2015年4月26日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/26礼拝説教「救い」マルコ10;17~31

 今日も引き続き、マルコによる福音書を読んで行きます。ところでわたしの神学校での卒業論文は、「救済論」でした。つまり「救い」とはいったい何かということをテーマとしたのです。その論考を進める上で、わたしは滝沢克己という神学者を手懸かりとして進めました。

 滝沢克己という人は、1960年代から70年代にかけて活躍された方です。でも、その考え方が正統的なキリスト教からすると外れていたため、その当時はもちろん、今でも大きな支持を受けてはいません。

 滝沢が訴えたことの根本は、インマヌエル。神われらと共にいますということです。これが私たちの人生を支える根源だと説いたのです。とてもシンプルなのです。聖書に基づいています。さらに、滝沢が伝えたことは、神と私たちとの関係は、不可同(同じではない)・不可分(分けられない)・不可逆(逆にできない)と説いたのです。

 さらに詳しくいいますと、「不可同」というのは、神と私たちは同じではないということです。これまでの歴史では、神と人とが同じという事例があまたありました。古代では、王様は神でした。戦前戦中の日本でも、天皇が「現人神」すなわち神でした。このように、この世のある存在を神とすることは誤りであり、世の中を悪い方向に誘ってしまう可能性があるという意味で「不可同」なのです。神と私たち被造物とは、絶対に同じではないということなのです。

 次に「不可分」です。これは、神と私たちとは分けることができないということです。私たちの通常の理解は、神と私たちとが断絶している。神様というのはどこか遠くに存在しているとイメージします。しかし、神と私たちとは絶対に離れていない。私たちを常にもっとも身近で支えているというか寄り添っている。それが「不可分」です。まさに「神われらと共にいます」なんです。


 最後に「不可逆」です。これは、私たちから神へ到達することはできないということです。救いにしても、恵みや祝福にしても、私たちの努力や身分など、私たちが持っている要素に根拠があるのではなく、神から一方的に与えられるということでなのす。したがって、修行を極めれば悟りにいたる、つまり人間の努力や能力、資質を重んじる考え方は否定されます。

 今述べた事ついては正統的キリスト教が伝えてきたことと何ら変わりません。しかし滝沢は、これに留まらなかったのです。それは、イエスにおいてこのことが顕わになったという正統的キリスト教に対して、イエスでなくてもインマヌエルは顕わにされたのだと説くのです。

 たとえば、仏教の開祖である仏陀においてもインマヌエルが顕わにされたと説くのです。これが正統派からすると受け入れられないのです。なぜなら、キリスト教だけが絶対に正しい宗教とは言えなくなるからです。もっともこのことは今後も結論が出ることはないと思います。要は、インマヌエルはイエスにおいてのみ顕わになったのか。それとも他の場合もあるのか。どちらかを信じるしかありません。信じるということは、基本的に私たち人間の行為です。したがって絶対ではありません。その意味でどちらが正しくてどちらが間違いだとは言えないのです。


 さて、今日の箇所を読み進んで行きたいと思います。イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、跪いて尋ねたとあります。この人はどんな人かといえば、小見出しにあるように「お金持ちの青年」でした。平行箇所のルカによる福音書では、ユダヤの議員となっています。つまりこの人は裕福で優れた人です。当時のエリートです。世間的には欠けたところがない人です。


 でもこのような恵まれた人がイエスに尋ねるのです。それもわざわざ跪いてというのですから、余程のことです。その願いとは、永遠の命を得るには何をすればいいのでしょうか?ということだったのです。

 永遠の命とは何でしょうか?私たちは通常、永遠の命と言ったら、いつまでも生きられること。すなわち、肉体の死をもってしても終わらないと理解します。それは、死を克服するわけですからありがたい理解です。ただし聖書では、永遠の命とは時間的な概念ではありません。未来永劫いつまでも生きるということではないのです。命と訳されている言葉は「ゾーエー」といいます。これは質的な命、本質的な命ということです。いつの世にも変わらない命だということです。生き生きとした輝いている状態ともいえます。もう少しいえば、今ここで、この瞬間に、神の思いに生きるということです。ただしここでは、永遠の命自体が主題ではありません。ともかくどう解釈しようが、人が望む最高のものと捉えていいのではないでしょうか。

 イエスはこの青年に対して、律法の掟を告げます。永遠の命を得たいのなら、律法の掟を守ればいいじゃないかというのです。ユダヤ教の教えに基づいて答えています。

 すると青年は言います。そんなことは子どもの頃から既に行っていますと。この人は完璧なのです。ユダヤ教において模範的な人なのです。すると、イエスは、こんなことを言います。財産を売り払って貧しい人たちに施せと勧めるのです。何もかも棄てよというのです。すると、彼は彼は悲しみながら立ち去るのです。たくさんの財産を持っていたからだというのです。そんなことできるわけがないということです。


 皆さんはどう思うでしょうか。彼はこれまで一生懸命頑張って今の立場を築いたのです。その御陰でかなりの財産も持てたのです。そんな人に向かって、これまで築きあげてきた財産をすべて施せというのです。一文無しになれというのです。私だったら、やはりこの青年と同じく、そんなことはできないと立ち去ると思います。それが常識的な思いではないでしょうか。

 私はここで孔子の言葉を思いました。「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(みみした)がう。七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず」。

 現代語にします。私は十五歳で学問を志した。そして三十歳で一本立ちした。四十歳であれこれと迷うことがなくなり、五十歳になると天が命じたこの世での役割と自らの限界を知った。そして六十歳になったときには、人の言葉を素直に聞けるようになった。七十歳になると、自分の思い通りにふるまっても道に外れることはなくなったということです。

 今日のこの青年が幾つなのかはわかりませんが、孔子の言葉から言うと、四十代から六十の代の間を彷徨っています。一番最高のものを得たい。そのためにはどうしたらよいのだろうか。まさに迷っています。この世での自分の役割、それもわかっていません。そしてイエスの言葉も素直に聴いていません。

 孔子の言葉からいえば、この人は悟っていません。では、我が身を振り返るとどうでしょうか。この人を笑えるでしょうか。愚かな奴だと言えるのでしょうか。言えません。これが私たちのほんとうの姿ではないでしょうか。ここにいる私たちは、信仰に生きています。ほとんど毎週礼拝にも参加します。しかし、だからといって信仰の確信があるといえるのでしょうか。信仰者として相応しい言動を行っているでしょうか。自信はありません。その意味で、この青年のように迷いつつ不確かに生きていると思います。


 私たちは、幾つになっても、孔子の言葉にあるような理想通りには行かないものです。それどころか、死を迎えるそのときまで、迷いつつ、躓きながら生きる者といえるかも知れません。この後イエスは、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言います。凄いことを言うもんです。絶対にあり得ない事です。神の国に入るとは、要するに、救いを自力で得るということは、ほとんど不可能なことだと言いたいのではないでしょうか。


 そもそもこの青年、永遠の命を受け継ぐには何をすればいいのでしょうかと尋ねました。どうすれば最高のものを得られるのでしょうかと。突き詰めれば、どうすれば救いを得られるのですか。そう尋ねたわけです。しかし、どんなに優れた人であっても、どんなに高潔な人であっても、どんな人格者であっても、ましてや、迷いながら、躓きながら生きる私たち凡人にとって、自力で救いを得られるなどあり得ないということではないでしょうか。

 ですから弟子たちは、では、いったい誰が救われるのだろうかとつぶやくのです。イエスは言います。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。つまり救いとは、神から一方的に与えられることだと伝えているのではないでしょうか。

 であるならば、私たちがとるべき態度とは何でしょうか。それは、すべて神にお委ねること、お任せ切ること。それ以外の何ものでもないと思います。もう少し言えば、救いとは、私たちがどうであるとか、何をしたとか、どう考えているとか、そういったこととはまったく関係なく、無条件に、一方的に神から与えられる恵みなのだ、だから迷いがあっても、躓いても、愚かでも構わないのだ。そこをわかってほしい。それがイエスからのメッセージだったのではないでしょうか。


 先週の週報「今週の糧」に引用した星野正興牧師の言葉を改めて読みます。「今日も窓の外に風が吹いている。木の葉や草はその風になびいている。肩肘張らず、強がらず、小さな葉のまま、細い草のまま風になびいている。ありのままの姿でごまかさないで風になびいている。我々よりずっと、ごまかされない方をおぼえて生きている」。

 ここで「風」とは神を意味します。つまり、私たちを生かし支える根源である「神」にすべて委ねなさいということです。もっとも、すべて委ねるなど私たちにはできません。それほどの信仰を持っていません。しかし、にもかかわらず、私たちは支えられ、生かされ、死後も導かれている。そうしてくださる方と一緒に生きている。そこにこそ、ほんとうの救いがあるのではないでしょうか。そう信じられたら、なんと幸いではないでしょうか。


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# by buku1054 | 2015-04-27 11:27 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年4月12日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/12礼拝説教「受け入れる」マルコ10::13~16

 先月、教区の「障がい者と教会」の岐阜地区集会で、臨床心理士の川浦弥生さんという方を講師に招きました。川浦さんは東京生まれですが、30年間、沖縄のいくつかの離島で主に子供たちの心のケアにあたってきた方です。現在牧師になるため農村伝道神学校に在学中の神学生でもあります。

 講演の中で、川浦さんがこんなことを述べていました。自分が臨床心理士になった動機は、幼い頃に母親からいわれてきた言葉にあったというのです。それは、「あんたなんか、生まれてきて欲しくなかった」という言葉でした。川浦さんはその言葉に深く傷つき、自分は必要のない人間だと思うようになったといいます。だから自分は、人の必要になるような仕事をしたいと考えるようになり。その結果、臨床心理士になったということでした。

 川浦さんは能力もあり、努力もしたのでしょう。心の傷をなんとか乗り越えることのできた方ですが、同じような惨いことを言われ、人生が狂ってしまった人はたくさんいるのではないでしょうか。

 さて、先週はイースターでしたので、それに相応しい箇所を選びました。したがって、継続して読んでいるところから離れましたので、今日は継続中の続きを読み進んでみたいと思います。今日の箇所は、小見出しに「子供を祝福する」とありますように、イエスが子供を祝福することについて記されたところです。この箇所は、教会では、子供祝福式や子供との合同礼拝の際、よく取り上げられる箇所です。


 ここで、人々が子供たちをイエスの元に連れてきます。触れてもらうためとあります。「触れていただくため」とは、神の祝福を受けるためということです。イエスの噂を聞いた親たちが、子供たちに祝福を授けてもらいたいということです。


 なぜでしょうか?イエスは救い主だという評判が広まっていたからでしょう。この世を超えたすごい方だからということなのでしょう。ただしここで、イエスは愛の方だから、救い主だから、だから小さな子供を受け入れたとするだけでは大事なことを見落としてしまうと思います。ここはそう単純にやり過ごしてはならないと思います。

 その理由は、この場所が、ヨルダン川の向こう側、ペレア地方だったというところにあると思いました。前回も述べましたが、ここはヘロデ・アンティパスが統治したところであり、ファリサイ派の勢力強い地域でした。今日の箇所では、特にファリサイ派の勢力の強さがこの物語の重要な鍵ではないかと思ったのです。ファリサイ派は、律法を厳格に遵守する人たちです。そのことが神の祝福を受ける根拠だと信じていた人たちです。

 当時、子供の存在価値はたいへん低いものでした。今のように子供の人権といった考え方は皆無です。人として価値があるのはユダヤ教徒、それは男性に限られたわけです。女性や子供、病人や障がい者、また律法を守れない人たちは神の祝福の対象外だったのです。

 ただし辛うじて男の子は別でした。男の子はユダヤ教の将来の担い手です。幼い頃からシナゴークで律法教育を受けさせました。そのことそのものが、が神の祝福だったのです。

 したがって、神の祝福の対象外は、子供に限っていえば、女の子、病気の子供、障がいの子供だったのです。こうした者たちは、神の祝福の外側に置かれた者たちだったのです。

 このような当時の時代背景を踏まえると、ここで親が連れてきた子供たちは、女の子、病気の子供、障がいを持った子供だったと言えるのではないでしょうか。さらにいうと、こうした子供たちをイエスの元に連れてきた親とは誰か。それは、母親だったと思うのです。

 おそらく次のような状況を想像します。神の祝福を受けられるのは、五体満足の男の子だけ。女の子をはじめ、それ以外の子供を持った母親たちは、親の素直な願いとして、その子たちにも神の祝福があってもいいではないか。そう思っていたはずです。しかし、夫や父親たちは耳を傾けない。取り付く島がない。そこで、母親たちが意を決して、一致団結して、当時のタブーを冒して、イエスの元へやって来たのではないか。わたしはそう思うのです。

 しかし、そんな母親の思いに気がつかない。それが弟子たちだったのです。彼らはユダヤ教徒です。男性です。神の祝福は男性にのみにあると刷り込まれていた者たちです。ですから、弟子たちはこの者たちを叱ったのです。おそらく彼らはこう思ったはずです。「お前たち、いったい何を考えているんだ。女、子供の分際で。常識外れも甚だしい。さあ、帰れ、帰れ。お前たちの相手などしている暇はないんだ」。

 すると、弟子たちの行為に対して、イエスは憤るとあるのです。ここは訳が弱いと思います。イエスが「憤った」という言葉は、原文では激怒する。激昂するという意味の、とても強い言葉なのです。つまり、このような子供たち、すなわち、ユダヤ教の基準からしたら、神の祝福から弾かれた者たちを受け入れなくては、神の国に入れない。神から認められない。イエスはかなり激しく弟子たちに説くわけです。

 話は変わりますが、ここで子供を巡る一つの物語をご紹介します。神戸市東灘区にあるYKK六甲株式会社で社長を務める江口敬一さんという方がいます。江口さんはアメリカ西海岸にあるYKKのシアトル支社に勤務していました。シアトル市内の病院で、次男・裕介さんが生まれました。

 しばらくして医師から裕介君の思いがけない診断結果を知らされました。裕介君は、染色体検査の結果、ダウン症であること、そして知的障がいもあるという内容でした。江口さん夫妻は大変なショックを受け、すぐには言葉が出ませんでした。体中の力が抜けた感じだったそうです。

 しかし、この医師は医学的な診断結果の説明をしただけで会話を終わりにはしませんでした。ショックで今にも倒れそうな江口さん夫妻の心を支えて、こう続けたというのです。「あなたがたは、障がいをもった子供を立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」と。

 江口さん夫妻はこの言葉で我に返りました。この子を自分たちが育てなくて、誰が育てられようか。この子の親として選ばれたからには、愛情をこめて育てなければならない。医師が言ってくれたように、自分たちには力があるはずだ。可愛いこの子のためなら、できないことはない。

 江口さんご夫妻は、医師の言葉によって勇気づけられ、思い直すことが出来たのです。裕介君は養護学校高等部を卒業した後、ホームヘルパー2級の資格を取得し、現在は東大阪市内の高齢者デイ・サービス・センター「アンデスのトマト」に就職し働いておられます。


 イエスは、子供がわたしのところにくることを妨げてはならないと語りました。わたしたちはさまざまな命の状況、さまざまな命の形を持ってこの世に神が送り出される存在と出会っていきます。

 しかしながら、時にその違いをもった命に対して、その存在をそのまま自らの所に抱きとめるのではなくて、受けとめるのではなくて、招くのではなくて、拒絶したり、絶望したり、あきらめるということがあるのではないでしょうか。

 わたしたちの意識の中に、思いの中に、子供がそのままの姿でこちらに来ることを拒否する、受け止めることができない、どこかで子供の状況を否定しようとする思いが働くことがあるのではないでしょうか。


 江口さんの次男裕介君をこの世に迎えるときに立ち会った医師は、両親の心に向かって語りかけました。この医師の言葉あなたがたは、障がいをもった子供を立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」は、「あなたがたは、子供がわたしのもとに来るのを妨げてはならない」というイエスの言葉に重なっていたことを感じるのです。

 前回の話の中で、わたしたちの出会いと関係は、神が結び合わせてくださったものだと述べました。わたしたちの思いや願いを遙かに超えた働きがあるのだということです。それは、わたしたちの思いからすれば、願いからすれば、受け入れたくはない、拒否したい。そんな出会いや関係も然りなのです。

 わたしたちにそれぞれ与えられている出会いや関係は、神があなたにはこのことを担っていくことが出来るということを知った上で、わたしたちに与えて下さっているのだということを信じたい。それを忘れずに、向き合い、受けとめる者でありたい。そう思います。

 「子供をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。イエスのこの言葉は、神がその子を選び、そして送って下さっているのだからという意味ではないでしょうか。このイエスの言葉を素直に信じて受け入れること。それがわたしたちに託されたことではないでしょうか。


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# by buku1054 | 2015-04-12 12:39 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年4月5 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/5礼拝説教「包み込んだ」マルコ16:9~11

 2015年度の最初の礼拝がイースターとなりました。キリスト教にとってもっとも大切な事柄、それがイースターです。イエスが復活されたということです。イエスの復活がなかったとしたら、キリスト教は起こらなかったのです。つまり教会という存在もなかったのです。したがって、わたしたちの存在もなかったのです。その意味でもっとも大切ななこと、それがイースターなのです。

 しかしこの復活、なかなかよくわからないと言えます。クリスマスのように、イエスが誕生したというハッキリとした歴史的事実ではないので、そう思われてしまうのではないでしょうか。ですから、長らく信仰生活を送ってきた方でも、はっきりと、復活をわたしは信じます。復活とはこういうことです。そんなふうに自信に満ちて言える方はそう多くないように思います。むしろ、聖書にそう書いてあるのだから信じなくてはならないとか、信じなくては駄目ですよといわれてきたので、なんだかよくわからないけれども、信じることにしておこうといった曖昧な思いを持つ方が多いのではないでしょうか。

 さて、教会にとってもっとも喜ばしい日であるイースター、けれども意外にも曖昧な捉え方をされる復活、今日は改めて復活について考えてみたいと思います。この度選んだ箇所は、今、継続して読んでいるマルコ福音書から選びました。マルコ福音書16章9~11節です。ここはご覧になっておわかりのように括弧で括られています。

 この9節から最後20節までが括弧で括られているのです。これは新共同訳聖書のはじめの解説のところにありますが、括弧括られたところは、後の時代に書き加えられたことを意味します。したがってこの部分は、マルコが書いたものではありません。マルコではない他の誰かが後の世になって書き加えたとされているのです。聖書学ではマルコ福音書というのは、16章の8節で終わっているというのが定説になっています。ですからそのことが9節以下に反映されて括弧で括られているのです。

 だとすると括弧の部分、9節以下に記されていることは、作り話なのか。信じるに値しないのかという思いになる人もいるかも知れません。わたしはそうは思いません。マルコ福音書の記者の意志を受け継いだ後の世の誰かが、マルコの意思を尊重しつつも、後に自分が知った伝承というか、実際に経験したというか、それをどうしても記さないではいられなくなって、書き加えたのではないか。そう思うのです。

 さて、16章の最初を見ると、イエスが殺されて、一切の仕事をしてはならない安息日が終わって、三人の女性たちがイエスの遺体に葬りの儀式を行うために、遺体が納められた墓に行きます。その三人とは、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人でした。彼女たちはイエスの遺体が墓になかったことや天使のような存在の言葉を聞いて恐れおののいたとあるのです。

 元来のマルコ福音書はこの場面で終わっているわけです。で、括弧付きの今日の箇所に入るわけです。イエスは、週の初めの日、それも朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現されたというのです。前の段落の続きからすると、あれっ、おかしいなと思うことがあるのです。というのは、そもそも三人の女性が連れ立ってイエスの墓に来ていたわけです。しかし、復活のイエスはマグダラのマリアにしか現れなかったというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。



 この後マリアについての説明が書かれています。「以前イエスに七つの霊を追い出していただいた婦人である」というのです。イエスをめぐる女性は何人もいます。おそらくその中で母マリアを除けば、このマグダラのマリアがもっとも有名な女性だと思います。マグダラというのは地名です。ガリラヤ湖畔にあった漁業が中心の町でした。ここでは捕れた魚を加工して、海外にも輸出していたことから、諸外国の商人たちもたくさん行き交いしていた町で、当時として4万人というたくさんの人口の町です。


 いろんな人がたくさん行き交う町では、当然そうした人たちを当て込んだ様々な商売や仕事が生まれます。そういうことでここは水商売の女性や娼婦もたくさんいたといわれています。このような状況もあって、イエスによって悪霊を追い出してもらったこのマリアは、娼婦だったのではないか。そういう解釈をする人がたくさんいます。もちろんほんとうのところはわかりません。

 だだ、たしかなことは、七つの霊に取り憑かれていたということ、これは並々ならぬ酷い状態にあったということです。いや、もっというなら、人格を破壊され、必要ない者として弾かれ、絶望的な状態にあった。生きる気力もなかった。それが七つの霊に取り憑かれていたと表現された内容ではないでしょうか。

 もし彼女が娼婦だったとすれば、人格が破壊してしまうほど自分の身体を売らないと食べていくことができない。そういう悲しい女性だったのではないか。身も心もボロボロになって、涙さえ出てこない。楽しいことがあっても微笑むことすらできない。そんな状態に貶められていた、それがマグダラのマリアという人だったのではないでしょうか。

 そのマリアにイエスは現れたというのです。他の誰でもないこのマリアだけになのです。今日の説教題を「包み込んだ」としました。これはマリアにイエスが御自身を現されたというところの「現された」という言葉をイメージしたものです。わたしはこの「現された」を「包み込んだ」、イエスがマリアを包み込んだというように感じたのです。

 時は朝早くです。夜が明けて太陽が昇ってきます。こんな状況に身を置くとどんな感じでしょうか。夏場でも早朝はひんやりとして少々肌寒い、冬場なら震え上がるような状態です。そこへ太陽が昇ってくる。明るく暖かい日差しが射し込んでくる。そういうときわたしたちは太陽の光に包まれていると感じるのではないでしょうか。あるいは暖かくてホッとしたというか安心したというか、そんな感覚を覚えるのではないでしょうか。


 復活のイエスがマリアと出会っているこの状況が、歴史的事実として具体的にどのようなものであったか、それを知る術はありません。しかしそんなことはそれほど大切ではないと思うのです。過酷な人生を過ごしてきたマリア、人格も破壊され、世間からは必要無い存在と罵られ、ただ男の慰み者としてしか生きられなかったマリア、そのマリアに、他の誰でもないマリアにイエスは現れた。イエスはマリアを包み込んだ。マリアはそのことをたしかに経験した。それが大切なことではないでしょうか。

 さらにいうと、マリアを包み込むイエスは復活のイエスです。多くの者は復活のイエスを「勝利のキリスト」と表現します。死に勝利したキリストだということです。それもいいでしょう。でもわたしはそれだけではないと思うのです。復活のキリストは、十字架で無残に殺されたイエスです。まさに人格を破壊され、必要なき者と罵られ、棄てられたイエスです。そのイエスがマリアを包み込んでいる。マリアの悲しみも、絶望も、涙も、彼女と同じように人格を破壊され、棄てられた、必要がない者とされたイエスが包み込んでいるのです。

 そこにあるのは、全能の力で上から救いあげるようなイエスではない。勝利のキリストと崇められた栄光のイエスではない。まさにご自分もボロボロになってしまったその有様で、虫けらのように棄てられたその姿で、いやだからこそ、マリアの絶望にほんとうに寄り添えるそのあり方で、イエスはマリアを包み込んだのだ。人智では計り知れない何かが起こったのだ。それが神の愛ということなのかも知れません。

 さてマリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせます。しかし彼らは、イエスが生きておられることも、マリアがそのイエスを見たということも信じなかったというのです。これはどういうことなのでしょうか。それは、この人たちは実際に体験したのではないから当然だという解釈が一番わかりやすい。しかしそれだけでしょうか。


 彼らはイエスが殺されて悲しんでいるのです。泣いているのです。最愛の人に先立たれたのです。そんなときわたしたちは平常心ではいられない。嘆き悲しみます。それが普通の姿です。正常な姿です。そこにマリアがやって来た。おそらくマリアの表情は微笑みを湛えた、安心した落ち着いた幸福な表情だったと思います。泣き崩れるのが当然なんだ。それが正常な者の態度なんだというそこで、一人マリアが微笑んでいる。安心している。それは彼らにとって異常なこと、普通ではないと思えたのは当然ではないでしょうか。

 あるいは、マリアが復活のイエスに出会った体験を話しても人々は信じなかったというのは、教会が成立した後のマリアのおかれた状態を示していたのかも知れません。あの女は所詮、娼婦ではないか。いかがわしい罪深い女ではないか。あんな女の言うことなど信じられようか、あいつは正常ではないんだ。そんなマリアに対する否定的な状況というか弾かれた状況というか、それが、この部分にこういう形で表現されているのではないでしょうか。


 しかし、この箇所を書き加えた誰かは、マグダラのマリアを知っていた誰かだと思います。人格を破壊されるほど貶められ、絶望していたマリア、生きる気力のかけらも持ち合わせていなかったマリア。しかしそのマリアが顔を上げて生き生きとその後の人生を生きていった。その姿に、これを書き加えた誰かは、イエスがたしかに復活されたことを信じたのではないでしょうか。

 だからどうしてもこのことを書き加えなくてはならない。たとえ括弧付きでも末尾であっても残さないではいられない。そう思ったのではないでしょうか。でもそのおかげで、2000年以上も時を経たわたしたちがこれを読むことができるのです。その意味で、マグダラのマリアは永遠にこの世界に刻み込まれたのです。これこそまさにマリアの復活ではないでしょうか。


 わたしたちも、ここで記されているこのマリアの体験、それは文章ではほんの数行しかない小さなものです。しかし、目を懲らして行間を読みながら、少しでもマリアの心境に心を寄せながら読んでいくとき、必ず感じることがあると思います。

 それは、人格を破壊され、棄てられたイエスだからこそ、このわたしの悲しみも辛さも絶望も包み込んでくださっているのだ。安心していいのだ。大丈夫なんだということではないでしょうか。それをわがこととして感じるならば、信じられるならば、それは、他でもない、このわたしのイースター。このわたしの復活になるのではないでしょうか。



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# by buku1054 | 2015-04-05 13:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月29日礼拝説教

2015年3/29礼拝説教「今ここにある奇跡」マルコ10:1~12

 2014年度最後の礼拝となりました。今年度は、マルコによる福音書を継続して読んできました。イエスとはいったいどんな人だったのか。それもできるだけ素顔のイエスを追い求めてみたい。そのことを改めて考えてみたいというのがその動機でした。その際、もっとも最初に書かれたマルコによる福音を選んだのです。というのは、他の福音書に比べて、この福音書のイエスは実在したイエスの素顔に最も近いと思うからです。


 さて、今日から10章に入ります。10章最初の物語は、ファリサイ派との論争物語となっています。小見出しに「離縁について教える」とあるように、離婚が主題となっています。ただ、いきなり離婚の問題が問われるのは、なんだか唐突な思いがしました。しかしその理由が、冒頭の書き出しから読み取れるのです。

 イエスはそこを去ってとあります。「そこ」とはカファルナウムです。イエスと弟子たちのホームグランドといってもいいところです。そのカファルナウムを去って、イエスの一行は、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれたとあります。このさりげなく書かれていることが実は重要だと思いました。

 ヨルダン川の向こう側というのは、ペレアと呼ばれた地域です。ここはガリラヤ同様、ヘロデ・アンティパスが統治していたところです。ヘロデ大王の三人の息子の一人です。しかもここはファリサイ派の勢力がとても強かった地域だったというのです。アンティパスが統治していたこと。それとファリサイ派の勢力が強かったこと。このことから見えてくることがあります。

 ヘロデ・アンティパスによって殺害された有名人がいました。バプテスマのヨハネです。彼がなぜ殺害されたのか、それは、アンティパスの離婚問題でした。アンティパスには政略結婚によって外国から娶った妻がいました。しかしアンティパスは、自分の兄弟フィリッポスの妻に恋をしてしまうのです。ヘロデアです。その経過はわかりませんが、アンティパスはヘロデアを妻に迎えるのです。しかも、政略結婚した妻を強引に離縁するのです。当時は一夫多妻ですから、なにも妻を離縁しなくてもよかったはずです。おそらくそこには単純に割り切れない事情があったのだと思います。

 こうした事情に対してバプテスマのヨハネは、アンティパスを厳しく非難するのです。ただ前にも言いましたが、それは倫理的なことだけではありません。アンティパスの行動によって、離縁された妻の父親が怒り、戦争になったからです。そのことで民衆の多くが犠牲になったのです。ヨハネの非難は政治的でもあったのです。ですから、、ヨハネは逮捕され殺害されたのです。こうした背景もあって、当地に住むファリサイ派たちは、離婚問題を楯にイエスに挑んだのではないでしょうか。

 ファリサイ派は言います。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているのでしょうか」。ここで考えたいことは、夫が妻を離縁するということです。主語は夫です。当時離婚は、一方的に夫の側からなされたのです。妻には離婚を要求する権利はなかったのです。男尊女卑の社会であることの典型的な事実です。

 これに対してイエスはモーセの律法を持ち出します。「モーセはあなたたちになんと命じたのか」と訊ねます。彼らは答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することをゆるしました」。これは申命記の掟です。より詳細には、「人が妻を娶り、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」というのです。

 皆さんはこれを聞いてどう思うでしょうか。特に女性である皆さんは不快感を覚えるのではないでしょうか。ここでも男尊女卑です。離婚する権利は男にあるのです。それも、妻に恥ずべきことがあったらというのです。この恥ずべきこととは、家事がうまくできなかったり、子どもを産めなかったりといったことがありました。


 子孫を残してこそ神の祝福に与れるという当時の常識にあって、子どもができないというのは致命的でした。しかし子どもが授かれないのは女性だけの問題ではない無いわけです。男性側にも問題があります。今ならそういうことも考慮されます。しかしこの時代はそんなことに考えが及びません。いやどうでしょうか。現在でも子どもができないと女性の問題にされることが多いのではないでしょうか。

 しかしそれ以上に問題なのは、子どもを産めない妻、それ以外の恥ずべきことがあったらということです。要するに、夫が気に入らなくなったら離婚できたということです。恥ずべきことはどんどんどん拡大解釈されて、ほんの些細なことでも、夫が気に入らなければ一方的にというか身勝手な離婚の理由になったのです。それが正式に認められたのです。ともかく結婚とは、何もかも男性にとって有利なように定められていたのです。

 ただここでモーセによれば、離縁状を書けば離婚をゆるしたというのは、女性を保護する意味があったということです。夫が離婚する際、離縁状を書けば、その離縁状をもって妻は再婚することができたそうです。そうでないと、どうしょうもない女として以後再婚することは難しかったといいます。ただ実際にどれだけの男がこうしたルールを守ったかというと、おそらくごく僅かだったのではないかと思うのです。

 さて、こうしたやり取りを経て、イエスは自分の考えを述べるのです。「天地創造のはじめから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人は別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 この部分は結婚式のときに新郎新婦に対して聖書からの勧告としてよく読まれるところです。ただしこの言葉は、結婚式を迎えた二人だけに通用する言葉なのでしょうか。わたしはそうは思いません。夫婦になる二人だけに適用するのではなく、すべての人々にも適用された言葉ではないかと思うのです。

 神が結び合わせてくださった。人と人の関係は、出会いは、わたしたちの意思や思惑や感情を超えているのだ。そのことがここでいわれているのではないでしょうか。その一つの例としてお話しします。

 わたしがこの坂下教会に赴任した経緯をお話ししたいと思います。皆さんにははじめてお話しすることかも知れません。ある意味牧師が教会に赴任することは、結婚と同じようなことと言えるでしょう。実際、赴任前に後任の候補者が来て為される説教を「お見合い説教」と呼ばれていることが、そのことを物語っています。

 さて、神学校の最終学年のときは、赴任先のことで不安や恐れや期待など、様々な思いに翻弄されるものです。わたしは原則的には神学校に委ねていました。すると、神学校からあった話は九州は福岡県の教会でした。坂下よりも小さな教会でした。ただそこは幼稚園をはじめ幾つもの施設を持っていたのです。教会よりも施設の運営を主にして欲しいと言われました。教会を主として働きたいと思っていたわたしは、よくよく考えて断りました。

 他にも、恩師の一人から札幌の教会の話がありました。その牧師がわざわざ東京まで来て下さって、夫婦揃って面会までしました。ぜひ、来て欲しいと言われました。でも、迷った末に受け入れなかったのです。仲介の労をして下さった恩師にはすまないと思いました。

 本来こうした教会の人事の話は、素直に受け入れることが基本的な姿勢です。神の働きがそこにあるからという理解だからです。しかし現実には年齢的なことや家族のことなど様々な状況を抱えています。ですから、すんなりとはいかないのです。で、このままだと就職浪人になるかも知れない。そんな不安を抱えていたときです。


 あれは、最終学年の11月のある日のことでした。これから授業に行こうと思って今まさに出掛けようとしたそのときでした。星野先生から電話がありました。赴任先についての話でした。それが坂下教会だったのです。最初、岐阜県の教会だといわれましたが、まったくイメージできませんでした。それまで岐阜県に来たことが一度もなかったからです。飛騨高山は岐阜なのか長野なのか、それすらハッキリしない程度の認識だったのです。

 その後いろいろ聞くと、その年の夏、田中先生が夏期伝道実習生という名目で、農伝のある神学生を後任候補ということで招いたそうです。まさにお見合いです。実はその学生はわたしの友人でした。

 しかし、田中先生は彼を後任にはできないと判断し、母校からの招聘を断念したのです。そこで信頼していた星野牧師に直接頼んだのです。たまたまそこにわたしがいたということです。こういうやり取りを思うと、わたしがここへ来たことは、間違いなく奇跡です。このことをただの偶然と捉えるのか、それともわたしたちを超えた働きがあたと捉えるのかが問題なのです。

 夫婦に限らず、わたしたちの出会い、それは、神が結び合わせたことです。イエスはそう伝えていると思うのです。自分が選んだのではない。相手がそうしようと選択したのではない。あくまでも主語は神なのです。神がそうしたというのです。

 わたしたちの出会いや関係は、たとえそれが自分にとって好ましいことではなくても、わたしたちにはどうすることもできない神秘、奇跡だということではないでしょうか。それが「神が合わせたもう」という意味ではないでしょうか。大切なことは、この奇跡を感謝できるのかということです。もちろん出会いや関係には、受け入れがたいこともあります。こんな人と出会わなければよかったと思うこともしばしばあるでしょう。


 しかし、いろいろ問題があったとしても、悪い関係は悪いなりに何らかの示しがあるはずです。そのことを受け入れるか否かで、その人のその後の歩みが変わっていくと思うのです。わたしたちのそれぞれの出会いと関係に、自分の思いを超えた大いなる働きを覚えるか否か。それをイエスは、わたしたちに問うのではないでしょうか。



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# by buku1054 | 2015-03-29 18:18 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月22日礼拝説教

2015年3/22礼拝説教「赦しに逃げる罪」マルコ9:42~50

 今日は、マルコによる福音書9章の最後の物語をご一緒に考えたいと思います。実は今日の箇所はわたしにとって懐かしい箇所です。それは神学生時代に遡ります。神学校では聖書釈義という授業があります。釈義というのは、それぞれの聖書箇所について、言葉の使われ方や、文脈や、時代背景や、教義など、様々な視点を駆使して、記者の意図を読み解くということです。要するに聖書を解釈することです。説教を作る上での前段階と言えます。牧師は説教を作る際、必ずこの作業を行います。

 神学生の2年生とき、釈義の授業でこの箇所がわたしの担当となりました。未熟なわたしにとって、この箇所はあまりにも難しいところでした。一応はレポートしましたが、しどろもどろだったことを思い出します。あれから20数年が経ちました。あのときのような未熟さはないと思いますが、やはりここは難しい箇所だと思いました。もちろん今でも十分な解釈はできてはいないと思います。でも、 今のわたしならこう読むということで皆さんと分かち合いたいと思います。

 さて、キリスト教は一般的に赦しの宗教だといわれます。ではいったい何を赦すのでしょうか。罪を赦すということです。では、罪とは何でしょうか。それはいわゆる犯罪ではなくて、神に反逆したというのがキリスト教の基本的な理解です。では、神に反逆するとはどういうことなのでしょうか。神を信じないことです。

 でも、それは大きな罪なのでしょうか?世の中、神を信じない人は沢山います。特に現代の日本はそうです。戦後の科学万能主義が影響しています。公の教育でも宗教を一切排除していまから、それも影響しています。政教分離という意味では良いとは思いますが。日本人の宗教的センスはかなり後退したと思います。

 では、神を信じない人たちはすべて不幸な人生を歩むのでしょうか。そんなことはありません。神を信じる信者にならないから、不幸が襲ってくるわけではありません。神を信じなくても良い人生を全うする人はたくさんいます。それに対して、いや、神を信じないと、死んだ後に天国へ行けないのだ。だから神を信じなくてはならないという反論があるでしょう。

 でもその場合、キリスト教の神を信じないということです。しかし、他の宗教もそれぞれに信じる神がいます。これについて正統的なキリスト教では、他宗教の神は神ではない、偶像だというかも知れません。しかし、それは少し傲慢ではないでしょうか。

 そもそもキリスト教でいう罪とは、ハマルティアといいます。この意味は「的外れ」ということです。ですから、的外れとはどういうことなのか、つまり人生において的外れな生き方、的外れな考え方とはどういうことなのか。それを考えなくてはならないと思います。単純に神を信じないことが罪なんだと言い切ってしまうと、その内実もわからないのに、言葉通りに受け入れてしまうのです。これが洗脳なんです。思考を停止をさせるのです。

 そもそも神とは何でしょうか、もちろん、神とはこうだと断定することは不可能です。その意味で、神とはこうだとするのはあくまでも仮説にしか過ぎません。ですから以下述べることも仮説です。

 わたしは、神とはわたしたちを生かす大前提というか、根源というか、根拠というか、土台だと思います。生きとし生けるものは、その大前提があればこそ、生きていけるということです。パウロも使徒言行録17章の中で同様のことを述べています。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。生きていけるのは、神の中に在るからだとパウロはいうのです。


 では、生きとし生けるものが生きられる大前提の中身とはどういうことでしょうか。それは関係性です。己の力だけでは生きられない。他の存在があればこそ生きることができるということです。これは仏教の教えと同じです。これは紛れもない事実です。思想とか信仰を超えた事実です。

 したがって、自分の力だけでは生きることができないという意味で、キリスト教も仏教も本質的には同じことを伝えていると思います。生きているということは、他の存在があればということです。それがキリスト教では、神によって生かされていると表現されるのです。

 自然の世界はそれを受け入れています。動植物をはじめ、大地も、海も、川も、山も、他の存在があればこそ、今そこにおいて成り立つのです。これに反論する方もいるでしょう。他の存在が無くたってあるものはあるのだと。

 でもどうでしょうか。わたしたちが日常見ている恵那山。恵那山は未来永劫盤石でしょうか。永遠にそこにあるのでしょうか。恵那山は地盤が脆い山だそうです。今でも神坂峠付近は徐々に崩れてきています。大きな地殻変動があれば恵那山の様相は大きく変わる可能性があります。つまり、盤石だと思われているあの恵那山でさえ、その時々の状況、つまり他との関わりによって変わるのです。絶対ではないのです。

 しかし、わたしたち現代人は、この事実にあまりにも鈍感です。他の存在によって生かされて生きていることに思いがゆかない。自分の能力や努力があればそれで道は開けると思い込んでいます。ゆえに感謝が足りない。それこそが的外れな生き方であり、罪ではないでしょうか。

 わたしを信じるこれら小さな者を躓かせるのは地獄行きだとイエスは説きます。かなり厳しい言葉です。これほど厳しい言葉をあえて記すのは、イエスのほんとうの思いがここに示されていると思います。小さな者とは、文脈からして36節に登場するこどもを指します。親を失い、あるいは親から捨てられて、行き場のない、生き延びる保証もない、もっとも弱い者です。


 今の世の中も、子どもが犠牲になっている事件があまりにも多い。川崎市の上村君、イスラム国などによって自爆テロを強要されている子供たち、洗脳されて武器を取るアフリカの子供たち。このような痛ましい現実がある中で、それでもキリスト教は、信じるものにとって赦しの宗教だといわれます。ほんとうにこれでいいのでしょうか。

 小さな者を迫害する者は赦されない。イエスはそう断言しています。したがって、迫害する者はもちろんのこと、そういう蛮行に追従する者は然り、そうでなくても、見て見ぬふりをする者ならば、あるいは自分一人が反省しても何も変わらないと傍観者を決め込む者のなら、それらは赦されないと述べるのではないでしょうか。

 今日の説教題を「赦しに逃げる罪」としました。罪の赦しというのは、神がイエスの十字架の苦難と死を通して行ったことといいます。たしかに教義としては大切なことです。しかし、キリスト教の教義を思考停止した状態で鵜呑みにして、そこに逃げ込んではならないと思うのです。ナチスドイツによるホロコースト、ユダヤ人の大量虐殺。それを支持した当時のドイツの教会。あるいは広島・長崎に原爆投下したアメリカ。これが20世紀以降、キリスト教が信用されなくなったもっとも大きな原因だといわれています。そこには、罪が赦されるのだから何をしても仕方がないという思いがあります。

 ドイツではこのことで多くの信者が教会から離れたといいます。ドイツの教会は観光遺産となっているようです。さらにいうと、ドイツでは仏教の禅宗が支持されて、座禅道場が盛んだといいます。教会から離れた信者が、そこに流れているというのです。一方アメリカの教会の場合、社会派、良心派と呼ばれる教会以外の多くはあまり反省がありません。それは、罪赦されるという教義があるからです。信者だから罪赦された。だから広島長崎の原爆投下も赦されるのだ。そう言い切れるのでしょうか。

 それでも赦されるとしてきたのが、アメリカの原理主義的キリスト者です。いわゆる敬虔なキリスト者です。熱心に教会生活を行っている人たちです。彼らの中には、核戦争が起きても良いと思っている人もいます。なぜなら、自分たちは信者だから天国へ行けるのだからということです。

 だから、レーガン政権当時、核軍拡に賛同したのです。そのためにアメリカは、軍備に予算をつぎ込むあまり、財政が破綻し、国民の格差が大きくなったのです。その反省がないままで、国力を強くするために弱肉強食のグローバル経済を推し進め、アメリカ国内はもとより、世界の格差を招いたのです。それがイスラム国を生み出したのです。

 どんなに酷いことも赦されるのだ。ただしその条件として信者になれば。だから伝道しなくてはならない。赦しの傘の下に逃げ込む人を増やす。それが伝道であるというのなら、わたしは違和感を覚えます。わたしは、クリスチャンであることとは、イエスに従う者であることと思います。それは、いと小さき者、弱くされてしまった者に優しい眼差しを向ける者といえるのではないでしょうか。


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# by buku1054 | 2015-03-22 18:31 | 礼拝メッセージ | Comments(0)