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2015年4月26日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/26礼拝説教「救い」マルコ10;17~31

 今日も引き続き、マルコによる福音書を読んで行きます。ところでわたしの神学校での卒業論文は、「救済論」でした。つまり「救い」とはいったい何かということをテーマとしたのです。その論考を進める上で、わたしは滝沢克己という神学者を手懸かりとして進めました。

 滝沢克己という人は、1960年代から70年代にかけて活躍された方です。でも、その考え方が正統的なキリスト教からすると外れていたため、その当時はもちろん、今でも大きな支持を受けてはいません。

 滝沢が訴えたことの根本は、インマヌエル。神われらと共にいますということです。これが私たちの人生を支える根源だと説いたのです。とてもシンプルなのです。聖書に基づいています。さらに、滝沢が伝えたことは、神と私たちとの関係は、不可同(同じではない)・不可分(分けられない)・不可逆(逆にできない)と説いたのです。

 さらに詳しくいいますと、「不可同」というのは、神と私たちは同じではないということです。これまでの歴史では、神と人とが同じという事例があまたありました。古代では、王様は神でした。戦前戦中の日本でも、天皇が「現人神」すなわち神でした。このように、この世のある存在を神とすることは誤りであり、世の中を悪い方向に誘ってしまう可能性があるという意味で「不可同」なのです。神と私たち被造物とは、絶対に同じではないということなのです。

 次に「不可分」です。これは、神と私たちとは分けることができないということです。私たちの通常の理解は、神と私たちとが断絶している。神様というのはどこか遠くに存在しているとイメージします。しかし、神と私たちとは絶対に離れていない。私たちを常にもっとも身近で支えているというか寄り添っている。それが「不可分」です。まさに「神われらと共にいます」なんです。


 最後に「不可逆」です。これは、私たちから神へ到達することはできないということです。救いにしても、恵みや祝福にしても、私たちの努力や身分など、私たちが持っている要素に根拠があるのではなく、神から一方的に与えられるということでなのす。したがって、修行を極めれば悟りにいたる、つまり人間の努力や能力、資質を重んじる考え方は否定されます。

 今述べた事ついては正統的キリスト教が伝えてきたことと何ら変わりません。しかし滝沢は、これに留まらなかったのです。それは、イエスにおいてこのことが顕わになったという正統的キリスト教に対して、イエスでなくてもインマヌエルは顕わにされたのだと説くのです。

 たとえば、仏教の開祖である仏陀においてもインマヌエルが顕わにされたと説くのです。これが正統派からすると受け入れられないのです。なぜなら、キリスト教だけが絶対に正しい宗教とは言えなくなるからです。もっともこのことは今後も結論が出ることはないと思います。要は、インマヌエルはイエスにおいてのみ顕わになったのか。それとも他の場合もあるのか。どちらかを信じるしかありません。信じるということは、基本的に私たち人間の行為です。したがって絶対ではありません。その意味でどちらが正しくてどちらが間違いだとは言えないのです。


 さて、今日の箇所を読み進んで行きたいと思います。イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、跪いて尋ねたとあります。この人はどんな人かといえば、小見出しにあるように「お金持ちの青年」でした。平行箇所のルカによる福音書では、ユダヤの議員となっています。つまりこの人は裕福で優れた人です。当時のエリートです。世間的には欠けたところがない人です。


 でもこのような恵まれた人がイエスに尋ねるのです。それもわざわざ跪いてというのですから、余程のことです。その願いとは、永遠の命を得るには何をすればいいのでしょうか?ということだったのです。

 永遠の命とは何でしょうか?私たちは通常、永遠の命と言ったら、いつまでも生きられること。すなわち、肉体の死をもってしても終わらないと理解します。それは、死を克服するわけですからありがたい理解です。ただし聖書では、永遠の命とは時間的な概念ではありません。未来永劫いつまでも生きるということではないのです。命と訳されている言葉は「ゾーエー」といいます。これは質的な命、本質的な命ということです。いつの世にも変わらない命だということです。生き生きとした輝いている状態ともいえます。もう少しいえば、今ここで、この瞬間に、神の思いに生きるということです。ただしここでは、永遠の命自体が主題ではありません。ともかくどう解釈しようが、人が望む最高のものと捉えていいのではないでしょうか。

 イエスはこの青年に対して、律法の掟を告げます。永遠の命を得たいのなら、律法の掟を守ればいいじゃないかというのです。ユダヤ教の教えに基づいて答えています。

 すると青年は言います。そんなことは子どもの頃から既に行っていますと。この人は完璧なのです。ユダヤ教において模範的な人なのです。すると、イエスは、こんなことを言います。財産を売り払って貧しい人たちに施せと勧めるのです。何もかも棄てよというのです。すると、彼は彼は悲しみながら立ち去るのです。たくさんの財産を持っていたからだというのです。そんなことできるわけがないということです。


 皆さんはどう思うでしょうか。彼はこれまで一生懸命頑張って今の立場を築いたのです。その御陰でかなりの財産も持てたのです。そんな人に向かって、これまで築きあげてきた財産をすべて施せというのです。一文無しになれというのです。私だったら、やはりこの青年と同じく、そんなことはできないと立ち去ると思います。それが常識的な思いではないでしょうか。

 私はここで孔子の言葉を思いました。「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(みみした)がう。七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず」。

 現代語にします。私は十五歳で学問を志した。そして三十歳で一本立ちした。四十歳であれこれと迷うことがなくなり、五十歳になると天が命じたこの世での役割と自らの限界を知った。そして六十歳になったときには、人の言葉を素直に聞けるようになった。七十歳になると、自分の思い通りにふるまっても道に外れることはなくなったということです。

 今日のこの青年が幾つなのかはわかりませんが、孔子の言葉から言うと、四十代から六十の代の間を彷徨っています。一番最高のものを得たい。そのためにはどうしたらよいのだろうか。まさに迷っています。この世での自分の役割、それもわかっていません。そしてイエスの言葉も素直に聴いていません。

 孔子の言葉からいえば、この人は悟っていません。では、我が身を振り返るとどうでしょうか。この人を笑えるでしょうか。愚かな奴だと言えるのでしょうか。言えません。これが私たちのほんとうの姿ではないでしょうか。ここにいる私たちは、信仰に生きています。ほとんど毎週礼拝にも参加します。しかし、だからといって信仰の確信があるといえるのでしょうか。信仰者として相応しい言動を行っているでしょうか。自信はありません。その意味で、この青年のように迷いつつ不確かに生きていると思います。


 私たちは、幾つになっても、孔子の言葉にあるような理想通りには行かないものです。それどころか、死を迎えるそのときまで、迷いつつ、躓きながら生きる者といえるかも知れません。この後イエスは、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言います。凄いことを言うもんです。絶対にあり得ない事です。神の国に入るとは、要するに、救いを自力で得るということは、ほとんど不可能なことだと言いたいのではないでしょうか。


 そもそもこの青年、永遠の命を受け継ぐには何をすればいいのでしょうかと尋ねました。どうすれば最高のものを得られるのでしょうかと。突き詰めれば、どうすれば救いを得られるのですか。そう尋ねたわけです。しかし、どんなに優れた人であっても、どんなに高潔な人であっても、どんな人格者であっても、ましてや、迷いながら、躓きながら生きる私たち凡人にとって、自力で救いを得られるなどあり得ないということではないでしょうか。

 ですから弟子たちは、では、いったい誰が救われるのだろうかとつぶやくのです。イエスは言います。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。つまり救いとは、神から一方的に与えられることだと伝えているのではないでしょうか。

 であるならば、私たちがとるべき態度とは何でしょうか。それは、すべて神にお委ねること、お任せ切ること。それ以外の何ものでもないと思います。もう少し言えば、救いとは、私たちがどうであるとか、何をしたとか、どう考えているとか、そういったこととはまったく関係なく、無条件に、一方的に神から与えられる恵みなのだ、だから迷いがあっても、躓いても、愚かでも構わないのだ。そこをわかってほしい。それがイエスからのメッセージだったのではないでしょうか。


 先週の週報「今週の糧」に引用した星野正興牧師の言葉を改めて読みます。「今日も窓の外に風が吹いている。木の葉や草はその風になびいている。肩肘張らず、強がらず、小さな葉のまま、細い草のまま風になびいている。ありのままの姿でごまかさないで風になびいている。我々よりずっと、ごまかされない方をおぼえて生きている」。

 ここで「風」とは神を意味します。つまり、私たちを生かし支える根源である「神」にすべて委ねなさいということです。もっとも、すべて委ねるなど私たちにはできません。それほどの信仰を持っていません。しかし、にもかかわらず、私たちは支えられ、生かされ、死後も導かれている。そうしてくださる方と一緒に生きている。そこにこそ、ほんとうの救いがあるのではないでしょうか。そう信じられたら、なんと幸いではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-04-27 11:27 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年4月12日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/12礼拝説教「受け入れる」マルコ10::13~16

 先月、教区の「障がい者と教会」の岐阜地区集会で、臨床心理士の川浦弥生さんという方を講師に招きました。川浦さんは東京生まれですが、30年間、沖縄のいくつかの離島で主に子供たちの心のケアにあたってきた方です。現在牧師になるため農村伝道神学校に在学中の神学生でもあります。

 講演の中で、川浦さんがこんなことを述べていました。自分が臨床心理士になった動機は、幼い頃に母親からいわれてきた言葉にあったというのです。それは、「あんたなんか、生まれてきて欲しくなかった」という言葉でした。川浦さんはその言葉に深く傷つき、自分は必要のない人間だと思うようになったといいます。だから自分は、人の必要になるような仕事をしたいと考えるようになり。その結果、臨床心理士になったということでした。

 川浦さんは能力もあり、努力もしたのでしょう。心の傷をなんとか乗り越えることのできた方ですが、同じような惨いことを言われ、人生が狂ってしまった人はたくさんいるのではないでしょうか。

 さて、先週はイースターでしたので、それに相応しい箇所を選びました。したがって、継続して読んでいるところから離れましたので、今日は継続中の続きを読み進んでみたいと思います。今日の箇所は、小見出しに「子供を祝福する」とありますように、イエスが子供を祝福することについて記されたところです。この箇所は、教会では、子供祝福式や子供との合同礼拝の際、よく取り上げられる箇所です。


 ここで、人々が子供たちをイエスの元に連れてきます。触れてもらうためとあります。「触れていただくため」とは、神の祝福を受けるためということです。イエスの噂を聞いた親たちが、子供たちに祝福を授けてもらいたいということです。


 なぜでしょうか?イエスは救い主だという評判が広まっていたからでしょう。この世を超えたすごい方だからということなのでしょう。ただしここで、イエスは愛の方だから、救い主だから、だから小さな子供を受け入れたとするだけでは大事なことを見落としてしまうと思います。ここはそう単純にやり過ごしてはならないと思います。

 その理由は、この場所が、ヨルダン川の向こう側、ペレア地方だったというところにあると思いました。前回も述べましたが、ここはヘロデ・アンティパスが統治したところであり、ファリサイ派の勢力強い地域でした。今日の箇所では、特にファリサイ派の勢力の強さがこの物語の重要な鍵ではないかと思ったのです。ファリサイ派は、律法を厳格に遵守する人たちです。そのことが神の祝福を受ける根拠だと信じていた人たちです。

 当時、子供の存在価値はたいへん低いものでした。今のように子供の人権といった考え方は皆無です。人として価値があるのはユダヤ教徒、それは男性に限られたわけです。女性や子供、病人や障がい者、また律法を守れない人たちは神の祝福の対象外だったのです。

 ただし辛うじて男の子は別でした。男の子はユダヤ教の将来の担い手です。幼い頃からシナゴークで律法教育を受けさせました。そのことそのものが、が神の祝福だったのです。

 したがって、神の祝福の対象外は、子供に限っていえば、女の子、病気の子供、障がいの子供だったのです。こうした者たちは、神の祝福の外側に置かれた者たちだったのです。

 このような当時の時代背景を踏まえると、ここで親が連れてきた子供たちは、女の子、病気の子供、障がいを持った子供だったと言えるのではないでしょうか。さらにいうと、こうした子供たちをイエスの元に連れてきた親とは誰か。それは、母親だったと思うのです。

 おそらく次のような状況を想像します。神の祝福を受けられるのは、五体満足の男の子だけ。女の子をはじめ、それ以外の子供を持った母親たちは、親の素直な願いとして、その子たちにも神の祝福があってもいいではないか。そう思っていたはずです。しかし、夫や父親たちは耳を傾けない。取り付く島がない。そこで、母親たちが意を決して、一致団結して、当時のタブーを冒して、イエスの元へやって来たのではないか。わたしはそう思うのです。

 しかし、そんな母親の思いに気がつかない。それが弟子たちだったのです。彼らはユダヤ教徒です。男性です。神の祝福は男性にのみにあると刷り込まれていた者たちです。ですから、弟子たちはこの者たちを叱ったのです。おそらく彼らはこう思ったはずです。「お前たち、いったい何を考えているんだ。女、子供の分際で。常識外れも甚だしい。さあ、帰れ、帰れ。お前たちの相手などしている暇はないんだ」。

 すると、弟子たちの行為に対して、イエスは憤るとあるのです。ここは訳が弱いと思います。イエスが「憤った」という言葉は、原文では激怒する。激昂するという意味の、とても強い言葉なのです。つまり、このような子供たち、すなわち、ユダヤ教の基準からしたら、神の祝福から弾かれた者たちを受け入れなくては、神の国に入れない。神から認められない。イエスはかなり激しく弟子たちに説くわけです。

 話は変わりますが、ここで子供を巡る一つの物語をご紹介します。神戸市東灘区にあるYKK六甲株式会社で社長を務める江口敬一さんという方がいます。江口さんはアメリカ西海岸にあるYKKのシアトル支社に勤務していました。シアトル市内の病院で、次男・裕介さんが生まれました。

 しばらくして医師から裕介君の思いがけない診断結果を知らされました。裕介君は、染色体検査の結果、ダウン症であること、そして知的障がいもあるという内容でした。江口さん夫妻は大変なショックを受け、すぐには言葉が出ませんでした。体中の力が抜けた感じだったそうです。

 しかし、この医師は医学的な診断結果の説明をしただけで会話を終わりにはしませんでした。ショックで今にも倒れそうな江口さん夫妻の心を支えて、こう続けたというのです。「あなたがたは、障がいをもった子供を立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」と。

 江口さん夫妻はこの言葉で我に返りました。この子を自分たちが育てなくて、誰が育てられようか。この子の親として選ばれたからには、愛情をこめて育てなければならない。医師が言ってくれたように、自分たちには力があるはずだ。可愛いこの子のためなら、できないことはない。

 江口さんご夫妻は、医師の言葉によって勇気づけられ、思い直すことが出来たのです。裕介君は養護学校高等部を卒業した後、ホームヘルパー2級の資格を取得し、現在は東大阪市内の高齢者デイ・サービス・センター「アンデスのトマト」に就職し働いておられます。


 イエスは、子供がわたしのところにくることを妨げてはならないと語りました。わたしたちはさまざまな命の状況、さまざまな命の形を持ってこの世に神が送り出される存在と出会っていきます。

 しかしながら、時にその違いをもった命に対して、その存在をそのまま自らの所に抱きとめるのではなくて、受けとめるのではなくて、招くのではなくて、拒絶したり、絶望したり、あきらめるということがあるのではないでしょうか。

 わたしたちの意識の中に、思いの中に、子供がそのままの姿でこちらに来ることを拒否する、受け止めることができない、どこかで子供の状況を否定しようとする思いが働くことがあるのではないでしょうか。


 江口さんの次男裕介君をこの世に迎えるときに立ち会った医師は、両親の心に向かって語りかけました。この医師の言葉あなたがたは、障がいをもった子供を立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」は、「あなたがたは、子供がわたしのもとに来るのを妨げてはならない」というイエスの言葉に重なっていたことを感じるのです。

 前回の話の中で、わたしたちの出会いと関係は、神が結び合わせてくださったものだと述べました。わたしたちの思いや願いを遙かに超えた働きがあるのだということです。それは、わたしたちの思いからすれば、願いからすれば、受け入れたくはない、拒否したい。そんな出会いや関係も然りなのです。

 わたしたちにそれぞれ与えられている出会いや関係は、神があなたにはこのことを担っていくことが出来るということを知った上で、わたしたちに与えて下さっているのだということを信じたい。それを忘れずに、向き合い、受けとめる者でありたい。そう思います。

 「子供をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。イエスのこの言葉は、神がその子を選び、そして送って下さっているのだからという意味ではないでしょうか。このイエスの言葉を素直に信じて受け入れること。それがわたしたちに託されたことではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-04-12 12:39 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年4月5 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/5礼拝説教「包み込んだ」マルコ16:9~11

 2015年度の最初の礼拝がイースターとなりました。キリスト教にとってもっとも大切な事柄、それがイースターです。イエスが復活されたということです。イエスの復活がなかったとしたら、キリスト教は起こらなかったのです。つまり教会という存在もなかったのです。したがって、わたしたちの存在もなかったのです。その意味でもっとも大切ななこと、それがイースターなのです。

 しかしこの復活、なかなかよくわからないと言えます。クリスマスのように、イエスが誕生したというハッキリとした歴史的事実ではないので、そう思われてしまうのではないでしょうか。ですから、長らく信仰生活を送ってきた方でも、はっきりと、復活をわたしは信じます。復活とはこういうことです。そんなふうに自信に満ちて言える方はそう多くないように思います。むしろ、聖書にそう書いてあるのだから信じなくてはならないとか、信じなくては駄目ですよといわれてきたので、なんだかよくわからないけれども、信じることにしておこうといった曖昧な思いを持つ方が多いのではないでしょうか。

 さて、教会にとってもっとも喜ばしい日であるイースター、けれども意外にも曖昧な捉え方をされる復活、今日は改めて復活について考えてみたいと思います。この度選んだ箇所は、今、継続して読んでいるマルコ福音書から選びました。マルコ福音書16章9~11節です。ここはご覧になっておわかりのように括弧で括られています。

 この9節から最後20節までが括弧で括られているのです。これは新共同訳聖書のはじめの解説のところにありますが、括弧括られたところは、後の時代に書き加えられたことを意味します。したがってこの部分は、マルコが書いたものではありません。マルコではない他の誰かが後の世になって書き加えたとされているのです。聖書学ではマルコ福音書というのは、16章の8節で終わっているというのが定説になっています。ですからそのことが9節以下に反映されて括弧で括られているのです。

 だとすると括弧の部分、9節以下に記されていることは、作り話なのか。信じるに値しないのかという思いになる人もいるかも知れません。わたしはそうは思いません。マルコ福音書の記者の意志を受け継いだ後の世の誰かが、マルコの意思を尊重しつつも、後に自分が知った伝承というか、実際に経験したというか、それをどうしても記さないではいられなくなって、書き加えたのではないか。そう思うのです。

 さて、16章の最初を見ると、イエスが殺されて、一切の仕事をしてはならない安息日が終わって、三人の女性たちがイエスの遺体に葬りの儀式を行うために、遺体が納められた墓に行きます。その三人とは、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人でした。彼女たちはイエスの遺体が墓になかったことや天使のような存在の言葉を聞いて恐れおののいたとあるのです。

 元来のマルコ福音書はこの場面で終わっているわけです。で、括弧付きの今日の箇所に入るわけです。イエスは、週の初めの日、それも朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現されたというのです。前の段落の続きからすると、あれっ、おかしいなと思うことがあるのです。というのは、そもそも三人の女性が連れ立ってイエスの墓に来ていたわけです。しかし、復活のイエスはマグダラのマリアにしか現れなかったというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。



 この後マリアについての説明が書かれています。「以前イエスに七つの霊を追い出していただいた婦人である」というのです。イエスをめぐる女性は何人もいます。おそらくその中で母マリアを除けば、このマグダラのマリアがもっとも有名な女性だと思います。マグダラというのは地名です。ガリラヤ湖畔にあった漁業が中心の町でした。ここでは捕れた魚を加工して、海外にも輸出していたことから、諸外国の商人たちもたくさん行き交いしていた町で、当時として4万人というたくさんの人口の町です。


 いろんな人がたくさん行き交う町では、当然そうした人たちを当て込んだ様々な商売や仕事が生まれます。そういうことでここは水商売の女性や娼婦もたくさんいたといわれています。このような状況もあって、イエスによって悪霊を追い出してもらったこのマリアは、娼婦だったのではないか。そういう解釈をする人がたくさんいます。もちろんほんとうのところはわかりません。

 だだ、たしかなことは、七つの霊に取り憑かれていたということ、これは並々ならぬ酷い状態にあったということです。いや、もっというなら、人格を破壊され、必要ない者として弾かれ、絶望的な状態にあった。生きる気力もなかった。それが七つの霊に取り憑かれていたと表現された内容ではないでしょうか。

 もし彼女が娼婦だったとすれば、人格が破壊してしまうほど自分の身体を売らないと食べていくことができない。そういう悲しい女性だったのではないか。身も心もボロボロになって、涙さえ出てこない。楽しいことがあっても微笑むことすらできない。そんな状態に貶められていた、それがマグダラのマリアという人だったのではないでしょうか。

 そのマリアにイエスは現れたというのです。他の誰でもないこのマリアだけになのです。今日の説教題を「包み込んだ」としました。これはマリアにイエスが御自身を現されたというところの「現された」という言葉をイメージしたものです。わたしはこの「現された」を「包み込んだ」、イエスがマリアを包み込んだというように感じたのです。

 時は朝早くです。夜が明けて太陽が昇ってきます。こんな状況に身を置くとどんな感じでしょうか。夏場でも早朝はひんやりとして少々肌寒い、冬場なら震え上がるような状態です。そこへ太陽が昇ってくる。明るく暖かい日差しが射し込んでくる。そういうときわたしたちは太陽の光に包まれていると感じるのではないでしょうか。あるいは暖かくてホッとしたというか安心したというか、そんな感覚を覚えるのではないでしょうか。


 復活のイエスがマリアと出会っているこの状況が、歴史的事実として具体的にどのようなものであったか、それを知る術はありません。しかしそんなことはそれほど大切ではないと思うのです。過酷な人生を過ごしてきたマリア、人格も破壊され、世間からは必要無い存在と罵られ、ただ男の慰み者としてしか生きられなかったマリア、そのマリアに、他の誰でもないマリアにイエスは現れた。イエスはマリアを包み込んだ。マリアはそのことをたしかに経験した。それが大切なことではないでしょうか。

 さらにいうと、マリアを包み込むイエスは復活のイエスです。多くの者は復活のイエスを「勝利のキリスト」と表現します。死に勝利したキリストだということです。それもいいでしょう。でもわたしはそれだけではないと思うのです。復活のキリストは、十字架で無残に殺されたイエスです。まさに人格を破壊され、必要なき者と罵られ、棄てられたイエスです。そのイエスがマリアを包み込んでいる。マリアの悲しみも、絶望も、涙も、彼女と同じように人格を破壊され、棄てられた、必要がない者とされたイエスが包み込んでいるのです。

 そこにあるのは、全能の力で上から救いあげるようなイエスではない。勝利のキリストと崇められた栄光のイエスではない。まさにご自分もボロボロになってしまったその有様で、虫けらのように棄てられたその姿で、いやだからこそ、マリアの絶望にほんとうに寄り添えるそのあり方で、イエスはマリアを包み込んだのだ。人智では計り知れない何かが起こったのだ。それが神の愛ということなのかも知れません。

 さてマリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせます。しかし彼らは、イエスが生きておられることも、マリアがそのイエスを見たということも信じなかったというのです。これはどういうことなのでしょうか。それは、この人たちは実際に体験したのではないから当然だという解釈が一番わかりやすい。しかしそれだけでしょうか。


 彼らはイエスが殺されて悲しんでいるのです。泣いているのです。最愛の人に先立たれたのです。そんなときわたしたちは平常心ではいられない。嘆き悲しみます。それが普通の姿です。正常な姿です。そこにマリアがやって来た。おそらくマリアの表情は微笑みを湛えた、安心した落ち着いた幸福な表情だったと思います。泣き崩れるのが当然なんだ。それが正常な者の態度なんだというそこで、一人マリアが微笑んでいる。安心している。それは彼らにとって異常なこと、普通ではないと思えたのは当然ではないでしょうか。

 あるいは、マリアが復活のイエスに出会った体験を話しても人々は信じなかったというのは、教会が成立した後のマリアのおかれた状態を示していたのかも知れません。あの女は所詮、娼婦ではないか。いかがわしい罪深い女ではないか。あんな女の言うことなど信じられようか、あいつは正常ではないんだ。そんなマリアに対する否定的な状況というか弾かれた状況というか、それが、この部分にこういう形で表現されているのではないでしょうか。


 しかし、この箇所を書き加えた誰かは、マグダラのマリアを知っていた誰かだと思います。人格を破壊されるほど貶められ、絶望していたマリア、生きる気力のかけらも持ち合わせていなかったマリア。しかしそのマリアが顔を上げて生き生きとその後の人生を生きていった。その姿に、これを書き加えた誰かは、イエスがたしかに復活されたことを信じたのではないでしょうか。

 だからどうしてもこのことを書き加えなくてはならない。たとえ括弧付きでも末尾であっても残さないではいられない。そう思ったのではないでしょうか。でもそのおかげで、2000年以上も時を経たわたしたちがこれを読むことができるのです。その意味で、マグダラのマリアは永遠にこの世界に刻み込まれたのです。これこそまさにマリアの復活ではないでしょうか。


 わたしたちも、ここで記されているこのマリアの体験、それは文章ではほんの数行しかない小さなものです。しかし、目を懲らして行間を読みながら、少しでもマリアの心境に心を寄せながら読んでいくとき、必ず感じることがあると思います。

 それは、人格を破壊され、棄てられたイエスだからこそ、このわたしの悲しみも辛さも絶望も包み込んでくださっているのだ。安心していいのだ。大丈夫なんだということではないでしょうか。それをわがこととして感じるならば、信じられるならば、それは、他でもない、このわたしのイースター。このわたしの復活になるのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2015-04-05 13:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月29日礼拝説教

2015年3/29礼拝説教「今ここにある奇跡」マルコ10:1~12

 2014年度最後の礼拝となりました。今年度は、マルコによる福音書を継続して読んできました。イエスとはいったいどんな人だったのか。それもできるだけ素顔のイエスを追い求めてみたい。そのことを改めて考えてみたいというのがその動機でした。その際、もっとも最初に書かれたマルコによる福音を選んだのです。というのは、他の福音書に比べて、この福音書のイエスは実在したイエスの素顔に最も近いと思うからです。


 さて、今日から10章に入ります。10章最初の物語は、ファリサイ派との論争物語となっています。小見出しに「離縁について教える」とあるように、離婚が主題となっています。ただ、いきなり離婚の問題が問われるのは、なんだか唐突な思いがしました。しかしその理由が、冒頭の書き出しから読み取れるのです。

 イエスはそこを去ってとあります。「そこ」とはカファルナウムです。イエスと弟子たちのホームグランドといってもいいところです。そのカファルナウムを去って、イエスの一行は、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれたとあります。このさりげなく書かれていることが実は重要だと思いました。

 ヨルダン川の向こう側というのは、ペレアと呼ばれた地域です。ここはガリラヤ同様、ヘロデ・アンティパスが統治していたところです。ヘロデ大王の三人の息子の一人です。しかもここはファリサイ派の勢力がとても強かった地域だったというのです。アンティパスが統治していたこと。それとファリサイ派の勢力が強かったこと。このことから見えてくることがあります。

 ヘロデ・アンティパスによって殺害された有名人がいました。バプテスマのヨハネです。彼がなぜ殺害されたのか、それは、アンティパスの離婚問題でした。アンティパスには政略結婚によって外国から娶った妻がいました。しかしアンティパスは、自分の兄弟フィリッポスの妻に恋をしてしまうのです。ヘロデアです。その経過はわかりませんが、アンティパスはヘロデアを妻に迎えるのです。しかも、政略結婚した妻を強引に離縁するのです。当時は一夫多妻ですから、なにも妻を離縁しなくてもよかったはずです。おそらくそこには単純に割り切れない事情があったのだと思います。

 こうした事情に対してバプテスマのヨハネは、アンティパスを厳しく非難するのです。ただ前にも言いましたが、それは倫理的なことだけではありません。アンティパスの行動によって、離縁された妻の父親が怒り、戦争になったからです。そのことで民衆の多くが犠牲になったのです。ヨハネの非難は政治的でもあったのです。ですから、、ヨハネは逮捕され殺害されたのです。こうした背景もあって、当地に住むファリサイ派たちは、離婚問題を楯にイエスに挑んだのではないでしょうか。

 ファリサイ派は言います。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているのでしょうか」。ここで考えたいことは、夫が妻を離縁するということです。主語は夫です。当時離婚は、一方的に夫の側からなされたのです。妻には離婚を要求する権利はなかったのです。男尊女卑の社会であることの典型的な事実です。

 これに対してイエスはモーセの律法を持ち出します。「モーセはあなたたちになんと命じたのか」と訊ねます。彼らは答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することをゆるしました」。これは申命記の掟です。より詳細には、「人が妻を娶り、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」というのです。

 皆さんはこれを聞いてどう思うでしょうか。特に女性である皆さんは不快感を覚えるのではないでしょうか。ここでも男尊女卑です。離婚する権利は男にあるのです。それも、妻に恥ずべきことがあったらというのです。この恥ずべきこととは、家事がうまくできなかったり、子どもを産めなかったりといったことがありました。


 子孫を残してこそ神の祝福に与れるという当時の常識にあって、子どもができないというのは致命的でした。しかし子どもが授かれないのは女性だけの問題ではない無いわけです。男性側にも問題があります。今ならそういうことも考慮されます。しかしこの時代はそんなことに考えが及びません。いやどうでしょうか。現在でも子どもができないと女性の問題にされることが多いのではないでしょうか。

 しかしそれ以上に問題なのは、子どもを産めない妻、それ以外の恥ずべきことがあったらということです。要するに、夫が気に入らなくなったら離婚できたということです。恥ずべきことはどんどんどん拡大解釈されて、ほんの些細なことでも、夫が気に入らなければ一方的にというか身勝手な離婚の理由になったのです。それが正式に認められたのです。ともかく結婚とは、何もかも男性にとって有利なように定められていたのです。

 ただここでモーセによれば、離縁状を書けば離婚をゆるしたというのは、女性を保護する意味があったということです。夫が離婚する際、離縁状を書けば、その離縁状をもって妻は再婚することができたそうです。そうでないと、どうしょうもない女として以後再婚することは難しかったといいます。ただ実際にどれだけの男がこうしたルールを守ったかというと、おそらくごく僅かだったのではないかと思うのです。

 さて、こうしたやり取りを経て、イエスは自分の考えを述べるのです。「天地創造のはじめから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人は別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 この部分は結婚式のときに新郎新婦に対して聖書からの勧告としてよく読まれるところです。ただしこの言葉は、結婚式を迎えた二人だけに通用する言葉なのでしょうか。わたしはそうは思いません。夫婦になる二人だけに適用するのではなく、すべての人々にも適用された言葉ではないかと思うのです。

 神が結び合わせてくださった。人と人の関係は、出会いは、わたしたちの意思や思惑や感情を超えているのだ。そのことがここでいわれているのではないでしょうか。その一つの例としてお話しします。

 わたしがこの坂下教会に赴任した経緯をお話ししたいと思います。皆さんにははじめてお話しすることかも知れません。ある意味牧師が教会に赴任することは、結婚と同じようなことと言えるでしょう。実際、赴任前に後任の候補者が来て為される説教を「お見合い説教」と呼ばれていることが、そのことを物語っています。

 さて、神学校の最終学年のときは、赴任先のことで不安や恐れや期待など、様々な思いに翻弄されるものです。わたしは原則的には神学校に委ねていました。すると、神学校からあった話は九州は福岡県の教会でした。坂下よりも小さな教会でした。ただそこは幼稚園をはじめ幾つもの施設を持っていたのです。教会よりも施設の運営を主にして欲しいと言われました。教会を主として働きたいと思っていたわたしは、よくよく考えて断りました。

 他にも、恩師の一人から札幌の教会の話がありました。その牧師がわざわざ東京まで来て下さって、夫婦揃って面会までしました。ぜひ、来て欲しいと言われました。でも、迷った末に受け入れなかったのです。仲介の労をして下さった恩師にはすまないと思いました。

 本来こうした教会の人事の話は、素直に受け入れることが基本的な姿勢です。神の働きがそこにあるからという理解だからです。しかし現実には年齢的なことや家族のことなど様々な状況を抱えています。ですから、すんなりとはいかないのです。で、このままだと就職浪人になるかも知れない。そんな不安を抱えていたときです。


 あれは、最終学年の11月のある日のことでした。これから授業に行こうと思って今まさに出掛けようとしたそのときでした。星野先生から電話がありました。赴任先についての話でした。それが坂下教会だったのです。最初、岐阜県の教会だといわれましたが、まったくイメージできませんでした。それまで岐阜県に来たことが一度もなかったからです。飛騨高山は岐阜なのか長野なのか、それすらハッキリしない程度の認識だったのです。

 その後いろいろ聞くと、その年の夏、田中先生が夏期伝道実習生という名目で、農伝のある神学生を後任候補ということで招いたそうです。まさにお見合いです。実はその学生はわたしの友人でした。

 しかし、田中先生は彼を後任にはできないと判断し、母校からの招聘を断念したのです。そこで信頼していた星野牧師に直接頼んだのです。たまたまそこにわたしがいたということです。こういうやり取りを思うと、わたしがここへ来たことは、間違いなく奇跡です。このことをただの偶然と捉えるのか、それともわたしたちを超えた働きがあたと捉えるのかが問題なのです。

 夫婦に限らず、わたしたちの出会い、それは、神が結び合わせたことです。イエスはそう伝えていると思うのです。自分が選んだのではない。相手がそうしようと選択したのではない。あくまでも主語は神なのです。神がそうしたというのです。

 わたしたちの出会いや関係は、たとえそれが自分にとって好ましいことではなくても、わたしたちにはどうすることもできない神秘、奇跡だということではないでしょうか。それが「神が合わせたもう」という意味ではないでしょうか。大切なことは、この奇跡を感謝できるのかということです。もちろん出会いや関係には、受け入れがたいこともあります。こんな人と出会わなければよかったと思うこともしばしばあるでしょう。


 しかし、いろいろ問題があったとしても、悪い関係は悪いなりに何らかの示しがあるはずです。そのことを受け入れるか否かで、その人のその後の歩みが変わっていくと思うのです。わたしたちのそれぞれの出会いと関係に、自分の思いを超えた大いなる働きを覚えるか否か。それをイエスは、わたしたちに問うのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2015-03-29 18:18 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月22日礼拝説教

2015年3/22礼拝説教「赦しに逃げる罪」マルコ9:42~50

 今日は、マルコによる福音書9章の最後の物語をご一緒に考えたいと思います。実は今日の箇所はわたしにとって懐かしい箇所です。それは神学生時代に遡ります。神学校では聖書釈義という授業があります。釈義というのは、それぞれの聖書箇所について、言葉の使われ方や、文脈や、時代背景や、教義など、様々な視点を駆使して、記者の意図を読み解くということです。要するに聖書を解釈することです。説教を作る上での前段階と言えます。牧師は説教を作る際、必ずこの作業を行います。

 神学生の2年生とき、釈義の授業でこの箇所がわたしの担当となりました。未熟なわたしにとって、この箇所はあまりにも難しいところでした。一応はレポートしましたが、しどろもどろだったことを思い出します。あれから20数年が経ちました。あのときのような未熟さはないと思いますが、やはりここは難しい箇所だと思いました。もちろん今でも十分な解釈はできてはいないと思います。でも、 今のわたしならこう読むということで皆さんと分かち合いたいと思います。

 さて、キリスト教は一般的に赦しの宗教だといわれます。ではいったい何を赦すのでしょうか。罪を赦すということです。では、罪とは何でしょうか。それはいわゆる犯罪ではなくて、神に反逆したというのがキリスト教の基本的な理解です。では、神に反逆するとはどういうことなのでしょうか。神を信じないことです。

 でも、それは大きな罪なのでしょうか?世の中、神を信じない人は沢山います。特に現代の日本はそうです。戦後の科学万能主義が影響しています。公の教育でも宗教を一切排除していまから、それも影響しています。政教分離という意味では良いとは思いますが。日本人の宗教的センスはかなり後退したと思います。

 では、神を信じない人たちはすべて不幸な人生を歩むのでしょうか。そんなことはありません。神を信じる信者にならないから、不幸が襲ってくるわけではありません。神を信じなくても良い人生を全うする人はたくさんいます。それに対して、いや、神を信じないと、死んだ後に天国へ行けないのだ。だから神を信じなくてはならないという反論があるでしょう。

 でもその場合、キリスト教の神を信じないということです。しかし、他の宗教もそれぞれに信じる神がいます。これについて正統的なキリスト教では、他宗教の神は神ではない、偶像だというかも知れません。しかし、それは少し傲慢ではないでしょうか。

 そもそもキリスト教でいう罪とは、ハマルティアといいます。この意味は「的外れ」ということです。ですから、的外れとはどういうことなのか、つまり人生において的外れな生き方、的外れな考え方とはどういうことなのか。それを考えなくてはならないと思います。単純に神を信じないことが罪なんだと言い切ってしまうと、その内実もわからないのに、言葉通りに受け入れてしまうのです。これが洗脳なんです。思考を停止をさせるのです。

 そもそも神とは何でしょうか、もちろん、神とはこうだと断定することは不可能です。その意味で、神とはこうだとするのはあくまでも仮説にしか過ぎません。ですから以下述べることも仮説です。

 わたしは、神とはわたしたちを生かす大前提というか、根源というか、根拠というか、土台だと思います。生きとし生けるものは、その大前提があればこそ、生きていけるということです。パウロも使徒言行録17章の中で同様のことを述べています。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。生きていけるのは、神の中に在るからだとパウロはいうのです。


 では、生きとし生けるものが生きられる大前提の中身とはどういうことでしょうか。それは関係性です。己の力だけでは生きられない。他の存在があればこそ生きることができるということです。これは仏教の教えと同じです。これは紛れもない事実です。思想とか信仰を超えた事実です。

 したがって、自分の力だけでは生きることができないという意味で、キリスト教も仏教も本質的には同じことを伝えていると思います。生きているということは、他の存在があればということです。それがキリスト教では、神によって生かされていると表現されるのです。

 自然の世界はそれを受け入れています。動植物をはじめ、大地も、海も、川も、山も、他の存在があればこそ、今そこにおいて成り立つのです。これに反論する方もいるでしょう。他の存在が無くたってあるものはあるのだと。

 でもどうでしょうか。わたしたちが日常見ている恵那山。恵那山は未来永劫盤石でしょうか。永遠にそこにあるのでしょうか。恵那山は地盤が脆い山だそうです。今でも神坂峠付近は徐々に崩れてきています。大きな地殻変動があれば恵那山の様相は大きく変わる可能性があります。つまり、盤石だと思われているあの恵那山でさえ、その時々の状況、つまり他との関わりによって変わるのです。絶対ではないのです。

 しかし、わたしたち現代人は、この事実にあまりにも鈍感です。他の存在によって生かされて生きていることに思いがゆかない。自分の能力や努力があればそれで道は開けると思い込んでいます。ゆえに感謝が足りない。それこそが的外れな生き方であり、罪ではないでしょうか。

 わたしを信じるこれら小さな者を躓かせるのは地獄行きだとイエスは説きます。かなり厳しい言葉です。これほど厳しい言葉をあえて記すのは、イエスのほんとうの思いがここに示されていると思います。小さな者とは、文脈からして36節に登場するこどもを指します。親を失い、あるいは親から捨てられて、行き場のない、生き延びる保証もない、もっとも弱い者です。


 今の世の中も、子どもが犠牲になっている事件があまりにも多い。川崎市の上村君、イスラム国などによって自爆テロを強要されている子供たち、洗脳されて武器を取るアフリカの子供たち。このような痛ましい現実がある中で、それでもキリスト教は、信じるものにとって赦しの宗教だといわれます。ほんとうにこれでいいのでしょうか。

 小さな者を迫害する者は赦されない。イエスはそう断言しています。したがって、迫害する者はもちろんのこと、そういう蛮行に追従する者は然り、そうでなくても、見て見ぬふりをする者ならば、あるいは自分一人が反省しても何も変わらないと傍観者を決め込む者のなら、それらは赦されないと述べるのではないでしょうか。

 今日の説教題を「赦しに逃げる罪」としました。罪の赦しというのは、神がイエスの十字架の苦難と死を通して行ったことといいます。たしかに教義としては大切なことです。しかし、キリスト教の教義を思考停止した状態で鵜呑みにして、そこに逃げ込んではならないと思うのです。ナチスドイツによるホロコースト、ユダヤ人の大量虐殺。それを支持した当時のドイツの教会。あるいは広島・長崎に原爆投下したアメリカ。これが20世紀以降、キリスト教が信用されなくなったもっとも大きな原因だといわれています。そこには、罪が赦されるのだから何をしても仕方がないという思いがあります。

 ドイツではこのことで多くの信者が教会から離れたといいます。ドイツの教会は観光遺産となっているようです。さらにいうと、ドイツでは仏教の禅宗が支持されて、座禅道場が盛んだといいます。教会から離れた信者が、そこに流れているというのです。一方アメリカの教会の場合、社会派、良心派と呼ばれる教会以外の多くはあまり反省がありません。それは、罪赦されるという教義があるからです。信者だから罪赦された。だから広島長崎の原爆投下も赦されるのだ。そう言い切れるのでしょうか。

 それでも赦されるとしてきたのが、アメリカの原理主義的キリスト者です。いわゆる敬虔なキリスト者です。熱心に教会生活を行っている人たちです。彼らの中には、核戦争が起きても良いと思っている人もいます。なぜなら、自分たちは信者だから天国へ行けるのだからということです。

 だから、レーガン政権当時、核軍拡に賛同したのです。そのためにアメリカは、軍備に予算をつぎ込むあまり、財政が破綻し、国民の格差が大きくなったのです。その反省がないままで、国力を強くするために弱肉強食のグローバル経済を推し進め、アメリカ国内はもとより、世界の格差を招いたのです。それがイスラム国を生み出したのです。

 どんなに酷いことも赦されるのだ。ただしその条件として信者になれば。だから伝道しなくてはならない。赦しの傘の下に逃げ込む人を増やす。それが伝道であるというのなら、わたしは違和感を覚えます。わたしは、クリスチャンであることとは、イエスに従う者であることと思います。それは、いと小さき者、弱くされてしまった者に優しい眼差しを向ける者といえるのではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-03-22 18:31 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月8 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年3/8礼拝説教「違いを受け入れてこそ」マルコ9:38~41

 今日は最初に、この俳句から始めます。「やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり」。おそらく皆さんもどこかでこの句を目にしたり、聞いたことがあると思います。小林一茶の代表的な作品です。先日新聞を読んでいたら、小林一茶のことが書かれていていまして興味を持ちました。小林一茶は、松尾芭蕉、与謝蕪村と共に江戸時代の三大俳人の一人と呼ばれている人です。

 何でも一茶は、私生活では恵まれず、大変苦労が多かったようです。でも、かえってそのことが、彼が作った俳句に生かされていたようです。それは、生きとし生けるもの、それも人間だけではなく、犬や猫、蛙、蚤や虱にいたるまで、特にいと小さき者への愛おしさと、権力への批判的な考えが作品に反映されていたということです。一茶は、すべてのものは尊いという差別なき大前提に立っていたのです。一茶は北信濃の人でした。わりと近いですので機会があれば一茶ゆかりの地を訪ねてみたいと思いました。


 さて今日は、マルコによる福音書9章の四つ目の話をご一緒に学んでみようと思います。弟子の側近の一人であるヨハネが言います。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」とあります。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。イエスの名を使って悪霊を追い出すということは、イエスを利用して、苦しむ人々の救済の業を行っていたということです。悪霊を追い出しているというのですから、実際に救済の効果があったということです。決して悪いことではありません。しかし弟子たちは、これを見てやめさせようとしたとあるのです。


 なぜでしょうか?それは、自分たちに従わないからだというのです。この部分が少しわからないところです。従わせるとはどういうことでしょうか。自分たちの仲間になれということでしょうか。これはあくまでも憶測ですが、その人たちは救済の業によって金銭的な利益を得ていたのではないかと思うのです。イエスは無報酬で救済の業を行っていました。もしもその人たちが、憶測のように救済活動によって利益を得ていたのならば、弟子たちにすれば、「それは違うだろ!本末転倒だろ!」。そういいたくなるはずです。弟子たちの思いはよくわかります。


 さて、話は変わります。宗教という言葉の意味ですが、宗教の「宗」というのは、根源的なことということです。つまり根源的なことを教えること。それが宗教の意味です。しかしよく考えると、これは矛盾していると思います。根源的なこととは、真理というか、いうなれば神のことです。神のことはわたしたちにはわからないはずです。よって、その教えを伝えることはできないというのが正しい答えです。宗教という言葉は、そもそも矛盾しているのです。

 一方英語では、宗教をレリジョンといいます。これはレリゴーというラテン語、「再び合わせる」という意味から派生した言葉です。では、何と何を再び合わせるのか。それは、神と人を再び合わせるということです。神と人との関係を正しくするということです。キリスト教的な意味での言葉です。いかにも西洋的な概念です。

 基本的にキリスト教では、創世記にあるように、そもそも人間は、神に反抗したから、そのままだと地獄行きになってしまう。しかし、それを解決するために、救いのために定められた教義を信じることを奨励されるわけです。その内容は、十字架と復活を信じることです。具体的には、その教えを信じて信者になるということです。でもそれはキリスト教に限定されます。キリスト教以外では救われないということになります。排他的、独善的になる恐れがあるわけです。

 かつてカトリック教会は、2000年間「キリスト教以外に救いはない」というスタンスでした。しかし、1960年代に行われた第二バチカン公会議からカトリック教会はこうした独善を改めました。他の宗教を尊重するようになりました。むしろ今はプロテスタント教会が、キリスト教以外には救われないとするスタンスをとるところが多いです。

 しかし世界にはあまた宗教があるのが現実です。それぞれに教えが違います。にもかかわらず、それぞれが自分こそが絶対に正しいと主張したら、他の宗教はすべて間違いとなります。あるいはすべて偽物となります。しかし、どれが正しくてどれが間違っているといった判定はわたしたちにはできません。もしも「それができる」といったら、それは自らを神の位置に置くことであり、それこそ傲慢な態度です。

 しかしある意味、違いを利用したのがこれまでの世界ではないでしょうか。今世界を揺るがしているイスラム国による蛮行も、宗教の問題だと認識する者も多いと思います。でも、根本的な問題は格差や差別です。しかし、それが情報操作というか、問題を宗教にすり替えようとする権力者の思惑というか、宗教が利用されているように思うのです。だから多くの人は、宗教こそが問題だ、宗教って恐いよねと宗教を嫌悪するのではないでしょうか。特に日本ではその傾向が強いと思います。

 わたしは思うのですが、そもそも宗教の目的とは、根源的なことを伝えたいとすることです。根源的とはわたしたちでいう「神」です。ただ一口に「神」といっては、伝えきれないように思っています。わたしはその意味で今の人たちにも理解できるように宗教用語を翻訳するべきだと思っています。わたしが尊敬する藤木正三牧師は、そのことを実践した方です。わたしは、根源的なこと、すなわち神のことを、「ほんとうに大切なこと」と捉えたらどうかと提案したいのです。


 人類は、ほんとうに大切なことを守ってこれなかった。それが人類史の問題だと思うのです。だからこれを守るために仏教であれキリスト教であれ宗教と呼ばれる「教え」が生まれたと思うのです。その先駆者が仏陀でありキリストだと思うのです。そう考えれば、すべてではありませんが、他宗教でも根本は同じではないだろうか。少なくとも伝統宗教といわれるものは、本質において同じではないかと思います。

 では、ほんとうに大切なこととは何でしょうか。ほんとうに大切なこととは、すべての者が、それは人間に限ったことではありません。動植物も含めたすべてのものが尊いということではないでしょうか。

 旧約聖書創世記の冒頭、天地創造物語の言葉を思い出して欲しいのです。天地創造の働きを終えた神が、被造物をご覧になって言うのです。すべては甚だ良かったとあるのです。神という根源からすれば、すべてはよい。つまりすべては尊いのだということです。小林一茶の悟りと同じなんです。わたしたちは往往にして偏見を持っています。キリスト教が示すことは正しいけれど、他の宗教や他の思想が示すことは間違いだと思ってしまうことが多い。

 わたしはこれまで、他の宗教を非難する牧師たちの言動を、何度も聞いたり、目にしてきました。わたしは無礼だと思いました。そもそもある宗教を理解するならば、その宗教の信徒となって、その道を生きなければ、ほんとうにその宗教を理解することにはならないと思うのです。けれどもその宗教の道を真剣に生きたことがないのに、つまり詳しく知りもしないくせに、ちょっと何かを読んだだけの浅い知識にしか過ぎないのに、さもすべてわかったかのように非難する人がとても多い。こういう態度はとても無礼ではないでしょうか。そして見苦しいです。あまりにも幼稚です。こういう態度はほんと自戒しなければならないと思います。


 さて、本文に戻ります。今日の箇所は、逆らわない者は味方だとイエスは説くのです。これは要するに、苦しむ人々を救う働きをしているなら、必ずしもわたしたちとその立場や方法や動機が同じでなくても良いのだということではないでしょうか。

 イエスにとってほんとうに大切なことは、いのちは平等であり、そのどれもが尊いのだということです。誰もが与えられたいのちを生き抜ぬいて全うするということです。しかしそのためには、それを支える社会の基盤が公平であり、整っていなくてはなりません。それがイエスの思想、信仰の大前提だと思うのです。で、そのような社会の実現のために働くならば、キリスト教でなくてもいいはずだ。宗教でなくても良いはずです。たとえ利益を得ても良いはずだということではないでしょうか。

 先月、普天間基地を辺野古に移転することに反対する活動で、沖縄平和活動センターの山城博治さんという方が不当に逮捕されました。結果、直ぐ釈放されました。権力側に正当性がなかったからです。彼は、昨年岐阜地区の沖縄の旅で出会った方です。自らの私生活をなげうって沖縄の平和のためにいのちを削っている方です。彼はクリスチャンではありません。でも、アメリカ政府や日本政府の理不尽さに命懸けで闘っている人です。わたしは彼こそイエスの弟子だと思っています。

 イエスは最後に言います。「あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。つまり、人生の歩みにおいて渇いている者、それは、苦しみや悲しみに置き去りにされた者ということではないでしょか。そういう者たちに、手を差し伸べる者なら、それは、だいそれたことをしなくてはならないということではない。たとえ小さな業であっても、そういう者たちに共感し、少しでも助けになろうとするならば、立場や身分や属するところが異なったとしても、神は喜ぶのだということではないでしょうか。


 人類の歴史を全体的に考えるとき、昔も、そして今も、世界は利益を公平に分配することをせず、それぞれが自分たちの利益だけを求めて争っていることがわかります。このことこそが最大の罪であり、わたしたちでいうなら、神への反逆ではないでしょうか。

 これに終止符を打てるのは宗教だと思います。ですから、宗教者がその違いを超えて協力し、それぞれの信徒に働きかけて欲しいと思うのです。もしそれがほんとうに実行されるなら、そして、それぞれの信者もそれを受け入れるなら、時間は掛かるかも知れませんが、世界の争いは解決に向かうのかも知れないと思うのです。他宗教にも宗教ではない思想にも尊敬の念を持ちたい。偏見という罪をわたしたちから取り除いて欲しい。そう祈りたいのです。


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by buku1054 | 2015-03-08 12:50 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年3月1 日坂下教会礼拝メッセージ

3月1日礼拝説教「心はどこにあるのか」マルコ9:30~37

 今日もマルコによる福音書に聴いて行きたいと思います。今日の説教題を「心はどこにあるのか」としました。わたしたちの心がどこに立つのかによってわたしたち自身が違ってくるということと、さらにいえば世の中が違ってくるのではないだろうかということ。今日の箇所を読んで、まずはそう思いました。

 藤木正三牧師がこんな言葉を述べていました。「これでよいのだろうかという問いを、自分に限りなく問うてゆく働き、それを心といいます」。言い得て妙だと思います。ある事柄に相対したとき、単に自分はそう思うというのは、その人の感想や意見です。また、どう感じるかは感情でしょう。それに対して心とは、藤木先生が言うように、ある事柄に相対したとき、自分はそれについてどう向き合っているのか、あるいはそのことの本質に気がついているのだろうか、何か見落としていないだろうか、それを問う働きが「心」だと思います。

 さて、今日は9章の三つ目の話を考えたいと思います。前の段落で、穢れた霊に取り憑かれた子どもを癒やしたイエスの一行は、ガリラヤの旅を続けます。イエスは人々に気づかれるのを好まなかったとあります。おそらくそれは、受難予告をしたからではないでしょうか。受難予告を聞いていたのは弟子たちだけではありません。民衆も聞いていたでしょう。密かに監視する当局も聞いていたかも知れません。

 イエスは自分の運命を覚悟していたものの、イエスも一人の人間です。常にユダヤ当局から付け狙われていたこともわかっていたはずです。したがって、正直いって恐かったと思うのです。ですから救済の業を行わなくてはと思いつつ、一方でなるたけ目立たず、波風を立てて当局を刺激したくないという思いもあったのではないでしょうか。イエスはわたしたちと同じく弱さを抱えていた方だったのです。


 一行はカファルナウムに着きました。家に着いたとあります。どこの家かは記されていません。でも、1章の記事に、やはりカファルナウムでペテロの家に入ったとありますから、ここでもおそらくペテロの家だったと思います。ここにはペテロの姑もいましたし、ペテロには妻もいましたから、何かとかいがいしく世話をしてもらったと思います。その意味でここは、彼らが落ち着ける数少ない場所だったのではないでしょうか。イエスの緊張感というか、これから起こるであろう困難にあって少しでも安息のときを持ちたかった。そのように思うのです。

 イエスは弟子たちに訊ねます。おそらく落ち着いたところで道々気になったことを訊ねたのでしょう。途中、あなたがたはいったい何を議論していたのかというのです。議論の内容は、自分たちの中で誰が一番偉いのかということであったのでした。ここでも、イエスと弟子たちとの思いというか考え方というか理想というか、目的というか、ズレていたことがわかります。これからどんな大きな苦難が待っているかも知れないと恐れるイエスがいます。おそらくイエスは、弟子たちにも覚悟を持っていて欲しいと思ったはずです。

 しかし彼らの思いは、イエスとは大きくずれているのです。彼らは、自分たちがこれから栄光を得ると思っているのです。イエスについて行けば栄光を得られ、そこで誰がイエスの側近になれるのか、誰がより良い思いができるのか、そういうことに思いが行っていたのではないでしょうか。つまり、自分たちが今おかれている状況を見極められないのです。


 話は変わりますが、今、日本の教会は、これまで以上に宣教の危機を迎えていると思います。その危機とは、信徒の高齢化と新たな信者獲得の困難という現実にあって、教会が衰退し、果たして今後教会が存続していけるかどうかということに終始しているように思います。


 もっともこの問題は、日本の教会だけではありません。先日こんなニュースを知りました。それは、イギリスの国教会でも教会の高齢化と新たな信者獲得の困難が著しくて、このままではイギリスの農村部の教会は、10年後にはかなりの教会が消滅する可能性があるということでした。ドイツをはじめヨーロッパもそうですが、キリスト教の本場である先進諸国の教会は、どこでも衰退しているのです。今やキリスト教は決して世界宗教とは言えなくなりつつあるのです。

 ともかく日本の教会は衰退傾向にあって、全般的に伝道を声高に叫んでいます。それもできるだけ若い世代の信徒を獲得して将来の安心を確保したいのです。もちろんその気持ちはてもよくわかります。農村に立つわたしたちにとって、そんな思いというか願いは、今はじまったことではありません。ずっとそのことで悩んできたのです。

 しかしもしかすると、教会のほんとうの危機は、今の社会がどんどん悪くなる中で、それに抗うことを第一とせず、また、小さくされた者たちに寄り添えず、自己の安定を望むということ、その姿勢こそがほんとうの教会の危機ではないでしょうか。

 イエスは不条理な世の中に否を掲げ、その改善のために奔走した人です。そんなイエスを思うならば、自分の安心や安定を望むだけでは、むしろイエスから遠のいていくことになるのではないか。それこそ教会の危機ではないでしょうか。イエスは言うのです。先になりたかったら、一番後になって、人に仕えなさい。最も低くなれというのです。自分のことより弱い者たちのためになるのなら、たとえ損をしてもそれで満足せよというのです。

 そして一人の子どもを抱き上げて、このような子どもを受け入れる者こそ神を受け入れるといいます。神を受け入れるとは、神を信じることであり、神に従うことということです。わたしは思うのですが、ここで唐突に子どもが登場する。ここがこの箇所のポイントではないでしょうか。なぜここで、にわかに子どもが登場するのでしょうか。

 当時のパレスチナには、孤児がたくさんいたといわれています。戦禍や過酷な生活環境などで両親を失った者、生活苦のために捨てられた者、そういう子どもたちが、そこら中にたくさんいたといいます。おそらくここで取り上げられた子どもは、道々イエスの一行についてきた者だったはずです。いつ行き倒れになるかわからない危機的状況にあった子どもたちです。

 いつの時代も子どもというのは無邪気です。彼ら孤児たちは、イエスの一行に興味を覚え、というか、この人たちについていくと何かいい事があるのではないか、そんな思いでついてきたのでしょう。しかし、弟子たちはその存在に気がつきもせず、自分たちのことしか考えていなかったのです。少し周囲を見渡せば、孤児たちが一緒にいる。そのことに気がつくはずです。気がついていたとしても眼中にない。たぶんイエスはそのことを嘆いたに違いないのです。


 今、世界はイスラム国との関係で頭を抱えています。イスラム国だけではありません。世界各地で過激派がテロを繰り返しています。でもそれを解決するたために、先進諸国は、とりわけアメリカ主導の有志連合国は、テロとは断固闘う。テロに屈するなと声高に叫んでいます。イスラム国や過激派たちを滅ぼせばそれで解決すると思っています。でも、その闘いで犠牲になるのは、もっとも弱い立場におかれた子どもたちです。そのことに思いを馳せる人がどれだけいるのでしょうか。

 ほんとうにこの問題を解決するには、アメリカが推進しているグローバル経済、すなわち弱肉強食の経済体制によってもたらされた著しい格差。それろヨーロッパ諸国の植民地時代から連綿として続いている根深い差別を悔い改めなくてはならない。わたしはそう思います。

 しかしいつの時代もそうでしょうが、持つ者は持たざる者のために富を使おうとしない。ましてアメリカはアメリカンドリームが好きなお国柄です。努力した者が成功し富を得るのは当たり前。得られないのはその人の努力が足りないからだという考え方に固執しています。


 しかしことはそう単純ではないわけです。そもそも、格差や差別は個人が努力すればいいという前提を奪っていると思います。ヨーロッパにはたくさんの移民がいます。その多くはイスラム圏の人々です。自由・平等・博愛を掲げるフランスでも、彼らは不条理な扱いを受けています。たとえ能力があり大学まで卒業しても、イスラムというだけで就職差別を受けるのです。そういう人たちがイスラム国へと流れているのです。でも、そのことが先進諸国の特に社会をリードする富裕層にはわかっていないのではないでしょうか。恵まれている人々には弱い者の思いなどわからないのが現実なのです。

 殺害された後藤健二さんは、まさにそのことを世界に訴えるために活動していたのです。あえて危険を冒してシリアに行ったのです。ある有名タレントは、そんな後藤さんに対して、こんなに国に迷惑を掛けているのだから、いっそ自決すれば良かったと述べていました。世界で物議を醸している発言です。自分は安全なところにいて後藤さんの働きを少しも理解せずなんと酷いことを言うのかと怒りを覚えました。でも、ひょっとすると、今の多くの日本人は、この有名タレントの発言を肯定しているのかも知れません。

 弟子たちの心は、自分たちのところに集まってきた孤児たちに向いていなかったのです。それよりも、自分たちが得をしたり優位になることばかりを考えていたのです。でも、弟子たちを批判できません。これが、今に生きるわたしたちにとっても現実なのかも知れません。

 いかに小さな者、弱い者が犠牲になっているのか。そのことを見極めること、それが後藤さんの心を大切にすることであり、イエスに従う者の心ではないでしょうか。日本の教会、世界の教会は、この先どこへ向かうのでしょうか。イエスに従う者として歩むのでしょうか。それともイエスを看板にしただけの自己満足の存在なのでしょうか。それをこそ今、わたしたちの心に問われている。そう考えなくてはならないのではないでしょうか。わたしたちの心はどこにあるのでしょうか。


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by buku1054 | 2015-03-01 17:07 | 礼拝メッセージ | Comments(1)

2015年2月22 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/22礼拝説教「祈りによらなければ」マルコ9;14~29

 兼務する付知教会では、基本的に第四主日の礼拝後に祈祷会を行っています。大概は4~5名、時折2~3名になる小さな祈りの群れです。はじめるにあたり、その都度、祈れない人は無理に祈らなくていいいのですよという前提で行っています。

というのは、祈祷会というと、参加した全員が祈らなくてはならないといった、ある意味強迫観念に囚われるので、祈れる人は祈り、祈れない人は祈らなくて良いという自由さを大切にしています。祈祷会に参加することが重荷にならないためです。もちろんこんな緩いことをしたら信徒教育にならないという意見もあるでしょう。でも、そうすると意外にもほぼみんな祈るのです。

 この祈祷会、そもそも脳梗塞で倒れて教会活動に参加できない曽我よしゑ姉の発案でした。それを受けてはじまったものです。もう4年目になるでしょうか。でも時折、虚しさを覚えるときもあります。というのは教会が置かれた状況が一向に変わらないからです。でも続けています。なぜなら、やらないと気持ちが悪いというか、なんだか続けないと自分たちが駄目になってしまうのではないだろうか。そんな気持ちがするからなのです。


 さて、今日はマルコによる福音書9章の二つ目の物語についてご一緒に考えたいと思います。小見出しに「汚れた霊に取り憑かれた子を癒やす」とあります。いわゆる癒しの奇跡物語に分類される物語です。しかし今日の箇所には次の言葉があります。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。この言葉から、ここは癒しの奇跡だけを伝えようとした箇所ではないと思ったのです。キーワードは「祈り」です。キリスト教に限らず、すべての宗教にとって必須のことである「祈り」がテーマだと思います。

 さて、わたしは今日の箇所を読んだとき、真っ先に浮かんだのは、作家の大江健三郎さんの言葉でした。大江さんは以前こんなことを述べていました。「戦後、世界は何度も核戦争の危機を迎えた。しかし、それにはいたらなかった。ある意味それは奇跡だと思う。なぜ奇跡が起きたのか。それは、核戦争を回避するために世界中の多くの人々が祈りを捧げ、それが聞かれたとした思えない」ということでした。

 祈りは聞かれる。わたしたちはそれを信じるから祈るわけです。しかしどうでしょうか。大江健三郎さんのいう核戦争回避の祈りに反して、戦後もし核爆弾がどこかで炸裂していたら、祈りなど価値がないとして祈る者がいなくなったでしょうか。もちろん祈りをしなくなる者もいるでしょう。しかし、それでも祈り続ける者はなくならないと思うのです。

 今日の箇所は、イエスと側近である三人の弟子たちが山を降ったところで遭遇した出来事です。どんなことだったかざっと振り返ってみます。

 イエスと三人の弟子たちが山を降りると、山に行かなかった弟子たちが群衆に囲まれ、律法学者たちと議論をしていたのです。何を議論していたかというと、群衆の中の一人が幼い頃から霊に取り憑かれ、時折「てんかん」のような発作を繰り返す息子の癒しを弟子たちに頼みました。しかし、弟子たちは癒せなかったのです。

 おそらくイエスたちを監視していた律法学者たちが、その行為に対して非難し、周囲に居た群衆も弟子たちが癒せなかったことに対してああだこうだと騒いでいたという状況だったのです。この状況に対してイエスは弟子たちの不甲斐なさを嘆き、その息子を癒やします。すると弟子たちはいうのです。なぜ自分たちは癒やせなかったのでしょうかと。これにイエスは言うのです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」。


 イエスによる癒やし物語りは福音書にたくさんあります。大筋ではそれほど大きな違いがあるわけではありません。しかし、よく読むと必ず他と違った何らかの事柄があることに気がつかされます。今日の箇所で特徴的なことは、今いったようにイエスの最後の言葉だと思います。この種のものは、祈りによらなければ解決しないということです。

 今日の説教題にもしましたが、祈りによらなければとは、どういうことなのでしょか。イエスはこれまでにまで多くの癒しを行ってきました。弟子たちも独自の宣教の旅の中で癒しを行ってきました。ならば、そこでは祈りがなくても癒せたということなのでしょうか。

 しかし今回、弟子たちは癒せなかったのです。それは祈りがないからだということになるわけです。癒やしにおいて、祈りが必要な病とそうでない病があるのでしょうか。その分類については記されていませんからわかりません。この箇所はいったい何を伝えようとしているのでしょうか。

 そもそも祈るとは何でしょうか。基本的に祈るとは「願う」ことです。自分の願いを叶えて欲しい。それが多くの人が考える祈りだと思います。その動機にはお金が欲しいといった身勝手なこともありますが、病気が治って欲しいといった切実なこともあります。

 あえて定義するなら、祈りとは、自分の能力や努力ではどうにもならない事態に相対したとき、この世を超えた存在というか、何かに、わたしたちでいう神に委ねるということです。委ねるとは、どういうことかというと、それは、これから起こる一切の事態をすべてをお任せするということです。その結果がどうなろうと、それでも受け入れるということです。果たしてそこまで信頼できるのか。それが祈る上で問われていることではないでしょうか。おそらくわたしたちは、祈ったからには、願いが叶って欲しいと思っているはずです。でも、そうした願いを持つことは、ひょっとすると、祈りの根本から外れているのかも知れません。


 イスラム国によって殺害された後藤健二さん。おそらく世界中の多くの方々が宗派や教派を超えて彼の無事を祈ったはずです。しかし、結果として後藤さんは、無残にも殺害されました。すべての祈りは聞き入れられなかったのです。わたしは、残念だがそんなもんだろうと思いました。祈ったからといって、現実を動かすことはできないと思っていました。

 しかしその後、彼が殺害された後、東京のあるイスラム教のモスクでそこに属するイスラム教徒が祈ったという記事を読みました。彼らは後藤さんが生きて帰ってくることを祈ったはずです。しかし結果は最悪の事態になったのです。その意味で祈りは叶えられなかったのです。しかし、それでも彼らはさらに祈るのです。なぜそれでも彼らは祈ったのでしょうか。それは、後藤さんの遺族の慰めと、こんなことが二度とあってはならないという願いと、神がそれでもわたしたちにこのことの意味を伝えることを願ったと思うのです。そう信じているのです。わたしは、そのイスラム教徒の信仰のすごさを思いました。そこまでいかなければ、それは信仰ではないのかも知れない。そう思いました。

 わたしたちはどうだったでしょうか。わたしはどうだったでしょうか。この結果を受けて祈ったでしょうか。たぶん多くは、諦めとやるせない思いのまえに打ちひしがれてそれで終わったのではないでしょうか。わたしも祈れませんでした。

 しかし東京のそのイスラム教徒は、絶望の内にありながらも、神からの意味を願い、後藤さんの家族の慰めのために祈ったのです。どんな悲惨な結果を受けても祈り続けたのです。それが祈りの精神ではないでしょうか。あきらめつつも委ねる。それが信仰ではないででしょうか。そこに踏みとどまれるのか。それとも単にあきらめるのか。そこに信仰者であるかないかがかかっているのです。


 わたしたちは、あまりにも事態が悪いとき、その先に希望を抱けないとき、あきらめます。何をしても無駄だと思います。しかし、それでもなお祈るというのは、神への信頼があるからだと思うのです。というか神への信頼を捨てたくないからです。いや、ひょっとすると無意識のレベルで神に抱かれていることを知っているからではないでしょうか。

 信仰者とは、あきらめない者をいうのでしょう。繰り返し繰り返し最悪の事態が襲ってきても、それでも踏みとどまる者だと思います。この2000年間、教会は祈り続けてきました。イスラエル民族の宗教の時代からすれば約4000年祈りが続いてきているのです。なぜそれができるのでしょうか。普通はできないです。それでも踏みとどまろうとするその理由とは何でしょうか、それは、わたしたちをそうさせている方がいるからではないでしょうか。

 昔ドイツに、トゥルナイゼンという牧師がいました。彼はこんな言葉を残しています。「皆様が神についてどんなふうに考えるのかわたしは存じません。けれども、そういうことをわたしはあえて存じ上げなくてもよいのです。なぜなら、わたしたちが神についてどんなふうに考えるのかが大切なのではなく、神御自身がわたしたちをどんなふうに考えているのかが大切なのです。神についてのわたしたち人間の思いがわたしたちを支えるのではなくて、神がわたしたち人間のことを考えていて下さるという、そのことこそがわたしたちを支えるのです」。わたしたちの信仰も、わたしたちの祈りも、わたしたちの生きるすべても、わたしたちの己の力によって支えているのではない。わたしたちではなく、神が支えている。それがトゥルナイゼンの悟りです。

 イエスが弟子たちに、この種のものは祈りによらなければなし得ないのだといったのは、あなたがたは本気で神に委ねたのか。どんな結果になろうとも神にお任せしたのか。そこまで神を信じたのか。そのような意味で問われたのではないでしょうか。


 わたしたちはこれからも様々な事態に遭遇するでしょう。個人的なことに限りません。日本も世界も様々な事態に遭遇するでしょう。ときに絶望的な思いになることもあるでしょう。

 しかし、それでもわたしたちは祈りを捨てることはできないはずです。なぜならそれは、神がわたしたちにそうさせているからではないでしょうか。どんなに絶望的な状況にあっても、それでも神がわたしたちに寄り添っている。それが祈りが示していることではないでしょうか。

 祈りによらなければとイエスは言います。それは、突き詰めれば、神はわたしたちを決して見捨てていないのだ。だから一切を神に委ねなさい。そう腹を据えて、今自分たちができることを精一杯行いなさい。たとえ望んだ結果にならなくても、それを受け入れてゆきなさい。そのことの示しではないでしょうか。 祈ることは、神がわたしたちとつながっている証ではないでしょうか。それぞれにどんな形でも良いです。祈る幸いを覚えたいものです。



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by buku1054 | 2015-02-22 13:02 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年2月8日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/8礼拝説教「この声に導かれ」マルコ9:2~13

 今朝も引き続きマルコによる福音書に聴いてゆきます。前回で8章が終わりました。やっと半分が終わりました。今日から9章に入ります。いよいよこの福音書の後半を迎えたわけです。さあこれから後半戦だと意気込む思いですが、後半の最初の物語は、その意気込みを挫くようなとても難解な箇所です。にわかには信じがたいというか理解がとても難しい箇所です。

 読んでおわかりだと思いますが、幻想的というか神秘的というか。そんな印象を抱く箇所です。おそらくここに記されていることは、文字通りの出来事というよりは、暗示というか隠喩というのか一つの譬えではないかと思います。おそらくベースとなる出来事があって、それに脚色が加わってこのような物語に仕上げられたのだと思います。ともかくこの福音書記者が、この記述を通して何を示したかったのかを探ることが今日のポイントです。

 前回はペテロによるイエスのメシア告白、それとイエス自らの受難予告でありました。登山に譬えるなら、まさにこの福音書のピークといえるところです。とても重要な箇所でした。しかしそこでは、イエスと弟子たちとの間に大きなズレがあることに気がつきました。メシア観の違いです。そしてイエスの一行は、これから十字架への道を進むのです。登山で言うなら下山していくことになります。

 この箇所は、さあこれから下山しようとするとき、すなわち十字架の苦難の道が始まろうとするとき、弟子たちと群衆とこれを読むわたしたち読者に何かを示そうとしたのではないでしょうか。その何かを探ってみたいと思います。

 イエスは、弟子たちの中で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登ります。この三人はイエスからもっとも信頼されていた弟子たちです。十字架を前にしたゲッセマネの園でも、この三人だけを連れて行ったとあります。彼らは、後の初代教会の牽引者たちです。イエスは、とても重要なことを伝えようとしたのではないでしょうか。

 ところで彼らが登った「山」」とはどこなのでしょうか。ヘルモン山(2800)という説もあります。タボル山(588)という説もあります。諸説あるわけですががハッキリとしたことはわかりません。高い山というからヘルモン山かも知れません。すると、山の上でイエスの姿が変貌したというのです。もっともどのように変わったのかは書いてありません。ただし着ていた服が真っ白に輝いたというのです。

 しかもそこにエリヤとモーセが現れて、イエスと語りあったといいます。この光景を見て、ペテロが自分たちがここにいることはなんと素晴らしいことかと言います。そしてイエス、モーセ、エリアのために仮小屋を三つ建てましょうと述べるのです。そうこうすると、雲が彼らを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。辺りにはイエスしかいなかったというのです。さて、ざっと振り返ってみましたが、やはりにわかにはわかりません。聖書の難解さが際だったところだと言えるでしょう。

 いくつかのキーワードと思える事柄をたどりながら進めることにします。先ずは、イエスの姿が変わったということです。どういうことなのか。何故変わる必要があるのか。何故服が白く輝いたのか。いずれにしても推測の域を出ないのですが、これから始まるイエスの歩みが、わたしたちの想像を超えた素晴らしさ、喜び、栄光、そういった事を顕わにするようになる。直ぐにそれを受け入れることはできないけれども、やがてそれを見出せる。そういう意味ではないか。そう思います。

 次は、モーセとエリヤの存在です。彼らはユダヤ人のもっとも尊敬する人物だと言えます。モーセはイスラエル民族をエジプトの奴隷状態からから救い出した人です。元祖メシアといっていい人です。ユダヤ人が一番尊敬するのがモーセだといわれています。一方エリヤは、預言者の中でももっとも尊敬されていた預言者です。彼はバアル宗教という、いうなれば現世利益的な宗教と対決し勝利します。最後は天に登っていったとあることからエリヤは死んでいないというのがユダヤ人の理解です。彼は再びこの世にやってくると信じられています。

 イエスは、キリスト教信徒にとって、モーセとエリヤの存在を継承した存在だと捉えられているようです。つまり、苦難の同胞を救済し、でも自分は約束の地カナンに入れず、その墓すらわからないというこの世的には不運な人生のモーセ。そしてやがて再臨するというエリヤ。おそらく原始キリスト教時代のキリスト者たちは、イエスにモーセとエリヤを重ね合わせていたのではないでしょうか。キリスト教はユダヤ教を母体としています。ですからこのような理解も自然なことだと言えるでしょう。

 さて、ペテロは感激して、仮小屋を建てると言います。仮小屋とは幕屋のことです。幕屋とは、移動式のテントで、遊牧生活者の住居でありました。かつて国を持たない流浪の民であったユダヤ人は、この幕屋を住居とし、また幕屋の中の一つを神殿としても用いていたのです。おそらくペテロは、神殿という思いでこの言葉が口から出たのではないでしょうか。

 ところが、やがてこの素晴らしき光景が消え失せるのです。そして、ただイエスだけが一緒にいたというのです。さらに、雲の中から、このイエスに聴きなさいという声があったというのです。

 話は変わります。あれはこの地へ来た翌年、1998年のGWのことでした。富士見台に登りました。当時飼っていた愛犬チャーリーと一緒に登りました。神坂峠からではなく、下の強清水から登りました。何故富士見台に登ったのかといいますと、牧師としての人生をはじめて一年、まだまだ未熟だったこともありまして、いろいろな意味で行き詰まっていました。神学生時代に読んだ神学書を読み直したりしもしていた頃です。なんとか今の状況を打開したい。そんな願いを抱きつつ登ったのです。

 頂上で見た、あの景色の素晴らしさはいまだに忘れられません。360°見渡せました。中央アルプスの山並みに感激しました。遠くに坂下の町が見えました。そのとき、あんな小さなところで悩んでいる自分が、なんだかおかしく思えました。気持ちがすっきりしたことを覚えています。

 人は何故山に登るのでしょうか。「そこに山があるから」という有名な言葉もあります。修行のためもあります。単なる趣味もあります。他にもいろいろな理由があるでしょう。ただし山に登ることは、非日常性の中に逃避することではない。それが共通することだと思うのです。

 なぜなら必ず下山するからです。現実の中に帰るからです。山登りとは、日常性からひととき離れるそのことに意味があるのではないでしょうか。それは旅も同じだと思います。登ったまま戻らない登山は死ぬことになります。出掛けたまま戻らない旅は、ほんとうの現実逃避となります。

 宗教というのは、日常性からひととき非日常に離れさせることで自らを見つめさせ、覚醒させ、再び日常の中へ復帰させる役割があるように思うのです。礼拝はまさにそうです。一見現実逃避に見える山岳宗教の修行もそうです。その意味で、日常の中に返さないような宗教、日常においても幻想の中に彷徨っているかのような状態に置くような宗教が、怪しいカルト宗教ではないでしょうか。

 モーセとエリヤも去り、弟子たちと一緒にいたのはイエスだけだったといいます。輝きというか栄光は一瞬であったわけです。この後イエスは十字架の道を歩むのです。苦難の道です。弟子たちにとっても予想もしない苦難が待ち受けているのです。しかし、このイエスに聞けという声があった。この福音書記者は記すのです。しかもイエスはやがて殺されるのです。弟子たちの前からも、これを読むわたしたちにも姿を見せることはありません。この地上においてイエス・キリストという存在を見ることはできません。実在のイエスに出会うことはできないのです。しかし、イエスに聞けと聖書は語るのです。



 今日の箇所を全体的に考えると、登山がキーワードだと思います。登山は人生と似ています。登山口は誕生です。上りは成長期です。困難な中にもいろいろな出会いがあり、力を伸ばしてゆく機会があり、そして感動が多い時期です。やがて頂上へたどり着きます。様々な経験を経て、様々なものを身につけた人生最高の時です。しかし、ピークに到達した時点から下山しなくてはなりません。終焉に向かうのです。上りとはひと味違う苦難が待っています。

 そして、下山して人生が終わります。重荷はいっぺんに軽くなります。けれども、終わってしまうという寂しさと未知なる世界へ行くという不安と恐れがあります。まさに登山は人生の縮図です。でも、そんなわたしたちに、聖書はイエスに聞けと語るのです。つまり、どこにいても、どんな状況にあっても、聞こえてくるイエスの声があるということです。

 もっともその声は、ハッキリと聞こえることはないでしょう。心が濁っていたら聞き逃してしまうようなか細い声です。でもその声は必ずある。わたしたちに常に語りかける声ではないでしょうか。

 苦しむとき、悲しむとき、不安なとき、恐れているとき、打ちひしがれているとき、絶望のとき、驕り高ぶっているとき、この声なき声にわたしたちは導かれているのではないでしょうか。このことを信じる。それが信仰者の証でしょう。また、信じられるようになるために礼拝に集うのではないでしょうか。

最後に、クリスチャンの詩人、水野源三さんの一編の詩を読んで結びにします。

目には見えない主イエスよ
新しい朝を迎えるたびに
深い愛を思わせたまえ

目には見えない主イエスよ
いかなるときも事あるごとに
御旨いかにと訪ねさせたまえ

目には見えない主イエスよ
一人のときもわたしと共に
おられることを覚えさせたまえ

目には見えない主イエスよ
あふれる涙胸の中まで
曇らすときも仰がせたまえ

目には見えない主イエスよ
脇道に逸れやすいわたしの
手を 強く取り 歩ませたまえ


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by buku1054 | 2015-02-08 17:13 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2015年2月1日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/1礼拝説教「あなたにとってメシアとは何か」マルコ8:27~38

 今日はマルコによる福音書、8章の最後の部分となります。二つの段落に分かれているので、別々に読んでもいいところですが、内容的に一つの物語だと考えて差し支えないので一気に読んでみることにしました。この部分は、これまでにおそらく3~4回は説教で取り上げたところです。たいへん有名なところです。この福音書の大きな分岐点といえると思います。

 それは、イエスとは何者なのかという根本的な事について述べられた箇所だからといえるのではないでしょうか。その意味でとても重要な箇所だと思います。今回この箇所に向き合うに当たって、以前作った説教を幾つか読み直してみたのですが、どうもしっくりこないというか、何か違うなという思いになりました。そこで今回は、以前作ったときの理解を一回リセットして新たな気持ちで読み直してみました。その結果を皆さんと分かち合いたいと思います。

 先週は、ベトサイダという町、ガリラヤの一地方での癒やし物語でした。そこからイエスと弟子たちは、フィリポ・カイサリアに行くのです。ここは、地中海に面したパレスチナの北の端に位置する町です。元々は別の名前の町だったようです。ところが、ヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・フィリィッポスが統治するようになって、町の名前が変わりました。フィリッポスは、ローマ帝国の皇帝アウグストゥス・カエサルに敬意を表して、フィリポ・カイサリアと命名したのです。つまり、自分の名前とローマ皇帝の名前を並記したのです。

 おそらくフィリッポスは、ここは、ローマとユダヤとが統治する理想的な町だという自負があったのではないでしょうか。あるいはフィリッポスとカエサルが神に等しい最高の存在なのだということを暗黙の内に強要したと思うのです。しかしそれを受け入れるのは、あくまでも権力の側にいる者たちです。民衆にとってはありがたいわけではありません。むしろそのことで、ほとんどの人々が踏みつけられていたと言えるのではないでしょうか。


 さて、イエスはここで弟子たちに一つの質問をするのです。「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」。弟子たちは答えます。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だと言っておりますと。

 これが、当時の人々の間に伝わっていたイエスのついての風評だったのです。この中で特にエリヤだと言われていたのは大きな事でした。当時のユダヤ社会ではエリヤに対する崇敬の念は相当大きかったようです。エリヤとは紀元前9世紀の北イスラエル王国で活動した預言者です。ユダヤ人の最大の祭り、過ぎ越の祭りの時、ユダヤ人は4杯のワインを飲むそうですが、そのとき、誰も飲まないワインをテーブルに置いておくのだそうです。それはエリヤのための杯なのです。ともかくイエスのことをエリヤの再来だと言っていた人たちがいたのです。つまりイエスへの最大級の評価をしていた人たちがいたということです。

 そこでイエスはさらに弟子たちに訊ねるのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いかけに、弟子たちはビックリしたと思います。というか困惑したと思うのです。自分のことをどう言ってるのか。そう問われたとき、他人がどう思っているかは容易に言えるのです。責任がないからです。だからエリヤだとかヨハネだとかサッと出てくるのです。しかし、いざ自分自身が本音を問われたとき困ってしまうと思います。

 おそらく弟子たちは答えに窮したと思います。直ぐに答えられなかったと思うのです。お互い顔を見合わせ困ってしまったのではないでしょうか。だからここではペテロが答えたとなっているのです。彼はリーダーという立場上、何か言わなくてはと思ったはずです。苦し紛れに答えたと思うのです。その答えが「あなたは、メシアです」だったのです。メシアとはキリストのことです。救い主です。答えとしては正解です。キリスト教は、イエスをメシア、キリストだと信じる宗教です。したがってペテロは最高の答えをしたことになります。これ以上の答えはないのです。100点満点です。


 しかしイエスは、これを褒めたのでしょうか。「お前の答えは正しい。なんだよくわかっているではないか。それでいいんだ。これを世に広めなさい」。そう言われたのでしょうか。違うのです。イエスは弟子たちに向かって、自分のことは誰にも話すなと戒めたというのです。より原文に忠実だと「叱った」というのです。ペテロのこの正しい答えをイエスは何故叱ったのでしょうか。つまり何故否定したのでしょうか。

 一つの解釈は、ペテロのメシア観の問題です。ペテロはその当時のユダヤ人のメシア観と同じだということです。すなわちダビデ、ソロモン王時代の栄光のイスラエルの復興をもたらすのがメシアなのだという理解だったということです。要するにユダヤ人である自分たちが、政治的にも、経済的にも、文化的にも、宗教的にも繁栄する国となる。それをもたらすのがメシアだということです。

 だからイエスはそれに対して否定したのだということです。で、イエスは次のところで、自分はユダヤ当局から排斥され、殺される。でも、復活すると述べています。弟子たちはこれがわかっていなかったのだというわけです。イエスが自分の近未来を語るこの件は、伝統的なキリスト教の教義が反映されています。

 今日の説教題を、「あなたにとってメシアとは何か」としました。「あなたにとって」とは、今のわたしたちにとってという含みがあります。わたしたち信仰者は、イエスをキリストだ。救い主だと信じているわけです。では、どう捉えているのでしょうか。どのような救い主だと信じているのでしょうか。おそらくそのほとんどは、伝統的に教えられてきた教義をそのまま信じていると思います。

 つまり、神を信じない人間、神に背く人間。それゆえに本来なら神に裁かれ、地獄に堕ちる人間、しかし、愛である神は、その独り子イエス・キリストをこの世に送って、イエスを犠牲にして、人間の罪を贖ってくださった。罪を赦してくださった。それゆえ人間は地獄に行かないで済んだ。ただし、このことを信じて公に告白し、洗礼を受けた者のみがこの恩恵に与れる。これが伝統的なキリスト教の理解です。厳密に言うと、カトリック教会とその流れを汲むプロテスタント教会の理解です。東方正教会は理解が違っています。

 ではペテロが、このような教義的に正しい理解でイエスをメシアと告白したら、イエスは大いに喜び、それを言い広めなさいといったのでしょうか。わたしは正直そうは思えないのです。なぜならそれは、イエスの理解ではないと思うからです。

 人はいかに生きるべきか、より充実した意味のある人生とは何か。そういうことを考えて悩み、葛藤する。それはとても真面目な態度です。また自分の身勝手さ、罪の深さに恐れをなし回心しようとする。そういう人には好感が持てます。でも、このことで悩めるのは恵まれている人かも知れません。言うなれば、先進諸国の比較的裕福な人、少なくとも日々の生活に困らない人々です。

 ここまでマルコ福音書を読んできてわかったことは、イエスが寄り添った人々、救済の対象にした人々、それは、人はいかに生きたらいいのか、どのような人生が意味ある人生なのか。そういうことを考える余裕のある人たちではないわけです。その日の食べることにも事欠く人々です。いわれのない差別をされ、踏みつけられた人々です。生きるために我が子を間引きしなくてはならない人々です。

 イエスは、今で言うなら、戦争や災害で故郷を追われた難民、貧困や飢餓で明日の命の保障がない人々、テロリストによって誘拐された少女たち、自爆テロを強要された少年少女、そのような人たちに心底寄り添った方です。世間から踏みつけられたそうした人々と一緒に泣き、一緒に笑い、一緒に食を分かち合い、一緒に希望を語り合った。それがイエスという方だったのです。

 ペテロを代表する弟子たちのメシア観は、栄光のイスラエルを復興してくれる存在です。わたしたちのメシア観は、天国での平安、永遠の命のために犠牲になってくださった存在です。どのメシア観が悪くて、どのメシア観が良いとは言えません。それぞれに信じていけばいいのでしょう。でも、このマルコ福音書を通して示されたイエスを思うと、イエスのメシア観は、当時のユダヤ人のそれとも違う、伝統的キリスト教の教義によって伝えられたそれとも違う。そう思うのです。

 もう30年近く前の映画ですが、「ミッション」という映画がありました。ご覧になった方もいると思います。18世紀の南米が舞台でした。宣教に赴いたイエズス会の宣教師が奮闘努力して、先住民をキリスト教信者に導き、自給自足の平和な集落をつくります。ある意味理想郷をつくります。しかし派遣した本国のスペインとポルトガルとの政治的な事情によって退去を命じられます。これに対して宣教師たちは抵抗するのです。最終的には武力によって退去させられるのですが、これに武力でもって闘う宣教師たちの一方で、非暴力を貫き、最後は非暴力の女性や子どもや老人たちと共に殺されてしまう神父の存在が印象的でした。

 映画のクライマックス、元奴隷商人で回心した神父が、銃に打たれ、死を迎える中で、無抵抗のまま殺されていく神父を目にして息を引き取る場面が秀逸でした。わたしは、息を引き取るその神父が見た、無抵抗のまま殺される神父にキリストを感じました。

 イエスは言います。自分は、必ず多くの苦しみを受け、権力から捨てられ、殺される。イエスは自分の運命がわかっていたと思います。このまま行けば、必ず殺される。しかも捨てられるというのです。殺されるだけなら名誉ある死、殉教、英雄に高められる栄光もあります。しかし捨てられるのです。価値がないのです。そこには、イエスを憎む者からだけではない。イエスを支持し慕う者からも、イエスを愛する者からも見捨てられる。裏切られるという絶望的な要素があると思うのです。

 しかしイエスは、捨てられるその道を選ぶのです。なぜなら、その道には、その途上には、もっとも弱くされた人々、もっとも小さくされた人々、今日生き延びることが困難な人たち、一切の希望が断たれた人たち、沈黙のまま誰にも看取られず息絶える人たちがいるからです。わたしは思うのですが、イエスという方は、小さな者たちに寄り添うためなら、たとえ地獄にまでも行く。そういう方だったのではないかと思うのです。


 イエスとは何か。キリストとは何か。救いとは何か。教会はこれまで1+1=2といったようにいつも明確にその答えを伝えてきました。信者の多くは、その答えに自分を合わせ、当然受け入れるべき正解として捉えてきました。

 しかし、果たしてどうなのでしょうか。ほんとうに、そう簡単に、イエスとはこういう方だ。キリストとはこういう意味だ。救いとはこういう事だ。そうハッキリと言い切っていいのでしょうか。事実先ほども少し触れたように、カトリックとプロテスタント、それに対して東方正教会のイエスの死についての理解は違います。東方正教会は、イエスの十字架を贖罪の死とは捉えていません。

 キリストとはこうだ。救いとはこうだ。そう断言したその瞬間、ひょっとするとわたしたちはイエスから叱られるのではないか、イエスが目の前から去っていくのではないか。わたしはそう感じるのです。むしろイエスがわたしたちに求めていることは、次のイエスの言葉だと思うのです。

 「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエスに従うことは、自分が安全地帯に入ることではない。苦難を受け入れていく覚悟を持つことなのだということです。どこまでできるかは別にして、この言葉に思いを集中してゆく、それがわたしたち信仰者に託されていることではないでしょうか。




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by buku1054 | 2015-02-01 12:57 | 礼拝メッセージ | Comments(0)