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人生は短い

娘の未来(みく)の友人は、今、娘と一緒にカナダに留学中だ。

彼は、アメリカの老舗ロックバンド「エアロスミス」の大ファンである。

そんなことからわたしもファンになった。

滅茶苦茶かっこいい!!

リードボーカルのスティーブン・タイラー。彼はミック・ジャガーによく似てる。口が大きい。

そのタイラーの言葉が気に入った。

人生は短い

規則は守るな

ゆるしは速やかに

キスはゆっくりと

愛はまじめに

笑うことを我慢するな

最後に微笑むことができたらそれでいい

言葉通りでなく拡げて味わって欲しい。

ロックを馬鹿にするなよ!

クリスチャンの皆様!!






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by buku1054 | 2015-07-30 18:54 | その他 | Comments(0)

2015年7月26日坂下教会礼拝メッセージ

2015年7/26礼拝説教「人は皆、誰もが祈りの家」マルコ11;15~19

 今朝は、昨年から継続して読み進んでいますマルコによる福音書に戻ります。辺境の地ガリラヤで人々の救済活動をしていたイエスと弟子たち、また、その支持者たち。彼らの一行は、ユダヤの政治、経済、文化、生活、宗教の中心地であったエルサレムへとやって来ました。

 今日の前の箇所、11節に「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った」とあります。イエスがエルサレムで真っ先に向かった場所が、神殿だったのです。イエスは神殿の様子を見回しながら、いったい何を思ったのでしょうか。それが、12節以下の段落「いちじくの木を呪う」と題がついたところ、前回学んだことです。それは、人々を搾取し差別しているにもかかわらず、自らを神の正義の側に立つものと自負していた神殿体制、それがユダヤ教の根幹であったわけですが、その欺瞞に対するイエスの厳しい批判でありました。

 さらに言えば、社会から理不尽に小さくされ、弱くされたベタニアの人々を支援したイエスでした。そのことは「イエス飢え給う」、新共同訳では「イエスは空腹を覚えられた」という小さな言葉に示されていることも学びました。イエスは再びエルサレムへと向かいます。行き先は決めていました。否、そこにしか行かないとでもいうような覚悟があった。そう感じます。イエスはきっと、ベタニア村で底辺を這いつくばってしか生きられない人々の悲しく辛い思いを背負いながら、今日ここで、自らの将来が決まるかも知れない。そんな覚悟をもって、再び神殿境内へとやって来た。そう思うのです。


 四つの福音書すべてに記録されたこの出来事、それゆえイエスを語る上で避けて通れないこの出来事を、わたしたちは今日読み進みます。この出来事こそ、イエスが殺害されるその根拠となったことなのです。18節にそのことが確りと記されているのです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」。ユダヤの権力の中心であったこの人たちは、何故イエスを殺そうとしたのでしょうか。何故そんなにもイエスを憎んだのでしょうか。そのことをご一緒に考えてみたいと思うのです。


 「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された」。

 神の子、救い主と信じられ、愛と平和を求める方といわれたイエスには、ここで記された行動は似つかわしくないものです。人を傷つけてはいませんが、明らかに暴力行為です。台をひっくり返された商人たちやそこにいた参拝者たちはさぞ驚いたはずです。突然、気が狂った男が飛び込んできたといった感じでしょうか。いったいこいつは何者だ。そんな空気が辺りを覆った。そんな印象を受けます。イエスは何故このような行動に及んだのでしょうか。

 「売り買いをしていた人々」とは、神殿で祭司が執行する罪の赦しの儀式に必要な生け贄となる、動物や植物を売っていた商人、そしてそれを購入する参拝者です。神殿において罪の赦しを受けることは、当時のユダヤ人にとって最も大切なことです。神の掟である「律法」これを守ることで神の救いと祝福が与えられる。逆にいえば、守れない者は罪人で永遠の呪いに落とされる。そう信じることが当然の社会でした。


 律法の規定を完全に守れる者などいません。なにしろ全部で613もの規定があったというのですから当然です。ですから人々は、律法違反の罪を赦してもらうため、生け贄を献げることで罪赦されるという儀式に参加せざるを得なかったのです。このような文化とは無縁のわたしたちからすれば、滑稽に映るでしょうが、この文化の渦中にいる者にしてみたら、何の疑問も起こらないわけです。しかし、だからこそ、そこに歪みが生じるのです。

 生け贄とされるのは、牛や羊といった動物が主ですが、植物もありました。今日の箇所では「鳩」が記されていますが、鳩は、牛とか羊などが買えない貧しい者たちの代用として許されたものでした。そもそも参拝者自らが生け贄を用意してこなかったのかという疑問もあるでしょう。そこなのです。生け贄の儀式に用いられる動植物は、完全な状態でなくてはならないという定めがありました。どんなに小さな傷すら許されなかったのです。

 参拝者が自ら生け贄を用意しても、祭司は何かと難癖を付け追い返します。そこから神殿体制が契約した業者が売る生け贄のみが許可されるというシステムになっていったのです。神殿側は、手数料を取る。業者はここで利益の安定を確保できるというわけです。参拝者にとってはたまりません。おそらく世間の相場以上の金額を支払わなくてはならなかったと思います。鳩しか買えない貧しい者からも搾取する。ここに神殿体制の歪みがあったわけです。

 また、両替人とは、売り買いに用いられる貨幣は、古代のユダヤの貨幣のみという定めでした。ですから参拝者は、生け贄を購入する際に、先ず普段用いている貨幣を両替する必要があったわけです。おそらくここにも神殿と両替商との癒着があったと思われます。

 イエスはこうした神殿側の理不尽さに怒りを覚え、商売人たちの台や腰掛けをひっくり返したということなのです。これが「宮清め」と呼ばれるこの箇所の意味なのだ。そう読まれてきました。たぶん多くの者は、今もこのように読むのではないでしょうか。わたしもずっとそう思ってきました。

 しかし、改めてここを読んでみて気がついたことがあります。それは、イエスが追い出したのは、神殿側と契約を結んでいた商人たちだけではないということです。イエスの怒りの矛先は、罪を赦してもらうために神殿に赴いた参拝者たちにも向けられていたのです。そう考えると、これは「宮清め」というよりも、むしろ「宮壊し」と言った方が良いのではないかと思うのです。神殿という存在そのものへの否ということです。

 今日の説教題を「人は皆、誰もが祈りの家」と付けてみました。これは、17節のイエスの言葉から導かれたものです。イエスはイザヤ書の言葉を用いて、ここで一つのメッセージを語ったのです。そしてこのことこそが、イエスが殺される理由になったのではないか。わたしはそう思いました。暴力行為もユダヤ当局を怒らせたでしょうが、それ以上にイエスが語ったこの言葉が問題だったと思うのです。

 イエスは言います。「わたしの家は、すべての国の人々の祈りの家と呼ばれるべきである」。「わたしの家」とは何のことでしょうか。ルカ福音書によれば、イエスは12歳の時、両親と一緒に神殿参拝に行きました。そこで迷子になります。両親が必死に捜索した結果、イエスは神殿にいました。その際イエスは両親に向かって「わたしが自分の父の家にいるのはあたりまえだということを、知らなかったのですか」と述べるのです。ですから、「わたしの家」とは「神殿」です。

 神殿は、すべての人の祈りの家と呼ばれるべきである。イエスはここでそう告げるのです。どういうことなのでしょうか。この意味を解きほぐすヒントとなる言葉をパウロが述べています。第一コリントの3章に次のような言葉があります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」。わたしたちすべての人間は、神殿であり、神の働きがわたしたちの中にあるというのです。つまり、人間とは、神の神殿。神が働かれているの場所なのだということです。その証はいったい何か。それは祈りである。これがイエスが伝えたかったことではないでしょうか。

 わたしの好きな音楽家、山下達郎の歌で「MY MORNING PRAYER」という作品があります。訳すと「わたしの朝の祈り」となるのでしょうか。この歌は元々某テレビ局、朝の情報番組のオープニングソングとして作られたものです。しかし完成後すぐ、東日本大震災が起きました。山下達郎は、直ぐに作り替えることを申し出たといいます。作り直された歌詩の内容の一部を紹介します。

「夜明けが瞬いている/あなたを照らすために/ 小さな想いがある/あなたに届けるために/ 今日という日が/昨日より/少しだけ優しく/あなたを包んでくれることを祈って/これがわたしの祈り/わたしの朝の祈り 

溢れるその悲しみ/僕には消せないけど/せめてこのメロディー/あなたを励ませたら/ ひとときでも/耳を澄ませ/心を委ねたら/微かな希望の音を聴いておくれ/これがわたしの祈り/わたしの朝の祈り」

 山下達郎は、東日本大地震の被災者、家族を失った者、故郷を失った者、そうした者たちに、音楽という自分ができる手段を通して励まし、慰めようとしました。それがこの作品です。作り直されたこの歌を聴いた番組のスタッフは、全員涙を流したといいます。山下達郎が作ったこの歌は、彼の祈りです。被災者たちに向けられた祈りです。他者の悲しみや苦しみに向けられた祈りです。わたしたちも、悲しむ誰かのために、辛い思いにいる誰かのために祈りを献げます。その祈りを献げるそのことこそが、わたしたちが神殿であることの証、神がわたしたちの中で働かれていることの証、もっというならば、神とわたしたちとが結ばれていることの証ではないでしょうか。

 神殿に赴き、定められた儀式を敢行する。そうではくては、神との断絶を解くことはできない。神の祝福と恵みをいただけない。そうした信仰の理解が当然であったこの当時、イエスはその神殿にやって来て、わたしたちは誰もが皆、他者のために祈りを献げられる。それゆえに神と結ばれた存在だ。神殿だ。そう言いきったのです。

 まさに宮壊しです。神殿体制そのものを、ユダヤ教の根幹そのものを否定したのです、この言葉。これがイエスの運命を決定づけてしまったのです。人は皆、誰もが祈りの家。わたしたちが誰かのためにしてあげられる最低限の行為である「祈り」。誰かを直接助けることはできないけれど、そこで献げられる祈りが、祈る対象に伝わるかも知れない。祈りの力が、具体的な何かを引き起こすかも知れない。

 祈りは、わたしと誰かを結ぶことに他ならない、それゆえ、祈ること事態、神とわたしたちとが結ばれていうことの証ではないだろうか。なぜなら、イエスは、神を愛することは、同時に人を愛することだと述べているからです。今日の箇所、イエスがそう伝えたであろうこのメッセージを心に留めて、また新たな週の旅路をはじめたいと思います。


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by buku1054 | 2015-07-27 16:23 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

円空

岐阜県の教会に赴任したことで得られた収穫の一つ、円空と出会えたこと。

江戸時代前期の僧侶であり、修験者であり、作仏師である。

東日本を中心に行脚し、民衆の悲しみや痛みに寄り添った。

作仏は、その証である。

病に苦しむものには「薬師観音」。子供を失ったものには「子安観音」を彫った。

キリスト教では、これは偶像礼拝となる。

しかし、大切なことは、苦しむ者、悲しむ者に寄り添うことだ。

イエスもそうだった。

宗教が違う。方法が違う。

人間はほんと狭い了見で生きている。

宗教者もそうだ。

もっと広い精神に立ってもらいたい。

わたしにとって、イエスと円空は共通のところに立っていた。

そう信じている。


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by buku1054 | 2015-07-10 17:15 | その他 | Comments(0)

2015年7月5日坂下教会礼拝メッセージ

2015年7月5日礼拝説教「我らは神の中に生き、動き、存在する」
使徒17:26~31

 今朝は、継続して読み進んでいますマルコによる福音書を離れましてお話ししたいと思います。

 南米チリの沖合、南太平洋にイースター島があるのは、皆さんもご存じだろうと思います。住む人はなく、モアイと呼ばれる大きな顔の巨大な石像群があることで有名な謎の島です。

 この島は、「世界の七不思議」の一つとされてまして、様々な方面から研究と調査がなされてきました。その結果、たいへん重要なことがわかったそうです。元々この島の祖先は、太平洋全域に散らばっていたポリネシア人で、紀元5年から6年にかけて渡ってきた人たちだったといいます。イエスが生まれたのが、定説では紀元前4年頃といいますから、それから約10後のことです。その数は、僅か数十人程度だったようです。

 この人たちは、この島に非常に高度な文明を築き上げたそうです。ところが16世紀半ばですから、時代としては宗教改革の少し後です。人口が7000人以上にも増加したために、食べ物から樹木にいたるまですべての資源を使い尽くしてしまったということでした。小さな島だったからです。そして最後は、利益を奪い合い、部族間の紛争に発展して滅びたということです。

 内外の環境学者たちは、イースター島のこの悲劇は、環境破壊が人間を滅ぼした一つのサンプルとして今後の人類の未来を暗示しているのではないかと受けとめたようです。しかし多くの学者が警告するポイントは、人間の飽くなき利益追求が、人類を滅亡させるというのです。


 テレビドラマ「北の国から」の脚本家で有名な倉本聰さんがこんなことを述べていました。「東日本大震災直後は、皆節約したり、今までの消費中心の生活に疑問を持った。しかし半年も過ぎたら、元に戻ってしまった。原発推進派も脱原発派も、結局は同じ穴のムジナではないかと思う。現在の生活を支えるエネルギーを供給するという前提があるからだ。なぜ、あの大震災を機会に、日本人は考えなかったのか。テレビは24時間放映している。コンビニも24時間開店している。そんなあり方が良いのか。そのような考えを進めることに、日本は結局いかなかった」。倉本聰さんの見解は本質を鋭く突いていると思いました。

 さて、もう少し世界の現状についてお話しします。毎年世界で日本の九州の面積あたる地域が砂漠化していることです。そこでは当然農業は出来ません。また、地球温暖化で海面が上昇し、南太平洋の島々がいずれ海に没してしまうと言われています。すでに海面が上がってきたため井戸が使えなくなってきた島もあるそうです。オーストラリアやニュージーランドに全島民の移住交渉をはじめた島国もあるようです。

 少子化が進むわたしたちからするとイメージできないのですが、世界の人口が爆発的に増えています。現在世界の人口は約70億ですが、毎年平均すると8000万人増えているそうです。このままだと、2020年には80億、2050年には100億、22世紀には150億人と予測されています。少子化が深刻な我が国にいるとこの現実はピンときませんが、これが世界の現状なのです。

 これだけでも人類の未来が暗澹たるものであるかが想像できます。砂漠化などによって農業が著しく衰退する。人口が爆発的に増加する。まかなう食料が追いつかない。やがて奪い合いになる。戦争になる。核の使用。人類の滅亡。そんなシナリオが描けます。現代のいろんな事実を組み合わせると、まさに地球全体がイースター島なのです。ですから学者たちは、今のままで行けば、近い将来人類は破局を迎えるだろうと言います。とりわけ日本は、食料の6割~7割、木材の8割、水産物の4割、地下資源やエネルギーの9割を海外に依存している国です。したがって日本の破局は避けられないということです。

 環境保護のために調査、研究を行い、世界に向かって警告を発信し続けている方々で、環境学者石 弘之さんと環境考古学者安田喜憲さんがいますが、彼らによると環境破壊を救う手だては、嘗て古代に人類の間で起こった「精神革命」の精神をもう一度復活させることだと述べています。

 どういうことかというと、イエスや仏陀が起こした宗教活動のことです。で、彼らが言うには、この精神革命は突き詰めれば「利他の精神」だと言います。すなわち、他者が平和に生きられること、それも、人間だけでなく、この地球に生きる生きとし生けるものが大切にされるということです。

 けれども彼らは同時に、人類が「利他の精神」を復興するには、破局を迎えなくては駄目だろうと述べていました。一旦破局を迎えてはじめて人類は目が覚めるのだろうということです。それほど現代の人間の欲望が拡大してしまい、それを押さえるのは非常に難しいということです。

 前置きが長くなってしまいましたが、イエスの福音の本質がパウロによって伝えられているのが、今日与えられた言葉だと思います。それは、28節の言葉です。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。

 まず、今日の箇所の背景ですが、パウロがギリシアの首都アテネにやってきて、アレオパゴスというところで行った説教での言葉です。当時、地中海世界において文化の中心はアテネでした。ここは昔からソクラテスやプラトンなど、今日の思想哲学にも多大な影響を与えたそうそうたる人物が排出された地です。

 おそらくパウロは、アテネに戦々恐々とした思いでやって来たと思います。ここにいるのは相当頭の切れる人たちです。こちらが一を言ったら十返すような人たちです。迂闊なことをいえば、徹底的に論破されてしまいます。しかし、パウロはアテネの町中を巡り歩くうちに、どうしてもこれだけな言わなくてはと思ったのでしょう。それがこの言葉だったんです。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。

 古来、人類の思想で非常に根強くある考え方があります。それは「二元論」という考え方です。簡単に言えば物事を二つのものに分けて考えるということです。たとえば「聖と俗」「この世とあの世」「光と闇」「善と悪」です。大きな特徴は、物事を全体的に見ないことです。今日大きな問題で南北問題というのがあります。先進国と発展途上国の間で起こるあらゆる不正、不条理です。これももとを辿れば二元論だと思います。この世界を先進国と発展途上国とか、勝者と敗者というように分けて考えるのです。

 ほんとうなら、同じ地球に生きる者です。全体的に考えれば、貧富の差は解消とは言わないまでも、かなりの度合いで解決されると思うんです。しかしそれが出来ない。そこには無意識のうちに分け隔てをする二元論があるからだと思うんです。

 さて、神についても、この二元論が為されたのです。古代以来人間は、神とこの世を分けて考えたんです。人間は、天変地異が起きたりすれば、それから守ってくれるもの。或いは豊作などを願ったりする対象がどうしても必要になってきます。

 そこで登場するのが「神」なんです。神にそうした諸々の心配や不安を解決してもらったり、願いを叶えてもらいたいと考えるようになったんです。でも神は、この世とは別世界の存在と考えられていましたから、何ともしようがありません。そこで人間は、何らかの対象をつくって、それを神様として拝むわけなんです。

 しかし考えてみれば分かることなんですが、神殿とか自然の事物とか、ましてや何かで造った像というのは、人間がそれに向き合えます。ということは、私たちのこの頭の中で十分に考え、分析したりする事が出来るということですから、それは神とは言えないんです。


 本来、神は見えないし、認識できません。ですから向き合えません。でも人間は、神ではないものを拝んだりしていたのです。今もそうです。パウロがアテネで見た神は、こういう神だったんです。人間が造ったもの。人間の意識の中で考えられたもの。もっと言うなら人間の欲望や願いを反映したものだったわけです。

 だからパウロは言ったのです。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。私たちは、神の中に存在させられているんだというのです。神の中に生きている。そういわれてもにわかには理解できません。イメージもできません。これはいったいどう理解したらいいのでしょうか。

 日本の有名な哲学者で、戦前、西田幾太郎という方がおりました。この人が思索のため、京都東山にある小さな川縁をよく歩いたことから、そこは「哲学の道」と呼ばれています。この人が神についてこんな事を語っているんです。神は鏡のようなものではないだろうかということなんです。どういうことかと言いますと、鏡は鏡自身の中に映ったものを成り立たたせています。それは、そのものをまったく歪めず、そのままの状態で取り込むのです。いわばそのままの姿を受け入れているわけです。西田幾太郎は、これが神のあり方ではないだろうかと言うのです。

 「我らは神の中にいる」ということは、今の「鏡」の譬えを参考にするならば、私たちの歪みをも受け入れているということです。私たちをそのままで受け入れているということです。罪あるものを罪あるままで受け入れているということです。

 さらに言うならば、私たちは決して見捨てられていないということです。なぜなら神の中にいるからです。受け入れられているからです。どんなに他の者から見捨てられても、裏切られても、神だけは見捨てない。それが「我らは神の中にいる」という言葉から伝えられている事だと思います。


 そして、この事がイエスの十字架によって明らかになったということが、キリスト教信仰の本質なわけです。なぜなら十字架上のイエスは、誰も裁いていないからです。自分を殺す者さえ赦すからです。ですから、神に、敢えて何かを語りかけるとしたら、それは願いではなく「感謝」ということではないでしょうか。そのままの姿で生かされているからです。だからパウロという人は、頻繁に「いつも感謝していなさい」と記しているのだろうと思うのです。

 罪ある者が罪あるままで受け入れられている。つまり赦されている。したがって、見捨てられていない。このことは誰にでも当てはまることなんだ。お互い様なのだ。ならば、わたしたちが進めていくことは、自分と自分に関係する者だけが利益を得るのではなくて、すべての者が分かち合い、助け合って利益を得て行くということです。このような精神への到達、それが冒頭の環境学者たちがいう精神革命とはこのことではないでしょうか。



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by buku1054 | 2015-07-06 13:34 | 礼拝メッセージ | Comments(0)