2015年 05月 10日 ( 1 )

2015年10日坂下教会礼拝メッセージ

2015年5/10礼拝説教「右と左」」マルコ10;35~45

 私たちの国日本では、クリスチャンであることで、何か特権が与えられたり、利益があるということは、まずほとんど無いと思います。それどころか不自由さとか嫌な思いになることが多いのではないでしょうか。特に私たちのような農村社会では、ストレスの溜まることが多いと思います。地域の活動は、ほとんどが日曜日です。したがって、地域を選ぶか教会を選ぶかで、皆さんも苦労してこられたと思います。私自身がそうです。牧師という立場は、この地域ではまったく考慮されません。

 あれは、山田 伝さんのお嬢さん、早川美和子さんが末期癌で、県立多治見病院に入院したときのことです。もう17年くらい前ことです。わたしと河村忠二さんが、美和子さん危篤の報せを聞いて病院を訪ねました。臨終にあって最後の祈りを捧げようとしたのです。しかし、担当の看護師さんは、私たちの面会を頑なに拒否しました。忠二さんは、この人は牧師である。彼女は信者である。面会することは大切なことだと粘ったのですが、その願いは叶えられず、帰らざるを得なかったのです。帰りの車中、忠二さんは嘆いていました。この国では、牧師の存在など、あまり顧みられていません。日本の田舎では、キリスト教がいかに信用されていないかの一つの例です。

 さて、今日の箇所をご一緒に考えたいと思います。ヤコブとヨハネ、イエスの側近です。ペテロと共にイエスからもっとも信頼された者たちです。彼らがイエスに願うのです。あなたが栄光を受けるとき、私たちをあなたの右と左に座らせて下さい。

 今日の説教題を「右と左」としました。右と左とは、最高の地位にして下さいということです。側近中の側近、最高の名誉と特権、そして他の者とは違うより豊かな利益、それを願うのです。しかも彼らは、願いを叶えてくださいとさえいうのです。単にお願いするのではなく、確実にそうして欲しいというわけです。


 何とも図々しいというか強欲といえます。この後、出し抜かれた他の10人の弟子たちが腹を立てたということが記されています。つまり他の10人も同じ穴のむじなです。強欲なのです。自分こそ得したい。他の弟子たちの誰よりもより上になりたい。得をしたいと思っているのです。

 前の段落では受難予告がありました。イエスの目指すことがわかったように思うのですが、実は彼らは何もわかっていい。素晴らしい状態が待っている。そう思っています。その前の段落でペテロが言うのです「私たちは何もかも棄ててあなたに従ってきた」。「何もかかも棄てたんですよ」というのです。つまり、弟子たちにしたら、これだけの犠牲を献げてきたのだから、それ相応の報いがあるのは理解しているのです。というかまるで脅迫しているようです。これだけ献げたのだから、それ相応の報いをしろなのです。

 読んでいると、弟子たちの醜さを感じます。しかしこれが人間の思いではないでしょうか。私たちは弟子たちを批判できないと思います。この国で信者になることは極めて稀なことです。信者は国民全体の0.7%以下です。しかも世間の好意的な承認はほとんどありません。信者であることで何ら得することはない。むしろ不都合や不利益が多いのです。しかしそれにもかかわらず、懸命に信者としての責務を果たしている。それが私たちの現実です。

 そんな私たちだからこそ、必ず大きな報いがあるはずだ。やがて素晴らしい幸福が与えられるはずだ。信者でない者と同じ報いがあるなど絶対に赦せない。信者同士であっても、熱心に教会生活をしている自分とそうでない者とはいただける報いが違うのは当然だ、そうでなくては理不尽だ。そんなふうに思うこともあるのではないでしょうか。まさにあの放蕩息子の譬え話のお兄さんと同じ考えです。しかし、イエスの思い、イエスが考える栄光はこれとはまったく違うのです。イエスは、偉くなりたかったら、つまり「栄光」を得たいのだったら、仕える者になれ。奴隷のように仕えろ。徹底して低いところに自分を置けというのです。ここで「仕える」と訳されている言葉は、原文では「ディアコニア」という言葉が使われています。これは「ディア;~を通る」という意味と、「コイノス;塵や泥」という意味の合成語です。

 つまり、他者に仕えるとは、人が嫌うような、まったく低く、利益もなく、それどころか理解も得られない、尊敬もされない、馬鹿扱いされる。そんなところまで身を落としてまでも、他者のために生きる。まさに泥まみれになっても他者のために生きる。そんな意味なのです。

 さて、先週に引き続き、西郷隆盛のエピソードを紹介したいと思います。幕末の日本にとって最大の問題は、欧米列強諸国に対して、たとえ理不尽であっても外交関係を結ぶ「開国」を進めるのか、それとも、このまま鎖国を続け、外国の理不尽な要求に対して武力も辞さない「攘夷」を実行するのかということでした。

 この状況下で、アメリカから開国要求を迫られます。そのとき最高責任者であった、大老、井伊直弼は、他の有力な藩主や朝廷の意向を考慮せず、「日米修交通商条約」を結びました。日本側にとって不平等な条約です。また、将軍の後継者問題でも、井伊直弼は、周囲を無視して独断で選んだのです。

 井伊直弼にとって、やむを得なかった思います。しかし、これらの決定に、有力な藩主たちは激しく非難します。井伊直弼は、反対意見の者たちを徹底的に弾圧するのです。これが「安政の大獄」と呼ばれた事件です。これによって、多くの有能な人たちが弾圧されました。今、放映されている大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公の一人、吉田松陰も弾圧されたひとりです。ちなみに井伊直弼は、この恨みを買って暗殺されます。「桜田門外の変」です。

 さて、安政の大獄の弾圧対象者の一人に、京都清水寺の住職、月照という人がいました。僧侶でありつつ、政治活動をしていた人です。井伊直弼の政策に批判的でした。西郷とも活動を共にし、お互い尊敬し合った仲でした。西郷はこの月照を匿います。そして隠密の旅の末、故郷鹿児島にやって来ます。西郷は月照の保護を薩摩藩に懇願するのです。しかし、幕府の弾圧を恐れた当時の藩主、島津久光は、月照を、「日向送り」にせよと西郷に命じるのです。日向とは今の宮崎県です。鹿児島と宮崎の県境で、月照を斬り殺せ。これが日向送りの意味なのです。

 西郷は苦しみの境地に立たされます。藩主の命令は絶対です。逆らえば死刑です。でも、西郷は共に活動してきた月照を殺すことなどできません。月照は、西郷の立場を思えば自分の運命を覚悟していました。そこで何と西郷は、月照との心中を決意するのです。西郷は薩摩藩ではなくてはならない存在です。しかし西郷は、どうしても月照を見捨てることができないのです。だから心中という決断をするのです。

 鹿児島の錦江湾を渡航中の舟から、西郷と月照は固く抱き合ったまま、入水したといいます。他の乗組員が必死に二人を救助します。結果は、月照は溺死。西郷は意識不明の重体でした。でも、西郷は三日後奇跡的に息を吹き替えしました。西郷は月照と一緒に死ねなかったことを生涯悔やんだといいます。西郷は「情の人」だといわれます。他者の悲しみや苦しみを観て、放っておけない人なのです。この世的な損得で動かないのです。

 イエスが考える栄光とは、西郷のように、人を愛する。そのためなら不利益を被ることも厭わない。それこそが「栄光」なのだ。すなわち、神の思いなのだということだったのではないでしょうか。

 十字架の場面を思い出して欲しいと思います。三本の十字架が立っていたのです。イエスの十字架の右と左には犯罪人が掛けられていたのです。国家反逆罪として十字架に掛けられていたのです。ローマの圧政に謀反を起こした彼らです。民衆の幸福のために生きた彼らなのです。イエスの右と左になるということは、たとえ自分が不幸になろうとも、損をしようとも、それどころか、殺されようとも、それでも、イエスの志を受け継いで生きることを厭わないということではないでしょうか。

 わたしたちは、信者になることで、きっと、報いがある。そう信じていると思います。また、そうでなくては理不尽だ。そう思うこともあります。しかし、実際には、信者になって、イエスに従うことは、いい事など何もなく、辛いことばかりの人生になるかも知れません。

 しかし、キリスト教信仰とは、それでも自分は、イエスを救い主と信じて生きることを決意することです。そこでは人間の思いや願いはまったく打ち砕かれます。それでも私たちはイエスに従っていけるのでしょうか。厭々、そんな宗教では無理です。従えません。そう思うのでしょうか。皆さんは、この問いかけに、どう向き合うのでしょうか。



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by buku1054 | 2015-05-10 18:56 | 礼拝メッセージ | Comments(0)