小林一茶

小林一茶は、松尾芭蕉、与謝蕪村と並び江戸時代の三大俳人と称せられる。

北信濃の農民の長男。3歳で生母と死に別れた。その後、継母に虐げられ、

見るに見かねた父親が15歳のとき江戸に奉公に出した。

しかしどこでもうまくいかない。転々とした。

20歳の時俳諧に出会う。

才能を認められるが、流浪の俳人に過ぎず生活は安定しない。

遺産配分で、義母兄弟と骨肉の争いを経て、故郷、北信濃の柏原村に戻る。

52歳で初婚。4人の子どもをもうけるが、すべて死す。

妻も37歳で没す。

再婚もうまくいかず、30歳も年下の女性と再々婚。

再度の脳梗塞にもかかわらず、俳諧を生きる。

最後の幸福も、家が焼け、土蔵暮らし。

三度目の脳梗塞の発作にて永眠。

翌年、彼の一粒種、女の子が生まれる。

私生活では恵まれなかった一茶。

それゆえに彼の俳句には、小さな者への愛情がある。

「我と来て、遊べや、親のない雀」





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# by buku1054 | 2015-03-18 18:22 | その他 | Comments(0)

2015年3月8 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年3/8礼拝説教「違いを受け入れてこそ」マルコ9:38~41

 今日は最初に、この俳句から始めます。「やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり」。おそらく皆さんもどこかでこの句を目にしたり、聞いたことがあると思います。小林一茶の代表的な作品です。先日新聞を読んでいたら、小林一茶のことが書かれていていまして興味を持ちました。小林一茶は、松尾芭蕉、与謝蕪村と共に江戸時代の三大俳人の一人と呼ばれている人です。

 何でも一茶は、私生活では恵まれず、大変苦労が多かったようです。でも、かえってそのことが、彼が作った俳句に生かされていたようです。それは、生きとし生けるもの、それも人間だけではなく、犬や猫、蛙、蚤や虱にいたるまで、特にいと小さき者への愛おしさと、権力への批判的な考えが作品に反映されていたということです。一茶は、すべてのものは尊いという差別なき大前提に立っていたのです。一茶は北信濃の人でした。わりと近いですので機会があれば一茶ゆかりの地を訪ねてみたいと思いました。


 さて今日は、マルコによる福音書9章の四つ目の話をご一緒に学んでみようと思います。弟子の側近の一人であるヨハネが言います。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」とあります。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。イエスの名を使って悪霊を追い出すということは、イエスを利用して、苦しむ人々の救済の業を行っていたということです。悪霊を追い出しているというのですから、実際に救済の効果があったということです。決して悪いことではありません。しかし弟子たちは、これを見てやめさせようとしたとあるのです。


 なぜでしょうか?それは、自分たちに従わないからだというのです。この部分が少しわからないところです。従わせるとはどういうことでしょうか。自分たちの仲間になれということでしょうか。これはあくまでも憶測ですが、その人たちは救済の業によって金銭的な利益を得ていたのではないかと思うのです。イエスは無報酬で救済の業を行っていました。もしもその人たちが、憶測のように救済活動によって利益を得ていたのならば、弟子たちにすれば、「それは違うだろ!本末転倒だろ!」。そういいたくなるはずです。弟子たちの思いはよくわかります。


 さて、話は変わります。宗教という言葉の意味ですが、宗教の「宗」というのは、根源的なことということです。つまり根源的なことを教えること。それが宗教の意味です。しかしよく考えると、これは矛盾していると思います。根源的なこととは、真理というか、いうなれば神のことです。神のことはわたしたちにはわからないはずです。よって、その教えを伝えることはできないというのが正しい答えです。宗教という言葉は、そもそも矛盾しているのです。

 一方英語では、宗教をレリジョンといいます。これはレリゴーというラテン語、「再び合わせる」という意味から派生した言葉です。では、何と何を再び合わせるのか。それは、神と人を再び合わせるということです。神と人との関係を正しくするということです。キリスト教的な意味での言葉です。いかにも西洋的な概念です。

 基本的にキリスト教では、創世記にあるように、そもそも人間は、神に反抗したから、そのままだと地獄行きになってしまう。しかし、それを解決するために、救いのために定められた教義を信じることを奨励されるわけです。その内容は、十字架と復活を信じることです。具体的には、その教えを信じて信者になるということです。でもそれはキリスト教に限定されます。キリスト教以外では救われないということになります。排他的、独善的になる恐れがあるわけです。

 かつてカトリック教会は、2000年間「キリスト教以外に救いはない」というスタンスでした。しかし、1960年代に行われた第二バチカン公会議からカトリック教会はこうした独善を改めました。他の宗教を尊重するようになりました。むしろ今はプロテスタント教会が、キリスト教以外には救われないとするスタンスをとるところが多いです。

 しかし世界にはあまた宗教があるのが現実です。それぞれに教えが違います。にもかかわらず、それぞれが自分こそが絶対に正しいと主張したら、他の宗教はすべて間違いとなります。あるいはすべて偽物となります。しかし、どれが正しくてどれが間違っているといった判定はわたしたちにはできません。もしも「それができる」といったら、それは自らを神の位置に置くことであり、それこそ傲慢な態度です。

 しかしある意味、違いを利用したのがこれまでの世界ではないでしょうか。今世界を揺るがしているイスラム国による蛮行も、宗教の問題だと認識する者も多いと思います。でも、根本的な問題は格差や差別です。しかし、それが情報操作というか、問題を宗教にすり替えようとする権力者の思惑というか、宗教が利用されているように思うのです。だから多くの人は、宗教こそが問題だ、宗教って恐いよねと宗教を嫌悪するのではないでしょうか。特に日本ではその傾向が強いと思います。

 わたしは思うのですが、そもそも宗教の目的とは、根源的なことを伝えたいとすることです。根源的とはわたしたちでいう「神」です。ただ一口に「神」といっては、伝えきれないように思っています。わたしはその意味で今の人たちにも理解できるように宗教用語を翻訳するべきだと思っています。わたしが尊敬する藤木正三牧師は、そのことを実践した方です。わたしは、根源的なこと、すなわち神のことを、「ほんとうに大切なこと」と捉えたらどうかと提案したいのです。


 人類は、ほんとうに大切なことを守ってこれなかった。それが人類史の問題だと思うのです。だからこれを守るために仏教であれキリスト教であれ宗教と呼ばれる「教え」が生まれたと思うのです。その先駆者が仏陀でありキリストだと思うのです。そう考えれば、すべてではありませんが、他宗教でも根本は同じではないだろうか。少なくとも伝統宗教といわれるものは、本質において同じではないかと思います。

 では、ほんとうに大切なこととは何でしょうか。ほんとうに大切なこととは、すべての者が、それは人間に限ったことではありません。動植物も含めたすべてのものが尊いということではないでしょうか。

 旧約聖書創世記の冒頭、天地創造物語の言葉を思い出して欲しいのです。天地創造の働きを終えた神が、被造物をご覧になって言うのです。すべては甚だ良かったとあるのです。神という根源からすれば、すべてはよい。つまりすべては尊いのだということです。小林一茶の悟りと同じなんです。わたしたちは往往にして偏見を持っています。キリスト教が示すことは正しいけれど、他の宗教や他の思想が示すことは間違いだと思ってしまうことが多い。

 わたしはこれまで、他の宗教を非難する牧師たちの言動を、何度も聞いたり、目にしてきました。わたしは無礼だと思いました。そもそもある宗教を理解するならば、その宗教の信徒となって、その道を生きなければ、ほんとうにその宗教を理解することにはならないと思うのです。けれどもその宗教の道を真剣に生きたことがないのに、つまり詳しく知りもしないくせに、ちょっと何かを読んだだけの浅い知識にしか過ぎないのに、さもすべてわかったかのように非難する人がとても多い。こういう態度はとても無礼ではないでしょうか。そして見苦しいです。あまりにも幼稚です。こういう態度はほんと自戒しなければならないと思います。


 さて、本文に戻ります。今日の箇所は、逆らわない者は味方だとイエスは説くのです。これは要するに、苦しむ人々を救う働きをしているなら、必ずしもわたしたちとその立場や方法や動機が同じでなくても良いのだということではないでしょうか。

 イエスにとってほんとうに大切なことは、いのちは平等であり、そのどれもが尊いのだということです。誰もが与えられたいのちを生き抜ぬいて全うするということです。しかしそのためには、それを支える社会の基盤が公平であり、整っていなくてはなりません。それがイエスの思想、信仰の大前提だと思うのです。で、そのような社会の実現のために働くならば、キリスト教でなくてもいいはずだ。宗教でなくても良いはずです。たとえ利益を得ても良いはずだということではないでしょうか。

 先月、普天間基地を辺野古に移転することに反対する活動で、沖縄平和活動センターの山城博治さんという方が不当に逮捕されました。結果、直ぐ釈放されました。権力側に正当性がなかったからです。彼は、昨年岐阜地区の沖縄の旅で出会った方です。自らの私生活をなげうって沖縄の平和のためにいのちを削っている方です。彼はクリスチャンではありません。でも、アメリカ政府や日本政府の理不尽さに命懸けで闘っている人です。わたしは彼こそイエスの弟子だと思っています。

 イエスは最後に言います。「あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。つまり、人生の歩みにおいて渇いている者、それは、苦しみや悲しみに置き去りにされた者ということではないでしょか。そういう者たちに、手を差し伸べる者なら、それは、だいそれたことをしなくてはならないということではない。たとえ小さな業であっても、そういう者たちに共感し、少しでも助けになろうとするならば、立場や身分や属するところが異なったとしても、神は喜ぶのだということではないでしょうか。


 人類の歴史を全体的に考えるとき、昔も、そして今も、世界は利益を公平に分配することをせず、それぞれが自分たちの利益だけを求めて争っていることがわかります。このことこそが最大の罪であり、わたしたちでいうなら、神への反逆ではないでしょうか。

 これに終止符を打てるのは宗教だと思います。ですから、宗教者がその違いを超えて協力し、それぞれの信徒に働きかけて欲しいと思うのです。もしそれがほんとうに実行されるなら、そして、それぞれの信者もそれを受け入れるなら、時間は掛かるかも知れませんが、世界の争いは解決に向かうのかも知れないと思うのです。他宗教にも宗教ではない思想にも尊敬の念を持ちたい。偏見という罪をわたしたちから取り除いて欲しい。そう祈りたいのです。


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# by buku1054 | 2015-03-08 12:50 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月1 日坂下教会礼拝メッセージ

3月1日礼拝説教「心はどこにあるのか」マルコ9:30~37

 今日もマルコによる福音書に聴いて行きたいと思います。今日の説教題を「心はどこにあるのか」としました。わたしたちの心がどこに立つのかによってわたしたち自身が違ってくるということと、さらにいえば世の中が違ってくるのではないだろうかということ。今日の箇所を読んで、まずはそう思いました。

 藤木正三牧師がこんな言葉を述べていました。「これでよいのだろうかという問いを、自分に限りなく問うてゆく働き、それを心といいます」。言い得て妙だと思います。ある事柄に相対したとき、単に自分はそう思うというのは、その人の感想や意見です。また、どう感じるかは感情でしょう。それに対して心とは、藤木先生が言うように、ある事柄に相対したとき、自分はそれについてどう向き合っているのか、あるいはそのことの本質に気がついているのだろうか、何か見落としていないだろうか、それを問う働きが「心」だと思います。

 さて、今日は9章の三つ目の話を考えたいと思います。前の段落で、穢れた霊に取り憑かれた子どもを癒やしたイエスの一行は、ガリラヤの旅を続けます。イエスは人々に気づかれるのを好まなかったとあります。おそらくそれは、受難予告をしたからではないでしょうか。受難予告を聞いていたのは弟子たちだけではありません。民衆も聞いていたでしょう。密かに監視する当局も聞いていたかも知れません。

 イエスは自分の運命を覚悟していたものの、イエスも一人の人間です。常にユダヤ当局から付け狙われていたこともわかっていたはずです。したがって、正直いって恐かったと思うのです。ですから救済の業を行わなくてはと思いつつ、一方でなるたけ目立たず、波風を立てて当局を刺激したくないという思いもあったのではないでしょうか。イエスはわたしたちと同じく弱さを抱えていた方だったのです。


 一行はカファルナウムに着きました。家に着いたとあります。どこの家かは記されていません。でも、1章の記事に、やはりカファルナウムでペテロの家に入ったとありますから、ここでもおそらくペテロの家だったと思います。ここにはペテロの姑もいましたし、ペテロには妻もいましたから、何かとかいがいしく世話をしてもらったと思います。その意味でここは、彼らが落ち着ける数少ない場所だったのではないでしょうか。イエスの緊張感というか、これから起こるであろう困難にあって少しでも安息のときを持ちたかった。そのように思うのです。

 イエスは弟子たちに訊ねます。おそらく落ち着いたところで道々気になったことを訊ねたのでしょう。途中、あなたがたはいったい何を議論していたのかというのです。議論の内容は、自分たちの中で誰が一番偉いのかということであったのでした。ここでも、イエスと弟子たちとの思いというか考え方というか理想というか、目的というか、ズレていたことがわかります。これからどんな大きな苦難が待っているかも知れないと恐れるイエスがいます。おそらくイエスは、弟子たちにも覚悟を持っていて欲しいと思ったはずです。

 しかし彼らの思いは、イエスとは大きくずれているのです。彼らは、自分たちがこれから栄光を得ると思っているのです。イエスについて行けば栄光を得られ、そこで誰がイエスの側近になれるのか、誰がより良い思いができるのか、そういうことに思いが行っていたのではないでしょうか。つまり、自分たちが今おかれている状況を見極められないのです。


 話は変わりますが、今、日本の教会は、これまで以上に宣教の危機を迎えていると思います。その危機とは、信徒の高齢化と新たな信者獲得の困難という現実にあって、教会が衰退し、果たして今後教会が存続していけるかどうかということに終始しているように思います。


 もっともこの問題は、日本の教会だけではありません。先日こんなニュースを知りました。それは、イギリスの国教会でも教会の高齢化と新たな信者獲得の困難が著しくて、このままではイギリスの農村部の教会は、10年後にはかなりの教会が消滅する可能性があるということでした。ドイツをはじめヨーロッパもそうですが、キリスト教の本場である先進諸国の教会は、どこでも衰退しているのです。今やキリスト教は決して世界宗教とは言えなくなりつつあるのです。

 ともかく日本の教会は衰退傾向にあって、全般的に伝道を声高に叫んでいます。それもできるだけ若い世代の信徒を獲得して将来の安心を確保したいのです。もちろんその気持ちはてもよくわかります。農村に立つわたしたちにとって、そんな思いというか願いは、今はじまったことではありません。ずっとそのことで悩んできたのです。

 しかしもしかすると、教会のほんとうの危機は、今の社会がどんどん悪くなる中で、それに抗うことを第一とせず、また、小さくされた者たちに寄り添えず、自己の安定を望むということ、その姿勢こそがほんとうの教会の危機ではないでしょうか。

 イエスは不条理な世の中に否を掲げ、その改善のために奔走した人です。そんなイエスを思うならば、自分の安心や安定を望むだけでは、むしろイエスから遠のいていくことになるのではないか。それこそ教会の危機ではないでしょうか。イエスは言うのです。先になりたかったら、一番後になって、人に仕えなさい。最も低くなれというのです。自分のことより弱い者たちのためになるのなら、たとえ損をしてもそれで満足せよというのです。

 そして一人の子どもを抱き上げて、このような子どもを受け入れる者こそ神を受け入れるといいます。神を受け入れるとは、神を信じることであり、神に従うことということです。わたしは思うのですが、ここで唐突に子どもが登場する。ここがこの箇所のポイントではないでしょうか。なぜここで、にわかに子どもが登場するのでしょうか。

 当時のパレスチナには、孤児がたくさんいたといわれています。戦禍や過酷な生活環境などで両親を失った者、生活苦のために捨てられた者、そういう子どもたちが、そこら中にたくさんいたといいます。おそらくここで取り上げられた子どもは、道々イエスの一行についてきた者だったはずです。いつ行き倒れになるかわからない危機的状況にあった子どもたちです。

 いつの時代も子どもというのは無邪気です。彼ら孤児たちは、イエスの一行に興味を覚え、というか、この人たちについていくと何かいい事があるのではないか、そんな思いでついてきたのでしょう。しかし、弟子たちはその存在に気がつきもせず、自分たちのことしか考えていなかったのです。少し周囲を見渡せば、孤児たちが一緒にいる。そのことに気がつくはずです。気がついていたとしても眼中にない。たぶんイエスはそのことを嘆いたに違いないのです。


 今、世界はイスラム国との関係で頭を抱えています。イスラム国だけではありません。世界各地で過激派がテロを繰り返しています。でもそれを解決するたために、先進諸国は、とりわけアメリカ主導の有志連合国は、テロとは断固闘う。テロに屈するなと声高に叫んでいます。イスラム国や過激派たちを滅ぼせばそれで解決すると思っています。でも、その闘いで犠牲になるのは、もっとも弱い立場におかれた子どもたちです。そのことに思いを馳せる人がどれだけいるのでしょうか。

 ほんとうにこの問題を解決するには、アメリカが推進しているグローバル経済、すなわち弱肉強食の経済体制によってもたらされた著しい格差。それろヨーロッパ諸国の植民地時代から連綿として続いている根深い差別を悔い改めなくてはならない。わたしはそう思います。

 しかしいつの時代もそうでしょうが、持つ者は持たざる者のために富を使おうとしない。ましてアメリカはアメリカンドリームが好きなお国柄です。努力した者が成功し富を得るのは当たり前。得られないのはその人の努力が足りないからだという考え方に固執しています。


 しかしことはそう単純ではないわけです。そもそも、格差や差別は個人が努力すればいいという前提を奪っていると思います。ヨーロッパにはたくさんの移民がいます。その多くはイスラム圏の人々です。自由・平等・博愛を掲げるフランスでも、彼らは不条理な扱いを受けています。たとえ能力があり大学まで卒業しても、イスラムというだけで就職差別を受けるのです。そういう人たちがイスラム国へと流れているのです。でも、そのことが先進諸国の特に社会をリードする富裕層にはわかっていないのではないでしょうか。恵まれている人々には弱い者の思いなどわからないのが現実なのです。

 殺害された後藤健二さんは、まさにそのことを世界に訴えるために活動していたのです。あえて危険を冒してシリアに行ったのです。ある有名タレントは、そんな後藤さんに対して、こんなに国に迷惑を掛けているのだから、いっそ自決すれば良かったと述べていました。世界で物議を醸している発言です。自分は安全なところにいて後藤さんの働きを少しも理解せずなんと酷いことを言うのかと怒りを覚えました。でも、ひょっとすると、今の多くの日本人は、この有名タレントの発言を肯定しているのかも知れません。

 弟子たちの心は、自分たちのところに集まってきた孤児たちに向いていなかったのです。それよりも、自分たちが得をしたり優位になることばかりを考えていたのです。でも、弟子たちを批判できません。これが、今に生きるわたしたちにとっても現実なのかも知れません。

 いかに小さな者、弱い者が犠牲になっているのか。そのことを見極めること、それが後藤さんの心を大切にすることであり、イエスに従う者の心ではないでしょうか。日本の教会、世界の教会は、この先どこへ向かうのでしょうか。イエスに従う者として歩むのでしょうか。それともイエスを看板にしただけの自己満足の存在なのでしょうか。それをこそ今、わたしたちの心に問われている。そう考えなくてはならないのではないでしょうか。わたしたちの心はどこにあるのでしょうか。


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# by buku1054 | 2015-03-01 17:07 | 礼拝メッセージ | Comments(1)

龍馬

幕末の志士、坂本龍馬のファンである。

NHKの大河ドラマからだからファン暦は浅い。

でも、20冊以上の彼に関する本を読んだ。今も読んでいる。高知へも行った。

高知以外にも、折にをみてゆかりの地を訪ねている。

魅力的な人だ。

どこが魅力なのか。

自由、束縛を嫌う、枠に拘らない、柔軟さ、行動力、思いやりの人、意外にあくどい面も持つ、リアリスト、明るいなどなど。

クリスチャンはこの逆の人が多いような気がする。

キリスト教に批判的な立ち位置にあるわたしにとって、龍馬は魅力的なのだ。

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# by buku1054 | 2015-02-24 17:57 | その他 | Comments(0)

2015年2月22 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/22礼拝説教「祈りによらなければ」マルコ9;14~29

 兼務する付知教会では、基本的に第四主日の礼拝後に祈祷会を行っています。大概は4~5名、時折2~3名になる小さな祈りの群れです。はじめるにあたり、その都度、祈れない人は無理に祈らなくていいいのですよという前提で行っています。

というのは、祈祷会というと、参加した全員が祈らなくてはならないといった、ある意味強迫観念に囚われるので、祈れる人は祈り、祈れない人は祈らなくて良いという自由さを大切にしています。祈祷会に参加することが重荷にならないためです。もちろんこんな緩いことをしたら信徒教育にならないという意見もあるでしょう。でも、そうすると意外にもほぼみんな祈るのです。

 この祈祷会、そもそも脳梗塞で倒れて教会活動に参加できない曽我よしゑ姉の発案でした。それを受けてはじまったものです。もう4年目になるでしょうか。でも時折、虚しさを覚えるときもあります。というのは教会が置かれた状況が一向に変わらないからです。でも続けています。なぜなら、やらないと気持ちが悪いというか、なんだか続けないと自分たちが駄目になってしまうのではないだろうか。そんな気持ちがするからなのです。


 さて、今日はマルコによる福音書9章の二つ目の物語についてご一緒に考えたいと思います。小見出しに「汚れた霊に取り憑かれた子を癒やす」とあります。いわゆる癒しの奇跡物語に分類される物語です。しかし今日の箇所には次の言葉があります。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。この言葉から、ここは癒しの奇跡だけを伝えようとした箇所ではないと思ったのです。キーワードは「祈り」です。キリスト教に限らず、すべての宗教にとって必須のことである「祈り」がテーマだと思います。

 さて、わたしは今日の箇所を読んだとき、真っ先に浮かんだのは、作家の大江健三郎さんの言葉でした。大江さんは以前こんなことを述べていました。「戦後、世界は何度も核戦争の危機を迎えた。しかし、それにはいたらなかった。ある意味それは奇跡だと思う。なぜ奇跡が起きたのか。それは、核戦争を回避するために世界中の多くの人々が祈りを捧げ、それが聞かれたとした思えない」ということでした。

 祈りは聞かれる。わたしたちはそれを信じるから祈るわけです。しかしどうでしょうか。大江健三郎さんのいう核戦争回避の祈りに反して、戦後もし核爆弾がどこかで炸裂していたら、祈りなど価値がないとして祈る者がいなくなったでしょうか。もちろん祈りをしなくなる者もいるでしょう。しかし、それでも祈り続ける者はなくならないと思うのです。

 今日の箇所は、イエスと側近である三人の弟子たちが山を降ったところで遭遇した出来事です。どんなことだったかざっと振り返ってみます。

 イエスと三人の弟子たちが山を降りると、山に行かなかった弟子たちが群衆に囲まれ、律法学者たちと議論をしていたのです。何を議論していたかというと、群衆の中の一人が幼い頃から霊に取り憑かれ、時折「てんかん」のような発作を繰り返す息子の癒しを弟子たちに頼みました。しかし、弟子たちは癒せなかったのです。

 おそらくイエスたちを監視していた律法学者たちが、その行為に対して非難し、周囲に居た群衆も弟子たちが癒せなかったことに対してああだこうだと騒いでいたという状況だったのです。この状況に対してイエスは弟子たちの不甲斐なさを嘆き、その息子を癒やします。すると弟子たちはいうのです。なぜ自分たちは癒やせなかったのでしょうかと。これにイエスは言うのです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」。


 イエスによる癒やし物語りは福音書にたくさんあります。大筋ではそれほど大きな違いがあるわけではありません。しかし、よく読むと必ず他と違った何らかの事柄があることに気がつかされます。今日の箇所で特徴的なことは、今いったようにイエスの最後の言葉だと思います。この種のものは、祈りによらなければ解決しないということです。

 今日の説教題にもしましたが、祈りによらなければとは、どういうことなのでしょか。イエスはこれまでにまで多くの癒しを行ってきました。弟子たちも独自の宣教の旅の中で癒しを行ってきました。ならば、そこでは祈りがなくても癒せたということなのでしょうか。

 しかし今回、弟子たちは癒せなかったのです。それは祈りがないからだということになるわけです。癒やしにおいて、祈りが必要な病とそうでない病があるのでしょうか。その分類については記されていませんからわかりません。この箇所はいったい何を伝えようとしているのでしょうか。

 そもそも祈るとは何でしょうか。基本的に祈るとは「願う」ことです。自分の願いを叶えて欲しい。それが多くの人が考える祈りだと思います。その動機にはお金が欲しいといった身勝手なこともありますが、病気が治って欲しいといった切実なこともあります。

 あえて定義するなら、祈りとは、自分の能力や努力ではどうにもならない事態に相対したとき、この世を超えた存在というか、何かに、わたしたちでいう神に委ねるということです。委ねるとは、どういうことかというと、それは、これから起こる一切の事態をすべてをお任せするということです。その結果がどうなろうと、それでも受け入れるということです。果たしてそこまで信頼できるのか。それが祈る上で問われていることではないでしょうか。おそらくわたしたちは、祈ったからには、願いが叶って欲しいと思っているはずです。でも、そうした願いを持つことは、ひょっとすると、祈りの根本から外れているのかも知れません。


 イスラム国によって殺害された後藤健二さん。おそらく世界中の多くの方々が宗派や教派を超えて彼の無事を祈ったはずです。しかし、結果として後藤さんは、無残にも殺害されました。すべての祈りは聞き入れられなかったのです。わたしは、残念だがそんなもんだろうと思いました。祈ったからといって、現実を動かすことはできないと思っていました。

 しかしその後、彼が殺害された後、東京のあるイスラム教のモスクでそこに属するイスラム教徒が祈ったという記事を読みました。彼らは後藤さんが生きて帰ってくることを祈ったはずです。しかし結果は最悪の事態になったのです。その意味で祈りは叶えられなかったのです。しかし、それでも彼らはさらに祈るのです。なぜそれでも彼らは祈ったのでしょうか。それは、後藤さんの遺族の慰めと、こんなことが二度とあってはならないという願いと、神がそれでもわたしたちにこのことの意味を伝えることを願ったと思うのです。そう信じているのです。わたしは、そのイスラム教徒の信仰のすごさを思いました。そこまでいかなければ、それは信仰ではないのかも知れない。そう思いました。

 わたしたちはどうだったでしょうか。わたしはどうだったでしょうか。この結果を受けて祈ったでしょうか。たぶん多くは、諦めとやるせない思いのまえに打ちひしがれてそれで終わったのではないでしょうか。わたしも祈れませんでした。

 しかし東京のそのイスラム教徒は、絶望の内にありながらも、神からの意味を願い、後藤さんの家族の慰めのために祈ったのです。どんな悲惨な結果を受けても祈り続けたのです。それが祈りの精神ではないでしょうか。あきらめつつも委ねる。それが信仰ではないででしょうか。そこに踏みとどまれるのか。それとも単にあきらめるのか。そこに信仰者であるかないかがかかっているのです。


 わたしたちは、あまりにも事態が悪いとき、その先に希望を抱けないとき、あきらめます。何をしても無駄だと思います。しかし、それでもなお祈るというのは、神への信頼があるからだと思うのです。というか神への信頼を捨てたくないからです。いや、ひょっとすると無意識のレベルで神に抱かれていることを知っているからではないでしょうか。

 信仰者とは、あきらめない者をいうのでしょう。繰り返し繰り返し最悪の事態が襲ってきても、それでも踏みとどまる者だと思います。この2000年間、教会は祈り続けてきました。イスラエル民族の宗教の時代からすれば約4000年祈りが続いてきているのです。なぜそれができるのでしょうか。普通はできないです。それでも踏みとどまろうとするその理由とは何でしょうか、それは、わたしたちをそうさせている方がいるからではないでしょうか。

 昔ドイツに、トゥルナイゼンという牧師がいました。彼はこんな言葉を残しています。「皆様が神についてどんなふうに考えるのかわたしは存じません。けれども、そういうことをわたしはあえて存じ上げなくてもよいのです。なぜなら、わたしたちが神についてどんなふうに考えるのかが大切なのではなく、神御自身がわたしたちをどんなふうに考えているのかが大切なのです。神についてのわたしたち人間の思いがわたしたちを支えるのではなくて、神がわたしたち人間のことを考えていて下さるという、そのことこそがわたしたちを支えるのです」。わたしたちの信仰も、わたしたちの祈りも、わたしたちの生きるすべても、わたしたちの己の力によって支えているのではない。わたしたちではなく、神が支えている。それがトゥルナイゼンの悟りです。

 イエスが弟子たちに、この種のものは祈りによらなければなし得ないのだといったのは、あなたがたは本気で神に委ねたのか。どんな結果になろうとも神にお任せしたのか。そこまで神を信じたのか。そのような意味で問われたのではないでしょうか。


 わたしたちはこれからも様々な事態に遭遇するでしょう。個人的なことに限りません。日本も世界も様々な事態に遭遇するでしょう。ときに絶望的な思いになることもあるでしょう。

 しかし、それでもわたしたちは祈りを捨てることはできないはずです。なぜならそれは、神がわたしたちにそうさせているからではないでしょうか。どんなに絶望的な状況にあっても、それでも神がわたしたちに寄り添っている。それが祈りが示していることではないでしょうか。

 祈りによらなければとイエスは言います。それは、突き詰めれば、神はわたしたちを決して見捨てていないのだ。だから一切を神に委ねなさい。そう腹を据えて、今自分たちができることを精一杯行いなさい。たとえ望んだ結果にならなくても、それを受け入れてゆきなさい。そのことの示しではないでしょうか。 祈ることは、神がわたしたちとつながっている証ではないでしょうか。それぞれにどんな形でも良いです。祈る幸いを覚えたいものです。



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# by buku1054 | 2015-02-22 13:02 | 礼拝メッセージ | Comments(0)