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2015年3月29日礼拝説教

2015年3/29礼拝説教「今ここにある奇跡」マルコ10:1~12

 2014年度最後の礼拝となりました。今年度は、マルコによる福音書を継続して読んできました。イエスとはいったいどんな人だったのか。それもできるだけ素顔のイエスを追い求めてみたい。そのことを改めて考えてみたいというのがその動機でした。その際、もっとも最初に書かれたマルコによる福音を選んだのです。というのは、他の福音書に比べて、この福音書のイエスは実在したイエスの素顔に最も近いと思うからです。


 さて、今日から10章に入ります。10章最初の物語は、ファリサイ派との論争物語となっています。小見出しに「離縁について教える」とあるように、離婚が主題となっています。ただ、いきなり離婚の問題が問われるのは、なんだか唐突な思いがしました。しかしその理由が、冒頭の書き出しから読み取れるのです。

 イエスはそこを去ってとあります。「そこ」とはカファルナウムです。イエスと弟子たちのホームグランドといってもいいところです。そのカファルナウムを去って、イエスの一行は、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれたとあります。このさりげなく書かれていることが実は重要だと思いました。

 ヨルダン川の向こう側というのは、ペレアと呼ばれた地域です。ここはガリラヤ同様、ヘロデ・アンティパスが統治していたところです。ヘロデ大王の三人の息子の一人です。しかもここはファリサイ派の勢力がとても強かった地域だったというのです。アンティパスが統治していたこと。それとファリサイ派の勢力が強かったこと。このことから見えてくることがあります。

 ヘロデ・アンティパスによって殺害された有名人がいました。バプテスマのヨハネです。彼がなぜ殺害されたのか、それは、アンティパスの離婚問題でした。アンティパスには政略結婚によって外国から娶った妻がいました。しかしアンティパスは、自分の兄弟フィリッポスの妻に恋をしてしまうのです。ヘロデアです。その経過はわかりませんが、アンティパスはヘロデアを妻に迎えるのです。しかも、政略結婚した妻を強引に離縁するのです。当時は一夫多妻ですから、なにも妻を離縁しなくてもよかったはずです。おそらくそこには単純に割り切れない事情があったのだと思います。

 こうした事情に対してバプテスマのヨハネは、アンティパスを厳しく非難するのです。ただ前にも言いましたが、それは倫理的なことだけではありません。アンティパスの行動によって、離縁された妻の父親が怒り、戦争になったからです。そのことで民衆の多くが犠牲になったのです。ヨハネの非難は政治的でもあったのです。ですから、、ヨハネは逮捕され殺害されたのです。こうした背景もあって、当地に住むファリサイ派たちは、離婚問題を楯にイエスに挑んだのではないでしょうか。

 ファリサイ派は言います。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているのでしょうか」。ここで考えたいことは、夫が妻を離縁するということです。主語は夫です。当時離婚は、一方的に夫の側からなされたのです。妻には離婚を要求する権利はなかったのです。男尊女卑の社会であることの典型的な事実です。

 これに対してイエスはモーセの律法を持ち出します。「モーセはあなたたちになんと命じたのか」と訊ねます。彼らは答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することをゆるしました」。これは申命記の掟です。より詳細には、「人が妻を娶り、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」というのです。

 皆さんはこれを聞いてどう思うでしょうか。特に女性である皆さんは不快感を覚えるのではないでしょうか。ここでも男尊女卑です。離婚する権利は男にあるのです。それも、妻に恥ずべきことがあったらというのです。この恥ずべきこととは、家事がうまくできなかったり、子どもを産めなかったりといったことがありました。


 子孫を残してこそ神の祝福に与れるという当時の常識にあって、子どもができないというのは致命的でした。しかし子どもが授かれないのは女性だけの問題ではない無いわけです。男性側にも問題があります。今ならそういうことも考慮されます。しかしこの時代はそんなことに考えが及びません。いやどうでしょうか。現在でも子どもができないと女性の問題にされることが多いのではないでしょうか。

 しかしそれ以上に問題なのは、子どもを産めない妻、それ以外の恥ずべきことがあったらということです。要するに、夫が気に入らなくなったら離婚できたということです。恥ずべきことはどんどんどん拡大解釈されて、ほんの些細なことでも、夫が気に入らなければ一方的にというか身勝手な離婚の理由になったのです。それが正式に認められたのです。ともかく結婚とは、何もかも男性にとって有利なように定められていたのです。

 ただここでモーセによれば、離縁状を書けば離婚をゆるしたというのは、女性を保護する意味があったということです。夫が離婚する際、離縁状を書けば、その離縁状をもって妻は再婚することができたそうです。そうでないと、どうしょうもない女として以後再婚することは難しかったといいます。ただ実際にどれだけの男がこうしたルールを守ったかというと、おそらくごく僅かだったのではないかと思うのです。

 さて、こうしたやり取りを経て、イエスは自分の考えを述べるのです。「天地創造のはじめから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人は別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 この部分は結婚式のときに新郎新婦に対して聖書からの勧告としてよく読まれるところです。ただしこの言葉は、結婚式を迎えた二人だけに通用する言葉なのでしょうか。わたしはそうは思いません。夫婦になる二人だけに適用するのではなく、すべての人々にも適用された言葉ではないかと思うのです。

 神が結び合わせてくださった。人と人の関係は、出会いは、わたしたちの意思や思惑や感情を超えているのだ。そのことがここでいわれているのではないでしょうか。その一つの例としてお話しします。

 わたしがこの坂下教会に赴任した経緯をお話ししたいと思います。皆さんにははじめてお話しすることかも知れません。ある意味牧師が教会に赴任することは、結婚と同じようなことと言えるでしょう。実際、赴任前に後任の候補者が来て為される説教を「お見合い説教」と呼ばれていることが、そのことを物語っています。

 さて、神学校の最終学年のときは、赴任先のことで不安や恐れや期待など、様々な思いに翻弄されるものです。わたしは原則的には神学校に委ねていました。すると、神学校からあった話は九州は福岡県の教会でした。坂下よりも小さな教会でした。ただそこは幼稚園をはじめ幾つもの施設を持っていたのです。教会よりも施設の運営を主にして欲しいと言われました。教会を主として働きたいと思っていたわたしは、よくよく考えて断りました。

 他にも、恩師の一人から札幌の教会の話がありました。その牧師がわざわざ東京まで来て下さって、夫婦揃って面会までしました。ぜひ、来て欲しいと言われました。でも、迷った末に受け入れなかったのです。仲介の労をして下さった恩師にはすまないと思いました。

 本来こうした教会の人事の話は、素直に受け入れることが基本的な姿勢です。神の働きがそこにあるからという理解だからです。しかし現実には年齢的なことや家族のことなど様々な状況を抱えています。ですから、すんなりとはいかないのです。で、このままだと就職浪人になるかも知れない。そんな不安を抱えていたときです。


 あれは、最終学年の11月のある日のことでした。これから授業に行こうと思って今まさに出掛けようとしたそのときでした。星野先生から電話がありました。赴任先についての話でした。それが坂下教会だったのです。最初、岐阜県の教会だといわれましたが、まったくイメージできませんでした。それまで岐阜県に来たことが一度もなかったからです。飛騨高山は岐阜なのか長野なのか、それすらハッキリしない程度の認識だったのです。

 その後いろいろ聞くと、その年の夏、田中先生が夏期伝道実習生という名目で、農伝のある神学生を後任候補ということで招いたそうです。まさにお見合いです。実はその学生はわたしの友人でした。

 しかし、田中先生は彼を後任にはできないと判断し、母校からの招聘を断念したのです。そこで信頼していた星野牧師に直接頼んだのです。たまたまそこにわたしがいたということです。こういうやり取りを思うと、わたしがここへ来たことは、間違いなく奇跡です。このことをただの偶然と捉えるのか、それともわたしたちを超えた働きがあたと捉えるのかが問題なのです。

 夫婦に限らず、わたしたちの出会い、それは、神が結び合わせたことです。イエスはそう伝えていると思うのです。自分が選んだのではない。相手がそうしようと選択したのではない。あくまでも主語は神なのです。神がそうしたというのです。

 わたしたちの出会いや関係は、たとえそれが自分にとって好ましいことではなくても、わたしたちにはどうすることもできない神秘、奇跡だということではないでしょうか。それが「神が合わせたもう」という意味ではないでしょうか。大切なことは、この奇跡を感謝できるのかということです。もちろん出会いや関係には、受け入れがたいこともあります。こんな人と出会わなければよかったと思うこともしばしばあるでしょう。


 しかし、いろいろ問題があったとしても、悪い関係は悪いなりに何らかの示しがあるはずです。そのことを受け入れるか否かで、その人のその後の歩みが変わっていくと思うのです。わたしたちのそれぞれの出会いと関係に、自分の思いを超えた大いなる働きを覚えるか否か。それをイエスは、わたしたちに問うのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2015-03-29 18:18 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月22日礼拝説教

2015年3/22礼拝説教「赦しに逃げる罪」マルコ9:42~50

 今日は、マルコによる福音書9章の最後の物語をご一緒に考えたいと思います。実は今日の箇所はわたしにとって懐かしい箇所です。それは神学生時代に遡ります。神学校では聖書釈義という授業があります。釈義というのは、それぞれの聖書箇所について、言葉の使われ方や、文脈や、時代背景や、教義など、様々な視点を駆使して、記者の意図を読み解くということです。要するに聖書を解釈することです。説教を作る上での前段階と言えます。牧師は説教を作る際、必ずこの作業を行います。

 神学生の2年生とき、釈義の授業でこの箇所がわたしの担当となりました。未熟なわたしにとって、この箇所はあまりにも難しいところでした。一応はレポートしましたが、しどろもどろだったことを思い出します。あれから20数年が経ちました。あのときのような未熟さはないと思いますが、やはりここは難しい箇所だと思いました。もちろん今でも十分な解釈はできてはいないと思います。でも、 今のわたしならこう読むということで皆さんと分かち合いたいと思います。

 さて、キリスト教は一般的に赦しの宗教だといわれます。ではいったい何を赦すのでしょうか。罪を赦すということです。では、罪とは何でしょうか。それはいわゆる犯罪ではなくて、神に反逆したというのがキリスト教の基本的な理解です。では、神に反逆するとはどういうことなのでしょうか。神を信じないことです。

 でも、それは大きな罪なのでしょうか?世の中、神を信じない人は沢山います。特に現代の日本はそうです。戦後の科学万能主義が影響しています。公の教育でも宗教を一切排除していまから、それも影響しています。政教分離という意味では良いとは思いますが。日本人の宗教的センスはかなり後退したと思います。

 では、神を信じない人たちはすべて不幸な人生を歩むのでしょうか。そんなことはありません。神を信じる信者にならないから、不幸が襲ってくるわけではありません。神を信じなくても良い人生を全うする人はたくさんいます。それに対して、いや、神を信じないと、死んだ後に天国へ行けないのだ。だから神を信じなくてはならないという反論があるでしょう。

 でもその場合、キリスト教の神を信じないということです。しかし、他の宗教もそれぞれに信じる神がいます。これについて正統的なキリスト教では、他宗教の神は神ではない、偶像だというかも知れません。しかし、それは少し傲慢ではないでしょうか。

 そもそもキリスト教でいう罪とは、ハマルティアといいます。この意味は「的外れ」ということです。ですから、的外れとはどういうことなのか、つまり人生において的外れな生き方、的外れな考え方とはどういうことなのか。それを考えなくてはならないと思います。単純に神を信じないことが罪なんだと言い切ってしまうと、その内実もわからないのに、言葉通りに受け入れてしまうのです。これが洗脳なんです。思考を停止をさせるのです。

 そもそも神とは何でしょうか、もちろん、神とはこうだと断定することは不可能です。その意味で、神とはこうだとするのはあくまでも仮説にしか過ぎません。ですから以下述べることも仮説です。

 わたしは、神とはわたしたちを生かす大前提というか、根源というか、根拠というか、土台だと思います。生きとし生けるものは、その大前提があればこそ、生きていけるということです。パウロも使徒言行録17章の中で同様のことを述べています。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。生きていけるのは、神の中に在るからだとパウロはいうのです。


 では、生きとし生けるものが生きられる大前提の中身とはどういうことでしょうか。それは関係性です。己の力だけでは生きられない。他の存在があればこそ生きることができるということです。これは仏教の教えと同じです。これは紛れもない事実です。思想とか信仰を超えた事実です。

 したがって、自分の力だけでは生きることができないという意味で、キリスト教も仏教も本質的には同じことを伝えていると思います。生きているということは、他の存在があればということです。それがキリスト教では、神によって生かされていると表現されるのです。

 自然の世界はそれを受け入れています。動植物をはじめ、大地も、海も、川も、山も、他の存在があればこそ、今そこにおいて成り立つのです。これに反論する方もいるでしょう。他の存在が無くたってあるものはあるのだと。

 でもどうでしょうか。わたしたちが日常見ている恵那山。恵那山は未来永劫盤石でしょうか。永遠にそこにあるのでしょうか。恵那山は地盤が脆い山だそうです。今でも神坂峠付近は徐々に崩れてきています。大きな地殻変動があれば恵那山の様相は大きく変わる可能性があります。つまり、盤石だと思われているあの恵那山でさえ、その時々の状況、つまり他との関わりによって変わるのです。絶対ではないのです。

 しかし、わたしたち現代人は、この事実にあまりにも鈍感です。他の存在によって生かされて生きていることに思いがゆかない。自分の能力や努力があればそれで道は開けると思い込んでいます。ゆえに感謝が足りない。それこそが的外れな生き方であり、罪ではないでしょうか。

 わたしを信じるこれら小さな者を躓かせるのは地獄行きだとイエスは説きます。かなり厳しい言葉です。これほど厳しい言葉をあえて記すのは、イエスのほんとうの思いがここに示されていると思います。小さな者とは、文脈からして36節に登場するこどもを指します。親を失い、あるいは親から捨てられて、行き場のない、生き延びる保証もない、もっとも弱い者です。


 今の世の中も、子どもが犠牲になっている事件があまりにも多い。川崎市の上村君、イスラム国などによって自爆テロを強要されている子供たち、洗脳されて武器を取るアフリカの子供たち。このような痛ましい現実がある中で、それでもキリスト教は、信じるものにとって赦しの宗教だといわれます。ほんとうにこれでいいのでしょうか。

 小さな者を迫害する者は赦されない。イエスはそう断言しています。したがって、迫害する者はもちろんのこと、そういう蛮行に追従する者は然り、そうでなくても、見て見ぬふりをする者ならば、あるいは自分一人が反省しても何も変わらないと傍観者を決め込む者のなら、それらは赦されないと述べるのではないでしょうか。

 今日の説教題を「赦しに逃げる罪」としました。罪の赦しというのは、神がイエスの十字架の苦難と死を通して行ったことといいます。たしかに教義としては大切なことです。しかし、キリスト教の教義を思考停止した状態で鵜呑みにして、そこに逃げ込んではならないと思うのです。ナチスドイツによるホロコースト、ユダヤ人の大量虐殺。それを支持した当時のドイツの教会。あるいは広島・長崎に原爆投下したアメリカ。これが20世紀以降、キリスト教が信用されなくなったもっとも大きな原因だといわれています。そこには、罪が赦されるのだから何をしても仕方がないという思いがあります。

 ドイツではこのことで多くの信者が教会から離れたといいます。ドイツの教会は観光遺産となっているようです。さらにいうと、ドイツでは仏教の禅宗が支持されて、座禅道場が盛んだといいます。教会から離れた信者が、そこに流れているというのです。一方アメリカの教会の場合、社会派、良心派と呼ばれる教会以外の多くはあまり反省がありません。それは、罪赦されるという教義があるからです。信者だから罪赦された。だから広島長崎の原爆投下も赦されるのだ。そう言い切れるのでしょうか。

 それでも赦されるとしてきたのが、アメリカの原理主義的キリスト者です。いわゆる敬虔なキリスト者です。熱心に教会生活を行っている人たちです。彼らの中には、核戦争が起きても良いと思っている人もいます。なぜなら、自分たちは信者だから天国へ行けるのだからということです。

 だから、レーガン政権当時、核軍拡に賛同したのです。そのためにアメリカは、軍備に予算をつぎ込むあまり、財政が破綻し、国民の格差が大きくなったのです。その反省がないままで、国力を強くするために弱肉強食のグローバル経済を推し進め、アメリカ国内はもとより、世界の格差を招いたのです。それがイスラム国を生み出したのです。

 どんなに酷いことも赦されるのだ。ただしその条件として信者になれば。だから伝道しなくてはならない。赦しの傘の下に逃げ込む人を増やす。それが伝道であるというのなら、わたしは違和感を覚えます。わたしは、クリスチャンであることとは、イエスに従う者であることと思います。それは、いと小さき者、弱くされてしまった者に優しい眼差しを向ける者といえるのではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-03-22 18:31 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

小林一茶

小林一茶は、松尾芭蕉、与謝蕪村と並び江戸時代の三大俳人と称せられる。

北信濃の農民の長男。3歳で生母と死に別れた。その後、継母に虐げられ、

見るに見かねた父親が15歳のとき江戸に奉公に出した。

しかしどこでもうまくいかない。転々とした。

20歳の時俳諧に出会う。

才能を認められるが、流浪の俳人に過ぎず生活は安定しない。

遺産配分で、義母兄弟と骨肉の争いを経て、故郷、北信濃の柏原村に戻る。

52歳で初婚。4人の子どもをもうけるが、すべて死す。

妻も37歳で没す。

再婚もうまくいかず、30歳も年下の女性と再々婚。

再度の脳梗塞にもかかわらず、俳諧を生きる。

最後の幸福も、家が焼け、土蔵暮らし。

三度目の脳梗塞の発作にて永眠。

翌年、彼の一粒種、女の子が生まれる。

私生活では恵まれなかった一茶。

それゆえに彼の俳句には、小さな者への愛情がある。

「我と来て、遊べや、親のない雀」





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by buku1054 | 2015-03-18 18:22 | その他 | Comments(0)

2015年3月8 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年3/8礼拝説教「違いを受け入れてこそ」マルコ9:38~41

 今日は最初に、この俳句から始めます。「やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり」。おそらく皆さんもどこかでこの句を目にしたり、聞いたことがあると思います。小林一茶の代表的な作品です。先日新聞を読んでいたら、小林一茶のことが書かれていていまして興味を持ちました。小林一茶は、松尾芭蕉、与謝蕪村と共に江戸時代の三大俳人の一人と呼ばれている人です。

 何でも一茶は、私生活では恵まれず、大変苦労が多かったようです。でも、かえってそのことが、彼が作った俳句に生かされていたようです。それは、生きとし生けるもの、それも人間だけではなく、犬や猫、蛙、蚤や虱にいたるまで、特にいと小さき者への愛おしさと、権力への批判的な考えが作品に反映されていたということです。一茶は、すべてのものは尊いという差別なき大前提に立っていたのです。一茶は北信濃の人でした。わりと近いですので機会があれば一茶ゆかりの地を訪ねてみたいと思いました。


 さて今日は、マルコによる福音書9章の四つ目の話をご一緒に学んでみようと思います。弟子の側近の一人であるヨハネが言います。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」とあります。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。イエスの名を使って悪霊を追い出すということは、イエスを利用して、苦しむ人々の救済の業を行っていたということです。悪霊を追い出しているというのですから、実際に救済の効果があったということです。決して悪いことではありません。しかし弟子たちは、これを見てやめさせようとしたとあるのです。


 なぜでしょうか?それは、自分たちに従わないからだというのです。この部分が少しわからないところです。従わせるとはどういうことでしょうか。自分たちの仲間になれということでしょうか。これはあくまでも憶測ですが、その人たちは救済の業によって金銭的な利益を得ていたのではないかと思うのです。イエスは無報酬で救済の業を行っていました。もしもその人たちが、憶測のように救済活動によって利益を得ていたのならば、弟子たちにすれば、「それは違うだろ!本末転倒だろ!」。そういいたくなるはずです。弟子たちの思いはよくわかります。


 さて、話は変わります。宗教という言葉の意味ですが、宗教の「宗」というのは、根源的なことということです。つまり根源的なことを教えること。それが宗教の意味です。しかしよく考えると、これは矛盾していると思います。根源的なこととは、真理というか、いうなれば神のことです。神のことはわたしたちにはわからないはずです。よって、その教えを伝えることはできないというのが正しい答えです。宗教という言葉は、そもそも矛盾しているのです。

 一方英語では、宗教をレリジョンといいます。これはレリゴーというラテン語、「再び合わせる」という意味から派生した言葉です。では、何と何を再び合わせるのか。それは、神と人を再び合わせるということです。神と人との関係を正しくするということです。キリスト教的な意味での言葉です。いかにも西洋的な概念です。

 基本的にキリスト教では、創世記にあるように、そもそも人間は、神に反抗したから、そのままだと地獄行きになってしまう。しかし、それを解決するために、救いのために定められた教義を信じることを奨励されるわけです。その内容は、十字架と復活を信じることです。具体的には、その教えを信じて信者になるということです。でもそれはキリスト教に限定されます。キリスト教以外では救われないということになります。排他的、独善的になる恐れがあるわけです。

 かつてカトリック教会は、2000年間「キリスト教以外に救いはない」というスタンスでした。しかし、1960年代に行われた第二バチカン公会議からカトリック教会はこうした独善を改めました。他の宗教を尊重するようになりました。むしろ今はプロテスタント教会が、キリスト教以外には救われないとするスタンスをとるところが多いです。

 しかし世界にはあまた宗教があるのが現実です。それぞれに教えが違います。にもかかわらず、それぞれが自分こそが絶対に正しいと主張したら、他の宗教はすべて間違いとなります。あるいはすべて偽物となります。しかし、どれが正しくてどれが間違っているといった判定はわたしたちにはできません。もしも「それができる」といったら、それは自らを神の位置に置くことであり、それこそ傲慢な態度です。

 しかしある意味、違いを利用したのがこれまでの世界ではないでしょうか。今世界を揺るがしているイスラム国による蛮行も、宗教の問題だと認識する者も多いと思います。でも、根本的な問題は格差や差別です。しかし、それが情報操作というか、問題を宗教にすり替えようとする権力者の思惑というか、宗教が利用されているように思うのです。だから多くの人は、宗教こそが問題だ、宗教って恐いよねと宗教を嫌悪するのではないでしょうか。特に日本ではその傾向が強いと思います。

 わたしは思うのですが、そもそも宗教の目的とは、根源的なことを伝えたいとすることです。根源的とはわたしたちでいう「神」です。ただ一口に「神」といっては、伝えきれないように思っています。わたしはその意味で今の人たちにも理解できるように宗教用語を翻訳するべきだと思っています。わたしが尊敬する藤木正三牧師は、そのことを実践した方です。わたしは、根源的なこと、すなわち神のことを、「ほんとうに大切なこと」と捉えたらどうかと提案したいのです。


 人類は、ほんとうに大切なことを守ってこれなかった。それが人類史の問題だと思うのです。だからこれを守るために仏教であれキリスト教であれ宗教と呼ばれる「教え」が生まれたと思うのです。その先駆者が仏陀でありキリストだと思うのです。そう考えれば、すべてではありませんが、他宗教でも根本は同じではないだろうか。少なくとも伝統宗教といわれるものは、本質において同じではないかと思います。

 では、ほんとうに大切なこととは何でしょうか。ほんとうに大切なこととは、すべての者が、それは人間に限ったことではありません。動植物も含めたすべてのものが尊いということではないでしょうか。

 旧約聖書創世記の冒頭、天地創造物語の言葉を思い出して欲しいのです。天地創造の働きを終えた神が、被造物をご覧になって言うのです。すべては甚だ良かったとあるのです。神という根源からすれば、すべてはよい。つまりすべては尊いのだということです。小林一茶の悟りと同じなんです。わたしたちは往往にして偏見を持っています。キリスト教が示すことは正しいけれど、他の宗教や他の思想が示すことは間違いだと思ってしまうことが多い。

 わたしはこれまで、他の宗教を非難する牧師たちの言動を、何度も聞いたり、目にしてきました。わたしは無礼だと思いました。そもそもある宗教を理解するならば、その宗教の信徒となって、その道を生きなければ、ほんとうにその宗教を理解することにはならないと思うのです。けれどもその宗教の道を真剣に生きたことがないのに、つまり詳しく知りもしないくせに、ちょっと何かを読んだだけの浅い知識にしか過ぎないのに、さもすべてわかったかのように非難する人がとても多い。こういう態度はとても無礼ではないでしょうか。そして見苦しいです。あまりにも幼稚です。こういう態度はほんと自戒しなければならないと思います。


 さて、本文に戻ります。今日の箇所は、逆らわない者は味方だとイエスは説くのです。これは要するに、苦しむ人々を救う働きをしているなら、必ずしもわたしたちとその立場や方法や動機が同じでなくても良いのだということではないでしょうか。

 イエスにとってほんとうに大切なことは、いのちは平等であり、そのどれもが尊いのだということです。誰もが与えられたいのちを生き抜ぬいて全うするということです。しかしそのためには、それを支える社会の基盤が公平であり、整っていなくてはなりません。それがイエスの思想、信仰の大前提だと思うのです。で、そのような社会の実現のために働くならば、キリスト教でなくてもいいはずだ。宗教でなくても良いはずです。たとえ利益を得ても良いはずだということではないでしょうか。

 先月、普天間基地を辺野古に移転することに反対する活動で、沖縄平和活動センターの山城博治さんという方が不当に逮捕されました。結果、直ぐ釈放されました。権力側に正当性がなかったからです。彼は、昨年岐阜地区の沖縄の旅で出会った方です。自らの私生活をなげうって沖縄の平和のためにいのちを削っている方です。彼はクリスチャンではありません。でも、アメリカ政府や日本政府の理不尽さに命懸けで闘っている人です。わたしは彼こそイエスの弟子だと思っています。

 イエスは最後に言います。「あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。つまり、人生の歩みにおいて渇いている者、それは、苦しみや悲しみに置き去りにされた者ということではないでしょか。そういう者たちに、手を差し伸べる者なら、それは、だいそれたことをしなくてはならないということではない。たとえ小さな業であっても、そういう者たちに共感し、少しでも助けになろうとするならば、立場や身分や属するところが異なったとしても、神は喜ぶのだということではないでしょうか。


 人類の歴史を全体的に考えるとき、昔も、そして今も、世界は利益を公平に分配することをせず、それぞれが自分たちの利益だけを求めて争っていることがわかります。このことこそが最大の罪であり、わたしたちでいうなら、神への反逆ではないでしょうか。

 これに終止符を打てるのは宗教だと思います。ですから、宗教者がその違いを超えて協力し、それぞれの信徒に働きかけて欲しいと思うのです。もしそれがほんとうに実行されるなら、そして、それぞれの信者もそれを受け入れるなら、時間は掛かるかも知れませんが、世界の争いは解決に向かうのかも知れないと思うのです。他宗教にも宗教ではない思想にも尊敬の念を持ちたい。偏見という罪をわたしたちから取り除いて欲しい。そう祈りたいのです。


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by buku1054 | 2015-03-08 12:50 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月1 日坂下教会礼拝メッセージ

3月1日礼拝説教「心はどこにあるのか」マルコ9:30~37

 今日もマルコによる福音書に聴いて行きたいと思います。今日の説教題を「心はどこにあるのか」としました。わたしたちの心がどこに立つのかによってわたしたち自身が違ってくるということと、さらにいえば世の中が違ってくるのではないだろうかということ。今日の箇所を読んで、まずはそう思いました。

 藤木正三牧師がこんな言葉を述べていました。「これでよいのだろうかという問いを、自分に限りなく問うてゆく働き、それを心といいます」。言い得て妙だと思います。ある事柄に相対したとき、単に自分はそう思うというのは、その人の感想や意見です。また、どう感じるかは感情でしょう。それに対して心とは、藤木先生が言うように、ある事柄に相対したとき、自分はそれについてどう向き合っているのか、あるいはそのことの本質に気がついているのだろうか、何か見落としていないだろうか、それを問う働きが「心」だと思います。

 さて、今日は9章の三つ目の話を考えたいと思います。前の段落で、穢れた霊に取り憑かれた子どもを癒やしたイエスの一行は、ガリラヤの旅を続けます。イエスは人々に気づかれるのを好まなかったとあります。おそらくそれは、受難予告をしたからではないでしょうか。受難予告を聞いていたのは弟子たちだけではありません。民衆も聞いていたでしょう。密かに監視する当局も聞いていたかも知れません。

 イエスは自分の運命を覚悟していたものの、イエスも一人の人間です。常にユダヤ当局から付け狙われていたこともわかっていたはずです。したがって、正直いって恐かったと思うのです。ですから救済の業を行わなくてはと思いつつ、一方でなるたけ目立たず、波風を立てて当局を刺激したくないという思いもあったのではないでしょうか。イエスはわたしたちと同じく弱さを抱えていた方だったのです。


 一行はカファルナウムに着きました。家に着いたとあります。どこの家かは記されていません。でも、1章の記事に、やはりカファルナウムでペテロの家に入ったとありますから、ここでもおそらくペテロの家だったと思います。ここにはペテロの姑もいましたし、ペテロには妻もいましたから、何かとかいがいしく世話をしてもらったと思います。その意味でここは、彼らが落ち着ける数少ない場所だったのではないでしょうか。イエスの緊張感というか、これから起こるであろう困難にあって少しでも安息のときを持ちたかった。そのように思うのです。

 イエスは弟子たちに訊ねます。おそらく落ち着いたところで道々気になったことを訊ねたのでしょう。途中、あなたがたはいったい何を議論していたのかというのです。議論の内容は、自分たちの中で誰が一番偉いのかということであったのでした。ここでも、イエスと弟子たちとの思いというか考え方というか理想というか、目的というか、ズレていたことがわかります。これからどんな大きな苦難が待っているかも知れないと恐れるイエスがいます。おそらくイエスは、弟子たちにも覚悟を持っていて欲しいと思ったはずです。

 しかし彼らの思いは、イエスとは大きくずれているのです。彼らは、自分たちがこれから栄光を得ると思っているのです。イエスについて行けば栄光を得られ、そこで誰がイエスの側近になれるのか、誰がより良い思いができるのか、そういうことに思いが行っていたのではないでしょうか。つまり、自分たちが今おかれている状況を見極められないのです。


 話は変わりますが、今、日本の教会は、これまで以上に宣教の危機を迎えていると思います。その危機とは、信徒の高齢化と新たな信者獲得の困難という現実にあって、教会が衰退し、果たして今後教会が存続していけるかどうかということに終始しているように思います。


 もっともこの問題は、日本の教会だけではありません。先日こんなニュースを知りました。それは、イギリスの国教会でも教会の高齢化と新たな信者獲得の困難が著しくて、このままではイギリスの農村部の教会は、10年後にはかなりの教会が消滅する可能性があるということでした。ドイツをはじめヨーロッパもそうですが、キリスト教の本場である先進諸国の教会は、どこでも衰退しているのです。今やキリスト教は決して世界宗教とは言えなくなりつつあるのです。

 ともかく日本の教会は衰退傾向にあって、全般的に伝道を声高に叫んでいます。それもできるだけ若い世代の信徒を獲得して将来の安心を確保したいのです。もちろんその気持ちはてもよくわかります。農村に立つわたしたちにとって、そんな思いというか願いは、今はじまったことではありません。ずっとそのことで悩んできたのです。

 しかしもしかすると、教会のほんとうの危機は、今の社会がどんどん悪くなる中で、それに抗うことを第一とせず、また、小さくされた者たちに寄り添えず、自己の安定を望むということ、その姿勢こそがほんとうの教会の危機ではないでしょうか。

 イエスは不条理な世の中に否を掲げ、その改善のために奔走した人です。そんなイエスを思うならば、自分の安心や安定を望むだけでは、むしろイエスから遠のいていくことになるのではないか。それこそ教会の危機ではないでしょうか。イエスは言うのです。先になりたかったら、一番後になって、人に仕えなさい。最も低くなれというのです。自分のことより弱い者たちのためになるのなら、たとえ損をしてもそれで満足せよというのです。

 そして一人の子どもを抱き上げて、このような子どもを受け入れる者こそ神を受け入れるといいます。神を受け入れるとは、神を信じることであり、神に従うことということです。わたしは思うのですが、ここで唐突に子どもが登場する。ここがこの箇所のポイントではないでしょうか。なぜここで、にわかに子どもが登場するのでしょうか。

 当時のパレスチナには、孤児がたくさんいたといわれています。戦禍や過酷な生活環境などで両親を失った者、生活苦のために捨てられた者、そういう子どもたちが、そこら中にたくさんいたといいます。おそらくここで取り上げられた子どもは、道々イエスの一行についてきた者だったはずです。いつ行き倒れになるかわからない危機的状況にあった子どもたちです。

 いつの時代も子どもというのは無邪気です。彼ら孤児たちは、イエスの一行に興味を覚え、というか、この人たちについていくと何かいい事があるのではないか、そんな思いでついてきたのでしょう。しかし、弟子たちはその存在に気がつきもせず、自分たちのことしか考えていなかったのです。少し周囲を見渡せば、孤児たちが一緒にいる。そのことに気がつくはずです。気がついていたとしても眼中にない。たぶんイエスはそのことを嘆いたに違いないのです。


 今、世界はイスラム国との関係で頭を抱えています。イスラム国だけではありません。世界各地で過激派がテロを繰り返しています。でもそれを解決するたために、先進諸国は、とりわけアメリカ主導の有志連合国は、テロとは断固闘う。テロに屈するなと声高に叫んでいます。イスラム国や過激派たちを滅ぼせばそれで解決すると思っています。でも、その闘いで犠牲になるのは、もっとも弱い立場におかれた子どもたちです。そのことに思いを馳せる人がどれだけいるのでしょうか。

 ほんとうにこの問題を解決するには、アメリカが推進しているグローバル経済、すなわち弱肉強食の経済体制によってもたらされた著しい格差。それろヨーロッパ諸国の植民地時代から連綿として続いている根深い差別を悔い改めなくてはならない。わたしはそう思います。

 しかしいつの時代もそうでしょうが、持つ者は持たざる者のために富を使おうとしない。ましてアメリカはアメリカンドリームが好きなお国柄です。努力した者が成功し富を得るのは当たり前。得られないのはその人の努力が足りないからだという考え方に固執しています。


 しかしことはそう単純ではないわけです。そもそも、格差や差別は個人が努力すればいいという前提を奪っていると思います。ヨーロッパにはたくさんの移民がいます。その多くはイスラム圏の人々です。自由・平等・博愛を掲げるフランスでも、彼らは不条理な扱いを受けています。たとえ能力があり大学まで卒業しても、イスラムというだけで就職差別を受けるのです。そういう人たちがイスラム国へと流れているのです。でも、そのことが先進諸国の特に社会をリードする富裕層にはわかっていないのではないでしょうか。恵まれている人々には弱い者の思いなどわからないのが現実なのです。

 殺害された後藤健二さんは、まさにそのことを世界に訴えるために活動していたのです。あえて危険を冒してシリアに行ったのです。ある有名タレントは、そんな後藤さんに対して、こんなに国に迷惑を掛けているのだから、いっそ自決すれば良かったと述べていました。世界で物議を醸している発言です。自分は安全なところにいて後藤さんの働きを少しも理解せずなんと酷いことを言うのかと怒りを覚えました。でも、ひょっとすると、今の多くの日本人は、この有名タレントの発言を肯定しているのかも知れません。

 弟子たちの心は、自分たちのところに集まってきた孤児たちに向いていなかったのです。それよりも、自分たちが得をしたり優位になることばかりを考えていたのです。でも、弟子たちを批判できません。これが、今に生きるわたしたちにとっても現実なのかも知れません。

 いかに小さな者、弱い者が犠牲になっているのか。そのことを見極めること、それが後藤さんの心を大切にすることであり、イエスに従う者の心ではないでしょうか。日本の教会、世界の教会は、この先どこへ向かうのでしょうか。イエスに従う者として歩むのでしょうか。それともイエスを看板にしただけの自己満足の存在なのでしょうか。それをこそ今、わたしたちの心に問われている。そう考えなくてはならないのではないでしょうか。わたしたちの心はどこにあるのでしょうか。


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by buku1054 | 2015-03-01 17:07 | 礼拝メッセージ | Comments(1)