2015年 07月 06日 ( 1 )

2015年7月5日坂下教会礼拝メッセージ

2015年7月5日礼拝説教「我らは神の中に生き、動き、存在する」
使徒17:26~31

 今朝は、継続して読み進んでいますマルコによる福音書を離れましてお話ししたいと思います。

 南米チリの沖合、南太平洋にイースター島があるのは、皆さんもご存じだろうと思います。住む人はなく、モアイと呼ばれる大きな顔の巨大な石像群があることで有名な謎の島です。

 この島は、「世界の七不思議」の一つとされてまして、様々な方面から研究と調査がなされてきました。その結果、たいへん重要なことがわかったそうです。元々この島の祖先は、太平洋全域に散らばっていたポリネシア人で、紀元5年から6年にかけて渡ってきた人たちだったといいます。イエスが生まれたのが、定説では紀元前4年頃といいますから、それから約10後のことです。その数は、僅か数十人程度だったようです。

 この人たちは、この島に非常に高度な文明を築き上げたそうです。ところが16世紀半ばですから、時代としては宗教改革の少し後です。人口が7000人以上にも増加したために、食べ物から樹木にいたるまですべての資源を使い尽くしてしまったということでした。小さな島だったからです。そして最後は、利益を奪い合い、部族間の紛争に発展して滅びたということです。

 内外の環境学者たちは、イースター島のこの悲劇は、環境破壊が人間を滅ぼした一つのサンプルとして今後の人類の未来を暗示しているのではないかと受けとめたようです。しかし多くの学者が警告するポイントは、人間の飽くなき利益追求が、人類を滅亡させるというのです。


 テレビドラマ「北の国から」の脚本家で有名な倉本聰さんがこんなことを述べていました。「東日本大震災直後は、皆節約したり、今までの消費中心の生活に疑問を持った。しかし半年も過ぎたら、元に戻ってしまった。原発推進派も脱原発派も、結局は同じ穴のムジナではないかと思う。現在の生活を支えるエネルギーを供給するという前提があるからだ。なぜ、あの大震災を機会に、日本人は考えなかったのか。テレビは24時間放映している。コンビニも24時間開店している。そんなあり方が良いのか。そのような考えを進めることに、日本は結局いかなかった」。倉本聰さんの見解は本質を鋭く突いていると思いました。

 さて、もう少し世界の現状についてお話しします。毎年世界で日本の九州の面積あたる地域が砂漠化していることです。そこでは当然農業は出来ません。また、地球温暖化で海面が上昇し、南太平洋の島々がいずれ海に没してしまうと言われています。すでに海面が上がってきたため井戸が使えなくなってきた島もあるそうです。オーストラリアやニュージーランドに全島民の移住交渉をはじめた島国もあるようです。

 少子化が進むわたしたちからするとイメージできないのですが、世界の人口が爆発的に増えています。現在世界の人口は約70億ですが、毎年平均すると8000万人増えているそうです。このままだと、2020年には80億、2050年には100億、22世紀には150億人と予測されています。少子化が深刻な我が国にいるとこの現実はピンときませんが、これが世界の現状なのです。

 これだけでも人類の未来が暗澹たるものであるかが想像できます。砂漠化などによって農業が著しく衰退する。人口が爆発的に増加する。まかなう食料が追いつかない。やがて奪い合いになる。戦争になる。核の使用。人類の滅亡。そんなシナリオが描けます。現代のいろんな事実を組み合わせると、まさに地球全体がイースター島なのです。ですから学者たちは、今のままで行けば、近い将来人類は破局を迎えるだろうと言います。とりわけ日本は、食料の6割~7割、木材の8割、水産物の4割、地下資源やエネルギーの9割を海外に依存している国です。したがって日本の破局は避けられないということです。

 環境保護のために調査、研究を行い、世界に向かって警告を発信し続けている方々で、環境学者石 弘之さんと環境考古学者安田喜憲さんがいますが、彼らによると環境破壊を救う手だては、嘗て古代に人類の間で起こった「精神革命」の精神をもう一度復活させることだと述べています。

 どういうことかというと、イエスや仏陀が起こした宗教活動のことです。で、彼らが言うには、この精神革命は突き詰めれば「利他の精神」だと言います。すなわち、他者が平和に生きられること、それも、人間だけでなく、この地球に生きる生きとし生けるものが大切にされるということです。

 けれども彼らは同時に、人類が「利他の精神」を復興するには、破局を迎えなくては駄目だろうと述べていました。一旦破局を迎えてはじめて人類は目が覚めるのだろうということです。それほど現代の人間の欲望が拡大してしまい、それを押さえるのは非常に難しいということです。

 前置きが長くなってしまいましたが、イエスの福音の本質がパウロによって伝えられているのが、今日与えられた言葉だと思います。それは、28節の言葉です。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。

 まず、今日の箇所の背景ですが、パウロがギリシアの首都アテネにやってきて、アレオパゴスというところで行った説教での言葉です。当時、地中海世界において文化の中心はアテネでした。ここは昔からソクラテスやプラトンなど、今日の思想哲学にも多大な影響を与えたそうそうたる人物が排出された地です。

 おそらくパウロは、アテネに戦々恐々とした思いでやって来たと思います。ここにいるのは相当頭の切れる人たちです。こちらが一を言ったら十返すような人たちです。迂闊なことをいえば、徹底的に論破されてしまいます。しかし、パウロはアテネの町中を巡り歩くうちに、どうしてもこれだけな言わなくてはと思ったのでしょう。それがこの言葉だったんです。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。

 古来、人類の思想で非常に根強くある考え方があります。それは「二元論」という考え方です。簡単に言えば物事を二つのものに分けて考えるということです。たとえば「聖と俗」「この世とあの世」「光と闇」「善と悪」です。大きな特徴は、物事を全体的に見ないことです。今日大きな問題で南北問題というのがあります。先進国と発展途上国の間で起こるあらゆる不正、不条理です。これももとを辿れば二元論だと思います。この世界を先進国と発展途上国とか、勝者と敗者というように分けて考えるのです。

 ほんとうなら、同じ地球に生きる者です。全体的に考えれば、貧富の差は解消とは言わないまでも、かなりの度合いで解決されると思うんです。しかしそれが出来ない。そこには無意識のうちに分け隔てをする二元論があるからだと思うんです。

 さて、神についても、この二元論が為されたのです。古代以来人間は、神とこの世を分けて考えたんです。人間は、天変地異が起きたりすれば、それから守ってくれるもの。或いは豊作などを願ったりする対象がどうしても必要になってきます。

 そこで登場するのが「神」なんです。神にそうした諸々の心配や不安を解決してもらったり、願いを叶えてもらいたいと考えるようになったんです。でも神は、この世とは別世界の存在と考えられていましたから、何ともしようがありません。そこで人間は、何らかの対象をつくって、それを神様として拝むわけなんです。

 しかし考えてみれば分かることなんですが、神殿とか自然の事物とか、ましてや何かで造った像というのは、人間がそれに向き合えます。ということは、私たちのこの頭の中で十分に考え、分析したりする事が出来るということですから、それは神とは言えないんです。


 本来、神は見えないし、認識できません。ですから向き合えません。でも人間は、神ではないものを拝んだりしていたのです。今もそうです。パウロがアテネで見た神は、こういう神だったんです。人間が造ったもの。人間の意識の中で考えられたもの。もっと言うなら人間の欲望や願いを反映したものだったわけです。

 だからパウロは言ったのです。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。私たちは、神の中に存在させられているんだというのです。神の中に生きている。そういわれてもにわかには理解できません。イメージもできません。これはいったいどう理解したらいいのでしょうか。

 日本の有名な哲学者で、戦前、西田幾太郎という方がおりました。この人が思索のため、京都東山にある小さな川縁をよく歩いたことから、そこは「哲学の道」と呼ばれています。この人が神についてこんな事を語っているんです。神は鏡のようなものではないだろうかということなんです。どういうことかと言いますと、鏡は鏡自身の中に映ったものを成り立たたせています。それは、そのものをまったく歪めず、そのままの状態で取り込むのです。いわばそのままの姿を受け入れているわけです。西田幾太郎は、これが神のあり方ではないだろうかと言うのです。

 「我らは神の中にいる」ということは、今の「鏡」の譬えを参考にするならば、私たちの歪みをも受け入れているということです。私たちをそのままで受け入れているということです。罪あるものを罪あるままで受け入れているということです。

 さらに言うならば、私たちは決して見捨てられていないということです。なぜなら神の中にいるからです。受け入れられているからです。どんなに他の者から見捨てられても、裏切られても、神だけは見捨てない。それが「我らは神の中にいる」という言葉から伝えられている事だと思います。


 そして、この事がイエスの十字架によって明らかになったということが、キリスト教信仰の本質なわけです。なぜなら十字架上のイエスは、誰も裁いていないからです。自分を殺す者さえ赦すからです。ですから、神に、敢えて何かを語りかけるとしたら、それは願いではなく「感謝」ということではないでしょうか。そのままの姿で生かされているからです。だからパウロという人は、頻繁に「いつも感謝していなさい」と記しているのだろうと思うのです。

 罪ある者が罪あるままで受け入れられている。つまり赦されている。したがって、見捨てられていない。このことは誰にでも当てはまることなんだ。お互い様なのだ。ならば、わたしたちが進めていくことは、自分と自分に関係する者だけが利益を得るのではなくて、すべての者が分かち合い、助け合って利益を得て行くということです。このような精神への到達、それが冒頭の環境学者たちがいう精神革命とはこのことではないでしょうか。



[PR]
by buku1054 | 2015-07-06 13:34 | 礼拝メッセージ | Comments(0)