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2014年クリスマス

   今年のクリスマス燭火礼拝は、参加者20名でした。感謝。この後ケーキを食べながら祝会を持ちました。
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by buku1054 | 2014-12-29 18:12 | その他 | Comments(0)

我が家の庭

坂下教会から北へ約8キロ。
川上地区です。人口850人。
自宅があります。8年前から住んでいます。
妻の久美子自慢の庭です。
イングリッシュガーデンのようです。
6月は薔薇が咲き誇ります。
来て下さい。
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by buku1054 | 2014-12-29 18:08 | その他 | Comments(0)

2014年12月28日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/28礼拝説教「信頼」マルコ8:1~10

 2014年最後の礼拝となりました。教会の暦の上では、クリスマスは1月6日まで続きますが、実際には24日の燭火礼拝が終わると、クリスマスも終わって新しい年に気持ちが切り替わるというのが日本の教会です。もちろんそれについて良いとか悪いとかはありません。

 年末の慌ただしいときですが、しばし心鎮めて聖書からのメッセージに耳を傾けたいと思います。2月から読み進んできましたマルコによる福音書も今日から8章に入ります。この福音書は全体で16章からなっていますので、やっと半分まで差し掛かったことになります。およそ月三回の説教ですから、半分にいたるまで約一年掛かったことになります。そうすると読み終わる頃は来年の今頃になるかも知れません。もっとも急ぐ必要もないので、ゆっくり進んで行きたいと思います。

 さて、今日はどんな物語かと言いますと4000人の群衆に食べ物を与えたという話です。これと似た話は6章にありました。6章では5000人の群衆に食べ物を与えたという話でした。多少の違いはありますが、ほとんど同じ内容です。注解書などによれば、6章の話も8章の話も、もともとは同じ出来事で、やがて異なる伝承となったと考えられているようです。6章の時には「腸がちぎれる」という主題でお話ししました。イエスが空腹の難民たちを見て腸がちぎれる思いになった事に着目したのでした。

 今日のところでも2節に「群衆がかわいそうだ」とイエスが言われたとあります。「かわいそうだ」は、原文ではやはり「腸がちぎれる思い」 となっていました。ですからやはり同じ出来事なのかと思いました。もしそうならここは飛ばそうかなと思ったのですが、もし同じ出来事だとしたら、何故マルコは、同じ話を掲載したのだろうかと考えたのです。誤って載せてしまったということは考えられません。載せるからには意味があるはずです。そこで取り組んでみようと思ったのです。

 ところで、6章の話と今日の話。基本的には同じ内容です。おそらく学者さんたちは同じ部分に着目して、これは元々同じ一つの出来事だったと判断されたと思うのです。しかし、違う部分もあるわけです。そこに着目すると何か見えてくるのではないでしょうか。

 6章の話と今日の話、違いは何でしょうか。5000人と4000人という群衆の数がそうです。パンと魚の数の違いがあります。残った数も違います。それらにも意味があるとは思いますが、でもそれよりも重要な違いがあると思いました。何でしょうか。場所が違うのです。

 6章の時はガリラヤでした。パレスチナです。しかしここは、前回の耳と口の不自由な人の癒し物語の場所と同じです。デカポリス地方です。外国なのです。6章の時はユダヤ人の難民、今回は外国人の難民が対象です。ということは、満足に食べることもできず行き倒れてもおかしくない難民は、パレスチナにだけいたのではなく、周辺諸国にもいたということです。もっともこの辺り一帯がローマ帝国の植民地だったことからすれば、当然といえば当然です。

 この福音書記者マルコは、ひょっとすると、イエスの活動の重要な内容として、難民救済があったのだということを伝えたくて似たような話を、あえて掲載したのではないでしょうか。6章の時にも話しましたが、人数はさほど問題ではないと思うのです。前回は5000人、今回は4000人。でも、人数に拘ると、いかにそれだけの人々を救ったかということで、奇跡行為に固執することになるのです。でも、大切なのは難民救済なのです。それも食を与えるということです。きっとイエスは難民たちに食を与える業を、繰り返し繰り返し各地で行ったのではないでしょうか。

 考えてみれば、イエスの活動には、食に関する事が多いです。罪人の家で食事をしたこと。弟子たちが麦の穂を積んで食べたことについての問答、食事の前に手を洗うか洗わないかについての問題、そして今日の難民の供食。食べることにおいてメッセージが伝えられているのです。

 食べることは、生きることそのものです。それゆえに、そこにはいろいろな意味づけがなされます。ユダヤ教社会では、食事は神との交わりという宗教的な意味がありました。ですから、誰と食べるのか。何を食べたらいいのか。食前には自らを清めなくてはならないとか、様々なタブーというかきまりが定められていたわけです。要するに人生における最も大切な行為だからこそ、そこで分け隔てがなされていく。そのような人間の心理があるのではないでしょうか。どうでも良いようなことは対象にはなりにくいものです。

それに対してイエスは、食べるという人生の最も大切な行為には、些かの不公平も差別も不条理もあってはならないという考え方を基本にしていたと思います。

 先月亡くなった俳優の菅原文太さん。彼は「仁義なき戦い」のようなヤクザものといった役柄には似ず、私生活では良心派というか革新的というか、左寄りの人でした。反戦、脱原発、反米を様々な場で訴え、沖縄の基地問題でも沖縄の立場に立ち、在日朝鮮人の福祉への尽力、有機農業への尽力など、かなりの活動家でもありました。その菅原さんが亡くなる前、沖縄知事選で立候補した翁長さんの応援のために自ら馳せ参じたのです。翁長さんは普天間基地を辺野古ではなく県外という立場です。会場には車椅子で赴き、演説後は入院され、その数日後に亡くなったのでした。

 その演説をインターネットで見ました。ゆっくりと言葉の一つ一つを噛みしめるようにして語るその姿に感動を覚えました。その演説の中で菅原さんは言いました。「政治がやらなくてはならないことは二つある。一つは、国民を飢えさせないこと。安全で安心な食物を提供すること。二つ目は、絶対に戦争しないこと」。シンプルですがまさに最も大切なことです。余談ですがこういうニュースをテレビや新聞といったマスコミはほとんど報道しません。明らかに体制寄りだということがわかります。今回の選挙でも自民党がマスコミに報道の規制を掛けたといいますが、ほんとこの国は戦前戦中に戻りつつあると思います。


 今日本で、この二つが大切にされているでしょうか。格差社会が拡がりつつあります。一方では安全で高額な食材を食べられる階層があります。しかし、一円でも安いものを求めて、それが防腐剤や農薬にまみれたものであっても買わざるを得ない人たちもいます。集団的自衛権に沖縄の基地問題についても、すぐに中国や北朝鮮の脅威をちらつかせ、有事に備えるのは当然であり、沖縄が最適だとという風潮が支配しています。

 政治家、官僚、財界、そしてマスコミ。。国を導く彼らの中で、この二つをほんとうに大切にしている人たちが果たしてどれくらいいるでしょうか。また、この二つこそ大切だと思う国民がどれだけいるでしょうか。

 イエスが生きた時代のユダヤとその周辺は、この二つがまったく守られていなかった時代です。ほんの一握りの豊かで贅沢な暮らしが送れる人と今日食べられるかどうかわからないといった多くの人々。そして絶えず戦火に見舞われていた状勢だったのです。

 指導者たちは何をしていたのか。自分たちの同胞を大切にしていたとはとても言えない。ましてパレスチナでは、ユダヤ教という神を仰ぎ見る人たちです。その人たちが、人間を分け隔てていた。困窮する人々を見殺しにしていた。それで、自分たちは、神から選ばれた、神に忠実な人間と自負していたのです。それは周辺諸国もまた同じだったのです。イエスはこのことを心底嘆き、怒りに震えたと思うのです。

 だから繰り返し繰り返し、難民救済の業を行ったのです。この福音書記者マルコはその重要性を後世の人々に伝えようとしたのではないでしょうか、その結果が、同じような話をあえてこの福音書に掲載したということだった。わたしはそう思いました。


 ところでこの物語には、もう一つ大切なことが伝えられていると思いました。それは、弟子たちの有様です。イエスは必死です。腸がちぎれる思いで難民たちに接し、できる限りのことをしようとします。しかし弟子たちは、5000人の時と同じように、「こんな人里離れたところで、いったい何ができるのか」といってイエスの要請を拒絶します。

 わたしはここにイエスと弟子たちとの違いがあるように思うのです。イエスは世の中の不条理、不公平、不公正を改めて、誰もが等しく幸せを享受できる世の中をつくりたいと考えています。それが「神の国」の内実なのです。しかし、弟子たちはそれよりも、かつてのイスラエルの繁栄を求めて、イエスに期待してついてきていたのです。その違いがここではっきりと表れていると思うのです。

 弟子たちはかつてのイスラエルの栄光の中に入りたいのです。まず何よりも自分が恵みを受けたい。これが彼らのイエスについてきた動機なのです。だから、何で俺たちがこんなことをやらなくちゃならないんだという思いなのです。それがイエスの要請に対する拒絶となって表れていると思うのです。

 この弟子たちの姿は、今に生きるわたしたち信者の姿ではないでしょうか。イエスを救い主と信じた。洗礼を受けた。信者になった。その理由の根本は、自分の救いです。究極的には「永遠の命」です。もちろんそれはそれでいいのです。ただし、もしもそれだけならば、クリスチャンになるというのは、自分さえ良ければそれでいいということになりかねません。イエスがわたしたちに伝えようとしたことは、神にあっては誰もがかけがえのない存在だということです。そのことを自分の生き方を通して示そうよ。それがイエスがわたしたちに期待することです。



 ちょっと余談ですが、「グレートジャーニー」という言葉を聞いたことがありますか。直訳すると「偉大なる旅」です。これは、人類の歴史を言い表したものです。人類の起源は370万年前だといわれています。ホモ・サピエンスという種です。現代の科学ではその起源が明らかにされています。人類の祖先はアフリカのタンザニアだそうです。

 人類はそこから各地に拡散していったということです。基本的な流れは、アフリカ大陸から、ヨーロッパ大陸、北米、南米大陸と流れていったそうです。その過程で、傍流である様々な流れが拡がったそうです。で、何故人類は旅をしたのかというと、好奇心と向上心が動機のようです。未知なる世界を見たい。この先にはもっと暮らしやすい場所があるかも知れないということです。

 そうして実際に旅をして定住する。でもそこで、必ず弾かれた弱い者たちが生じる。だから弱い者たちは出て行かざるを得ない。新たに旅をはじめる。その繰り返しが、人類がこの地球のいたるところに住んでいる証といいます。ですから、アフリカのタンザニアから遠いほど弱い者たちだったと言えるのです。わたしたち日本人はその意味でかなり弱者といえます。

 ちょっと外れましたが、グレートジャーニーの理論から今日の主題に沿っていいたかった事は次のことです。人類の起源はアフリカです。つまり、はじめは黒人だったのです。しかし旅をする中で、それぞれの環境の中で、具体的には紫外線の違いによって、肌の色が白くなったり黄色くなったりしたのです。ですから、今もアメリカで黒人差別による事件が問題になっていますが、そもそも人類は皆同じなのに、いまだに差別があるというのは、言語道断なのです。いかに現代人が無知というか、やはり聖書がいうように「原罪」という理屈が当てはまるのかなと思うのです。


 本題に戻ります。弟子たちは、イエスの難民救済の業に素直に従いません。それは、自分の救いとは関係ないと思ったからです。わたしたちもそう変わりません。先ずは自分の救いです。これが何よりも大事なのです。天国へ行ければそれでいいのだという思いがあります。この福音書記者は、要するにそういった自己満足的な目的の弟子たちを非難する意味でも、この物語を掲載したと思うのです。

 弟子たちの存在は、そのままわたしたちだといえます。ならば、この箇所はわたしたちにとって、痛みを覚える箇所です。そのことはきちんと向き合わなければと思います。でも、こんな風にも思います。イエスは、こんな弟子たち、すなわちこんなわたしたち。愚かで、情けなくて、ずる賢くて、自分勝手で。こんなわたしたちを、繰り返し、繰り返し、用いるのです。それはわたしたちへの「信頼」があるからです。イエスは徹底して信頼する方なのです。裏切られても信頼するのです。それが十字架のキリストが意味することなのです。

 イエス・キリストのこの信頼に、少しでも、ほんのちょっとでも、応えて生きてゆく。そうできたらいいよね。来年はそうでありたい。そんな思いでこの年を締めくくって、新しい年を迎えたいと思います。


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by buku1054 | 2014-12-27 19:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年クリスマス燭火礼拝メッセージ

2014年クリスマス燭火礼拝マタイ1:18~25

 2014年も、もうすぐ終わろうとしています。時はただ流れてゆくという意味では、今年も来年もないわけですが、暦の上で区切りがなされます。ですから、終わりがあってはじめがある。そんな思いになるのでしょうか。

 ところでわたしたちは、過去を振り返って、あの時ああすればよかった。こうしたらよかったと後悔することがあります。冷静に考えれば、あの時ああすればよかったという選択が、必ずしもよい結果を招くとは限らないわけです。でも、そうした冷静な思いになれないのがわたしたちの弱さではないでしょうか。

 クリスマスの主人公、マリアとヨセフ。彼らは自分たちの結婚に際して、聖書の記述とは違う選択が可能でした。特にヨセフはそうでした。許嫁のマリアのお腹のこどもは、彼のこどもではありません。聖書では、この後イエスのことを、世間は「マリアの息子」と呼んでいたと記されています。当時こどもは必ず父親の名前で呼ばれたのです。ですから、イエスは紛れもなくヨセフの子ではなかったのです。

 「正しい人」と記されたヨセフ、つまりユダヤの掟に忠実な人であったヨセフ。その彼が、我が子でない子どもを宿したマリアと結婚することは、当時の常識では考えられないことでした。しかしヨセフは、マリアを妻として迎えます。二人はヨセフの故郷ベツレヘムで出産を迎えます。でも、身内からも世間からも拒絶されます。常識外れの結婚だったからです。二人は仕方なく、家畜小屋で、誰の助けも借りず、出産を迎えたのです。

 飼い葉桶の中で寝かされた赤ちゃんを見て、マリアとヨセフにどんな思いがよぎったのでしょうか。これから先どんなことが待っているのだろうか。世間の人たちはわれわれをどう見るだろうか。この子は幸せになれるのだろうか。そんな心配と不安がこの親子三人を包んでいたように思うのです。


 藤木正三という牧師が、こんなことを述べておりました。「どんなに世の中が平和になっても、人間が抱える問題は決して解決されない。そこに宗教の役割がある」。確かにそうだと思いました。仮に世界中の核兵器も他の武器も一切なくなって、環境破壊も改善され、飢餓や貧困といった格差問題も解消され、世界中の人々が利益を公平に分かち合い、どこの国のどんな人も生活に困らない、そんな夢のような世界が実現したとして、果たして人生がいつもバラ色となるでしょうか。

 もちろん幸福度のレベルは格段に高くなるでしょう。でも、それでも人生に伴う問題がなくなることは決してありません。病気から逃れることはできません。他人との関係での様々な問題もなくなりません。そして最後には、必ず死についての不安や恐れといった問題が待っています。どんなに暮らしやすい理想的な世の中になったとしても、人生の問題が一切無くなることはないのです。

 マリアとヨセフが迎えた困難も、どんなに平和な世の中であってもあり得ることです。けれどもこの聖書記者は、この過酷な状況を、インマヌエル、神は我らと共にいますと告げるのです。

 神は我らと共にいますとは、どういうことなのでしょうか。神が一緒にいて下さる。それはわかります。しかし、それがいったい何だというのでしょうか。神が一緒にいるから幸せになれるのでしょうか。問題が解決されるのでしょうか。

 神が我らと共にいる。これは、2000年前のユダヤ人が信じたことです。今に生きるわたしたちにとって大切なことは、文字通りそのまま受け入れることではなく、神が共にいるということの本質というか意味といいますか、それを見出すことではないでしょうか。

 それは、今、この時が大切な時ということではないでしょうか。今、自分が置かれている状況、それがたとえ辛いものであったとしても、そこには必ずわたしたちを導く意味がある。だからその状況を拒絶するのではなく、恨むのではなく、その状況を受け入れて日々生き抜く、その人生態度ではないでしょうか。

 もちろん戦争で苦しむ人々、大災害にあって悲しみに打ちひしがれている人々、食べられずに死んでいく人々、愛する人を失った人々、そういう人々に、それを受け入れよ。安易にいうことはできません。でも、そういう最中にある人々にも人智を越えた励ましや慰めが与えられている。生きる力が与えられている。それが神が共にという言葉が意味することではないでしょうか。

 2000年前のベツレヘム、人気の途絶えた家畜小屋、たった二人きりの若い夫婦マリアとヨセフ。彼らが迎えた現実は、困難な状況でした。そして、その先に待っていたのは、ヨセフの若死、生活の貧しさ、世間からの差別、そしてイエスの惨殺という結末だったのです。でも、神が共にだったのです。


 この一年、皆さんそれぞれにいろいろなことがあったはずです。受け入れがたい辛い出来事があった方もいると思います。悔やんだり、辛かったり、悲しかったり、心が虚しくなったり。酷く落ち込んだり、いろいろあったはずです。

 でも、この一年も神が共にであったのです。すなわち、この一年過ごしてきたどの時も意味があったのです。どの時も大切な時であったのです。人生の一コマ一コマ、無駄なことは一つもないのです。

 来る2015年が、どんな一年になるかはわかりません。ひょっとすると、思いも掛けない悲しみや苦しみが襲うかも知れません。でも、来年も神が共にいる。その先もずっと神が共にいる。すなわち、これからもやってくる、今、その時が、大切な意味ある時である。そのことを信じながら新しい年を迎えたいと思うのです。


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by buku1054 | 2014-12-24 23:24 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年12月14日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/14礼拝説教「群衆」マルコ7:31~37

 今日は、マルコによる福音書7章の最後の物語です。この箇所はどんなメッセージを伝えようとしているのか、そのことを考えつつ、ご一緒に読み進めて行きたいと思います。ここは、「それからまた、イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖にやって来られた」。という書き出しで始まっています。

 以前のわたしは、このような記述にほとんど反応しませんでした。本質を考えるのに大事なことではないと思っていたからです。しかし、この福音書を連続して読み進めていると、このような、ある意味そんな重要ではないように思える記述が、意外に重要だと思うようになりました。

 前回の話は、シリア・フェニキアで起きたことです。つまり外国です。この後イエスの一行は、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、そしてガリラヤ湖にいたったとあるのです。地図を見るとわかるのですが、イエスの一行は、ものすごく大回りをしているのです。つまり、できる限りパレスチナを避けるようにして移動していたことがわかるのです。

 これは、どういうことなのでしょうか。前回も話しましたが、イエスたちは休息の時を持ちたかったのです。しかし、休もうとして、狙った場所に行っても、人々はイエスに気がつき、休んで入られない状態になるのです。ですからこの冒頭の記述は、明らかにイエスたちが何としてでも休息を得ようとしたことを物語っているのではないかと思いました。

 さて、イエスの一行は、「ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。ここがどこなのかというのは、漠然と読むとわかりません。しかし丁寧に読むとわかるのです。ガリラヤという名称があると、ここはパレスチナ、ユダヤ人の地域と思ってしまうのですが、聖書には、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に着いたとあるのです。イエスの一行は、まだデカポリス、外国にいるのです。デカポリスはガリラヤ湖に面しています。なぜこのような瑣末のことに拘るかというと、それが重要だからなのです。

 そこでこの物語が始まるのです。デカポリスの人々がイエスの一行に気がつきます。すかさず、耳の聞こえない、喋ることが不自由な人を連れてきます。そしてその人に手を置いて欲しいというのです。つまり手当をしてくださいというのです。

 するとイエスは、何を思ったのか、この人だけを群衆から連れ出して癒しの業を行うのです。その癒しの業とは、自分の指をその人の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触られた。そして天を仰いで深くため息をつき、その人に向かって「エッファタ」「開け」と言うのです。そうしたら、この人の耳は開かれ、舌のもつれもなくなったというのです。

 中部学院大学の事務方をされている村上 進さん。以前ご紹介しましたが、村上 伸牧師の息子さんです。彼が中部学院大学のチャペルアワーで、この箇所について次のように述べていました。

 「実は、私は子どもの頃「日曜学校」という教会が子どものために開いていた集会に通っていて、そこでこのお話を聞いたことがあります。 そのときの私の感想は、「うえぇ、他人の舌につばをつけるなんてキモチわりぃ」でした。 愛の行為として「他人の舌を唾液で潤す」など、小学生の男子には理解できなくて当然です。大人になってから知りました。「これは、ディープキスだ!」

 そう思い込んで読み返してみると、ここの描写は全く違う印象で迫ってきます。皆さん、心から愛しいと思う誰か、たとえば恋人が、心からだにひどい苦しみを抱えていると知ったとき、どうするでしょうか。その人の辛さをわかってあげたい。でも現実にはその痛みを共有したりわずかでも肩代わりすることはできないのです。ならばせめて、私があなたの痛みをわかりたいと心から願っている、そのことだけでも伝えたいと思うでしょう?その人の頬を両手でくるみ、その涙を指でぬぐい、抱きしめ、くちづけをし、「あなたの辛さと一つになりたい」と祈るでしょう?

 この聖書では「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」と訳されています。「エッファタ」とは、「ひらく/ほどく」の「受身命令形」です。直訳すれば「ほどかれよ」ですが、これは杖を一振りして「アーブラカターブラ」と唱えるような魔法の呪文の類ではありません。

 イエスは無我夢中なのです。その人の硬直した舌を、自分のつばでやわらかくしたら何とかなるかもと思い、そしてその頭をかき抱き、その人が縛られている二重の苦しみと、それを肩代わりできないもどかしさに心を痛め、 深くため息をついて「お願い・・・ほどけて・・・」と祈ったのです」。

 村上 進さんは、牧師の息子さんということもあるのでしょうか、何度か彼のメッセージを読んでみて、とても深く聖書を読まれる方だと思っています。村上さんがいわれるように、イエスの無我夢中さ、つまり、何としてもこの人を救いたい。そんな気持ちの表れが、この行為となっているのです。

 ただしイエスのこの行為は、ユダヤ社会では絶対にあり得ない行為です。ユダヤ人からすれば外国人は穢れた人間です。こんなことが知られたら、即、死罪にさえなりかねません。つまりイエスは、命懸けで分け隔ての壁を越えているのです。

 おそらく前回のシリア・フェニキアの女性との出会いによって、イエス自身、完全にユダヤ的な一切のわだかまりから解かれたのだと思います。それがこの行為に表れたと思うのです。さらに癒しの後で、イエスは、人々にこのことは誰にも話すなと口止めをされます。何故なのか。これがこの箇所のポイントだと思います。


 前に、こんな話を読んだたことがあります。ある夫婦がいました。両方とも学校の先生でした。あるとき、奧さんの耳がほとんど聞こえなくなってしまったそうです。突発性難聴ということでしょうか。しかも、特にご主人の話すことが聞こえないというのです。実はこの奧さんは、結婚して以来ずっとご主人から抑圧されてきたというのです。いまで言うDVです。おそらくその精神的ストレスから、ご主人の声に拒絶反応を起こすようになったのだと思います。しかし、ご主人が亡くなった途端、耳は完全に回復したというのです。

 耳と口が不自由なこの人も、誰かに抑圧されていた人だったのではないか。そう思ったのです。しかも、その抑圧を群衆は誰も見ていない。知らない。たとえ知っていた人がいても意に介さない。群衆は興味本位に彼をダシに使ってイエスを試している。その寒々とした群衆の行為に、イエスはこの人だけと向き合ったのではないでしょうか。そして口止めされたのではないでしょうか。

 しかし群衆は、口止めされればされるほど、ますますイエスを賞賛してゆきます。わたしはこの描写を読むとき、イエスの救い主としての素晴らしさを人々がわかったんだとか、褒め称えているのだとか、だからわたしたちもイエス様を信じましょうといったような護教的な解釈には抵抗があるのです。わたしは思います。デカポリスの群衆が、この出来事で大騒ぎしているその陰で、イエスは深い悲しみにあったのではないかと。

 おそらくイエスによって癒されたこの人は、以前、特定の個人なのか、地域の人々なのか、ともかく徹底した非難、拒絶、排除、呪い、そうした言葉を執拗に浴びせられ、また少しでも反論しようとするなら何倍にも仕返しされるといった攻撃を受けてきた人だったのではないかと思うのです。それゆえに耳と口が不自由になってしまったのではないでしょうか。

 そんな彼がイエスによって癒されました。心も身体も解放されました。しかし、彼を群衆は放っておかないのです。大騒ぎです。お祭り騒ぎです。おそらく彼をいたるところに引っ張っていって、「見ろ、この人は、あのイエスというユダヤのメシアによって癒されたんだ」。公衆の面前で見せ物にされていったのではないでしょうか。

 たぶんこんな場面が展開されたと想像します。公衆の面前で見せ物となったこの人に実験するのです。今から俺が言ったことを復唱してみろ!と誰かが迫ります。これまで散々いたぶられてきたのです。ある意味また同じような仕打ちです。彼は聞いたとおりの言葉を発するでしょう。そうしなくては何をされるか知れません。そして群衆は益々熱狂的に騒ぎ立てるのです。

 イエスはこのような情景を予測したゆえに、人々に口止めされたと思うのです。群衆の騒ぎがエスカレートする様に深い失望を抱き、晒し者となっていったこの人に深い同情を抱かれたのではないでしょうか。

 今日の説教題を「群衆」としました。この物語は一見すると、イエスの癒し、耳と口の不自由な人の解放に焦点が当てられる箇所です。わたしも前に取り組んだときにはそう思いました。でもこの度読み直してみて、わたしは、群衆の有り様について描かれた箇所でもあるかも知れないと思ったのです。

 人間というのは、一人一人はそんなに悪い人はいないと思います。困った人を見たら助けたいと思うだろうし。素晴らしい映画や音楽に涙する感性もあるはずです。しかし、そんな個人であっても、一度集まってしまうとき、何かが狂うのではないでしょうか。

 ナチスドイツ時代のドイツ国民がそうだったのです。戦前戦中の日本国民もそうだったのです。現代もそのような例はいくらでもあるのです。9.11以後のアメリカはまさにそうでした。国の扇動にアメリカ国民は拳を掲げて怒りを顕わにしました。そして、大儀のないアフガニスタン侵攻、イラク戦争が起こされてしまったのです。その結果が巡り巡って今のイスラム国です。一人一人はいい人でも、群衆となったとき、あっという間に狂気の集団になる。それは理屈では計り知れない現象ではないでしょうか。


 耳と口が不自由だったこの人が、この後どうなったのかはわかりません。ただこの物語は、イエスのこの後をも示している物語だったのではないかと思いました。無責任な群衆と耳と口が不自由だった人、その構図は、イエスと十字架を前にした群衆との関係を予感していたようにも思えてならないのです。すなわち、イエス殺害を後押しした者たちです。そして、その者の一人にわたしたちも加わってしまう可能性がある。そのことを受けとめなくてはならないと思うのです。権力や体制に媚びない、流されない、属さない。たぶん今後の日本を思うとき、わたしたちが肝に銘じなくてはならないことではないだろうか。今わたしはそう思うのです。


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by buku1054 | 2014-12-14 17:34 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年12月7日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/7礼拝説教「神と出会うとき」マルコ7:24~30

 
今日はマルコによる福音書7章の二つ目の話となります。舞台はシリア・フェニキアの町です。外国です。フェニキアというのは、航海術に長けた海洋民族の国です。アルファベットを発明した人々としても有名です。彼らは地中海を渡って、北アフリカの北岸、現在のチュニジア辺りにカルタゴというとても繁栄した植民地を築きました。ローマ帝国の強敵で将軍ハンニバルもよく知られた存在です。このカルタゴはアフリカでのフェニキアですが、それと区別するためシリア・フェニキアという呼び方が生まれるのです。

 ところでなぜイエスは外国へ行ったのでしょうか。冒頭に次のような言葉があります。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っていたが、人々に気づかれてしまった」。イエスは誰とも関わりたくなかったのです。その理由は、疲労困憊だったからではないでしょうか。

 ここに至るまで数多くの癒しがありました。5000人の群衆への対応もありました。弟子たちは自分たちだけで宣教活動もしました。ユダヤ教の指導者たちとの論争もありました。イエスの一行は疲れ切っていたはずです。もうそろそろ骨休めをしたい。次の活動への充電もしたい。そんな心境だったのではないかと思うのです。ですから、わたしはここは、イエスのバカンスだったと思うのです。

 さて本文を見て行きます。誰にも気づかれないようにしてひっそりと休息の時を得ていたイエスでした。しかし、せっかくのバカンスも人々に気つかれ、元の忙しい日々に引き戻されてしまいました。一人の女性がやって来ます。シリア・フェニキア生まれといいますから異邦人です。彼女は娘を助けて欲しいとやって来たのです。娘が汚れた霊に取り憑かれたというのです。しかも彼女はイエスの足もとにひれ伏しているのです。必死に懇願しているのです。


 この女性の姿は、当時としてはあり得ない事です。ユダヤ人と異邦人との間には深い隔たりがありました。その原因は、ユダヤ人による異邦人への差別です。それゆえに両者に間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人であるイエスに救いを願うなどあり得ない事だったのです。まして、ひれ伏して懇願するなど考えられないのです。

 したがってこの女性は、恥も外聞も何もかもすべて捨てているわけです。それほど切羽詰まっていたのです。何としても娘を救いたかったのです。それに対してイエスはこう言います。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。

 これはいったいどのような意味なのでしょうか。「子供たち」とはユダヤ人を意味します。「小犬」は異邦人です。つまりイエスは、「わたしの救い、わたしの恵みは、ユダヤ人のためにあるのであって、異邦人に与える分はない」と述べたのです。イエスの言葉はあまりにも冷たい。というか随分酷いことをいうものだというのが率直な感想です。

 だとしたら、イエスの真意は何だったのでしょうか。せっかくのバカンスの邪魔をされて苛立っていたのでしょうか。人間イエスという視点に立てば、それも十分あり得ます。だからつい本音が出てしまったのかも知れません。

 あるいは、イエスも時代の子だったのでしょうか。イエスはあくまでユダヤ人であり、ユダヤ教徒です。ユダヤ教の改革を目指してはいたでしょうが、異邦人にまで恩恵を拡大しようとは思ってはいなかったのかも知れません。それが本音だったことは十分考えられます。

 これに対して女性はどう反応したのでしょうか。「人を犬呼ばわりするとは何だ」。そういって怒り、恨み節の一つも言い返してその場を離れたのでしょうか。普通ならそうするはずです。すごい救い主で慈愛に満ちたお方だと聞いたから来たものの、とんだペテン師だった。やっぱり傲慢なユダヤ人の男に過ぎないと思われても不思議ではないのです。

 しかしこの女性は怒ったわけでも、立ち去ったのでもありません。こう言うのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。彼女はこれほどの侮辱を受けても怯みません。わたしたちだってユダヤ人のおこぼれに与れますというのです。

 この言葉をわたしたちはどう受けとめたらいいのでしょうか。これはあまりにも卑屈すぎる。彼女は人間の尊厳を否定している。いくら救って欲しいとは言え、ここまで自分を貶めるべきではない。そう考える人もいるのではないでしょうか。ほんとうに解釈が難しいところです。考えてみました。もしも、彼女が卑屈すぎる、人間の尊厳の否定だと思うならば、その前提は、自分は犬ではない。恵みを受けるに値する者、価値ある者という意識です。現代では当然の意識です。だから人間の尊厳とか人権という言葉も当たり前のように用いられるわけです。したがって人権侵害を赦してはならないということになるわけです。

 もしここで彼女がそう思っていたのなら立ち去ったはずです。しかし立ち去らなかった。それはなぜか。間違っているかも知れませんが、彼女の思いはこうだったのではないでしょうか。「わたしたちは惠に値するような人間ではありません。救いに与れるような人間ではありません。でも、いのちを与えられた以上生きてゆきたいのです。生きさせてください。どうか娘を助けてください」ということだったのではないでしょうか。民族とか人種とか身分とか、そんなことは一切関係のない、人間としての根源的な願いだったのではないでしょうか。

 イエスはこれに対してどう言ったのでしょうか。「それほど言うなら、よろしい、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。新共同訳ではこう訳されていますが、ここは訳するのがとても難しいところだそうです。岩波書店の聖書ではこうなっています。「そう言われてはかなわない。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出てしまった」。


 厳密には、う~んとうなって言葉にならないような感じだそうです。おそらくその感じを察して岩波では、そこまで言われたら、かなわないとなったと思います。つまりイエスは降参しているのです。自分の負けだ。自分は間違っていた。そう認めているのです。

 わたしたちはイエスをキリストだと信仰するあまり、イエスが間違いを犯す。そんなことはこれっぽっちも思わないはずです。常に完璧な方、一分の隙もない立派な方、慈愛に満ちた方、そう思っています。またそうではくてはならないと思っています。だから新共同訳では「そこまで言うなら、よろしい。家に帰りなさい」としか訳せないのです。でも、これではあまりにも上から目線です。彼女の頑張りに対して、だったら救ってやるぞと言わんばかりです。

 でも、イエスはそういう人ではなかったのです。人間ですから間違いも犯すのです。時代の限界もあったのです。そしてこの出会いがイエスを変えたのです。彼女の執拗な食い下がりによって、イエスは深く恥じ入り、回心したのです。

 わたしは自分の間違いを認め、自分を変えることができるのは、愛だと思います。愛があるから変えることができるのです。世の中には、絶対に自分を変えようとしない人がいます。ほんとうに正しいのならそれでいいでしょう。しかし自分が明らかに間違っていても変えようとはしない人がいます。自分は絶対に正しいという信念なのか、それとも意地なのか、あるいはトラウマからなのか、悔しさからなのか、その理由は様々です。

 でもそんな人にも、その頑なさを変えようとする機会がしばしば訪れるはずです。わたしはあえていうなら、それが神と出会っているときだと思いたい。イエスはまさにここで神と出会ったのではないでしょうか。そしてイエスは間違いを認めるのです。ユダヤ人として持っていた差別や偏見に気がついたのです。そして悔い改めたのです。


 この福音書記者は、イエスのイメージにとって都合の悪いこの伝承を残すことで、神と出会うときとは何か、神の御心に生きようとすることとは何か。それをイエスが自らの非を通して、自分のイメージダウンになることを通して示しているのだ。だからわたしたちも、そうできたらいいよね。そう伝えたかったのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2014-12-06 17:45 | 礼拝メッセージ | Comments(0)