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2014年11月23日坂下教会礼拝メッセージ

2014年11月23日礼拝説教「救われた」マルコ6:53~56
                        
 今日もマルコによる福音書を通して、わたしたちに必要な福音のメッセージを聴きたいと思います。前回は湖の上を歩くイエスという物語について考えました。この後、イエスの一行はガリラヤ湖を渡り、ゲネサレトという土地に着きました。そこで起きた話です。6章の最後の物語です。

ここはガリラヤ湖の北西に位置する地域で、肥沃な土地で気候も温暖だったということです。したがって農産物も豊富だったでしょうし暮らしやすい地域だったと思うのです。
しかしこんな良い場所を、ローマ帝国の商人たちが放っておくわけがりません。おそらくローマの商人たちは、この地域の農民たちと不当な交渉をして利益を奪い取っていたのではないでしょうか。ですからこの地域の農民たちもまた貧しく生活に困窮していたと思うのです。

 イエスの一行が上陸すると、すぐに人々はイエスだと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運びはじめた。また、村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせて欲しいと願ったというのです。そして触れた者は皆癒されたというのです。

 救済者としてのイエスの評判がいかに大きかったことを思います。服のすそに触れさえすればというのは、おそらく「長血を患った女性」のことが知れ渡っていたのではないかと思います。

 さて、今日の説教題を「救われた」としました。これは、一番最後の言葉「触れた者は皆癒された」からとりました。新共同訳で「癒された」とあるのは、原文では「救われた」なのです。癒されたでも救われたでも同じことではないかと思う方もいるかも知れませんが、この違いを見過ごしてはならないと思ったのです。癒されただと、あくまでも個人的な事柄です。しかし救われただと、もっと拡がりのある意味になるのではないでしょうか。

 救われる。救い。キリスト教に限らず、宗教最大のテーマです。救いを語らない宗教はありません。わたしたちも宗教に求めるのは「救い」です。では、救いとは何でしょうか。病気が治ることでしょうか、問題が解決されることでしょうか、死後のいのちが保障されることでしょうか、立派な人格者になれることでしょうか、常に平安な心にいられることでしょうか。いろいろあると思います。そしてそのどれもが救われることでしょう。しかし、聖書が語る救いとは今あげたような事柄に留まるのでしょうか。

 まえにもご紹介したのですが、『なぜわたしだけが苦しむのか』という本があります。この本はアメリカのユダヤ教のラビ、ユダヤ教の聖職者ですが、ハロルド・クシュナーという方が書いたものです。クシュナーさんは、14歳の息子を、早く年をとってしまうという世にも珍しい難病で亡くしたというたいへんな不幸を経験された方です。

 クシュナーさんはその苦しみと悲しみの体験から、「なぜわたしたちだけがこんな苦しみに遭わなくてはならないのか?」という不条理を自らに問い続け、そこから、神とは何か、人生とは何か、苦悩とは何かといった思索をするのです。その結果、彼が到達したことを詳細に記しました。それがこの本です。これは1980年にアメリカで出版されると、たちまちベストセラーとなり、現在14カ国で翻訳されている名著です。この中でクシュナーさんが、ある若い未亡人に対してアドヴァイスした件が印象に残りましたので、ご紹介したいと思います。

 「彼女の夫は癌でなくなりました。夫が末期の状態であったあいだじゅう、彼女は夫の回復を祈り続けたそうです。彼女の両親も、夫の両親も、そして近所の人たちも、みんな祈りを捧げたのです。近所に住むプロテスタントの友人も教会の祈祷会で祈り、カトリックの友人も、絶望的な状態にある者のために守護聖人である聖ユダの執り成しを求めたのです。ありとあらゆる言葉や形式の祈りが動員されましたが、どれ一つとして聞き入れられなかったのです。彼女の夫は予告通りに、妻と幼い子どもたちを残して死んでしまいました。すべてが終わってから、彼女はわたしに、どうして祈りを真面目に信じることができますか、と言いました。

 祈りが応えられなかったのはほんとうですか、とわたしは彼女にたずねました。ご主人は亡くなりましたし、奇跡的な治癒も起こりませんでした。でも、何が起こったのでしょう?あなたの友だちや身内の人たちが祈りました。ユダヤ教の人たちも、カトリックの人たちも、プロテスタントの人たちも祈ったのです。孤独の極みに立たされたその時に、あなたは一人きりではないことを知ったではありませんか。あなたは、多くの人があなたのために心痛め、あなたと共に傷ついたことを知ったのです。

 ……あなたの祈りはどうだったでしょう、とわたしはたずねました。応答がなかったのですか?あなたは精神的に今にも崩れそうな状況に直面していましたし、意地悪で世間を信じない女性になっていたとしても不思議ではありません。夫婦揃って元気なまわりの家庭に嫉妬し、生きていくことさえできなくなっていたかも知れません。ところが、そういう状態にはなりませんでした。もちこたえる力をあなたは見出したのです。もう一度立ち上がって生きていく力と、まわりの物事に心を配る力を取り戻したのです」。

 この件を読みまして、わたしは「救い」について考えさせられました。この若い未亡人のために、これだけ多くの様々な立場の人たちが、その主義主張や宗教的立場を超えて、サポートし、共に悲しみを担っていたこと。また、幼い子どもと共に残されたこの若い未亡人が、多くの人たちに支えられ、もう一度生きていこうと立ち直っていく。こうした姿。こうした一連の出来事。もしかしたら、これこそが「救い」というのではないかと思ったのです。

 今日の箇所の前にある二つの物語は、今にも倒れそうな難民たちを目の当たりにしたイエスが腸がちぎれるような思いに駆られたという話と困難な状況にあるときこそ神がもっとも近くにいてくださるときだということを示しているのではないかということでした。おそらくこの福音書記者マルコは、この6章で、神とはどのような方なのかということを示そうとしたのではないかと思うのです。


 すなわち神とは、わたしたちを無償の愛で包み込んでいる。特にわたしたちが困難にあるとき、その愛がもっとも強くなるときだということです。もちろん神は直接わたしたちを手助けすることはできません。でも、神の無償の愛は、必ずこの世に存在する具体的な何かによって伝わり、示されるのではないでしょうか。

 そしてそのことに気がついた者、悟った者は、今度は自らが他者のために愛の働きに勤しむことになるのではないでしょうか。この6章の最後の物語は、そんな人たちの物語を描いたのではないでしょうか。

 ゲネサレト、おそらくかつては肥沃な土地ゆえ、人々は豊かに平和に暮らしていたはずです。しかしローマ帝国の支配の時代になって平和は脅かされ、人々は貧しくなりました。一家の大黒柱は出稼ぎに出ざるを得ず、家族は困窮し、餓死者や病人が続出するような状況だったに違いありません。

 そんな中で彼らはイエスと出会ったのです。彼らはそこでイエスという方の言葉と行い、その人柄を通して、神を感じたのではないでしょうか。イエスが説く神の支配とはこういうことだったのかということに気がついたのではないでしょうか。

 そして彼らは、神の愛に押し出され、他者のためにという姿勢に変えられていったのではないかと思うのです。その地方にうずくまっていた病人や障がい者たちを捜すために走り回った人々、見つけたらイエスの元へと運ぶ人々、彼らの姿はまさに他者のために生きようとする者の姿です。そしてそれこそが、救われた者の真の姿ではないでしょうか。


 最後に、長らく教団の牧師として務められた村上 伸先生の言葉をもって結びにしたいと思います。

「聖書で言う救いとは、自分だけの願いを叶えられて幸せになるということではなく、神によって赦され、和解を受け、新たな力と希望を与えられて、この世の中で他者と愛し合って共に生きていけるように変えられるということです」。



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by buku1054 | 2014-11-20 11:32 | 礼拝メッセージ | Comments(0)