2015年 06月 02日 ( 1 )

2015年5月31日坂下教会礼拝メッセージ

2015年5/311礼拝説教「あの男を呼んできなさい」マルコ10;46~52

 今日は、継続して読んでいるマルコによる福音書を読み進みます。前回、前々回の箇所で イエスの一行が、ユダヤ教の総本山、またユダヤの政治の中心であるエルサレムに向けて旅立ったところを学びました。

 イエスの活動の根拠とはいったい何だったでしょうか。それは、どんな人も神から愛されている貴い存在だということです。「神は愛なり」を実践したわけです。このことを主張するのであれば、エルサレムに行くこと、つまりユダヤの政治、経済、文化、宗教の中心に乗り込むことは、殺されに行くようなものです。なぜならユダヤ社会は、ユダヤ教を根拠とした差別社会だからです。ユダヤ教ではユダヤ人以外は救いの対象ではありません。誰もが尊い存在など、絶対に受け入れられない社会なのです。

 イエスの一行は、エルサレムを向かう途上。エリコという町に着きました。旧約聖書の物語で、出エジプトの民がパレスチナで最初に陥落した町で有名なところです。陥落というと聞こえはいいですが、要するに侵略したのです。ここは、世界でもっとも古い町といわれています。

 そこに、ティマイの子、盲人のバルティマイという物乞いがいました。。歴史あるこの町のことです。無数の人々が生きた町です。にもかかわらず、父親とその息子の名前まで記されているのです。しかも、息子バルティマイは盲人の物乞いです。普通なら誰も相手にしない存在です。しかし、こうして本人はもとより、父親の名前まで記されているのです。これはこの親子の存在が、このエリコでとても有名だったということです。では、有名になった根拠は何でしょうか。それが今日の箇所によるのではないでしょうか。イエスとの出会いのこの出来事が、彼をこの歴史の町、エリコで有名にしたのだと思います。


 イエスがエリコを去ろうとすると、バルティマイが、「ナザレのイエス」と気がつきます。彼は「ダビデの子イエスよ、憐れんでください」と叫ぶのです。それも二回もなのです。彼にとって千載一遇のチャンスだったのです。今ここで叫ばなければ、自分はこの先もずっと物乞いで盲人だ。自分の人生がそれで終わってしまうのだ。そんな悲壮感を感じます。

 そもそもこの人「道端」にいるのです。道ではないのです。これは重要なポイントです。道は人や馬車や家畜が往来するところでした。今なら自動車が行き来するところです。障がいが無く普通に往来できる者が行き交うところ。それが「道」です。しかし彼はそこにはいないのです。否、いてはならないと言った方がいいかも知れません。いたら蹴飛ばされ、弾かれるでしょう。だから彼は道端にいるのです。道端というのはそれを物語っているのではないでしょうか。

 だから彼の懇願に対して、人々は叱りつけるのです。黙らせようとしたのです。盲人でしかも物乞いなどまともな人間とは見なされませんでした。神の罰が当たった穀潰し、いてもいなくてもいい存在です。黙れ!このバカ!貴様!何者だと思っているのだ。失せろ!それが彼の周囲にいた人の思いなのです。

 しかしイエスは、その彼を呼ぶのです。「あの男を呼んできなさい」。今日の説教題はここから取りました。サッと通り過ぎてしまいそうなただの呼びかけの言葉です。でも、この呼びかけがとても重要ではないか、そう思ったのです。イエスは、「あの盲人を呼んできなさい」とは言いません。「あの物乞いを呼んできなさい」とも言わないのです。「あの男」なのです。バルティマイの存在を特徴づける「盲人」でも「物乞い」でもないのです。一人の当たり前の人間としての彼、イエスはそこを見ているのです。これはとても大切ではないでしょうか。その人の傷である障がいをもって呼ぶのではない。その人の痛みである生業で呼ぶのでもない。その人そのものをイエスは観ているのです。


 わたしたちは、ある人に対して、そのままのその人として観ているでしょうか。ハンサムな彼、お金持ちのあの人、頭のいいこの人、性格の悪いあの人、足の不自由なこの人、そんなふうに、その人の存在そのものよりも、その人が持っている何かで、その人が抱える何かで、ああだこうだと見定め、レッテルを貼っている。そして納得していると思います。

 しかしイエスは、そういうもので人を見ないのです。あの男なのです。ありのままのその人を見るのです。その人の傷ではみない。傷があろうと無かろうとその人はその人、ありのままのその人を肯定するのです。

 バルティマイは、イエスに対して、ダビデの子から先生にと呼び方が変わります。彼はイエスにどんどん心を開いていくのです。そりゃあそうです。盲人で物乞い。道端でしか過ごせない邪魔者。人はそんな目でしか彼を見ません。しかしイエスだけは、彼に正面から、何の偏見も差別もなく向き合うからです。懇願の中身も、憐れんでくださいから目が見えるようになりたいと具体的な願いとなります。彼はイエスを信頼しているのです。

 イエスは、そんなバルティマイに向かって一つの言葉を放ちます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。福音書には同様の言葉がいくつか記されています。「あなたの信仰があなたを救った」。この言葉、よく考えると不可解です。バルティマイが目の見えないこと、物乞いであること、それが解決されたのは、バルティマイ自身の「信仰」だというのです。ここが不可解なのです。救いとは神の領域ではないでしょうか。自分で自分を救えるのでしょうか。ユダヤ教の伝統ではあり得ない事です。それもあって、イエスはユダヤ当局から憎まれたのです。


 教会は、この部分を次のように解釈してきました。これは。イエスを救い主とした信仰である。それが問題の解決となったのだ。ゆえに教会は語ってきました。イエスを救い主と信じて、信仰告白をしなさい。洗礼を受け、真面目に教会生活を送りなさい。それが救いとなるのである。つまり、信仰を持てば、病気が治り、問題は解決するのである。もしも治らず、問題が解決しないのであれば、それは信仰が足りないからだ。もっと精進しなさい。真剣に信じなさいということです。

 もっともこの理解は、キリスト教が確立された後の理解を反映しているわけです。マルコ福音書が書かれたのは紀元70年頃です。教会はまだキリスト教ではありません。ユダヤ教の一派です。したがってこの理解では無理があります。イエスがリアルに生きていた頃は、まだこのような信仰理解はありません。では、どいうことなのでしょうか。

 元バプテスト連盟の岡野守也牧師は、信仰について次のようなことを述べていました。それがヒントになりました。「信仰をむしろ<まごころ>と言い換えたい。ほんとうのことをほんとうと認める心である。

 まごころの第一の意味は、人間は自分の力で自分を生んだのでなければ、生きているのでもない。生まれ、生かされていることに目覚めることである。〃生まれた〃ということ自体、受動態であり、生かされて生きているということがすべての人間の基本姿勢である。そして、第二の意味は、他者もそうであることに気がつくことである。だから、私も神の子、他者も神の子ということがわかる。それが〃まごころ〃であり、そのことが心の底からわかることが信仰の根底的意味ではないだろうか」。


 バルティマイ、彼は盲人であることで呪われた存在と定められ、物乞いであることから白い目で見られ、普通の者が行き来できる「道」を歩くことはできませんでした。邪魔な存在として道端に追いやられていました。彼はそんな自分の境遇を呪い、自分を卑下し、生きる気力さえ失っていた人でした。

 しかし彼は気がついたのです。人が定めた規準や規定、様々な偏見、そういものを取り払ったとき浮かび上がってくる真実とは何か。それは、自分は生かされて生きている。自分自身には存在の根拠はない。他の誰もが皆そうである。わたしも神の子であり、他者も神の子なのだ。目が見えるとか見えないとか、議員だろうが物乞いだろうが、人は皆、例外なく貴い存在なのだ。神が与えてくれているまさにその<まごころ>に彼は目覚めたのです。

 だから彼は、もう自分を呪う必要はない。自分を卑下する必要もない。道端にいる必要もない。自分も間違いなく神から愛されている「神の子」だ。「あなたの信仰があなたを救った」とはこのような目覚めではないでしょうか。そしてバルティマイをそこへと導いたのは、「あの男を呼んできなさい」といわれた偏見なきイエスの言葉だったのです。


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by buku1054 | 2015-06-02 18:32 | 礼拝メッセージ | Comments(0)