かち合うのである。写真や動画を用いての説明はわかりやすく充実していた。

夕食時にはビンゴ大会!
賞品(36個)がつくので大いに盛り上がる。
真面目な交わりはもちろん大切だが、肩がこらない楽しい交わりこそ、教会の本来の交わりではないだろうか。
とても実り多いひとときであった。参加人数は大人子ども含め65名。坂下からは4名参加。
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# by buku1054 | 2015-01-13 17:39 | その他 | Comments(1)

2015年1月11日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1/11礼拝説教「そんなあなたがたを」マルコ8:14~21

 今日も引き続きマルコによる福音書を読み進みます。前回は、イエスとファリサイ派とのやり取りについての箇所でしたイイエスが外国人を救済したことに対して、ファリサイ派は良く思いません。というか憎しみさえ抱きます。
なぜなら彼らは、神が救うのはユダヤ人だけだと信じていたからです。イエスはそんな彼らを相手にしませんでした。
取り付く島がなかったからです。

 どんなに丁寧に真摯に話しても、まったく通じない人がいます。今もそうです。イスラム国のような過激な人たちと対立する勢力は、まったく通じ合えません。ロシアとウクライナ、パレスチナとイスラエルもそうでありましょう。

 おそらく、様々な違いがあるために同じにすることができないものを、無理矢理自分たちと同じにしようとすることが問題なのではないでしょうか。昨年「ありのままで」という歌が流行りましたが、いろいろな違いがあるのが現実です。その現実をうまく機能させるには、お互いに譲り合って、妥協点を見出すより他ありません。しかし、それが出来ないのが人間です。悲しいかな、人間はほんとうに愚かな存在だと思います。


 さて今日の本文を見てゆきます。向こう岸へと渡る舟の中、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れた、一つしか持ってこなかったというのです。この記述は、どうも不可解です。果たして必要な記述なのかというのが率直な思いです。というのは、前の段落でイエスとファリサイ派のやり取りがあります。イエスは彼らを相手にしません。取り付く島がないからです。

 それを踏まえると、今日のところでは、イエスが弟子たちに向かって、ファリサイ派のパン種には気をつけなさいという部分が直ぐに来るのが自然だと思います。ところがまず弟子たちのパンのことが記されているのです。どうも調子外れというか、必要のない部分のように思います、でも、弟子たちがパンを忘れたというこの部分が挿入されているのです。これがよくわからないのです。とりあえず先に進みます。

 イエスは弟子たちに言うのです。「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。不可解な言葉です。直ぐには理解できません。おそらく何らかの譬えなのでしょう。パン種は、イースト菌のことです。要するにパンを膨らますものです。余談ですが、カトリック教会の聖餐式では、イースト菌を入れないパンを使います。ウエハースみたいなものです。一方、カトリック教会と分かれた東方正教会は、イースト菌を入れたパン、わたしたちがイメージするパンを使います。11世紀にカトリック教会と東方正教会が分裂しますが、このパンの違いも分裂の一要因になったといわれています。わたしたちプロテスタントはカトリックの流れですが、東方正教会と同じです。普通のパンです。

 ともかくイエスは、ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種には気をつけろと弟子たちに勧告します。パン種は、パンを膨らますものです。つまり、膨らむということから、拡大してゆくということが意味されるのだと思います。では、ファリサイ派とヘロデ、その何が拡大してゆくというのでしょうか。イエスはそのことを問題にしているのです。

 この物語は、小見出しを見ると、マタイ福音書にも同様の記事があることがわかります。そこを参照すると明らかになります。パン種に譬えられたものは、マタイによれば「ファリサイ派とサドカイ派の教え」ということなのです。マルコではサドカイ派ではなくてヘロデという違いがありますが、ヘロデとサドカイ派は利害が一致していたので、同じと考えて間違いがありません。したがって、イエスはファリサイ派とサドカイ派、ないしヘロデ派の考えには気をつけなさいと勧告したわけです。では、何に気をつけなさいということなのでしょうか。

 ファリサイ派は、律法至上主義です。神の掟と信じた律法を何よりも大切にしていました。律法イコール神と捉えていたといっても過言ではありません。彼らはとにかく律法の規定を厳守すること。それが神から救われる事だと信じていました。ですから守れない者は神の救いから漏れた者、人として価値のない者と捉えたのです。

 もっといえば、非情に煩瑣な律法の規定を守れるのは、字が読めて、律法教育を受けて、安息日には仕事をしないですみ、神殿に足繁く参拝できるような恵まれていた人たちです。生活のためには安息日にも働かなくてはならない貧しい農民や漁師、羊飼い、日雇い人夫、娼婦といった者たちは穢れた者とされ、救いの対象からは外されていました。このような分け隔て、差別。それを当然のこととしていた。それがファリサイ派です。

 一方サドカイ派は、ユダヤのエリート階層であり、神殿体制の中心的な存在でした。神殿を司る祭司たちが主な人たちです。彼らも宗教指導者ですが、神殿儀式に際して、たくさんのお布施や賽銭、また犠牲の供え物となる動物を自分たちの用意したものを押しつけることで得る利益など、金儲けが当たり前になっていました。宗教、信仰という大義名分の裏で、巨大な経済利潤体制を築き上げていたのです。

 ヘロデ派は、ユダヤ人ではありません。イドマヤ人という外国人です。彼らはローマ帝国の権力者たちにうまく取り入って、パレスチナの統治権を手に入れた人たちです。ある意味最も美味しいところを手に入れた人たちです。民衆の貧困、不公正、不条理な社会の陰でローマ帝国と共に利益を搾取できた人たちです。彼らの一年間の利益は、一般庶民の一年間の収入の何百万倍というほど巨大な利益だったそうです。

 当時のユダヤ人のほとんどをしめた貧しい庶民階級は、こうした少数のエリートたちによって、政治的にも経済的にも宗教的にも虐げられていたのです。わたしが思うに、政治的経済的に虐げられていても、宗教が助けになるのならまだ救いはあります。でも、頼みの宗教が、率先して人を差別していたわけです。宗教が人間の尊厳を踏みにじっていた。人々の困窮にとどめを刺していた。これがこの時代の悲劇ではないでしょうか。

 ファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけなさいという戒めとは、こういうことだったのです。人間の尊厳を踏みにじるこうしたユダヤの権力体制は、ますます強大になり、益々民衆を苦しめる。このことをしっかりと認識していなさい。惑わされてはならないということだと思うのです。

 けれども弟子たちは、イエスの戒めにまったくといっていいほど気がついていません。彼らはイエスの言葉に対して「これは自分たちがパンを持っていないからだと論じ合っていた」とあるのです。なんというか、不可解なほど、イエスと弟子たちとがずれています。前回も述べましたが、弟子たちは自分の救いに執着しています。具体的にはダビデ王時代のイスラエルの復興です。政治的経済的に復興することです。豊かな暮らしの復活です。

 わたしたち人間は、自分の利益、それは政治的であろうが経済的であろうが、それとも宗教的であろうが、それを獲得したい、維持したい。手放したくない、そういう思いに心奪われているとき、ほんとうに大切なことに気持ちが行かない。あるいはほんとうに大事なことを見落とすものだということが言えるのではないでしょうか。


 それは今のわたしたち日本人にも言えると思います。今の日本人は、「景気回復」。この一言にとにかく弱いと思います。かつて諸外国からエコノミックアニマルと揶揄されましたが、本質的には今も変わらないでしょう。ともかく経済的豊かさが一番大切です。もちろんその気持ちもわかります。暮らしが苦しいのは嫌です。しかし、国は「景気回復」といいつつ、国民を騙し、自分たちの利益を優先させる。それでも国民は、「景気回復」という甘い言葉に惹きつけられ現体制を支持してゆくのです。原発推進でも、戦争国家になろうともです。これは弟子たちと同じく、自分の救いにのみ心が奪われているから、騙されても気がつかない。そういえるのではないでしょうか。

 イエスは弟子たちの無理解に相当がっかりしています。まだ悟らないのかという言葉を繰り返しているのです。そもそもイエスが弟子に選んだ者たちは、皆貧しい者たちであり、ユダヤの権力体制から虐げられていた人たちです。おそらくイエスは、そういう者たちだから、自分が展開する活動の意味を理解してくれるだろうという期待があったと思うのです。

 ましてや、イエスの行くところ、差別と不条理で苦しむ人たちばかりで、そうした人々の救いを行ってきたのです。しかしここへきて、弟子たちは何もわかっていなかった。それほど自分への執着が強かった。その現実を突きつけられたのではないでしょうか。

 ではイエスは、こんな弟子たちを見限って、新たな人材を登用したのでしょうか。先日新聞を見ていましたら、ラモス監督で昨年注目された、サッカーJ2のFC岐阜が、主力選手も含め17人も解雇したというニュースを目にしました。来期に向けてかなり大胆な人事を敢行したわけです。スポーツの世界とイエスの集団を単純に比較することは出来ませんが、神の国実現というイエスの究極の目標を思うなら、弟子の総入れ替えがあってもおかしくない。それほど弟子たちの思いはイエスとずれていたのです。


 しかし、次の段落の冒頭にはこう記されています。「一行はベトサイダに着いた」。「一行は」なのです。イエスは弟子たちとそれまでと変わらず、一緒に宣教の旅を続けているのです。それは十字架の死に至るまで変わらないのです。弟子たちの裏切りにあっても変わらないのです。

 おそらくイエス思ったでしょう。こんなにも鈍く、こんなにも愚かで、こんなにも自己中心でいる弟子たち、この先ほんと思いやられる。この弟子たちの姿というか本性は、今のわたしたちとそう変わらないと思います。今のわたしたち、信仰の確信はない。いざとなればあっさり捨てるかも知れない。精々そんな程度でしょう。また、信仰生活を維持していたとしても、その本性は、天国へ行ければそれでいいという自己保身とか、信仰を持たない者への見下しとか、同じ信仰でも解釈が異なる者への非難とか、欠陥だらけです。

 今日の説教題を「そんなあなたがたを」としました。そんなあなたがたとは、イエスの直弟子であり、その後のキリスト者であり、今ここにいるわたしたちです。イエスはこの後も弟子たちと活動を共にします。そして裏切られても、見捨てられても彼らを庇いました。そのイエスが、その後も共にいて下さるというのが、キリスト教の真髄です。徹底したわたしたち人間に対する赦しと信頼を貫いた方、それがナザレのイエスという方だったのです。

 きっとイエスは、自分の思いをまったくわかっていない弟子たちに対して、その後、過ちを繰り返した教会の歴史に対して、そして、弱くて情けない今のわたしたちに対して、こう思っているはずです。そんなあなたがたを、わたしはずっと背負ってゆくよ。



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# by buku1054 | 2015-01-10 15:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年1月4日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1/4礼拝説教「今の時代」マルコ8:11~13

 新しい年2015年を迎えました。この一年は、いったいどんな年になるのかと考えます。21世紀になってからでしょうか、新年を迎えて、明るく希望に満ちた年になりそうだと思ったことは一度もありません。どんどん悪くなっているように思います。

 地球温暖化の影響なのでしょうか、ここ数年、想定外の豪雨によって国の内外で大きな災害が起きています。昨年は広島で大きな土砂災害がありました。たくさんの犠牲者が生じました。身近なところでは、南木曾の土石流で中学生の男の子が犠牲になりました。

 また、東日本大震災以降、火山列島の日本は活動期に入っているようです。昨年には御嶽山の噴火がありました。多くの犠牲者がありました。長野県北部の地震もありました。死者はなかったものの数多くの被害がありました。今年も再びどこかで大きな地震や噴火が起きるかも知れません。その筋の専門家によれば富士山が噴火する可能性が高いといいます。事実その兆候らしき現象がいくつも起きているといいます。東南海地震や東京直下型地震も近々懸念されるようです。

 政治的には昨年末、衆議院選挙が行われました。自公の圧勝という結果でした。しかし中身を精査すれば、決して現政権が信任されたとは言えないと思います。投票率の悪さがまずそれを物語っています。52%では民意を反映してるとはとても言えません。野党では共産党が躍進しました。反自公の表れです。他の野党が、反自公の受け皿にならなかったと言えます。もっとも共産党の躍進も、力にはなり得ません。沖縄では自民は全敗しました。本土と沖縄の思いがかなり違うことが改めてわかりました。以前からいわれていることですが、今後、沖縄が日本から独立する動きが具体化されるかも知れません。


 しかし安倍首相は、今回の選挙結果に、国民の信任を得たとして、集団的自衛権の法整備、改憲、原発推進、普天間基地の辺野古移転を粛々と進めると述べています。消費税も再度上がり。労働者派遣法も改悪されるでしょう。TPPも国益が損なわれる決定になると思います。

 そもそもこの度の消費税8%も、社会保障との一体化で進められたものです。しかし、介護保険も健康保険も生活保護も国民の負担が増えました。なぜなら、消費税の増税分のうち社会保障費に使われるのは一割にも満たないからです。マスコミはこれを一切報道しません。明らかにわたしたちは、国に騙されています。しかしそれでも、国民の半分は、投票に行かないのです。行っても自公に入れる人たちがほとんどなのです。

 大企業やお金持ちのように現政権の恩恵を受けている人ならわかります。でも、恩恵を受けるどころか、苦しめられている人々が現政権を支持するのです。なぜこんなことになるのでしょうか。それは、思考停止だからです。政治に対して、世の中に対して、考える力がないのです。この国は末期的だと思います。みんなで手をつないで地獄へ行くことになるようです。

 今後、格差社会は益々進むでしょう。少子高齢化もどんどん進みます。このままなら、地方は限界集落、消滅集落のオンパレードです。わたしたちのような農山村社会は21世紀内に多くが息絶えると思います。

 大都市圏は一部の特権階級とその他大勢の貧困階層に極端に分かれるでしょう。街はスラム化し、犯罪が激増するはずです。国は国民の様々な不満をナショナリズムに転嫁します。中国や北朝鮮の脅威を益々訴えてゆくでしょう。同時に軍備増強を図るはずです。ですから国家財政は益々疲弊してゆきます。社会保障などに充てる余裕がなくなります。老人、病人、障害者は早く死んでくれることを願い。生活保護世帯には冷たく保護を切り捨てる。そんな世の中になるのではないでしょうか。ちょっと考えたら、こんなことになってしまいました。こんな想定は杞憂であって欲しいです。でも、これが現実になったとしたら、皆さんのお孫さんの世代は、かなり厳しい状況に晒されていると思います。

 大切なのはそこなんです。今自分たちが、どうにか生きていける。そこに思いを向けるのではなく、子どもや孫の世代、さらにその先の世代が幸せに暮らせる。そのように長期的に考えることが大切だと思うのです。しかし現実は、官僚、政治家、財界、マスコミ、これらが癒着し、自らの利益を貪る巨大な体制になっているのです。東日本の復興財源を、霞ヶ関の改築費用に流用した事がそれを物語っていると思うのです。

 さて、一年の最初の礼拝説教くらい、希望に満ちた話にしたいと思いました。でも、現実を思うと、単純に希望を語ることができないのです。それほど今の時代は、そうとうに病んだ時代になっていると思うのです。わたしたち教会は、このような時代にあって、何を語ることができるのか。考えてしまいます。

 さて、気を取り直して、今年最初の聖書に聞きたいと思います。今年の最初は、昨年の続きです。マルコによる福音書8章11~13節です。4000人の難民が、皆、満足に食べられたという奇跡物語の後の話です。この出来事の後、イエスの一行は、舟に乗ってダルマヌタという地方に行きます。ここはガリラヤ湖の西部ですが、並行箇所のマタイではマガダンとなっています。マガダンはマグダラのことです。つまりここはマグダラのマリアの出身地なのです。

 ダルマヌタ、すなわちマグダラに到着するとファリサイ派の人々がイエスの元にやってきます。その目的は、イエスを試すためでした。どんなことかというと、「天からのしるし」を求め、議論を仕掛けたとあります。おそらく彼らは、直前の4000人の供食はもちろんのこと、耳と口の不自由な人の癒しやシリア・フェニキアの女性とのやりとりの噂を聞きつけてやって来たと思います。

 天のしるしとは、神のしるしということです。神の存在、神の業が、はっきりと目に見えて、確認できる証拠です。ファリサイ派は、ユダヤ教の掟である「律法」を金科玉条のように大切にしています。律法は成文化されています。具体化され目に見えるものです。ですから彼らは、神のしるしは確認できるという理解を持っているのです。

 そもそもなぜ、彼らはイエスを試そうとしたのでしょうか。それはおそらく外国での救済の業がイエスによって行われたからだと思います。ファリサイ派にとって、外国人は神の救いには与れない人間です。神が外国人を救済することなどあり得ないと信じています。だから、神が外国人を救済した証拠を示してみよ。これが彼らの要求の内容だと思います。

 イエスはこれに深く嘆いたとあります。イエスにとって救済とは、病気や抑圧、理不尽な押しつけなど、そうした心身の圧迫によってもたらされた不健康から解放されることです。与えられたいのちを精一杯輝かせて生きられるようになる人生の回復です。そこにはユダヤ人も外国人もありません。一人の病人が癒された、一人の抑圧された人が解放された。それでいいではないか。それ以上何が必要なのか。それがイエスの考えです。

 しかしファリサイ派は、それでは納得できないのです。人を救済するのは神のみと彼らは信じています。だから救われた以上そこには、納得できる神のしるし、証拠が必要だというのです。現代のわたしたちからすると、理解することが困難です。たぶん彼らは、幼い頃からそう刷り込まれて思考停止になっているのだと思うのです。それがファリサイ派だったのです。

 でも、このことは、今日の教会にも些か当てはまるところがあります。教義とか信仰告白とか、人間が定めたものにすぎないのに、それを神の教えとして絶対化して、それを基準にして、正しい信者、そうでない信者、信者、非信者というように人を分け隔ててゆくのです。キリスト教の中には、実はファリサイ派的な要素が入り込んでいると思います。しかし渦中にいて熱心になればなるほど、そのことに気がつかないのです。人を傷つけてもわからないということが起きるのです。

 イエスは、今の時代の者たちには、決して、しるしは与えられないと強く告げるのです。注意すべき点は、イエスは、天からのしるしとはいわないことです。神の業、神の存在、その証拠などわかるわけがないと理解しているからです。だから天からのしるしとはいわないのです。イエスは単に「しるし」といいます。そして、「今の時代」はしるしを与えられないとを繰り返すのです。

 今の時代とは何でしょうか。イエスが生きた時代です。ローマ帝国の支配下にある時代です。多くの民衆が困窮していた時代です。一部の特権階級が利益を貪っていた時代です。その恩恵を受けていたのは、ヘロデ派、サドカイ派だったのです。ファリサイ派は庶民階層だったので、それほど利益はなかったのです。彼らはローマ帝国の支配を良いとは思ってはいません。何とか覆そうと思っていました。つまり、不条理なことに対して、抵抗する思いはあるわけです。

 しかしファリサイ派の限界は、そこにすべての人が入っていないことです。律法の規定から外れた者は、外国人であれ病人であれ障がい者であれ、不幸になるのは当然だと思っているのです。神観が違うのです。前回、人類の起源の話をしました。もともと人類は黒人でした。それが旅する中で紫外線の影響で白人や黄色人になったということでした。ですから分け隔ては人為的なことなのです。神は人智を超えたものです。つまり、人間が定めたものを超えたものです。分け隔てを超えているのです。神は分け隔てはしない。使徒言行録ではペテロがそう述べています。ガラテヤの信徒への手紙ではパウロがそう述べているのです。

 しかし、わたしたち信仰者でさえ分け隔てをしてしまうのです。つまり、差別意識をなくせないのです。もっとも、わたし自身の中にも差別意識があります。「こんな奴ら、生きてる価値なんかない」。正直そういう対象があります。皆さんにもあるはずです。

 人はそう簡単に、自らの差別意識を解決することはできないのです。それがわたしたちの弱さであり愚かさなのです。でも、それに居直ってはならないのです。だからわたしたちは、繰り返し繰り返し、、差別意識は間違っているというメッセージを受けることが必要なのではないでしょうか。聖書はイエスを通してそのことをとても大事なこととして伝えているのではないでしょうか。



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# by buku1054 | 2015-01-04 17:57 | 礼拝メッセージ | Comments(0)