<   2015年 02月 ( 8 )   > この月の画像一覧

龍馬

幕末の志士、坂本龍馬のファンである。

NHKの大河ドラマからだからファン暦は浅い。

でも、20冊以上の彼に関する本を読んだ。今も読んでいる。高知へも行った。

高知以外にも、折にをみてゆかりの地を訪ねている。

魅力的な人だ。

どこが魅力なのか。

自由、束縛を嫌う、枠に拘らない、柔軟さ、行動力、思いやりの人、意外にあくどい面も持つ、リアリスト、明るいなどなど。

クリスチャンはこの逆の人が多いような気がする。

キリスト教に批判的な立ち位置にあるわたしにとって、龍馬は魅力的なのだ。

[PR]
by buku1054 | 2015-02-24 17:57 | その他 | Comments(0)

2015年2月22 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/22礼拝説教「祈りによらなければ」マルコ9;14~29

 兼務する付知教会では、基本的に第四主日の礼拝後に祈祷会を行っています。大概は4~5名、時折2~3名になる小さな祈りの群れです。はじめるにあたり、その都度、祈れない人は無理に祈らなくていいいのですよという前提で行っています。

というのは、祈祷会というと、参加した全員が祈らなくてはならないといった、ある意味強迫観念に囚われるので、祈れる人は祈り、祈れない人は祈らなくて良いという自由さを大切にしています。祈祷会に参加することが重荷にならないためです。もちろんこんな緩いことをしたら信徒教育にならないという意見もあるでしょう。でも、そうすると意外にもほぼみんな祈るのです。

 この祈祷会、そもそも脳梗塞で倒れて教会活動に参加できない曽我よしゑ姉の発案でした。それを受けてはじまったものです。もう4年目になるでしょうか。でも時折、虚しさを覚えるときもあります。というのは教会が置かれた状況が一向に変わらないからです。でも続けています。なぜなら、やらないと気持ちが悪いというか、なんだか続けないと自分たちが駄目になってしまうのではないだろうか。そんな気持ちがするからなのです。


 さて、今日はマルコによる福音書9章の二つ目の物語についてご一緒に考えたいと思います。小見出しに「汚れた霊に取り憑かれた子を癒やす」とあります。いわゆる癒しの奇跡物語に分類される物語です。しかし今日の箇所には次の言葉があります。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。この言葉から、ここは癒しの奇跡だけを伝えようとした箇所ではないと思ったのです。キーワードは「祈り」です。キリスト教に限らず、すべての宗教にとって必須のことである「祈り」がテーマだと思います。

 さて、わたしは今日の箇所を読んだとき、真っ先に浮かんだのは、作家の大江健三郎さんの言葉でした。大江さんは以前こんなことを述べていました。「戦後、世界は何度も核戦争の危機を迎えた。しかし、それにはいたらなかった。ある意味それは奇跡だと思う。なぜ奇跡が起きたのか。それは、核戦争を回避するために世界中の多くの人々が祈りを捧げ、それが聞かれたとした思えない」ということでした。

 祈りは聞かれる。わたしたちはそれを信じるから祈るわけです。しかしどうでしょうか。大江健三郎さんのいう核戦争回避の祈りに反して、戦後もし核爆弾がどこかで炸裂していたら、祈りなど価値がないとして祈る者がいなくなったでしょうか。もちろん祈りをしなくなる者もいるでしょう。しかし、それでも祈り続ける者はなくならないと思うのです。

 今日の箇所は、イエスと側近である三人の弟子たちが山を降ったところで遭遇した出来事です。どんなことだったかざっと振り返ってみます。

 イエスと三人の弟子たちが山を降りると、山に行かなかった弟子たちが群衆に囲まれ、律法学者たちと議論をしていたのです。何を議論していたかというと、群衆の中の一人が幼い頃から霊に取り憑かれ、時折「てんかん」のような発作を繰り返す息子の癒しを弟子たちに頼みました。しかし、弟子たちは癒せなかったのです。

 おそらくイエスたちを監視していた律法学者たちが、その行為に対して非難し、周囲に居た群衆も弟子たちが癒せなかったことに対してああだこうだと騒いでいたという状況だったのです。この状況に対してイエスは弟子たちの不甲斐なさを嘆き、その息子を癒やします。すると弟子たちはいうのです。なぜ自分たちは癒やせなかったのでしょうかと。これにイエスは言うのです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」。


 イエスによる癒やし物語りは福音書にたくさんあります。大筋ではそれほど大きな違いがあるわけではありません。しかし、よく読むと必ず他と違った何らかの事柄があることに気がつかされます。今日の箇所で特徴的なことは、今いったようにイエスの最後の言葉だと思います。この種のものは、祈りによらなければ解決しないということです。

 今日の説教題にもしましたが、祈りによらなければとは、どういうことなのでしょか。イエスはこれまでにまで多くの癒しを行ってきました。弟子たちも独自の宣教の旅の中で癒しを行ってきました。ならば、そこでは祈りがなくても癒せたということなのでしょうか。

 しかし今回、弟子たちは癒せなかったのです。それは祈りがないからだということになるわけです。癒やしにおいて、祈りが必要な病とそうでない病があるのでしょうか。その分類については記されていませんからわかりません。この箇所はいったい何を伝えようとしているのでしょうか。

 そもそも祈るとは何でしょうか。基本的に祈るとは「願う」ことです。自分の願いを叶えて欲しい。それが多くの人が考える祈りだと思います。その動機にはお金が欲しいといった身勝手なこともありますが、病気が治って欲しいといった切実なこともあります。

 あえて定義するなら、祈りとは、自分の能力や努力ではどうにもならない事態に相対したとき、この世を超えた存在というか、何かに、わたしたちでいう神に委ねるということです。委ねるとは、どういうことかというと、それは、これから起こる一切の事態をすべてをお任せするということです。その結果がどうなろうと、それでも受け入れるということです。果たしてそこまで信頼できるのか。それが祈る上で問われていることではないでしょうか。おそらくわたしたちは、祈ったからには、願いが叶って欲しいと思っているはずです。でも、そうした願いを持つことは、ひょっとすると、祈りの根本から外れているのかも知れません。


 イスラム国によって殺害された後藤健二さん。おそらく世界中の多くの方々が宗派や教派を超えて彼の無事を祈ったはずです。しかし、結果として後藤さんは、無残にも殺害されました。すべての祈りは聞き入れられなかったのです。わたしは、残念だがそんなもんだろうと思いました。祈ったからといって、現実を動かすことはできないと思っていました。

 しかしその後、彼が殺害された後、東京のあるイスラム教のモスクでそこに属するイスラム教徒が祈ったという記事を読みました。彼らは後藤さんが生きて帰ってくることを祈ったはずです。しかし結果は最悪の事態になったのです。その意味で祈りは叶えられなかったのです。しかし、それでも彼らはさらに祈るのです。なぜそれでも彼らは祈ったのでしょうか。それは、後藤さんの遺族の慰めと、こんなことが二度とあってはならないという願いと、神がそれでもわたしたちにこのことの意味を伝えることを願ったと思うのです。そう信じているのです。わたしは、そのイスラム教徒の信仰のすごさを思いました。そこまでいかなければ、それは信仰ではないのかも知れない。そう思いました。

 わたしたちはどうだったでしょうか。わたしはどうだったでしょうか。この結果を受けて祈ったでしょうか。たぶん多くは、諦めとやるせない思いのまえに打ちひしがれてそれで終わったのではないでしょうか。わたしも祈れませんでした。

 しかし東京のそのイスラム教徒は、絶望の内にありながらも、神からの意味を願い、後藤さんの家族の慰めのために祈ったのです。どんな悲惨な結果を受けても祈り続けたのです。それが祈りの精神ではないでしょうか。あきらめつつも委ねる。それが信仰ではないででしょうか。そこに踏みとどまれるのか。それとも単にあきらめるのか。そこに信仰者であるかないかがかかっているのです。


 わたしたちは、あまりにも事態が悪いとき、その先に希望を抱けないとき、あきらめます。何をしても無駄だと思います。しかし、それでもなお祈るというのは、神への信頼があるからだと思うのです。というか神への信頼を捨てたくないからです。いや、ひょっとすると無意識のレベルで神に抱かれていることを知っているからではないでしょうか。

 信仰者とは、あきらめない者をいうのでしょう。繰り返し繰り返し最悪の事態が襲ってきても、それでも踏みとどまる者だと思います。この2000年間、教会は祈り続けてきました。イスラエル民族の宗教の時代からすれば約4000年祈りが続いてきているのです。なぜそれができるのでしょうか。普通はできないです。それでも踏みとどまろうとするその理由とは何でしょうか、それは、わたしたちをそうさせている方がいるからではないでしょうか。

 昔ドイツに、トゥルナイゼンという牧師がいました。彼はこんな言葉を残しています。「皆様が神についてどんなふうに考えるのかわたしは存じません。けれども、そういうことをわたしはあえて存じ上げなくてもよいのです。なぜなら、わたしたちが神についてどんなふうに考えるのかが大切なのではなく、神御自身がわたしたちをどんなふうに考えているのかが大切なのです。神についてのわたしたち人間の思いがわたしたちを支えるのではなくて、神がわたしたち人間のことを考えていて下さるという、そのことこそがわたしたちを支えるのです」。わたしたちの信仰も、わたしたちの祈りも、わたしたちの生きるすべても、わたしたちの己の力によって支えているのではない。わたしたちではなく、神が支えている。それがトゥルナイゼンの悟りです。

 イエスが弟子たちに、この種のものは祈りによらなければなし得ないのだといったのは、あなたがたは本気で神に委ねたのか。どんな結果になろうとも神にお任せしたのか。そこまで神を信じたのか。そのような意味で問われたのではないでしょうか。


 わたしたちはこれからも様々な事態に遭遇するでしょう。個人的なことに限りません。日本も世界も様々な事態に遭遇するでしょう。ときに絶望的な思いになることもあるでしょう。

 しかし、それでもわたしたちは祈りを捨てることはできないはずです。なぜならそれは、神がわたしたちにそうさせているからではないでしょうか。どんなに絶望的な状況にあっても、それでも神がわたしたちに寄り添っている。それが祈りが示していることではないでしょうか。

 祈りによらなければとイエスは言います。それは、突き詰めれば、神はわたしたちを決して見捨てていないのだ。だから一切を神に委ねなさい。そう腹を据えて、今自分たちができることを精一杯行いなさい。たとえ望んだ結果にならなくても、それを受け入れてゆきなさい。そのことの示しではないでしょうか。 祈ることは、神がわたしたちとつながっている証ではないでしょうか。それぞれにどんな形でも良いです。祈る幸いを覚えたいものです。



[PR]
by buku1054 | 2015-02-22 13:02 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

祈り

祈り

宗教に祈りは欠かせない。祈ることが宗教の宗教たるゆえんだといえる。

基本的には、自分の願いが叶って欲しい。そういう思いで祈る。

初詣の祈りはまさにそうであろう。

切実な祈りもある。病に苦しむ者の祈りはそうだ。

祈りの根本は、自分の努力や能力ではどうすることもできない事態に相対したとき、

わたしたちを超えた「何か」に委ねることではないだろうか。

委ねるとは、その結果がどうなろうとお任せすることではないだろうか。

そこまで信頼して祈っているのか。

おそらくそうではあるまい。

しかし、それでも祈らずにはいられない。

それはなぜか?

きっと、わたしたちに祈りをさせている何かがあるのだろう。

祈ること自体、その何かとつながっている証ではないだろうか。



[PR]
by buku1054 | 2015-02-13 18:21 | その他 | Comments(0)

2015年2月8日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/8礼拝説教「この声に導かれ」マルコ9:2~13

 今朝も引き続きマルコによる福音書に聴いてゆきます。前回で8章が終わりました。やっと半分が終わりました。今日から9章に入ります。いよいよこの福音書の後半を迎えたわけです。さあこれから後半戦だと意気込む思いですが、後半の最初の物語は、その意気込みを挫くようなとても難解な箇所です。にわかには信じがたいというか理解がとても難しい箇所です。

 読んでおわかりだと思いますが、幻想的というか神秘的というか。そんな印象を抱く箇所です。おそらくここに記されていることは、文字通りの出来事というよりは、暗示というか隠喩というのか一つの譬えではないかと思います。おそらくベースとなる出来事があって、それに脚色が加わってこのような物語に仕上げられたのだと思います。ともかくこの福音書記者が、この記述を通して何を示したかったのかを探ることが今日のポイントです。

 前回はペテロによるイエスのメシア告白、それとイエス自らの受難予告でありました。登山に譬えるなら、まさにこの福音書のピークといえるところです。とても重要な箇所でした。しかしそこでは、イエスと弟子たちとの間に大きなズレがあることに気がつきました。メシア観の違いです。そしてイエスの一行は、これから十字架への道を進むのです。登山で言うなら下山していくことになります。

 この箇所は、さあこれから下山しようとするとき、すなわち十字架の苦難の道が始まろうとするとき、弟子たちと群衆とこれを読むわたしたち読者に何かを示そうとしたのではないでしょうか。その何かを探ってみたいと思います。

 イエスは、弟子たちの中で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登ります。この三人はイエスからもっとも信頼されていた弟子たちです。十字架を前にしたゲッセマネの園でも、この三人だけを連れて行ったとあります。彼らは、後の初代教会の牽引者たちです。イエスは、とても重要なことを伝えようとしたのではないでしょうか。

 ところで彼らが登った「山」」とはどこなのでしょうか。ヘルモン山(2800)という説もあります。タボル山(588)という説もあります。諸説あるわけですががハッキリとしたことはわかりません。高い山というからヘルモン山かも知れません。すると、山の上でイエスの姿が変貌したというのです。もっともどのように変わったのかは書いてありません。ただし着ていた服が真っ白に輝いたというのです。

 しかもそこにエリヤとモーセが現れて、イエスと語りあったといいます。この光景を見て、ペテロが自分たちがここにいることはなんと素晴らしいことかと言います。そしてイエス、モーセ、エリアのために仮小屋を三つ建てましょうと述べるのです。そうこうすると、雲が彼らを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。辺りにはイエスしかいなかったというのです。さて、ざっと振り返ってみましたが、やはりにわかにはわかりません。聖書の難解さが際だったところだと言えるでしょう。

 いくつかのキーワードと思える事柄をたどりながら進めることにします。先ずは、イエスの姿が変わったということです。どういうことなのか。何故変わる必要があるのか。何故服が白く輝いたのか。いずれにしても推測の域を出ないのですが、これから始まるイエスの歩みが、わたしたちの想像を超えた素晴らしさ、喜び、栄光、そういった事を顕わにするようになる。直ぐにそれを受け入れることはできないけれども、やがてそれを見出せる。そういう意味ではないか。そう思います。

 次は、モーセとエリヤの存在です。彼らはユダヤ人のもっとも尊敬する人物だと言えます。モーセはイスラエル民族をエジプトの奴隷状態からから救い出した人です。元祖メシアといっていい人です。ユダヤ人が一番尊敬するのがモーセだといわれています。一方エリヤは、預言者の中でももっとも尊敬されていた預言者です。彼はバアル宗教という、いうなれば現世利益的な宗教と対決し勝利します。最後は天に登っていったとあることからエリヤは死んでいないというのがユダヤ人の理解です。彼は再びこの世にやってくると信じられています。

 イエスは、キリスト教信徒にとって、モーセとエリヤの存在を継承した存在だと捉えられているようです。つまり、苦難の同胞を救済し、でも自分は約束の地カナンに入れず、その墓すらわからないというこの世的には不運な人生のモーセ。そしてやがて再臨するというエリヤ。おそらく原始キリスト教時代のキリスト者たちは、イエスにモーセとエリヤを重ね合わせていたのではないでしょうか。キリスト教はユダヤ教を母体としています。ですからこのような理解も自然なことだと言えるでしょう。

 さて、ペテロは感激して、仮小屋を建てると言います。仮小屋とは幕屋のことです。幕屋とは、移動式のテントで、遊牧生活者の住居でありました。かつて国を持たない流浪の民であったユダヤ人は、この幕屋を住居とし、また幕屋の中の一つを神殿としても用いていたのです。おそらくペテロは、神殿という思いでこの言葉が口から出たのではないでしょうか。

 ところが、やがてこの素晴らしき光景が消え失せるのです。そして、ただイエスだけが一緒にいたというのです。さらに、雲の中から、このイエスに聴きなさいという声があったというのです。

 話は変わります。あれはこの地へ来た翌年、1998年のGWのことでした。富士見台に登りました。当時飼っていた愛犬チャーリーと一緒に登りました。神坂峠からではなく、下の強清水から登りました。何故富士見台に登ったのかといいますと、牧師としての人生をはじめて一年、まだまだ未熟だったこともありまして、いろいろな意味で行き詰まっていました。神学生時代に読んだ神学書を読み直したりしもしていた頃です。なんとか今の状況を打開したい。そんな願いを抱きつつ登ったのです。

 頂上で見た、あの景色の素晴らしさはいまだに忘れられません。360°見渡せました。中央アルプスの山並みに感激しました。遠くに坂下の町が見えました。そのとき、あんな小さなところで悩んでいる自分が、なんだかおかしく思えました。気持ちがすっきりしたことを覚えています。

 人は何故山に登るのでしょうか。「そこに山があるから」という有名な言葉もあります。修行のためもあります。単なる趣味もあります。他にもいろいろな理由があるでしょう。ただし山に登ることは、非日常性の中に逃避することではない。それが共通することだと思うのです。

 なぜなら必ず下山するからです。現実の中に帰るからです。山登りとは、日常性からひととき離れるそのことに意味があるのではないでしょうか。それは旅も同じだと思います。登ったまま戻らない登山は死ぬことになります。出掛けたまま戻らない旅は、ほんとうの現実逃避となります。

 宗教というのは、日常性からひととき非日常に離れさせることで自らを見つめさせ、覚醒させ、再び日常の中へ復帰させる役割があるように思うのです。礼拝はまさにそうです。一見現実逃避に見える山岳宗教の修行もそうです。その意味で、日常の中に返さないような宗教、日常においても幻想の中に彷徨っているかのような状態に置くような宗教が、怪しいカルト宗教ではないでしょうか。

 モーセとエリヤも去り、弟子たちと一緒にいたのはイエスだけだったといいます。輝きというか栄光は一瞬であったわけです。この後イエスは十字架の道を歩むのです。苦難の道です。弟子たちにとっても予想もしない苦難が待ち受けているのです。しかし、このイエスに聞けという声があった。この福音書記者は記すのです。しかもイエスはやがて殺されるのです。弟子たちの前からも、これを読むわたしたちにも姿を見せることはありません。この地上においてイエス・キリストという存在を見ることはできません。実在のイエスに出会うことはできないのです。しかし、イエスに聞けと聖書は語るのです。



 今日の箇所を全体的に考えると、登山がキーワードだと思います。登山は人生と似ています。登山口は誕生です。上りは成長期です。困難な中にもいろいろな出会いがあり、力を伸ばしてゆく機会があり、そして感動が多い時期です。やがて頂上へたどり着きます。様々な経験を経て、様々なものを身につけた人生最高の時です。しかし、ピークに到達した時点から下山しなくてはなりません。終焉に向かうのです。上りとはひと味違う苦難が待っています。

 そして、下山して人生が終わります。重荷はいっぺんに軽くなります。けれども、終わってしまうという寂しさと未知なる世界へ行くという不安と恐れがあります。まさに登山は人生の縮図です。でも、そんなわたしたちに、聖書はイエスに聞けと語るのです。つまり、どこにいても、どんな状況にあっても、聞こえてくるイエスの声があるということです。

 もっともその声は、ハッキリと聞こえることはないでしょう。心が濁っていたら聞き逃してしまうようなか細い声です。でもその声は必ずある。わたしたちに常に語りかける声ではないでしょうか。

 苦しむとき、悲しむとき、不安なとき、恐れているとき、打ちひしがれているとき、絶望のとき、驕り高ぶっているとき、この声なき声にわたしたちは導かれているのではないでしょうか。このことを信じる。それが信仰者の証でしょう。また、信じられるようになるために礼拝に集うのではないでしょうか。

最後に、クリスチャンの詩人、水野源三さんの一編の詩を読んで結びにします。

目には見えない主イエスよ
新しい朝を迎えるたびに
深い愛を思わせたまえ

目には見えない主イエスよ
いかなるときも事あるごとに
御旨いかにと訪ねさせたまえ

目には見えない主イエスよ
一人のときもわたしと共に
おられることを覚えさせたまえ

目には見えない主イエスよ
あふれる涙胸の中まで
曇らすときも仰がせたまえ

目には見えない主イエスよ
脇道に逸れやすいわたしの
手を 強く取り 歩ませたまえ


[PR]
by buku1054 | 2015-02-08 17:13 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

キリスト教

キリスト教は、2000年前に生きたナザレのイエスという人物を、救い主(キリスト)と信じる宗教だ。

そこでは、イエスの十字架の死が、人類の罪を贖うことであり、復活が死に勝利したということを信じることである。

ならば、イエスの生前の生き様は意味をなさなくなるのではないか。

イエスの生き様が十字架へとなっていった。そうすると、十字架と復活という教義はどうなるのだろうか?

キリスト教って難しいね?!



[PR]
by buku1054 | 2015-02-07 16:25 | その他 | Comments(0)

イスラム国

イスラム国による蛮行が世界を揺るがしている。

狂気の集団である。許し難い行為を行っている。

しかし、なぜ彼らがこのような行為を行うのか。
その根本原因がいわれていないような気がする。

そもそもはブッシュ政権による大義名分のないイラク戦争が原因だ。

さらにいえばアメリカのグローバル経済と欧米諸国の格差社会と差別社会が現況だと思う。

それの反省なきままでのテロとの闘い、テロに屈せるなは、欧米の非を棚上げした考えだ。

欧米諸国の悔い改めこそが、この問題を解決することではないだろうか。

しかしそれは望み薄い。

世界は滅びに向けて進んでいる。

いっそのこと滅びた方が良いのかも知れない。

わたしは思う。ホモ・サピエンス(人類)が滅びることが、地球を救う。

滅びの神学を提唱したい。





[PR]
by buku1054 | 2015-02-04 18:51 | その他 | Comments(0)

2015年2月1日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/1礼拝説教「あなたにとってメシアとは何か」マルコ8:27~38

 今日はマルコによる福音書、8章の最後の部分となります。二つの段落に分かれているので、別々に読んでもいいところですが、内容的に一つの物語だと考えて差し支えないので一気に読んでみることにしました。この部分は、これまでにおそらく3~4回は説教で取り上げたところです。たいへん有名なところです。この福音書の大きな分岐点といえると思います。

 それは、イエスとは何者なのかという根本的な事について述べられた箇所だからといえるのではないでしょうか。その意味でとても重要な箇所だと思います。今回この箇所に向き合うに当たって、以前作った説教を幾つか読み直してみたのですが、どうもしっくりこないというか、何か違うなという思いになりました。そこで今回は、以前作ったときの理解を一回リセットして新たな気持ちで読み直してみました。その結果を皆さんと分かち合いたいと思います。

 先週は、ベトサイダという町、ガリラヤの一地方での癒やし物語でした。そこからイエスと弟子たちは、フィリポ・カイサリアに行くのです。ここは、地中海に面したパレスチナの北の端に位置する町です。元々は別の名前の町だったようです。ところが、ヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・フィリィッポスが統治するようになって、町の名前が変わりました。フィリッポスは、ローマ帝国の皇帝アウグストゥス・カエサルに敬意を表して、フィリポ・カイサリアと命名したのです。つまり、自分の名前とローマ皇帝の名前を並記したのです。

 おそらくフィリッポスは、ここは、ローマとユダヤとが統治する理想的な町だという自負があったのではないでしょうか。あるいはフィリッポスとカエサルが神に等しい最高の存在なのだということを暗黙の内に強要したと思うのです。しかしそれを受け入れるのは、あくまでも権力の側にいる者たちです。民衆にとってはありがたいわけではありません。むしろそのことで、ほとんどの人々が踏みつけられていたと言えるのではないでしょうか。


 さて、イエスはここで弟子たちに一つの質問をするのです。「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」。弟子たちは答えます。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だと言っておりますと。

 これが、当時の人々の間に伝わっていたイエスのついての風評だったのです。この中で特にエリヤだと言われていたのは大きな事でした。当時のユダヤ社会ではエリヤに対する崇敬の念は相当大きかったようです。エリヤとは紀元前9世紀の北イスラエル王国で活動した預言者です。ユダヤ人の最大の祭り、過ぎ越の祭りの時、ユダヤ人は4杯のワインを飲むそうですが、そのとき、誰も飲まないワインをテーブルに置いておくのだそうです。それはエリヤのための杯なのです。ともかくイエスのことをエリヤの再来だと言っていた人たちがいたのです。つまりイエスへの最大級の評価をしていた人たちがいたということです。

 そこでイエスはさらに弟子たちに訊ねるのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いかけに、弟子たちはビックリしたと思います。というか困惑したと思うのです。自分のことをどう言ってるのか。そう問われたとき、他人がどう思っているかは容易に言えるのです。責任がないからです。だからエリヤだとかヨハネだとかサッと出てくるのです。しかし、いざ自分自身が本音を問われたとき困ってしまうと思います。

 おそらく弟子たちは答えに窮したと思います。直ぐに答えられなかったと思うのです。お互い顔を見合わせ困ってしまったのではないでしょうか。だからここではペテロが答えたとなっているのです。彼はリーダーという立場上、何か言わなくてはと思ったはずです。苦し紛れに答えたと思うのです。その答えが「あなたは、メシアです」だったのです。メシアとはキリストのことです。救い主です。答えとしては正解です。キリスト教は、イエスをメシア、キリストだと信じる宗教です。したがってペテロは最高の答えをしたことになります。これ以上の答えはないのです。100点満点です。


 しかしイエスは、これを褒めたのでしょうか。「お前の答えは正しい。なんだよくわかっているではないか。それでいいんだ。これを世に広めなさい」。そう言われたのでしょうか。違うのです。イエスは弟子たちに向かって、自分のことは誰にも話すなと戒めたというのです。より原文に忠実だと「叱った」というのです。ペテロのこの正しい答えをイエスは何故叱ったのでしょうか。つまり何故否定したのでしょうか。

 一つの解釈は、ペテロのメシア観の問題です。ペテロはその当時のユダヤ人のメシア観と同じだということです。すなわちダビデ、ソロモン王時代の栄光のイスラエルの復興をもたらすのがメシアなのだという理解だったということです。要するにユダヤ人である自分たちが、政治的にも、経済的にも、文化的にも、宗教的にも繁栄する国となる。それをもたらすのがメシアだということです。

 だからイエスはそれに対して否定したのだということです。で、イエスは次のところで、自分はユダヤ当局から排斥され、殺される。でも、復活すると述べています。弟子たちはこれがわかっていなかったのだというわけです。イエスが自分の近未来を語るこの件は、伝統的なキリスト教の教義が反映されています。

 今日の説教題を、「あなたにとってメシアとは何か」としました。「あなたにとって」とは、今のわたしたちにとってという含みがあります。わたしたち信仰者は、イエスをキリストだ。救い主だと信じているわけです。では、どう捉えているのでしょうか。どのような救い主だと信じているのでしょうか。おそらくそのほとんどは、伝統的に教えられてきた教義をそのまま信じていると思います。

 つまり、神を信じない人間、神に背く人間。それゆえに本来なら神に裁かれ、地獄に堕ちる人間、しかし、愛である神は、その独り子イエス・キリストをこの世に送って、イエスを犠牲にして、人間の罪を贖ってくださった。罪を赦してくださった。それゆえ人間は地獄に行かないで済んだ。ただし、このことを信じて公に告白し、洗礼を受けた者のみがこの恩恵に与れる。これが伝統的なキリスト教の理解です。厳密に言うと、カトリック教会とその流れを汲むプロテスタント教会の理解です。東方正教会は理解が違っています。

 ではペテロが、このような教義的に正しい理解でイエスをメシアと告白したら、イエスは大いに喜び、それを言い広めなさいといったのでしょうか。わたしは正直そうは思えないのです。なぜならそれは、イエスの理解ではないと思うからです。

 人はいかに生きるべきか、より充実した意味のある人生とは何か。そういうことを考えて悩み、葛藤する。それはとても真面目な態度です。また自分の身勝手さ、罪の深さに恐れをなし回心しようとする。そういう人には好感が持てます。でも、このことで悩めるのは恵まれている人かも知れません。言うなれば、先進諸国の比較的裕福な人、少なくとも日々の生活に困らない人々です。

 ここまでマルコ福音書を読んできてわかったことは、イエスが寄り添った人々、救済の対象にした人々、それは、人はいかに生きたらいいのか、どのような人生が意味ある人生なのか。そういうことを考える余裕のある人たちではないわけです。その日の食べることにも事欠く人々です。いわれのない差別をされ、踏みつけられた人々です。生きるために我が子を間引きしなくてはならない人々です。

 イエスは、今で言うなら、戦争や災害で故郷を追われた難民、貧困や飢餓で明日の命の保障がない人々、テロリストによって誘拐された少女たち、自爆テロを強要された少年少女、そのような人たちに心底寄り添った方です。世間から踏みつけられたそうした人々と一緒に泣き、一緒に笑い、一緒に食を分かち合い、一緒に希望を語り合った。それがイエスという方だったのです。

 ペテロを代表する弟子たちのメシア観は、栄光のイスラエルを復興してくれる存在です。わたしたちのメシア観は、天国での平安、永遠の命のために犠牲になってくださった存在です。どのメシア観が悪くて、どのメシア観が良いとは言えません。それぞれに信じていけばいいのでしょう。でも、このマルコ福音書を通して示されたイエスを思うと、イエスのメシア観は、当時のユダヤ人のそれとも違う、伝統的キリスト教の教義によって伝えられたそれとも違う。そう思うのです。

 もう30年近く前の映画ですが、「ミッション」という映画がありました。ご覧になった方もいると思います。18世紀の南米が舞台でした。宣教に赴いたイエズス会の宣教師が奮闘努力して、先住民をキリスト教信者に導き、自給自足の平和な集落をつくります。ある意味理想郷をつくります。しかし派遣した本国のスペインとポルトガルとの政治的な事情によって退去を命じられます。これに対して宣教師たちは抵抗するのです。最終的には武力によって退去させられるのですが、これに武力でもって闘う宣教師たちの一方で、非暴力を貫き、最後は非暴力の女性や子どもや老人たちと共に殺されてしまう神父の存在が印象的でした。

 映画のクライマックス、元奴隷商人で回心した神父が、銃に打たれ、死を迎える中で、無抵抗のまま殺されていく神父を目にして息を引き取る場面が秀逸でした。わたしは、息を引き取るその神父が見た、無抵抗のまま殺される神父にキリストを感じました。

 イエスは言います。自分は、必ず多くの苦しみを受け、権力から捨てられ、殺される。イエスは自分の運命がわかっていたと思います。このまま行けば、必ず殺される。しかも捨てられるというのです。殺されるだけなら名誉ある死、殉教、英雄に高められる栄光もあります。しかし捨てられるのです。価値がないのです。そこには、イエスを憎む者からだけではない。イエスを支持し慕う者からも、イエスを愛する者からも見捨てられる。裏切られるという絶望的な要素があると思うのです。

 しかしイエスは、捨てられるその道を選ぶのです。なぜなら、その道には、その途上には、もっとも弱くされた人々、もっとも小さくされた人々、今日生き延びることが困難な人たち、一切の希望が断たれた人たち、沈黙のまま誰にも看取られず息絶える人たちがいるからです。わたしは思うのですが、イエスという方は、小さな者たちに寄り添うためなら、たとえ地獄にまでも行く。そういう方だったのではないかと思うのです。


 イエスとは何か。キリストとは何か。救いとは何か。教会はこれまで1+1=2といったようにいつも明確にその答えを伝えてきました。信者の多くは、その答えに自分を合わせ、当然受け入れるべき正解として捉えてきました。

 しかし、果たしてどうなのでしょうか。ほんとうに、そう簡単に、イエスとはこういう方だ。キリストとはこういう意味だ。救いとはこういう事だ。そうハッキリと言い切っていいのでしょうか。事実先ほども少し触れたように、カトリックとプロテスタント、それに対して東方正教会のイエスの死についての理解は違います。東方正教会は、イエスの十字架を贖罪の死とは捉えていません。

 キリストとはこうだ。救いとはこうだ。そう断言したその瞬間、ひょっとするとわたしたちはイエスから叱られるのではないか、イエスが目の前から去っていくのではないか。わたしはそう感じるのです。むしろイエスがわたしたちに求めていることは、次のイエスの言葉だと思うのです。

 「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエスに従うことは、自分が安全地帯に入ることではない。苦難を受け入れていく覚悟を持つことなのだということです。どこまでできるかは別にして、この言葉に思いを集中してゆく、それがわたしたち信仰者に託されていることではないでしょうか。




[PR]
by buku1054 | 2015-02-01 12:57 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年2月1日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/1礼拝説教「あなたにとってメシアとは何か」マルコ8:27~38

 今日はマルコによる福音書、8章の最後の部分となります。二つの段落に分かれているので、別々に読んでもいいところですが、内容的に一つの物語だと考えて差し支えないので一気に読んでみることにしました。この部分は、これまでにおそらく3~4回は説教で取り上げたところです。たいへん有名なところです。この福音書の大きな分岐点といえると思います。

 それは、イエスとは何者なのかという根本的な事について述べられた箇所だからといえるのではないでしょうか。その意味でとても重要な箇所だと思います。今回この箇所に向き合うに当たって、以前作った説教を幾つか読み直してみたのですが、どうもしっくりこないというか、何か違うなという思いになりました。そこで今回は、以前作ったときの理解を一回リセットして新たな気持ちで読み直してみました。その結果を皆さんと分かち合いたいと思います。

 先週は、ベトサイダという町、ガリラヤの一地方での癒やし物語でした。そこからイエスと弟子たちは、フィリポ・カイサリアに行くのです。ここは、地中海に面したパレスチナの北の端に位置する町です。元々は別の名前の町だったようです。ところが、ヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・フィリィッポスが統治するようになって、町の名前が変わりました。フィリッポスは、ローマ帝国の皇帝アウグストゥス・カエサルに敬意を表して、フィリポ・カイサリアと命名したのです。つまり、自分の名前とローマ皇帝の名前を並記したのです。

 おそらくフィリッポスは、ここは、ローマとユダヤとが統治する理想的な町だという自負があったのではないでしょうか。あるいはフィリッポスとカエサルが神に等しい最高の存在なのだということを暗黙の内に強要したと思うのです。しかしそれを受け入れるのは、あくまでも権力の側にいる者たちです。民衆にとってはありがたいわけではありません。むしろそのことで、ほとんどの人々が踏みつけられていたと言えるのではないでしょうか。


 さて、イエスはここで弟子たちに一つの質問をするのです。「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」。弟子たちは答えます。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だと言っておりますと。

 これが、当時の人々の間に伝わっていたイエスのついての風評だったのです。この中で特にエリヤだと言われていたのは大きな事でした。当時のユダヤ社会ではエリヤに対する崇敬の念は相当大きかったようです。エリヤとは紀元前9世紀の北イスラエル王国で活動した預言者です。ユダヤ人の最大の祭り、過ぎ越の祭りの時、ユダヤ人は4杯のワインを飲むそうですが、そのとき、誰も飲まないワインをテーブルに置いておくのだそうです。それはエリヤのための杯なのです。ともかくイエスのことをエリヤの再来だと言っていた人たちがいたのです。つまりイエスへの最大級の評価をしていた人たちがいたということです。

 そこでイエスはさらに弟子たちに訊ねるのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いかけに、弟子たちはビックリしたと思います。というか困惑したと思うのです。自分のことをどう言ってるのか。そう問われたとき、他人がどう思っているかは容易に言えるのです。責任がないからです。だからエリヤだとかヨハネだとかサッと出てくるのです。しかし、いざ自分自身が本音を問われたとき困ってしまうと思います。

 おそらく弟子たちは答えに窮したと思います。直ぐに答えられなかったと思うのです。お互い顔を見合わせ困ってしまったのではないでしょうか。だからここではペテロが答えたとなっているのです。彼はリーダーという立場上、何か言わなくてはと思ったはずです。苦し紛れに答えたと思うのです。その答えが「あなたは、メシアです」だったのです。

 メシアとはキリストのことです。救い主です。答えとしては正解です。キリスト教は、イエスをメシア、キリストだと信じる宗教です。したがってペテロは最高の答えをしたことになります。これ以上の答えはないのです。100点満点です。


 しかしイエスは、これを褒めたのでしょうか。「お前の答えは正しい。なんだよくわかっているではないか。それでいいんだ。これを世に広めなさい」。そう言われたのでしょうか。違うのです。イエスは弟子たちに向かって、自分のことは誰にも話すなと戒めたというのです。より原文に忠実だと「叱った」というのです。ペテロのこの正しい答えをイエスは何故叱ったのでしょうか。つまり何故否定したのでしょうか。

 一つの解釈は、ペテロのメシア観の問題です。ペテロはその当時のユダヤ人のメシア観と同じだということです。すなわちダビデ、ソロモン王時代の栄光のイスラエルの復興をもたらすのがメシアなのだという理解だったということです。要するにユダヤ人である自分たちが、政治的にも、経済的にも、文化的にも、宗教的にも繁栄する国となる。それをもたらすのがメシアだということです。

 だからイエスはそれに対して否定したのだということです。で、イエスは次のところで、自分はユダヤ当局から排斥され、殺される。でも、復活すると述べています。弟子たちはこれがわかっていなかったのだというわけです。イエスが自分の近未来を語るこの件は、伝統的なキリスト教の教義が反映されています。

 今日の説教題を、「あなたにとってメシアとは何か」としました。「あなたにとって」とは、今のわたしたちにとってという含みがあります。わたしたち信仰者は、イエスをキリストだ。救い主だと信じているわけです。では、どう捉えているのでしょうか。どのような救い主だと信じているのでしょうか。おそらくそのほとんどは、伝統的に教えられてきた教義をそのまま信じていると思います。

 つまり、神を信じない人間、神に背く人間。それゆえに本来なら神に裁かれ、地獄に堕ちる人間、しかし、愛である神は、その独り子イエス・キリストをこの世に送って、イエスを犠牲にして、人間の罪を贖ってくださった。罪を赦してくださった。それゆえ人間は地獄に行かないで済んだ。ただし、このことを信じて公に告白し、洗礼を受けた者のみがこの恩恵に与れる。これが伝統的なキリスト教の理解です。厳密に言うと、カトリック教会とその流れを汲むプロテスタント教会の理解です。東方正教会は理解が違っています。


 ではペテロが、このような教義的に正しい理解でイエスをメシアと告白したら、イエスは大いに喜び、それを言い広めなさいといったのでしょうか。わたしは正直そうは思えないのです。なぜならそれは、イエスの理解ではないと思うからです。

 人はいかに生きるべきか、より充実した意味のある人生とは何か。そういうことを考えて悩み、葛藤する。それはとても真面目な態度です。また自分の身勝手さ、罪の深さに恐れをなし回心しようとする。そういう人には好感が持てます。でも、このことで悩めるのは恵まれている人かも知れません。言うなれば、先進諸国の比較的裕福な人、少なくとも日々の生活に困らない人々です。

 ここまでマルコ福音書を読んできてわかったことは、イエスが寄り添った人々、救済の対象にした人々、それは、人はいかに生きたらいいのか、どのような人生が意味ある人生なのか。そういうことを考える余裕のある人たちではないわけです。その日の食べることにも事欠く人々です。いわれのない差別をされ、踏みつけられた人々です。生きるために我が子を間引きしなくてはならない人々です。

 イエスは、今で言うなら、戦争や災害で故郷を追われた難民、貧困や飢餓で明日の命の保障がない人々、テロリストによって誘拐された少女たち、自爆テロを強要された少年少女、そのような人たちに心底寄り添った方です。世間から踏みつけられたそうした人々と一緒に泣き、一緒に笑い、一緒に食を分かち合い、一緒に希望を語り合った。それがイエスという方だったのです。

 ペテロを代表する弟子たちのメシア観は、栄光のイスラエルを復興してくれる存在です。わたしたちのメシア観は、天国での平安、永遠の命のために犠牲になってくださった存在です。どのメシア観が悪くて、どのメシア観が良いとは言えません。それぞれに信じていけばいいのでしょう。でも、このマルコ福音書を通して示されたイエスを思うと、イエスのメシア観は、当時のユダヤ人のそれとも違う、伝統的キリスト教の教義によって伝えられたそれとも違う。そう思うのです。

 もう30年近く前の映画ですが、「ミッション」という映画がありました。ご覧になった方もいると思います。18世紀の南米が舞台でした。宣教に赴いたイエズス会の宣教師が奮闘努力して、先住民をキリスト教信者に導き、自給自足の平和な集落をつくります。ある意味理想郷をつくります。しかし派遣した本国のスペインとポルトガルとの政治的な事情によって退去を命じられます。これに対して宣教師たちは抵抗するのです。最終的には武力によって退去させられるのですが、これに武力でもって闘う宣教師たちの一方で、非暴力を貫き、最後は非暴力の女性や子どもや老人たちと共に殺されてしまう神父の存在が印象的でした。

 映画のクライマックス、元奴隷商人で回心した神父が、銃に打たれ、死を迎える中で、無抵抗のまま殺されていく神父を目にして息を引き取る場面が秀逸でした。わたしは、息を引き取るその神父が見た、無抵抗のまま殺される神父にキリストを感じました。

 イエスは言います。自分は、必ず多くの苦しみを受け、権力から捨てられ、殺される。イエスは自分の運命がわかっていたと思います。このまま行けば、必ず殺される。しかも捨てられるというのです。殺されるだけなら名誉ある死、殉教、英雄に高められる栄光もあります。しかし捨てられるのです。価値がないのです。そこには、イエスを憎む者からだけではない。イエスを支持し慕う者からも、イエスを愛する者からも見捨てられる。裏切られるという絶望的な要素があると思うのです。

 しかしイエスは、捨てられるその道を選ぶのです。なぜなら、その道には、その途上には、もっとも弱くされた人々、もっとも小さくされた人々、今日生き延びることが困難な人たち、一切の希望が断たれた人たち、沈黙のまま誰にも看取られず息絶える人たちがいるからです。わたしは思うのですが、イエスという方は、小さな者たちに寄り添うためなら、たとえ地獄にまでも行く。そういう方だったのではないかと思うのです。


 イエスとは何か。キリストとは何か。救いとは何か。教会はこれまで1+1=2といったようにいつも明確にその答えを伝えてきました。信者の多くは、その答えに自分を合わせ、当然受け入れるべき正解として捉えてきました。

 しかし、果たしてどうなのでしょうか。ほんとうに、そう簡単に、イエスとはこういう方だ。キリストとはこういう意味だ。救いとはこういう事だ。そうハッキリと言い切っていいのでしょうか。事実先ほども少し触れたように、カトリックとプロテスタント、それに対して東方正教会のイエスの死についての理解は違います。東方正教会は、イエスの十字架を贖罪の死とは捉えていません。

 キリストとはこうだ。救いとはこうだ。そう断言したその瞬間、ひょっとするとわたしたちはイエスから叱られるのではないか、イエスが目の前から去っていくのではないか。わたしはそう感じるのです。むしろイエスがわたしたちに求めていることは、次のイエスの言葉だと思うのです。

 「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエスに従うことは、自分が安全地帯に入ることではない。苦難を受け入れていく覚悟を持つことなのだということです。どこまでできるかは別にして、この言葉に思いを集中してゆく、それがわたしたち信仰者に託されていることではないでしょうか。




[PR]
by buku1054 | 2015-02-01 12:53 | Comments(0)