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2015年1月25日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1月25日礼拝説教「村人の中に入ってはならない」マルコ8:22~26

 今日も引き続きマルコによる福音書を読んでゆきます。前回は、ガリラヤ湖を航行中にイエスと弟子たちとの間で交わされたやり取りについての話でした。そこでは、イエスと弟子たちとのズレがあまりにも大きかったことが示されていました。突き詰めれば、「救済についての考え方」の違いです。弟子たちは、あくまでも自分自身が救われる。それが救いでした。それに対してイエスは、誰もが分け隔て無く救われることを目指していたのです。

 救済ということで思い出したのですが、わたしが神学生時代に属した東京の三鷹教会の初代牧師、石島三郎先生は、その著書の中で、イエス・キリストとはどのような方だったかを説明する上で、次のような譬えを述べていました。「深い穴に落ち込んでしまった人がいる。とても自力では上れない。その状況で、上からロープを降ろして引き上げるのではなく、先ずは自分が穴に落ちた人のところまで下りていく」。それがイエスだということです。何よりもまず他者のことを考えるのがイエスの姿勢だというのです。

 イエスの一行はベトサイダに着いたとあります。ガリラヤ湖の北東部に位置する町です。ここは、注解書や辞典、その他の参考文献を見ても、特筆したことは書いてありません。つまり、ガリラヤのどこにでもある町だったということです。当時のガリラヤは、ローマ帝国の植民地であり、その直接の支配を任されたヘロデ・アンティパスの地域でした。そこで特筆したことがないということは、徹底してローマとその傀儡であるヘロデ政権の支配下にあったということではないでしょうか。住民はまったく手も足も出ない、そんな状況だったと思うのです。

 イエスはここで一人の盲人を救います。そして、最後のところで、「この村に入ってはいけない」と述べています。このことと、ここが権力によって徹底して支配されていたということに何らかの関係があるのではないか。それがこの物語を解釈する上でのポイントではないかと思いました。


 他の箇所と同じように、ここも、イエスがやって来ると、人々が障がい者を連れてくるのです。いつものパターンです。たぶん、イエスが病気治しの神様というか、特別な能力を持ったすごい存在だということが、かなり広まっていたことの証だと思います。それと、いかに、病いと障がいに苦しむ人たちがいかに多かったかということも示していると思うのです。

 さて、イエスは連れてこられた盲人を、村から連れ出したとあります。7章に同じような物語がありました。耳と口に障害がある人の癒しです。そこも、その人だけを連れ出して癒すのです。ただそこでは、群衆から連れ出したとなっています。でもここは、村から連れ出したとあるのです。しかも最後で、村には入るなとあるのです。どうも、「村」というのがこの物語の鍵だと思うのです。

 わたしたちは9年前に川上に住みました。川上は合併前は、旧川上村です。現在の人口は800人台です。わたしたちが住んでから約200人が減りました。自然環境が素晴らしく、人も穏やかです。その意味では、とても暮らしやすいところだと思います。

 でも、地域の縛りという意味では、坂下以上かも知れません。今年度、わたしが地区長なのですが、その任務を真面目に行ったら、かなり礼拝を休むことになります。さすがにそれはできないので、妻がわたしの代行をしています。正直言って、根が都会人のわたしにとって、このような地域の体制は嫌だなとは思います。でも、地域の立場からすれば当然のことです。

 わたしはこの地で18年やってきて思うのですが、農村では、クリスチャンとしても、教会としても、ものすごく不利だと思いました。都会とはまったく違います。地域を考えると、個々の自由は制約されます。かといって個々の主張を顕わにすれば、地域は煙たがります。場合によっては弾きます。教会の礼拝は地域活動の中心である日曜日ですから、当然、地域活動に参加できないことが多いわけです。したがって、日本の農村では、教会は振るわないのです。残念ですが、この先も変わることはないでしょう。


 ですからなのでしょうが、某大学の神学部は、かなり前に、農村伝道から撤退したと宣言したと聞きました。別の大学の神学部も農村は伝道の対象にはなっていません。昨年、日本創成会議だったでしょうか。21世紀内に日本の市町村の内、896箇所が消滅する可能性があると発表しました。そのことが各地で物議を醸しているようです。国の本音は、この分析を受けて、主要地域に百万人単位の都市を作り、そこに住民を集め、周辺は切り捨てるということが日本を救うと考えているようです。ものすごく暴力的な発想です。

でも、今の教団の主流は、否、教団だけではないでしょう。日本の教会の全体は、この考えとそう変わらないと思います。田舎の小さな教会は無くなってもいい。それに費やせる分を、成果が見込める都市部の教会へ支援した方が良いということです。実際,中部教区でそういうことを述べた牧師がいました。

 さて、本題から外れましたので戻ります。イエスはこの盲人を癒して見えるようにします。するとこんなことを言うのです。「この村に入ってはいけない」。そして、その人を家に帰されたとあります。この、さらっと書いてある部分が意外にも大切だと思うのです。盲人だったこの人の家は、この村にあるのでしょうか。だとしたら、村には入るなというのは矛盾しています。家には帰れません。

 ということは、この人の家は、村にはないということです。ならば何の問題もないと思うのです。村に行かなければいいのです。しかしイエスは、村には入るなというのです。どういうことなのでしょうか。

 今日の説教題を「村人の中に入ってはならない」としました。これは岩波書店の聖書の訳からとったのです。村に入るなということも、村人の中に入るなということも。同じ事です。村に入ることは、そこにいる村人と接することです。岩波の聖書は原文に忠実ですから、あえてそこに「人」を入れるのです。おそらくこの聖書記者は、この村の、「人」ということに重きを置いているのではないでしょうか。そこに入るなというのは、村の人たちと関わるなということではないでしょうか。

 わたしは思います。これは、この盲人が関わってきた、ある村の人々との関わりを捨てなさい。さもないと再び苦しむというか、問題が解決しないというか、ともかくあなたにとってよくないよ。ということではないでしょうか。では、村の人々との関わりとは何でしょうか。

 昨年から、川上では草刈り事業が増えました。それまでは年二回だったのが、年三回になったのです。特に三回目は10月の末なので草なんか伸びてない時期です。やる必要がありません。ならば何故行うのか。中津川市からの援助を受けるために実行するのです。実施は日曜日ですから、皆、休みを犠牲にします。水面下では不平や不満があります。しかし、上からの命令で抗えないのです。地区長のわたしは、礼拝のため出ないのですが、そうはいきませんので妻が代行します。

 もっとも、こんなことはまだ何とか我慢して対処できます。しかし、その地域の掟というか慣習といか、絶対に従わざるを得ない状況になったとき、抗うことは益々できません。村とはそういうものです。村の人たちに、帰属意識を高めるために、強制するのが村のあり方なのです。

 イエスによって癒されたこの盲人は、この村と何らかの関わりにあった人です。でも、イエスはこの村の人々とは関わるなというのです。冒頭で、この話の舞台であるベトサイダは徹底してローマの支配下にあると述べました。ローマに対して手も足も出ないということでした。こういう場合、ローマに対して抗うという気持ちはなくなると思います。するとどうなるでしょうか。おそらく、ローマに対して、さらにはユダヤ体制に対して、いい顔をしてうまく立ち回るという卑屈な精神が生まれると思うのです。

 ローマにもユダヤにも従っていれば、この村は安泰だという意識になるはずです。そこで生じるのは、ローマにもユダヤにも逆らう者を一切出さないということです。そのために相互監視が始まるのです。あいつはこんなことを言った。こいつはあんなことをした。けしからん。赦せん。村にとって不利になる状態は攻撃の対象になります。排除する対象になります。


 イエスによって癒されたこの人は、これまでのように監視され、差別され、排除される対象ではありません。しかし、このような村のシステムというか村の精神のあり方の中で、この人が、かつての自分と同じような苦しみにある人に同情し、手を差し伸べることができるでしょうか。

 できないと思います。手を差し伸べたその瞬間に本人も差別と排除の対象になるはずです。したがって、この人が村の人々と関われば、今度はこの人も、村のシステムと精神に取り込まれざるをえなくなると思うのです。つまり、この人自身が弱者を差別し、排除する側になってしまうということです。

 マルコ福音書の8章は、この福音書の分水嶺です。ここを境にしてイエスの十字架への歩みが一層濃くなってゆきます。それを臭わせるのがこの物語だと思います。というのは、イエスの十字架の場面で、何故助ける者がいなかったのか。何故イエスは孤独のままに死んでいったのか。イエスによって救われた者、助けられた者、癒やされた者はたくさんいたはずです。でも、そうした者の誰もイエスの側に立てなかったのです。それは今日の物語に見ることができます。

 イエスによって助けられた者たちは、その後、徹底したローマ支配、ユダヤ支配の中で、再び声を挙げられなくされてしまったのではないでしょうか。

 イエスは、穴に落ちてしまった人を上から引き上げるのではなく、自ら穴の底に降り、苦しみを共有した方です。そこから引き上げられた者が、今度は他者を穴に突き落とすことを望みはしなかったはずです。しかし、人間は弱いのです。自分が救われても、次には他者を穴に突き落とす側になることもあるのです。いや、そうならざるを得ない現実があるのです。それが人間の悲しさです。でもイエスは、そんなわたしたちをも庇うのではないでしょうか。十字架はそのことも顕しているのではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-01-24 22:20 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年1月11日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1/11礼拝説教「そんなあなたがたを」マルコ8:14~21

 今日も引き続きマルコによる福音書を読み進みます。前回は、イエスとファリサイ派とのやり取りについての箇所でしたイイエスが外国人を救済したことに対して、ファリサイ派は良く思いません。というか憎しみさえ抱きます。
なぜなら彼らは、神が救うのはユダヤ人だけだと信じていたからです。イエスはそんな彼らを相手にしませんでした。
取り付く島がなかったからです。

 どんなに丁寧に真摯に話しても、まったく通じない人がいます。今もそうです。イスラム国のような過激な人たちと対立する勢力は、まったく通じ合えません。ロシアとウクライナ、パレスチナとイスラエルもそうでありましょう。

 おそらく、様々な違いがあるために同じにすることができないものを、無理矢理自分たちと同じにしようとすることが問題なのではないでしょうか。昨年「ありのままで」という歌が流行りましたが、いろいろな違いがあるのが現実です。その現実をうまく機能させるには、お互いに譲り合って、妥協点を見出すより他ありません。しかし、それが出来ないのが人間です。悲しいかな、人間はほんとうに愚かな存在だと思います。


 さて今日の本文を見てゆきます。向こう岸へと渡る舟の中、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れた、一つしか持ってこなかったというのです。この記述は、どうも不可解です。果たして必要な記述なのかというのが率直な思いです。というのは、前の段落でイエスとファリサイ派のやり取りがあります。イエスは彼らを相手にしません。取り付く島がないからです。

 それを踏まえると、今日のところでは、イエスが弟子たちに向かって、ファリサイ派のパン種には気をつけなさいという部分が直ぐに来るのが自然だと思います。ところがまず弟子たちのパンのことが記されているのです。どうも調子外れというか、必要のない部分のように思います、でも、弟子たちがパンを忘れたというこの部分が挿入されているのです。これがよくわからないのです。とりあえず先に進みます。

 イエスは弟子たちに言うのです。「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。不可解な言葉です。直ぐには理解できません。おそらく何らかの譬えなのでしょう。パン種は、イースト菌のことです。要するにパンを膨らますものです。余談ですが、カトリック教会の聖餐式では、イースト菌を入れないパンを使います。ウエハースみたいなものです。一方、カトリック教会と分かれた東方正教会は、イースト菌を入れたパン、わたしたちがイメージするパンを使います。11世紀にカトリック教会と東方正教会が分裂しますが、このパンの違いも分裂の一要因になったといわれています。わたしたちプロテスタントはカトリックの流れですが、東方正教会と同じです。普通のパンです。

 ともかくイエスは、ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種には気をつけろと弟子たちに勧告します。パン種は、パンを膨らますものです。つまり、膨らむということから、拡大してゆくということが意味されるのだと思います。では、ファリサイ派とヘロデ、その何が拡大してゆくというのでしょうか。イエスはそのことを問題にしているのです。

 この物語は、小見出しを見ると、マタイ福音書にも同様の記事があることがわかります。そこを参照すると明らかになります。パン種に譬えられたものは、マタイによれば「ファリサイ派とサドカイ派の教え」ということなのです。マルコではサドカイ派ではなくてヘロデという違いがありますが、ヘロデとサドカイ派は利害が一致していたので、同じと考えて間違いがありません。したがって、イエスはファリサイ派とサドカイ派、ないしヘロデ派の考えには気をつけなさいと勧告したわけです。では、何に気をつけなさいということなのでしょうか。

 ファリサイ派は、律法至上主義です。神の掟と信じた律法を何よりも大切にしていました。律法イコール神と捉えていたといっても過言ではありません。彼らはとにかく律法の規定を厳守すること。それが神から救われる事だと信じていました。ですから守れない者は神の救いから漏れた者、人として価値のない者と捉えたのです。

 もっといえば、非情に煩瑣な律法の規定を守れるのは、字が読めて、律法教育を受けて、安息日には仕事をしないですみ、神殿に足繁く参拝できるような恵まれていた人たちです。生活のためには安息日にも働かなくてはならない貧しい農民や漁師、羊飼い、日雇い人夫、娼婦といった者たちは穢れた者とされ、救いの対象からは外されていました。このような分け隔て、差別。それを当然のこととしていた。それがファリサイ派です。

 一方サドカイ派は、ユダヤのエリート階層であり、神殿体制の中心的な存在でした。神殿を司る祭司たちが主な人たちです。彼らも宗教指導者ですが、神殿儀式に際して、たくさんのお布施や賽銭、また犠牲の供え物となる動物を自分たちの用意したものを押しつけることで得る利益など、金儲けが当たり前になっていました。宗教、信仰という大義名分の裏で、巨大な経済利潤体制を築き上げていたのです。

 ヘロデ派は、ユダヤ人ではありません。イドマヤ人という外国人です。彼らはローマ帝国の権力者たちにうまく取り入って、パレスチナの統治権を手に入れた人たちです。ある意味最も美味しいところを手に入れた人たちです。民衆の貧困、不公正、不条理な社会の陰でローマ帝国と共に利益を搾取できた人たちです。彼らの一年間の利益は、一般庶民の一年間の収入の何百万倍というほど巨大な利益だったそうです。

 当時のユダヤ人のほとんどをしめた貧しい庶民階級は、こうした少数のエリートたちによって、政治的にも経済的にも宗教的にも虐げられていたのです。わたしが思うに、政治的経済的に虐げられていても、宗教が助けになるのならまだ救いはあります。でも、頼みの宗教が、率先して人を差別していたわけです。宗教が人間の尊厳を踏みにじっていた。人々の困窮にとどめを刺していた。これがこの時代の悲劇ではないでしょうか。

 ファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけなさいという戒めとは、こういうことだったのです。人間の尊厳を踏みにじるこうしたユダヤの権力体制は、ますます強大になり、益々民衆を苦しめる。このことをしっかりと認識していなさい。惑わされてはならないということだと思うのです。

 けれども弟子たちは、イエスの戒めにまったくといっていいほど気がついていません。彼らはイエスの言葉に対して「これは自分たちがパンを持っていないからだと論じ合っていた」とあるのです。なんというか、不可解なほど、イエスと弟子たちとがずれています。前回も述べましたが、弟子たちは自分の救いに執着しています。具体的にはダビデ王時代のイスラエルの復興です。政治的経済的に復興することです。豊かな暮らしの復活です。

 わたしたち人間は、自分の利益、それは政治的であろうが経済的であろうが、それとも宗教的であろうが、それを獲得したい、維持したい。手放したくない、そういう思いに心奪われているとき、ほんとうに大切なことに気持ちが行かない。あるいはほんとうに大事なことを見落とすものだということが言えるのではないでしょうか。


 それは今のわたしたち日本人にも言えると思います。今の日本人は、「景気回復」。この一言にとにかく弱いと思います。かつて諸外国からエコノミックアニマルと揶揄されましたが、本質的には今も変わらないでしょう。ともかく経済的豊かさが一番大切です。もちろんその気持ちもわかります。暮らしが苦しいのは嫌です。しかし、国は「景気回復」といいつつ、国民を騙し、自分たちの利益を優先させる。それでも国民は、「景気回復」という甘い言葉に惹きつけられ現体制を支持してゆくのです。原発推進でも、戦争国家になろうともです。これは弟子たちと同じく、自分の救いにのみ心が奪われているから、騙されても気がつかない。そういえるのではないでしょうか。

 イエスは弟子たちの無理解に相当がっかりしています。まだ悟らないのかという言葉を繰り返しているのです。そもそもイエスが弟子に選んだ者たちは、皆貧しい者たちであり、ユダヤの権力体制から虐げられていた人たちです。おそらくイエスは、そういう者たちだから、自分が展開する活動の意味を理解してくれるだろうという期待があったと思うのです。

 ましてや、イエスの行くところ、差別と不条理で苦しむ人たちばかりで、そうした人々の救いを行ってきたのです。しかしここへきて、弟子たちは何もわかっていなかった。それほど自分への執着が強かった。その現実を突きつけられたのではないでしょうか。

 ではイエスは、こんな弟子たちを見限って、新たな人材を登用したのでしょうか。先日新聞を見ていましたら、ラモス監督で昨年注目された、サッカーJ2のFC岐阜が、主力選手も含め17人も解雇したというニュースを目にしました。来期に向けてかなり大胆な人事を敢行したわけです。スポーツの世界とイエスの集団を単純に比較することは出来ませんが、神の国実現というイエスの究極の目標を思うなら、弟子の総入れ替えがあってもおかしくない。それほど弟子たちの思いはイエスとずれていたのです。


 しかし、次の段落の冒頭にはこう記されています。「一行はベトサイダに着いた」。「一行は」なのです。イエスは弟子たちとそれまでと変わらず、一緒に宣教の旅を続けているのです。それは十字架の死に至るまで変わらないのです。弟子たちの裏切りにあっても変わらないのです。

 おそらくイエス思ったでしょう。こんなにも鈍く、こんなにも愚かで、こんなにも自己中心でいる弟子たち、この先ほんと思いやられる。この弟子たちの姿というか本性は、今のわたしたちとそう変わらないと思います。今のわたしたち、信仰の確信はない。いざとなればあっさり捨てるかも知れない。精々そんな程度でしょう。また、信仰生活を維持していたとしても、その本性は、天国へ行ければそれでいいという自己保身とか、信仰を持たない者への見下しとか、同じ信仰でも解釈が異なる者への非難とか、欠陥だらけです。

 今日の説教題を「そんなあなたがたを」としました。そんなあなたがたとは、イエスの直弟子であり、その後のキリスト者であり、今ここにいるわたしたちです。イエスはこの後も弟子たちと活動を共にします。そして裏切られても、見捨てられても彼らを庇いました。そのイエスが、その後も共にいて下さるというのが、キリスト教の真髄です。徹底したわたしたち人間に対する赦しと信頼を貫いた方、それがナザレのイエスという方だったのです。

 きっとイエスは、自分の思いをまったくわかっていない弟子たちに対して、その後、過ちを繰り返した教会の歴史に対して、そして、弱くて情けない今のわたしたちに対して、こう思っているはずです。そんなあなたがたを、わたしはずっと背負ってゆくよ。



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by buku1054 | 2015-01-10 15:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年1月4日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1/4礼拝説教「今の時代」マルコ8:11~13

 新しい年2015年を迎えました。この一年は、いったいどんな年になるのかと考えます。21世紀になってからでしょうか、新年を迎えて、明るく希望に満ちた年になりそうだと思ったことは一度もありません。どんどん悪くなっているように思います。

 地球温暖化の影響なのでしょうか、ここ数年、想定外の豪雨によって国の内外で大きな災害が起きています。昨年は広島で大きな土砂災害がありました。たくさんの犠牲者が生じました。身近なところでは、南木曾の土石流で中学生の男の子が犠牲になりました。

 また、東日本大震災以降、火山列島の日本は活動期に入っているようです。昨年には御嶽山の噴火がありました。多くの犠牲者がありました。長野県北部の地震もありました。死者はなかったものの数多くの被害がありました。今年も再びどこかで大きな地震や噴火が起きるかも知れません。その筋の専門家によれば富士山が噴火する可能性が高いといいます。事実その兆候らしき現象がいくつも起きているといいます。東南海地震や東京直下型地震も近々懸念されるようです。

 政治的には昨年末、衆議院選挙が行われました。自公の圧勝という結果でした。しかし中身を精査すれば、決して現政権が信任されたとは言えないと思います。投票率の悪さがまずそれを物語っています。52%では民意を反映してるとはとても言えません。野党では共産党が躍進しました。反自公の表れです。他の野党が、反自公の受け皿にならなかったと言えます。もっとも共産党の躍進も、力にはなり得ません。沖縄では自民は全敗しました。本土と沖縄の思いがかなり違うことが改めてわかりました。以前からいわれていることですが、今後、沖縄が日本から独立する動きが具体化されるかも知れません。


 しかし安倍首相は、今回の選挙結果に、国民の信任を得たとして、集団的自衛権の法整備、改憲、原発推進、普天間基地の辺野古移転を粛々と進めると述べています。消費税も再度上がり。労働者派遣法も改悪されるでしょう。TPPも国益が損なわれる決定になると思います。

 そもそもこの度の消費税8%も、社会保障との一体化で進められたものです。しかし、介護保険も健康保険も生活保護も国民の負担が増えました。なぜなら、消費税の増税分のうち社会保障費に使われるのは一割にも満たないからです。マスコミはこれを一切報道しません。明らかにわたしたちは、国に騙されています。しかしそれでも、国民の半分は、投票に行かないのです。行っても自公に入れる人たちがほとんどなのです。

 大企業やお金持ちのように現政権の恩恵を受けている人ならわかります。でも、恩恵を受けるどころか、苦しめられている人々が現政権を支持するのです。なぜこんなことになるのでしょうか。それは、思考停止だからです。政治に対して、世の中に対して、考える力がないのです。この国は末期的だと思います。みんなで手をつないで地獄へ行くことになるようです。

 今後、格差社会は益々進むでしょう。少子高齢化もどんどん進みます。このままなら、地方は限界集落、消滅集落のオンパレードです。わたしたちのような農山村社会は21世紀内に多くが息絶えると思います。

 大都市圏は一部の特権階級とその他大勢の貧困階層に極端に分かれるでしょう。街はスラム化し、犯罪が激増するはずです。国は国民の様々な不満をナショナリズムに転嫁します。中国や北朝鮮の脅威を益々訴えてゆくでしょう。同時に軍備増強を図るはずです。ですから国家財政は益々疲弊してゆきます。社会保障などに充てる余裕がなくなります。老人、病人、障害者は早く死んでくれることを願い。生活保護世帯には冷たく保護を切り捨てる。そんな世の中になるのではないでしょうか。ちょっと考えたら、こんなことになってしまいました。こんな想定は杞憂であって欲しいです。でも、これが現実になったとしたら、皆さんのお孫さんの世代は、かなり厳しい状況に晒されていると思います。

 大切なのはそこなんです。今自分たちが、どうにか生きていける。そこに思いを向けるのではなく、子どもや孫の世代、さらにその先の世代が幸せに暮らせる。そのように長期的に考えることが大切だと思うのです。しかし現実は、官僚、政治家、財界、マスコミ、これらが癒着し、自らの利益を貪る巨大な体制になっているのです。東日本の復興財源を、霞ヶ関の改築費用に流用した事がそれを物語っていると思うのです。

 さて、一年の最初の礼拝説教くらい、希望に満ちた話にしたいと思いました。でも、現実を思うと、単純に希望を語ることができないのです。それほど今の時代は、そうとうに病んだ時代になっていると思うのです。わたしたち教会は、このような時代にあって、何を語ることができるのか。考えてしまいます。

 さて、気を取り直して、今年最初の聖書に聞きたいと思います。今年の最初は、昨年の続きです。マルコによる福音書8章11~13節です。4000人の難民が、皆、満足に食べられたという奇跡物語の後の話です。この出来事の後、イエスの一行は、舟に乗ってダルマヌタという地方に行きます。ここはガリラヤ湖の西部ですが、並行箇所のマタイではマガダンとなっています。マガダンはマグダラのことです。つまりここはマグダラのマリアの出身地なのです。

 ダルマヌタ、すなわちマグダラに到着するとファリサイ派の人々がイエスの元にやってきます。その目的は、イエスを試すためでした。どんなことかというと、「天からのしるし」を求め、議論を仕掛けたとあります。おそらく彼らは、直前の4000人の供食はもちろんのこと、耳と口の不自由な人の癒しやシリア・フェニキアの女性とのやりとりの噂を聞きつけてやって来たと思います。

 天のしるしとは、神のしるしということです。神の存在、神の業が、はっきりと目に見えて、確認できる証拠です。ファリサイ派は、ユダヤ教の掟である「律法」を金科玉条のように大切にしています。律法は成文化されています。具体化され目に見えるものです。ですから彼らは、神のしるしは確認できるという理解を持っているのです。

 そもそもなぜ、彼らはイエスを試そうとしたのでしょうか。それはおそらく外国での救済の業がイエスによって行われたからだと思います。ファリサイ派にとって、外国人は神の救いには与れない人間です。神が外国人を救済することなどあり得ないと信じています。だから、神が外国人を救済した証拠を示してみよ。これが彼らの要求の内容だと思います。

 イエスはこれに深く嘆いたとあります。イエスにとって救済とは、病気や抑圧、理不尽な押しつけなど、そうした心身の圧迫によってもたらされた不健康から解放されることです。与えられたいのちを精一杯輝かせて生きられるようになる人生の回復です。そこにはユダヤ人も外国人もありません。一人の病人が癒された、一人の抑圧された人が解放された。それでいいではないか。それ以上何が必要なのか。それがイエスの考えです。

 しかしファリサイ派は、それでは納得できないのです。人を救済するのは神のみと彼らは信じています。だから救われた以上そこには、納得できる神のしるし、証拠が必要だというのです。現代のわたしたちからすると、理解することが困難です。たぶん彼らは、幼い頃からそう刷り込まれて思考停止になっているのだと思うのです。それがファリサイ派だったのです。

 でも、このことは、今日の教会にも些か当てはまるところがあります。教義とか信仰告白とか、人間が定めたものにすぎないのに、それを神の教えとして絶対化して、それを基準にして、正しい信者、そうでない信者、信者、非信者というように人を分け隔ててゆくのです。キリスト教の中には、実はファリサイ派的な要素が入り込んでいると思います。しかし渦中にいて熱心になればなるほど、そのことに気がつかないのです。人を傷つけてもわからないということが起きるのです。

 イエスは、今の時代の者たちには、決して、しるしは与えられないと強く告げるのです。注意すべき点は、イエスは、天からのしるしとはいわないことです。神の業、神の存在、その証拠などわかるわけがないと理解しているからです。だから天からのしるしとはいわないのです。イエスは単に「しるし」といいます。そして、「今の時代」はしるしを与えられないとを繰り返すのです。

 今の時代とは何でしょうか。イエスが生きた時代です。ローマ帝国の支配下にある時代です。多くの民衆が困窮していた時代です。一部の特権階級が利益を貪っていた時代です。その恩恵を受けていたのは、ヘロデ派、サドカイ派だったのです。ファリサイ派は庶民階層だったので、それほど利益はなかったのです。彼らはローマ帝国の支配を良いとは思ってはいません。何とか覆そうと思っていました。つまり、不条理なことに対して、抵抗する思いはあるわけです。

 しかしファリサイ派の限界は、そこにすべての人が入っていないことです。律法の規定から外れた者は、外国人であれ病人であれ障がい者であれ、不幸になるのは当然だと思っているのです。神観が違うのです。前回、人類の起源の話をしました。もともと人類は黒人でした。それが旅する中で紫外線の影響で白人や黄色人になったということでした。ですから分け隔ては人為的なことなのです。神は人智を超えたものです。つまり、人間が定めたものを超えたものです。分け隔てを超えているのです。神は分け隔てはしない。使徒言行録ではペテロがそう述べています。ガラテヤの信徒への手紙ではパウロがそう述べているのです。

 しかし、わたしたち信仰者でさえ分け隔てをしてしまうのです。つまり、差別意識をなくせないのです。もっとも、わたし自身の中にも差別意識があります。「こんな奴ら、生きてる価値なんかない」。正直そういう対象があります。皆さんにもあるはずです。

 人はそう簡単に、自らの差別意識を解決することはできないのです。それがわたしたちの弱さであり愚かさなのです。でも、それに居直ってはならないのです。だからわたしたちは、繰り返し繰り返し、、差別意識は間違っているというメッセージを受けることが必要なのではないでしょうか。聖書はイエスを通してそのことをとても大事なこととして伝えているのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2015-01-04 17:57 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年12月28日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/28礼拝説教「信頼」マルコ8:1~10

 2014年最後の礼拝となりました。教会の暦の上では、クリスマスは1月6日まで続きますが、実際には24日の燭火礼拝が終わると、クリスマスも終わって新しい年に気持ちが切り替わるというのが日本の教会です。もちろんそれについて良いとか悪いとかはありません。

 年末の慌ただしいときですが、しばし心鎮めて聖書からのメッセージに耳を傾けたいと思います。2月から読み進んできましたマルコによる福音書も今日から8章に入ります。この福音書は全体で16章からなっていますので、やっと半分まで差し掛かったことになります。およそ月三回の説教ですから、半分にいたるまで約一年掛かったことになります。そうすると読み終わる頃は来年の今頃になるかも知れません。もっとも急ぐ必要もないので、ゆっくり進んで行きたいと思います。

 さて、今日はどんな物語かと言いますと4000人の群衆に食べ物を与えたという話です。これと似た話は6章にありました。6章では5000人の群衆に食べ物を与えたという話でした。多少の違いはありますが、ほとんど同じ内容です。注解書などによれば、6章の話も8章の話も、もともとは同じ出来事で、やがて異なる伝承となったと考えられているようです。6章の時には「腸がちぎれる」という主題でお話ししました。イエスが空腹の難民たちを見て腸がちぎれる思いになった事に着目したのでした。

 今日のところでも2節に「群衆がかわいそうだ」とイエスが言われたとあります。「かわいそうだ」は、原文ではやはり「腸がちぎれる思い」 となっていました。ですからやはり同じ出来事なのかと思いました。もしそうならここは飛ばそうかなと思ったのですが、もし同じ出来事だとしたら、何故マルコは、同じ話を掲載したのだろうかと考えたのです。誤って載せてしまったということは考えられません。載せるからには意味があるはずです。そこで取り組んでみようと思ったのです。

 ところで、6章の話と今日の話。基本的には同じ内容です。おそらく学者さんたちは同じ部分に着目して、これは元々同じ一つの出来事だったと判断されたと思うのです。しかし、違う部分もあるわけです。そこに着目すると何か見えてくるのではないでしょうか。

 6章の話と今日の話、違いは何でしょうか。5000人と4000人という群衆の数がそうです。パンと魚の数の違いがあります。残った数も違います。それらにも意味があるとは思いますが、でもそれよりも重要な違いがあると思いました。何でしょうか。場所が違うのです。

 6章の時はガリラヤでした。パレスチナです。しかしここは、前回の耳と口の不自由な人の癒し物語の場所と同じです。デカポリス地方です。外国なのです。6章の時はユダヤ人の難民、今回は外国人の難民が対象です。ということは、満足に食べることもできず行き倒れてもおかしくない難民は、パレスチナにだけいたのではなく、周辺諸国にもいたということです。もっともこの辺り一帯がローマ帝国の植民地だったことからすれば、当然といえば当然です。

 この福音書記者マルコは、ひょっとすると、イエスの活動の重要な内容として、難民救済があったのだということを伝えたくて似たような話を、あえて掲載したのではないでしょうか。6章の時にも話しましたが、人数はさほど問題ではないと思うのです。前回は5000人、今回は4000人。でも、人数に拘ると、いかにそれだけの人々を救ったかということで、奇跡行為に固執することになるのです。でも、大切なのは難民救済なのです。それも食を与えるということです。きっとイエスは難民たちに食を与える業を、繰り返し繰り返し各地で行ったのではないでしょうか。

 考えてみれば、イエスの活動には、食に関する事が多いです。罪人の家で食事をしたこと。弟子たちが麦の穂を積んで食べたことについての問答、食事の前に手を洗うか洗わないかについての問題、そして今日の難民の供食。食べることにおいてメッセージが伝えられているのです。

 食べることは、生きることそのものです。それゆえに、そこにはいろいろな意味づけがなされます。ユダヤ教社会では、食事は神との交わりという宗教的な意味がありました。ですから、誰と食べるのか。何を食べたらいいのか。食前には自らを清めなくてはならないとか、様々なタブーというかきまりが定められていたわけです。要するに人生における最も大切な行為だからこそ、そこで分け隔てがなされていく。そのような人間の心理があるのではないでしょうか。どうでも良いようなことは対象にはなりにくいものです。

それに対してイエスは、食べるという人生の最も大切な行為には、些かの不公平も差別も不条理もあってはならないという考え方を基本にしていたと思います。

 先月亡くなった俳優の菅原文太さん。彼は「仁義なき戦い」のようなヤクザものといった役柄には似ず、私生活では良心派というか革新的というか、左寄りの人でした。反戦、脱原発、反米を様々な場で訴え、沖縄の基地問題でも沖縄の立場に立ち、在日朝鮮人の福祉への尽力、有機農業への尽力など、かなりの活動家でもありました。その菅原さんが亡くなる前、沖縄知事選で立候補した翁長さんの応援のために自ら馳せ参じたのです。翁長さんは普天間基地を辺野古ではなく県外という立場です。会場には車椅子で赴き、演説後は入院され、その数日後に亡くなったのでした。

 その演説をインターネットで見ました。ゆっくりと言葉の一つ一つを噛みしめるようにして語るその姿に感動を覚えました。その演説の中で菅原さんは言いました。「政治がやらなくてはならないことは二つある。一つは、国民を飢えさせないこと。安全で安心な食物を提供すること。二つ目は、絶対に戦争しないこと」。シンプルですがまさに最も大切なことです。余談ですがこういうニュースをテレビや新聞といったマスコミはほとんど報道しません。明らかに体制寄りだということがわかります。今回の選挙でも自民党がマスコミに報道の規制を掛けたといいますが、ほんとこの国は戦前戦中に戻りつつあると思います。


 今日本で、この二つが大切にされているでしょうか。格差社会が拡がりつつあります。一方では安全で高額な食材を食べられる階層があります。しかし、一円でも安いものを求めて、それが防腐剤や農薬にまみれたものであっても買わざるを得ない人たちもいます。集団的自衛権に沖縄の基地問題についても、すぐに中国や北朝鮮の脅威をちらつかせ、有事に備えるのは当然であり、沖縄が最適だとという風潮が支配しています。

 政治家、官僚、財界、そしてマスコミ。。国を導く彼らの中で、この二つをほんとうに大切にしている人たちが果たしてどれくらいいるでしょうか。また、この二つこそ大切だと思う国民がどれだけいるでしょうか。

 イエスが生きた時代のユダヤとその周辺は、この二つがまったく守られていなかった時代です。ほんの一握りの豊かで贅沢な暮らしが送れる人と今日食べられるかどうかわからないといった多くの人々。そして絶えず戦火に見舞われていた状勢だったのです。

 指導者たちは何をしていたのか。自分たちの同胞を大切にしていたとはとても言えない。ましてパレスチナでは、ユダヤ教という神を仰ぎ見る人たちです。その人たちが、人間を分け隔てていた。困窮する人々を見殺しにしていた。それで、自分たちは、神から選ばれた、神に忠実な人間と自負していたのです。それは周辺諸国もまた同じだったのです。イエスはこのことを心底嘆き、怒りに震えたと思うのです。

 だから繰り返し繰り返し、難民救済の業を行ったのです。この福音書記者マルコはその重要性を後世の人々に伝えようとしたのではないでしょうか、その結果が、同じような話をあえてこの福音書に掲載したということだった。わたしはそう思いました。


 ところでこの物語には、もう一つ大切なことが伝えられていると思いました。それは、弟子たちの有様です。イエスは必死です。腸がちぎれる思いで難民たちに接し、できる限りのことをしようとします。しかし弟子たちは、5000人の時と同じように、「こんな人里離れたところで、いったい何ができるのか」といってイエスの要請を拒絶します。

 わたしはここにイエスと弟子たちとの違いがあるように思うのです。イエスは世の中の不条理、不公平、不公正を改めて、誰もが等しく幸せを享受できる世の中をつくりたいと考えています。それが「神の国」の内実なのです。しかし、弟子たちはそれよりも、かつてのイスラエルの繁栄を求めて、イエスに期待してついてきていたのです。その違いがここではっきりと表れていると思うのです。

 弟子たちはかつてのイスラエルの栄光の中に入りたいのです。まず何よりも自分が恵みを受けたい。これが彼らのイエスについてきた動機なのです。だから、何で俺たちがこんなことをやらなくちゃならないんだという思いなのです。それがイエスの要請に対する拒絶となって表れていると思うのです。

 この弟子たちの姿は、今に生きるわたしたち信者の姿ではないでしょうか。イエスを救い主と信じた。洗礼を受けた。信者になった。その理由の根本は、自分の救いです。究極的には「永遠の命」です。もちろんそれはそれでいいのです。ただし、もしもそれだけならば、クリスチャンになるというのは、自分さえ良ければそれでいいということになりかねません。イエスがわたしたちに伝えようとしたことは、神にあっては誰もがかけがえのない存在だということです。そのことを自分の生き方を通して示そうよ。それがイエスがわたしたちに期待することです。



 ちょっと余談ですが、「グレートジャーニー」という言葉を聞いたことがありますか。直訳すると「偉大なる旅」です。これは、人類の歴史を言い表したものです。人類の起源は370万年前だといわれています。ホモ・サピエンスという種です。現代の科学ではその起源が明らかにされています。人類の祖先はアフリカのタンザニアだそうです。

 人類はそこから各地に拡散していったということです。基本的な流れは、アフリカ大陸から、ヨーロッパ大陸、北米、南米大陸と流れていったそうです。その過程で、傍流である様々な流れが拡がったそうです。で、何故人類は旅をしたのかというと、好奇心と向上心が動機のようです。未知なる世界を見たい。この先にはもっと暮らしやすい場所があるかも知れないということです。

 そうして実際に旅をして定住する。でもそこで、必ず弾かれた弱い者たちが生じる。だから弱い者たちは出て行かざるを得ない。新たに旅をはじめる。その繰り返しが、人類がこの地球のいたるところに住んでいる証といいます。ですから、アフリカのタンザニアから遠いほど弱い者たちだったと言えるのです。わたしたち日本人はその意味でかなり弱者といえます。

 ちょっと外れましたが、グレートジャーニーの理論から今日の主題に沿っていいたかった事は次のことです。人類の起源はアフリカです。つまり、はじめは黒人だったのです。しかし旅をする中で、それぞれの環境の中で、具体的には紫外線の違いによって、肌の色が白くなったり黄色くなったりしたのです。ですから、今もアメリカで黒人差別による事件が問題になっていますが、そもそも人類は皆同じなのに、いまだに差別があるというのは、言語道断なのです。いかに現代人が無知というか、やはり聖書がいうように「原罪」という理屈が当てはまるのかなと思うのです。


 本題に戻ります。弟子たちは、イエスの難民救済の業に素直に従いません。それは、自分の救いとは関係ないと思ったからです。わたしたちもそう変わりません。先ずは自分の救いです。これが何よりも大事なのです。天国へ行ければそれでいいのだという思いがあります。この福音書記者は、要するにそういった自己満足的な目的の弟子たちを非難する意味でも、この物語を掲載したと思うのです。

 弟子たちの存在は、そのままわたしたちだといえます。ならば、この箇所はわたしたちにとって、痛みを覚える箇所です。そのことはきちんと向き合わなければと思います。でも、こんな風にも思います。イエスは、こんな弟子たち、すなわちこんなわたしたち。愚かで、情けなくて、ずる賢くて、自分勝手で。こんなわたしたちを、繰り返し、繰り返し、用いるのです。それはわたしたちへの「信頼」があるからです。イエスは徹底して信頼する方なのです。裏切られても信頼するのです。それが十字架のキリストが意味することなのです。

 イエス・キリストのこの信頼に、少しでも、ほんのちょっとでも、応えて生きてゆく。そうできたらいいよね。来年はそうでありたい。そんな思いでこの年を締めくくって、新しい年を迎えたいと思います。


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by buku1054 | 2014-12-27 19:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年クリスマス燭火礼拝メッセージ

2014年クリスマス燭火礼拝マタイ1:18~25

 2014年も、もうすぐ終わろうとしています。時はただ流れてゆくという意味では、今年も来年もないわけですが、暦の上で区切りがなされます。ですから、終わりがあってはじめがある。そんな思いになるのでしょうか。

 ところでわたしたちは、過去を振り返って、あの時ああすればよかった。こうしたらよかったと後悔することがあります。冷静に考えれば、あの時ああすればよかったという選択が、必ずしもよい結果を招くとは限らないわけです。でも、そうした冷静な思いになれないのがわたしたちの弱さではないでしょうか。

 クリスマスの主人公、マリアとヨセフ。彼らは自分たちの結婚に際して、聖書の記述とは違う選択が可能でした。特にヨセフはそうでした。許嫁のマリアのお腹のこどもは、彼のこどもではありません。聖書では、この後イエスのことを、世間は「マリアの息子」と呼んでいたと記されています。当時こどもは必ず父親の名前で呼ばれたのです。ですから、イエスは紛れもなくヨセフの子ではなかったのです。

 「正しい人」と記されたヨセフ、つまりユダヤの掟に忠実な人であったヨセフ。その彼が、我が子でない子どもを宿したマリアと結婚することは、当時の常識では考えられないことでした。しかしヨセフは、マリアを妻として迎えます。二人はヨセフの故郷ベツレヘムで出産を迎えます。でも、身内からも世間からも拒絶されます。常識外れの結婚だったからです。二人は仕方なく、家畜小屋で、誰の助けも借りず、出産を迎えたのです。

 飼い葉桶の中で寝かされた赤ちゃんを見て、マリアとヨセフにどんな思いがよぎったのでしょうか。これから先どんなことが待っているのだろうか。世間の人たちはわれわれをどう見るだろうか。この子は幸せになれるのだろうか。そんな心配と不安がこの親子三人を包んでいたように思うのです。


 藤木正三という牧師が、こんなことを述べておりました。「どんなに世の中が平和になっても、人間が抱える問題は決して解決されない。そこに宗教の役割がある」。確かにそうだと思いました。仮に世界中の核兵器も他の武器も一切なくなって、環境破壊も改善され、飢餓や貧困といった格差問題も解消され、世界中の人々が利益を公平に分かち合い、どこの国のどんな人も生活に困らない、そんな夢のような世界が実現したとして、果たして人生がいつもバラ色となるでしょうか。

 もちろん幸福度のレベルは格段に高くなるでしょう。でも、それでも人生に伴う問題がなくなることは決してありません。病気から逃れることはできません。他人との関係での様々な問題もなくなりません。そして最後には、必ず死についての不安や恐れといった問題が待っています。どんなに暮らしやすい理想的な世の中になったとしても、人生の問題が一切無くなることはないのです。

 マリアとヨセフが迎えた困難も、どんなに平和な世の中であってもあり得ることです。けれどもこの聖書記者は、この過酷な状況を、インマヌエル、神は我らと共にいますと告げるのです。

 神は我らと共にいますとは、どういうことなのでしょうか。神が一緒にいて下さる。それはわかります。しかし、それがいったい何だというのでしょうか。神が一緒にいるから幸せになれるのでしょうか。問題が解決されるのでしょうか。

 神が我らと共にいる。これは、2000年前のユダヤ人が信じたことです。今に生きるわたしたちにとって大切なことは、文字通りそのまま受け入れることではなく、神が共にいるということの本質というか意味といいますか、それを見出すことではないでしょうか。

 それは、今、この時が大切な時ということではないでしょうか。今、自分が置かれている状況、それがたとえ辛いものであったとしても、そこには必ずわたしたちを導く意味がある。だからその状況を拒絶するのではなく、恨むのではなく、その状況を受け入れて日々生き抜く、その人生態度ではないでしょうか。

 もちろん戦争で苦しむ人々、大災害にあって悲しみに打ちひしがれている人々、食べられずに死んでいく人々、愛する人を失った人々、そういう人々に、それを受け入れよ。安易にいうことはできません。でも、そういう最中にある人々にも人智を越えた励ましや慰めが与えられている。生きる力が与えられている。それが神が共にという言葉が意味することではないでしょうか。

 2000年前のベツレヘム、人気の途絶えた家畜小屋、たった二人きりの若い夫婦マリアとヨセフ。彼らが迎えた現実は、困難な状況でした。そして、その先に待っていたのは、ヨセフの若死、生活の貧しさ、世間からの差別、そしてイエスの惨殺という結末だったのです。でも、神が共にだったのです。


 この一年、皆さんそれぞれにいろいろなことがあったはずです。受け入れがたい辛い出来事があった方もいると思います。悔やんだり、辛かったり、悲しかったり、心が虚しくなったり。酷く落ち込んだり、いろいろあったはずです。

 でも、この一年も神が共にであったのです。すなわち、この一年過ごしてきたどの時も意味があったのです。どの時も大切な時であったのです。人生の一コマ一コマ、無駄なことは一つもないのです。

 来る2015年が、どんな一年になるかはわかりません。ひょっとすると、思いも掛けない悲しみや苦しみが襲うかも知れません。でも、来年も神が共にいる。その先もずっと神が共にいる。すなわち、これからもやってくる、今、その時が、大切な意味ある時である。そのことを信じながら新しい年を迎えたいと思うのです。


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by buku1054 | 2014-12-24 23:24 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年12月14日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/14礼拝説教「群衆」マルコ7:31~37

 今日は、マルコによる福音書7章の最後の物語です。この箇所はどんなメッセージを伝えようとしているのか、そのことを考えつつ、ご一緒に読み進めて行きたいと思います。ここは、「それからまた、イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖にやって来られた」。という書き出しで始まっています。

 以前のわたしは、このような記述にほとんど反応しませんでした。本質を考えるのに大事なことではないと思っていたからです。しかし、この福音書を連続して読み進めていると、このような、ある意味そんな重要ではないように思える記述が、意外に重要だと思うようになりました。

 前回の話は、シリア・フェニキアで起きたことです。つまり外国です。この後イエスの一行は、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、そしてガリラヤ湖にいたったとあるのです。地図を見るとわかるのですが、イエスの一行は、ものすごく大回りをしているのです。つまり、できる限りパレスチナを避けるようにして移動していたことがわかるのです。

 これは、どういうことなのでしょうか。前回も話しましたが、イエスたちは休息の時を持ちたかったのです。しかし、休もうとして、狙った場所に行っても、人々はイエスに気がつき、休んで入られない状態になるのです。ですからこの冒頭の記述は、明らかにイエスたちが何としてでも休息を得ようとしたことを物語っているのではないかと思いました。

 さて、イエスの一行は、「ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。ここがどこなのかというのは、漠然と読むとわかりません。しかし丁寧に読むとわかるのです。ガリラヤという名称があると、ここはパレスチナ、ユダヤ人の地域と思ってしまうのですが、聖書には、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に着いたとあるのです。イエスの一行は、まだデカポリス、外国にいるのです。デカポリスはガリラヤ湖に面しています。なぜこのような瑣末のことに拘るかというと、それが重要だからなのです。

 そこでこの物語が始まるのです。デカポリスの人々がイエスの一行に気がつきます。すかさず、耳の聞こえない、喋ることが不自由な人を連れてきます。そしてその人に手を置いて欲しいというのです。つまり手当をしてくださいというのです。

 するとイエスは、何を思ったのか、この人だけを群衆から連れ出して癒しの業を行うのです。その癒しの業とは、自分の指をその人の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触られた。そして天を仰いで深くため息をつき、その人に向かって「エッファタ」「開け」と言うのです。そうしたら、この人の耳は開かれ、舌のもつれもなくなったというのです。

 中部学院大学の事務方をされている村上 進さん。以前ご紹介しましたが、村上 伸牧師の息子さんです。彼が中部学院大学のチャペルアワーで、この箇所について次のように述べていました。

 「実は、私は子どもの頃「日曜学校」という教会が子どものために開いていた集会に通っていて、そこでこのお話を聞いたことがあります。 そのときの私の感想は、「うえぇ、他人の舌につばをつけるなんてキモチわりぃ」でした。 愛の行為として「他人の舌を唾液で潤す」など、小学生の男子には理解できなくて当然です。大人になってから知りました。「これは、ディープキスだ!」

 そう思い込んで読み返してみると、ここの描写は全く違う印象で迫ってきます。皆さん、心から愛しいと思う誰か、たとえば恋人が、心からだにひどい苦しみを抱えていると知ったとき、どうするでしょうか。その人の辛さをわかってあげたい。でも現実にはその痛みを共有したりわずかでも肩代わりすることはできないのです。ならばせめて、私があなたの痛みをわかりたいと心から願っている、そのことだけでも伝えたいと思うでしょう?その人の頬を両手でくるみ、その涙を指でぬぐい、抱きしめ、くちづけをし、「あなたの辛さと一つになりたい」と祈るでしょう?

 この聖書では「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」と訳されています。「エッファタ」とは、「ひらく/ほどく」の「受身命令形」です。直訳すれば「ほどかれよ」ですが、これは杖を一振りして「アーブラカターブラ」と唱えるような魔法の呪文の類ではありません。

 イエスは無我夢中なのです。その人の硬直した舌を、自分のつばでやわらかくしたら何とかなるかもと思い、そしてその頭をかき抱き、その人が縛られている二重の苦しみと、それを肩代わりできないもどかしさに心を痛め、 深くため息をついて「お願い・・・ほどけて・・・」と祈ったのです」。

 村上 進さんは、牧師の息子さんということもあるのでしょうか、何度か彼のメッセージを読んでみて、とても深く聖書を読まれる方だと思っています。村上さんがいわれるように、イエスの無我夢中さ、つまり、何としてもこの人を救いたい。そんな気持ちの表れが、この行為となっているのです。

 ただしイエスのこの行為は、ユダヤ社会では絶対にあり得ない行為です。ユダヤ人からすれば外国人は穢れた人間です。こんなことが知られたら、即、死罪にさえなりかねません。つまりイエスは、命懸けで分け隔ての壁を越えているのです。

 おそらく前回のシリア・フェニキアの女性との出会いによって、イエス自身、完全にユダヤ的な一切のわだかまりから解かれたのだと思います。それがこの行為に表れたと思うのです。さらに癒しの後で、イエスは、人々にこのことは誰にも話すなと口止めをされます。何故なのか。これがこの箇所のポイントだと思います。


 前に、こんな話を読んだたことがあります。ある夫婦がいました。両方とも学校の先生でした。あるとき、奧さんの耳がほとんど聞こえなくなってしまったそうです。突発性難聴ということでしょうか。しかも、特にご主人の話すことが聞こえないというのです。実はこの奧さんは、結婚して以来ずっとご主人から抑圧されてきたというのです。いまで言うDVです。おそらくその精神的ストレスから、ご主人の声に拒絶反応を起こすようになったのだと思います。しかし、ご主人が亡くなった途端、耳は完全に回復したというのです。

 耳と口が不自由なこの人も、誰かに抑圧されていた人だったのではないか。そう思ったのです。しかも、その抑圧を群衆は誰も見ていない。知らない。たとえ知っていた人がいても意に介さない。群衆は興味本位に彼をダシに使ってイエスを試している。その寒々とした群衆の行為に、イエスはこの人だけと向き合ったのではないでしょうか。そして口止めされたのではないでしょうか。

 しかし群衆は、口止めされればされるほど、ますますイエスを賞賛してゆきます。わたしはこの描写を読むとき、イエスの救い主としての素晴らしさを人々がわかったんだとか、褒め称えているのだとか、だからわたしたちもイエス様を信じましょうといったような護教的な解釈には抵抗があるのです。わたしは思います。デカポリスの群衆が、この出来事で大騒ぎしているその陰で、イエスは深い悲しみにあったのではないかと。

 おそらくイエスによって癒されたこの人は、以前、特定の個人なのか、地域の人々なのか、ともかく徹底した非難、拒絶、排除、呪い、そうした言葉を執拗に浴びせられ、また少しでも反論しようとするなら何倍にも仕返しされるといった攻撃を受けてきた人だったのではないかと思うのです。それゆえに耳と口が不自由になってしまったのではないでしょうか。

 そんな彼がイエスによって癒されました。心も身体も解放されました。しかし、彼を群衆は放っておかないのです。大騒ぎです。お祭り騒ぎです。おそらく彼をいたるところに引っ張っていって、「見ろ、この人は、あのイエスというユダヤのメシアによって癒されたんだ」。公衆の面前で見せ物にされていったのではないでしょうか。

 たぶんこんな場面が展開されたと想像します。公衆の面前で見せ物となったこの人に実験するのです。今から俺が言ったことを復唱してみろ!と誰かが迫ります。これまで散々いたぶられてきたのです。ある意味また同じような仕打ちです。彼は聞いたとおりの言葉を発するでしょう。そうしなくては何をされるか知れません。そして群衆は益々熱狂的に騒ぎ立てるのです。

 イエスはこのような情景を予測したゆえに、人々に口止めされたと思うのです。群衆の騒ぎがエスカレートする様に深い失望を抱き、晒し者となっていったこの人に深い同情を抱かれたのではないでしょうか。

 今日の説教題を「群衆」としました。この物語は一見すると、イエスの癒し、耳と口の不自由な人の解放に焦点が当てられる箇所です。わたしも前に取り組んだときにはそう思いました。でもこの度読み直してみて、わたしは、群衆の有り様について描かれた箇所でもあるかも知れないと思ったのです。

 人間というのは、一人一人はそんなに悪い人はいないと思います。困った人を見たら助けたいと思うだろうし。素晴らしい映画や音楽に涙する感性もあるはずです。しかし、そんな個人であっても、一度集まってしまうとき、何かが狂うのではないでしょうか。

 ナチスドイツ時代のドイツ国民がそうだったのです。戦前戦中の日本国民もそうだったのです。現代もそのような例はいくらでもあるのです。9.11以後のアメリカはまさにそうでした。国の扇動にアメリカ国民は拳を掲げて怒りを顕わにしました。そして、大儀のないアフガニスタン侵攻、イラク戦争が起こされてしまったのです。その結果が巡り巡って今のイスラム国です。一人一人はいい人でも、群衆となったとき、あっという間に狂気の集団になる。それは理屈では計り知れない現象ではないでしょうか。


 耳と口が不自由だったこの人が、この後どうなったのかはわかりません。ただこの物語は、イエスのこの後をも示している物語だったのではないかと思いました。無責任な群衆と耳と口が不自由だった人、その構図は、イエスと十字架を前にした群衆との関係を予感していたようにも思えてならないのです。すなわち、イエス殺害を後押しした者たちです。そして、その者の一人にわたしたちも加わってしまう可能性がある。そのことを受けとめなくてはならないと思うのです。権力や体制に媚びない、流されない、属さない。たぶん今後の日本を思うとき、わたしたちが肝に銘じなくてはならないことではないだろうか。今わたしはそう思うのです。


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by buku1054 | 2014-12-14 17:34 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年12月7日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/7礼拝説教「神と出会うとき」マルコ7:24~30

 
今日はマルコによる福音書7章の二つ目の話となります。舞台はシリア・フェニキアの町です。外国です。フェニキアというのは、航海術に長けた海洋民族の国です。アルファベットを発明した人々としても有名です。彼らは地中海を渡って、北アフリカの北岸、現在のチュニジア辺りにカルタゴというとても繁栄した植民地を築きました。ローマ帝国の強敵で将軍ハンニバルもよく知られた存在です。このカルタゴはアフリカでのフェニキアですが、それと区別するためシリア・フェニキアという呼び方が生まれるのです。

 ところでなぜイエスは外国へ行ったのでしょうか。冒頭に次のような言葉があります。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っていたが、人々に気づかれてしまった」。イエスは誰とも関わりたくなかったのです。その理由は、疲労困憊だったからではないでしょうか。

 ここに至るまで数多くの癒しがありました。5000人の群衆への対応もありました。弟子たちは自分たちだけで宣教活動もしました。ユダヤ教の指導者たちとの論争もありました。イエスの一行は疲れ切っていたはずです。もうそろそろ骨休めをしたい。次の活動への充電もしたい。そんな心境だったのではないかと思うのです。ですから、わたしはここは、イエスのバカンスだったと思うのです。

 さて本文を見て行きます。誰にも気づかれないようにしてひっそりと休息の時を得ていたイエスでした。しかし、せっかくのバカンスも人々に気つかれ、元の忙しい日々に引き戻されてしまいました。一人の女性がやって来ます。シリア・フェニキア生まれといいますから異邦人です。彼女は娘を助けて欲しいとやって来たのです。娘が汚れた霊に取り憑かれたというのです。しかも彼女はイエスの足もとにひれ伏しているのです。必死に懇願しているのです。


 この女性の姿は、当時としてはあり得ない事です。ユダヤ人と異邦人との間には深い隔たりがありました。その原因は、ユダヤ人による異邦人への差別です。それゆえに両者に間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人であるイエスに救いを願うなどあり得ない事だったのです。まして、ひれ伏して懇願するなど考えられないのです。

 したがってこの女性は、恥も外聞も何もかもすべて捨てているわけです。それほど切羽詰まっていたのです。何としても娘を救いたかったのです。それに対してイエスはこう言います。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。

 これはいったいどのような意味なのでしょうか。「子供たち」とはユダヤ人を意味します。「小犬」は異邦人です。つまりイエスは、「わたしの救い、わたしの恵みは、ユダヤ人のためにあるのであって、異邦人に与える分はない」と述べたのです。イエスの言葉はあまりにも冷たい。というか随分酷いことをいうものだというのが率直な感想です。

 だとしたら、イエスの真意は何だったのでしょうか。せっかくのバカンスの邪魔をされて苛立っていたのでしょうか。人間イエスという視点に立てば、それも十分あり得ます。だからつい本音が出てしまったのかも知れません。

 あるいは、イエスも時代の子だったのでしょうか。イエスはあくまでユダヤ人であり、ユダヤ教徒です。ユダヤ教の改革を目指してはいたでしょうが、異邦人にまで恩恵を拡大しようとは思ってはいなかったのかも知れません。それが本音だったことは十分考えられます。

 これに対して女性はどう反応したのでしょうか。「人を犬呼ばわりするとは何だ」。そういって怒り、恨み節の一つも言い返してその場を離れたのでしょうか。普通ならそうするはずです。すごい救い主で慈愛に満ちたお方だと聞いたから来たものの、とんだペテン師だった。やっぱり傲慢なユダヤ人の男に過ぎないと思われても不思議ではないのです。

 しかしこの女性は怒ったわけでも、立ち去ったのでもありません。こう言うのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。彼女はこれほどの侮辱を受けても怯みません。わたしたちだってユダヤ人のおこぼれに与れますというのです。

 この言葉をわたしたちはどう受けとめたらいいのでしょうか。これはあまりにも卑屈すぎる。彼女は人間の尊厳を否定している。いくら救って欲しいとは言え、ここまで自分を貶めるべきではない。そう考える人もいるのではないでしょうか。ほんとうに解釈が難しいところです。考えてみました。もしも、彼女が卑屈すぎる、人間の尊厳の否定だと思うならば、その前提は、自分は犬ではない。恵みを受けるに値する者、価値ある者という意識です。現代では当然の意識です。だから人間の尊厳とか人権という言葉も当たり前のように用いられるわけです。したがって人権侵害を赦してはならないということになるわけです。

 もしここで彼女がそう思っていたのなら立ち去ったはずです。しかし立ち去らなかった。それはなぜか。間違っているかも知れませんが、彼女の思いはこうだったのではないでしょうか。「わたしたちは惠に値するような人間ではありません。救いに与れるような人間ではありません。でも、いのちを与えられた以上生きてゆきたいのです。生きさせてください。どうか娘を助けてください」ということだったのではないでしょうか。民族とか人種とか身分とか、そんなことは一切関係のない、人間としての根源的な願いだったのではないでしょうか。

 イエスはこれに対してどう言ったのでしょうか。「それほど言うなら、よろしい、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。新共同訳ではこう訳されていますが、ここは訳するのがとても難しいところだそうです。岩波書店の聖書ではこうなっています。「そう言われてはかなわない。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出てしまった」。


 厳密には、う~んとうなって言葉にならないような感じだそうです。おそらくその感じを察して岩波では、そこまで言われたら、かなわないとなったと思います。つまりイエスは降参しているのです。自分の負けだ。自分は間違っていた。そう認めているのです。

 わたしたちはイエスをキリストだと信仰するあまり、イエスが間違いを犯す。そんなことはこれっぽっちも思わないはずです。常に完璧な方、一分の隙もない立派な方、慈愛に満ちた方、そう思っています。またそうではくてはならないと思っています。だから新共同訳では「そこまで言うなら、よろしい。家に帰りなさい」としか訳せないのです。でも、これではあまりにも上から目線です。彼女の頑張りに対して、だったら救ってやるぞと言わんばかりです。

 でも、イエスはそういう人ではなかったのです。人間ですから間違いも犯すのです。時代の限界もあったのです。そしてこの出会いがイエスを変えたのです。彼女の執拗な食い下がりによって、イエスは深く恥じ入り、回心したのです。

 わたしは自分の間違いを認め、自分を変えることができるのは、愛だと思います。愛があるから変えることができるのです。世の中には、絶対に自分を変えようとしない人がいます。ほんとうに正しいのならそれでいいでしょう。しかし自分が明らかに間違っていても変えようとはしない人がいます。自分は絶対に正しいという信念なのか、それとも意地なのか、あるいはトラウマからなのか、悔しさからなのか、その理由は様々です。

 でもそんな人にも、その頑なさを変えようとする機会がしばしば訪れるはずです。わたしはあえていうなら、それが神と出会っているときだと思いたい。イエスはまさにここで神と出会ったのではないでしょうか。そしてイエスは間違いを認めるのです。ユダヤ人として持っていた差別や偏見に気がついたのです。そして悔い改めたのです。


 この福音書記者は、イエスのイメージにとって都合の悪いこの伝承を残すことで、神と出会うときとは何か、神の御心に生きようとすることとは何か。それをイエスが自らの非を通して、自分のイメージダウンになることを通して示しているのだ。だからわたしたちも、そうできたらいいよね。そう伝えたかったのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2014-12-06 17:45 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年11月30日坂下教会礼拝メッセージ

2014年11月30日礼拝説教「いのちの掟」マルコ7:1~23

 今日からマルコによる福音書7章に入ります。この7章は三つの物語で構成されています。この三つはイエスの基本的な活動のすべてを反映していると思います。

 イエスの基本的な活動は大きく三つに分けることができます。まずは、ファリサイ派、律法学者といったユダヤ教の指導者たちとの論争です。これがイエスの死を早めたと思います。そして二つ目は、病人や障がい者の癒しです。イエスの最も中心的な活動です。イエスが殺される理由です。もう一つは、罪人とレッテルを貼られた人たちとの分け隔てのない自由な交流です。差別社会であった当時のユダヤにおいては革命的といっていい活動です。やはりイエスが殺される理由です。つまり、イエスの活動は、すべて当時のユダヤ教の考え方からすると殺されることになる理由だったのです。すなわち、イエスの活動はすべて命懸けだったといえます。自分の身を犠牲にしてまでやらなくてはならない。イエスはそう考えて行動したのです。

 今日のところは論争です。次の箇所、シリア・フェニキアの女の信仰のところは、癒しにも取れますが、彼女は異邦人だったので、罪人との自由な交わりともいえます。三つ目は、障がい者の癒しですが、ここも異邦人が対象ですので自由な交わりも重なっています。すなわち、イエスの基本的な活動のすべてがこの章では記されているのです。

 先取りするのですが、この福音書は全体で16章からなっています。次の8章で量的には丁度半分となるのですが、内容的にも分岐点になっています。8章からのイエスの歩みは、十字架へとまっしぐらに進んで行きます。その意味で7章までは、十字架に行かざるを得なかったイエスの生き様が記されていると言っていいのではないでしょうか。


 特に、この7章にイエスの生き様のすべてが記されていると思うのです。そう考えると、この福音書記者マルコは、イエスの生涯をここまで進めてきて、ここでイエスの生き様の一つの結論を示したかったのではないかと思います。

 では、順を追って考えて行きたいと思います。ここは、エルサレムからやって来たファリサイ派と律法学者たちという書き出しではじまります。わざわざユダヤ教の総本山から来たわけです。イエスの影響力が遠くエルサレムまで鳴り響いていたということです。このことは、ユダヤの指導者にしてみたら、たいへん深刻な事態だったのではないでしょうか。ですから彼らは、何としてでもイエスを貶めるためにわざわざガリラヤのゲネサレトまでやって来たのです。そして言いがかりをつける機会を狙っていたのです。

 すると一つのことが問題になったのです。弟子たちの中に手を洗わずに食事をする者がいたのです。それを非難の材料としたのです。もっとも弟子たちすべてではないのです。弟子の中の何人かです。つまり弟子の中で手を洗う者もいたということなのです。これは重要なことなのです。後でこのことには触れたいと思います。

 まずここで、食事の前に手を洗う行為ですが、これは衛生上のことではありませんでした。宗教的な意味があったのです。ユダヤ人にとって食事というのは、命を維持するための行為という意味だけではありませんでした。食事をすることは、神との交流という意味があったのです。

 もちろんこのことが意味することの本質は大切なことです。食べるという行為は、それを提供してくれる様々な命の存在や食べるにいたるまでの働きがあってこそあり得るわけですから、まさに恵みといっていい事柄です。わたしたちも、食前の祈りをすること、あるいは、いただきますと言って手を合わせることは大事なことです。


 しかしユダヤの指導者たちは、それに留まりませんでした。自分の身が穢れていることは神に対して申し訳ないと考えたのです。したがって穢れを清めるという考えが生じました。食前に手を洗うことはもちろんのこと、市場から帰ったら体を清めるということまでしたのです。ミクヴァーという水槽で沐浴をしたのです。なぜなら、異邦人に触れたかも知れないからということです。このように異常なほど穢れに固執する社会だったのです。

 汚れた身のままでは神に喜ばれない。神から裁かれる。そういう理解であっのです。ただしこれは律法の掟ではありません。昔からの人の言い伝えだったというのです。つまり、ある人たちが自分たちの価値基準で決めたことなのです。それがいつしか絶対の尺度となり、それを破った者は神を冒涜したというように見なされるようになったのです。

 イエスはこれに対して、どう言ったかというと、あなたがたは人の言い伝えを大事にして、神の掟を捨てていると非難したのです。かなり手厳しいです。自分たちこそ神の掟に忠実に生きていると信じ込んでいる者に向かって、いうなれば「お前ら、少しも神を大事にしていないじゃないか!」といったようなものです。当然、言われたファリサイ派、律法学者たちは怒り狂ったでしょう。イエスがやがて殺される運命になるのも仕方がないなと思います。でもイエスは黙ってはいられなかったのです。

 ところでイエスの言う神の掟とは何でしょうか。通常、神の掟とは「律法」を指します。でも、律法ならば他の箇所と同様に律法と記されているはずです。でもイエスは、律法とは言わず、あえて「神の掟」というのです。ということは、イエスは、律法のことを述べてはいないのです。では何でしょうか。

 神についてはいろいろな捉え方があると思います。捉え方がいろいろあるというのは、神を認識することができないからです。だから様々な捉え方になるのです。ですからどのような捉え方でもいいのです。というかどれが間違いだとか正しいとかはいえないのです。それぞれに信じていればいいのです。

 わたしもその都度変わりますが、今は、神とは「命の源」だと思っています。天地創造物語では、神がすべてのものを創られたとあります。やはり源です。ローマ書では「すべてのものは神から出た」とパウロは捉えているのです。したがって、神の掟とは、わたしなりに解釈すると、命の掟というか、命の根本精神というか、命についてのもっとも大切なことだと思うのです。

 命とは何でしょうか。つまり、生きているということは何でしょうか。こういう問いは学校で学ぶのでしょうか。少なくともわたしは学んだ記憶がありません。数学、英語、物理、国語、歴史に地理。学ぶべきことはたくさんあります。でも、わたしたちが生きる上でもっとも大切なこと、根源的なことは、学校では案外なおざりにされているような気がします。家庭でも、親からこのような話を聞いたことはありませんでした。

 命とは、生きるとは、あえて定義するならば、それは、関係的であるということ、つながりだということです。つまり、そのものの力、そのものの意志だけでは存在しえないということです。この真実には例外がありません。イエスだろうが、安倍首相だろうが、蛙だろうが、まったく同じです。したがって命には優劣はありません。誰もが皆かけがえない存在なのです。言い方を変えれば、どんな小さな者も大切だということなのです。これが神の掟が意味することではないでしょうか。

 人の言い伝えに固執するユダヤ教の指導者たちは、神の前では穢れていてはならないと思い込んでいます。特別でなくてはならないわけです。存在における差別を容認する考えです。自分で勝手に神の前で相応しい者はどんな者かということを決めているのです。しかし、この倒錯した状態に気がつかないのです。


 後半でイエスは語ります。悪いものは人の心の中から出ると。正確には自我から出るということでしょう。自我とは、自分の力だけで存在しているという意識です。そこから、自分を守るのは自分自身だということになります。ほんとうは、自分以外の存在があって守られているのですが、そこはすっかり抜け落ちるのです。自分だけなのです。したがって、他者は基本的に競争相手となるのです。場合によっては敵対の対象にもなります。ともかく自我は自己保身に執着します。さらに自己拡大へと進みます。貪欲な思い。弱肉強食の考えを生むのです。グローバル経済はその典型的な例といえます。

 結果として、他者を出し抜いてでも自分がよくなろうとする。そこで自分の方が優れていると思い込む。立派だと自負する。正しいと誇る。そして、それらの思いを正当化するための仕組み、きまり、考え方などをつくろうとする。まさにこれが、当時のユダヤ教の指導者たちの実態だったのです。彼らは神様、神様と敬虔ぶってはいますが、実はまったく神から離れているのです。心の深いところでは、少しも神を信じていないのです。でもそれに気がついていないわけなのです。

 ただ今日のわたしたちが、果たして、当時のユダヤ教指導者を非難できるかというと、口をつぐんでしまうと思うのです。わたしたちもまた同じような過ちを冒しているのではないでしょうか。

 冒頭で、手を洗う弟子もいたことが重要だと述べました。イエスは皆同じにしようとは思っていないのです。いろいろな考え、いろいろな立場があっていいと考えているのです。命はつながりであると同時にそれぞれに違いもあるのです。関係を大切にすることは、何でも同じにしなくてはならないということではありません。それでは同調圧力です。

 そうではなく、それぞれの違いを受け入れ合いながら支え合ってゆくということではないでしょうか。それがイエスの思いなのです。このイエスの考えを、今、個々の地域社会で、それぞれの国で、そして教会はどこまで実現しているのでしょうか。問われていると思います。


 今日から教会の暦でアドヴェントとなりました。クリスマスへの備えの時期です。備えの中心的な事柄は悔い改めです。この一年の来し方を振り返り、果たして自分はどう生きてきたか、自分に偽りなく向き合い、新たに生き直す決意をするときです。なぜこの時期にそうするのか。それは救い主が誕生したことの意味を思い起こすからです。

 イエスは救い主キリストとして誕生しました。初代教会が定めた信仰です。そしてその救いとは、信じた者が永遠の命を与えられるといった自分のことだけに留まるものではありません。先週も述べたように、救いとは、他者と共に愛し合って生きるように変えられるというところまで含まれるのです。

 これは最も難しいことです。一朝一夕にできることではありません。でも、だから、折に触れて自らを振り返るときが必要だと思うのです。礼拝を守るという修行が必要なのです。それは、そうしなくては駄目なんだとか、そうしなければ救われないとかいうことではありません。神の愛に対する応答なんです。その応答の日々がわたしたちの生きる意味だと思うのです。このアドヴェント少しでもそのような思いで過ごせたらと思うのです。



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by buku1054 | 2014-11-30 17:47 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年11月9日坂下教会礼拝メッセージ

201411/9礼拝説教「困難な状況で」マルコ64552



今日の箇所も、にわかには理解し難い出来事が描かれています。なんと、イエスが湖の上を歩くという記事なのです。これも聖書の中ではとても有名な箇所です。なんてったって水の上を歩くわけです。重力に逆らっているわけです。現実的には不可能です。ですからここは物議を醸す箇所です。こんなことはあり得ない。だから聖書は信用できない、馬鹿馬鹿しくて相手にする価値もないという立場が生じます。近代以降、科学的な証明がなければ認めないというものの見方からすれば、当然そうなります。

逆にイエスは本当に水の上を歩いたのだ。なぜなら神の子、救い主だから。これを信じないのは信者とは言えないという立場もあるわけです。わたしたちは信者ですから、基本的には聖書を信頼しています。でも、水の上を歩くとなると、自信を持って信じますとはいえないように思います。皆さんはどうでしょうか。

もし、本当にイエスが水の上を歩いたら、わたしならどう思ったか考えてみました。もちろんすごい!とは思ったでしょう。ただし、すごいとは思いますが、そこに何の意味があるのかと思うはずです。インドのヨガのすごい導師になると、空中浮遊する人が確かにいるといわれています。

にわかには信じられませんが、世の中には信じがたい能力を持った人もいるはずです。古代にはもっといたはずです。でも、ああすごいな、でもだからどうなんだという思いを超えられないのではないでしょうか。ましてやそこに、神的存在を読み込み崇めるのは如何なものでしょうか。

この箇所は、イエスが湖の上を歩いたこと、そのことに焦点を当てると、ピントが外れてしまうのではないだろうかと思うのです。これまで述べてきたように、聖書は歴史的事実を伝える書物ではありません。もし歴史的事実を伝えたものであるならば、そもそも説教など必要ありません。そのまま読めばそれで事足ります。

聖書は信仰の書です。ある出来事に相対して、その時人は神からどんなメッセージを見出したかということが表現されたものです。その表現には古代人らしく神話的な表現になるものもあるわけです。ですからわたしたちは神話的な表現の背後にある本質というか感動というかそういうことを見出すことが必要だと思うのです。それが聖書を読むということではないでしょうか。

わたしは湖の上を歩くイエス。神話的表現の可能性が強いと思います。神話的表現をとったというは、現実に生きる人間にとって、理解できない面があったということではないでしょうか。その理解できない部分を神話的に表現するのです。そう考えると最後の部分が理解の助けになると思います。湖の上を歩くイエスを見て、弟子たちは驚き。幽霊だと思うわけです。これは、パンの出来事が理解できず、心が鈍くなっていたからというのです。

パンの出来事とは「5千人の供食」の出来事です。でも、弟子たちがこの出来事を理解できなかったというのは解せないのです。弟子たちは現場にいました。群衆を実際に救済するためにそこにいたのです。しかしそれを理解できなかったというのです。いったい何を理解できなかったというのでしょうか。

パンの出来事とは、イエスが難民のような群衆を見て「腸がちぎれる」思いになり、群衆のために心底尽くしたという出来事です。それが前回のわたしの解釈でした。それはまさにアガペーの愛、無償の愛の行動に他ならないわけです。それを理解できなかったということは、無償の愛を理解できなかったということではないでしょうか。

わたしは弟子たちの気持ちがわかるような気がしました。100%純粋な愛、無償の愛。イエスはその愛を抱き実行できる方だったのでしょう。だから「神」と同一視もされたわけです。しかしそんな愛を、人はそう簡単には抱けません。人は皆、何らかの見返りを期待しながら善意を施す。そういうものです。こんなことをやって何になる。報いがないじゃないか。弟子たちはイエスに命じられるままに奔走しましたが、イエスのアガペーには気がつかなかったのではないでしょうか。このようなイエスと弟子たちとのずれ、それが最後の裏切りとなるのではないでしょうか。

さて問題の部分です。弟子たちはガリラヤ湖の真ん中。逆風に吹かれてなかなか前に進めず難儀していたといいます。そこへイエスが歩いてやって来ます。湖の上を歩くイエスが神話的表現ということであるならば、航行中に難儀した弟子たちとは、彼らの経験した何らかの困難を、この福音書記者はこのような描写で表現しということではないでしょうか。

神様なんかいないと思うことがあります。普通はそれで神を信じなくなるものです。現代の日本人は特にそうでしょう。悪いことがあれば「神も仏もない」とうそぶくこともしばしばあります。また、一度信仰を持っても、問題が解決されなかったり、良いことがなければ、いとも簡単に信仰から離れるものです。神とはわたしたちの思い通りのことを実現してくれる。願いを叶えてくれる。そう考える人がいかに多いかということです。

ハンガリー出身のユダヤ人作家であるエリ・ヴィーゼル、彼は194416歳でアウシュビッツ強制収容所に入れられます。奇跡的に生き延びた彼は、後に「夜」という題の小説を書きます。小説の舞台はアウシュビッツ強制収容所です。ある日発電所が破壊される事件が起こり、その犯人として3人のユダヤ人が見せしめのため公開処刑されることになります。その内の一人は子どもでした。

「ある日、私たちは作業から戻ってきたときに、三羽の黒い烏のごとく、点呼広場に三本の絞首台が立っているのを見た。点呼。縛り上げられた三人の死刑囚―そして彼らの中に、あの幼いピーペル、悲しい目をした天使。何千名もの見物人の前で男の子を絞首刑にするのは些細な仕事ではなかった。収容所長は判決文を読み上げた。すべての目が子どもに注がれていた。彼は血の毛がなく、ほとんど落ち着いており、唇を噛みしめていた。三人の死刑囚は、一緒にそれぞれの椅子にのぼった。『自由万歳』と二人の大人は叫んだ。子どもはというと、黙っていた。『神様はどこだ、どこにおられるのだ。』私の後で誰かがそう尋ねた。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。全収容所内に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。

 二人の大人はもう生きてはいなかった。晴れ上がり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし、三番目の綱はじっとしてはいなかった―子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである。30分あまりというもの、彼は私たちの目の前で臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死との間で闘っていたのである。そして私たちは、彼を真っ向から見つめねばならなかった。彼はまだ生きていた。かれの舌は赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。私の後で、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。『いったい、神はどこにおられるのだ。』

この後、ヴィーゼルは一つの答えを私たちに与えるのです。「そうして、私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。
『どこだって。ここにおられる。―ここに、この絞首刑台に吊るされておられる』。
これが、ヴィーゼルの出した最後の結論でした。

弟子たちはおそらく何らかの困難な状況にあったのでしょう。そして、その渦中では理解することができなかったけれども、後になって、ああ、あのとき、自分たちは神に支えられていた、神の愛に包まれていたという思いに至ったのではないでしょうか。

わたしは思います。神は、わたしたちが困難の中に立たされている、まさにその時、そこにいてくださるのではないかと。つまり、もっともわたしたちが神を感じられないときです。自分の願いが叶わず、思い通りに行かず、苦しさや辛さばかりが覆い被さってくるそのときです。そのときこそ神がもっとも近くにいるときです。これは理屈ではないのです。

神はわたしたちを支えている。もちろんそれは認識できないけれども、神はわたしたちを支えている。見守っている。無償の愛をもって包んでいる。それがこの箇所で表現されたこと、すなわち、湖の上を歩いてまで側に来てくださったイエスという記事が伝えようとした意味ではないでしょうか。最後にボンヘッファーの言葉を紹介して結びにしたいと思います。

「われわれが挫折する、その時こそ、神は信じがたいほど近くにいます神であり、絶対に遠くに離れたもう時ではない」


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by buku1054 | 2014-11-23 16:44 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年11月2日坂下教会礼拝メッセージ

201411/2礼拝説教「真理」ローマ11:3336
                  

今日、11月第一主日は、わたしたちプロテスタント教会の暦で「聖徒の日」です。「聖徒」とは聖なる信徒と書きます。すでに天に召された信仰者ということです。この人たち記念する日です。

今日の説教題を「真理」としました。真理の定義は、いつの時代でも、どこでも、誰にとっても、変わらないほんとうのことです。ちなみに新約聖書の原語であるギリシア語では、真理はアレーテイヤといいます。本来の意味は「忘れてはならない」です。いつでもどこでも誰にとっても忘れてはならない、ほんとうに大切なこと、それが真理なのです。で、なぜ、召天者記念のときに真理なのかですが、それをこれからお話しします。

ここ数年、わたしは「臨死体験」についての本を何冊も読んできました。臨死体験というのは、一度、心肺停止や脳死によって昏睡状態になった人が、蘇生して、死後の世界の体験したことをはっきりと認識したということです。

これは全世界にたいへんな数の経験者がいます。そこには共通することがあると言われています。トンネルのような暗闇を通って、光り輝く素晴らしい至福の世界に行った、過去に亡くなった家族、友人、知人などに会えたといったものです。しかし一昔前までは、というか今でも、臨死体験は眉唾物で、夢や幻想、馬鹿馬鹿しいと思われていました。

とりわけ医学の分野では、臨死体験は死の直前に脳から放出される「エンドルフィン」という物質によるものと分析されています。この「エンドルフィン」は、死の痛みを和らげる効果があるのですが、大量に分泌されると、緩和を通り越して快楽を与えるのです。つまり、麻薬のような働きをして、幻覚を見るのと同じような状態になるというのです。ですから臨死体験も、この脳内麻薬「エンドルフィン」による幻覚だと思われていました。


 しかし、徐々にこうした常識が覆されています。日本では、医学界の最高権威ともいうべき東京大学付属病院救急部、集中治療室部長の矢作直樹医師が『人は死なない』という著書を数年前発表しました。矢作先生は何千人という臨終の人を見てきたこと、またご自身、登山中に不思議な体験をしたこと、さらには亡くなった母親と確かに交信できたことを通して、われわれは死んでも終わらない。次元が違うところで生きるということを確信したと述べています。


 脳神経外科の世界的権威、アメリカのエベン・アレグサンダー医師は、「死後の世界など絶対ない。臨死体験は脳内麻薬エンドルフィンによる幻覚によるものだ」と強く主張してきた人でした。しかし彼は54歳の時、「細菌性髄膜炎」で心肺停止、昏睡状態に陥ります。その間に見た臨死体験は、今までの脳科学の常識を一変させるものでした。なぜなら、彼が臨死体験をしたとき、彼の脳機能は止まっていたからです。エンドルフィンは放出されていなかったわけです。ですから「死後の世界はある」とアレグサンダー医師は認めざるを得なかったのです。

もっともキリスト教は、死後の世界があることを2000年以上前からずっと伝え続けてきたのです。その意味では、2000年経って、ようやく科学が宗教を認めはじめたといえるのかも知れません。

さて、今日の聖書の言葉について考えてみたいと思います。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。パウロの言葉です。わたしたち信仰者の究極的な告白と言っていいでしょう。この言葉に確信を持てたら恐いものはなくなると思います。

すべてのものは神から出るというのです。生まれるではありません。些細なことかも知れませんが重要なことではないでしょうか。たとえばあなたの誕生日はいつですか?そう聞かれたら皆さんはどう答えますか。そんなの決っているじゃないか、母親の胎から出てきた日だ。それが誕生日、命が生まれた日だ。そう答えるはずです。

しかしそれは、命が生まれた日とは言えません。だって、いのちはお母さんの胎の中にいるときからあります。では、母親の胎の中に宿るとき、つまり、受精卵が子宮に着床したときが命のはじまりでしょうか。それも違います。両親の精子と卵子にも命はあるのです。

そう考えると、命にははじまりはないということがわかります。ずっとつながっているのです。ですから、「生まれる」。つまり無から有ではなく、つながりの中から出た。顕れた。ということではないでしょうか。で、それをずっと太古の昔まで遡っていくと、科学的には「ビッグ・バン」になるのです。でも、ビッグ・バンのさらにその先を考えると、どうしても「神」と呼ぶしかない存在へ行き着くのではないでしょうか。

次に、「神によって保たれ」とはどういうことでしょうか。これはおそらく、わたしたちは自己完結的な存在ではない。つまり100%自分で何でもできる存在ではないことを示していると思うのです。考えてもみてください。100%自らの力で自らの命を維持できる人は果たしているでしょうか。空気も水も全部自分で造り出す。食べ物を得るにしても、一切、土や太陽や水の世話にならず造り出せる人がいるでしょうか。いるわけがありません。自分の力だけでは一瞬たりとも生きられないのです。他の存在が必要不可欠なのです。だから、自己完結的ではないわけです。

これは、まさに仏教の根本である縁起という教えに相当します。すべてのものは、縁によって起こる。つまり関係によってあるということです。自分だけでは存在できないということです。仏教ではここまでですが、その先があると思います。つまり、縁起の源があるはずです。それは、すべてのものは、すべてでない何かとの関係によって顕れたと言えるはずです。その何かが「神」です。もっとも便宜上神と呼ぶしかないものです。

わたしたちは教えられてきました。というか刷り込まれてきました。この世に生まれたわたしたちは、死に向かって生きる。死んだら無になる。死んだら終わり。今でもこれが常識です。ほんとうにそうでしょうか。

神と呼ぶ大いなる源から連綿とつながってきたのが命です。つまり命には生まれるということがないのです。生まれるではなく、その時々の縁によって、関係によって出てきた。顕れたということのようです。そして、個別の命はいつかやがて姿が消えてなくなります。わたしたちが捉えている「死」です。でも、そこで終わるのでしょうか。命のつながりは断絶するのでしょうか。

わたしたちが以前飼っていた愛犬の遺体は自宅のの庭に埋めました。今そこからはたくさんの草花が咲いています。愛犬の遺体の成分が養分となって草花を咲かせているわけです。草花に愛犬の命が宿っているのです。愛犬と草花を分離することはできません。やはり命はつながっているのです。終わってはいないのです。

仏教でもっともポピュラーなお経、般若心経に「不生不滅」という言葉があります。「この世のすべてのものは、生まれることもなく、死ぬこともない」ということです。これって、神から出て神に向かうという今日のパウロの言葉と本質的に同じことを述べているのではないでしょうか。

わたしたちの次元というかわたしたちの思考というか、そこからすれば、生まれる、死ぬというようにしか捉えられないことが、別の次元からすれば、生まれもしなければ、死ぬこともない。キリスト教的にいえば、神から出る。神に向かう。神に戻る。神に帰るのだということではないでしょうか。

わたしは、あの世とか天国と呼ばれるところがあることを信じます。死んだら終わり、無になるとは思いません。新たなはじまりがあると思っています。そうでなければ信仰者の名折れです。というか信仰者をやっている意味がありません。もちろん100%信じているとは言えません。わたしたちは不完全だからです。どれだけ信じているか、数字的なことはどうでもよいのです。そう信じよう、そう信じたい。その気持ちを大切に育んで守ってゆければそれでいいのです。

まとめます。わたしたちは、誰もが例外なく神とつながって個別の存在として存在させられ、様々な他者と、その背後にある神によって存在を維持され、わたしたちの源である神に向かって歩んでいるといえます。この恵みを感謝して、折角与えられた人生という機会を味わい尽くす。そうでないともったいないと思うのです。で、生き抜いたら神のもとへ帰って行きましょう。というか、神から召されるのです。その時が来たら、わたしたちは、その働きにすべてお任せしていればいいのです。恐いことは何もないのです。


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by buku1054 | 2014-11-20 12:17 | 礼拝メッセージ | Comments(0)