2015年 04月 12日 ( 1 )

2015年4月12日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/12礼拝説教「受け入れる」マルコ10::13~16

 先月、教区の「障がい者と教会」の岐阜地区集会で、臨床心理士の川浦弥生さんという方を講師に招きました。川浦さんは東京生まれですが、30年間、沖縄のいくつかの離島で主に子供たちの心のケアにあたってきた方です。現在牧師になるため農村伝道神学校に在学中の神学生でもあります。

 講演の中で、川浦さんがこんなことを述べていました。自分が臨床心理士になった動機は、幼い頃に母親からいわれてきた言葉にあったというのです。それは、「あんたなんか、生まれてきて欲しくなかった」という言葉でした。川浦さんはその言葉に深く傷つき、自分は必要のない人間だと思うようになったといいます。だから自分は、人の必要になるような仕事をしたいと考えるようになり。その結果、臨床心理士になったということでした。

 川浦さんは能力もあり、努力もしたのでしょう。心の傷をなんとか乗り越えることのできた方ですが、同じような惨いことを言われ、人生が狂ってしまった人はたくさんいるのではないでしょうか。

 さて、先週はイースターでしたので、それに相応しい箇所を選びました。したがって、継続して読んでいるところから離れましたので、今日は継続中の続きを読み進んでみたいと思います。今日の箇所は、小見出しに「子供を祝福する」とありますように、イエスが子供を祝福することについて記されたところです。この箇所は、教会では、子供祝福式や子供との合同礼拝の際、よく取り上げられる箇所です。


 ここで、人々が子供たちをイエスの元に連れてきます。触れてもらうためとあります。「触れていただくため」とは、神の祝福を受けるためということです。イエスの噂を聞いた親たちが、子供たちに祝福を授けてもらいたいということです。


 なぜでしょうか?イエスは救い主だという評判が広まっていたからでしょう。この世を超えたすごい方だからということなのでしょう。ただしここで、イエスは愛の方だから、救い主だから、だから小さな子供を受け入れたとするだけでは大事なことを見落としてしまうと思います。ここはそう単純にやり過ごしてはならないと思います。

 その理由は、この場所が、ヨルダン川の向こう側、ペレア地方だったというところにあると思いました。前回も述べましたが、ここはヘロデ・アンティパスが統治したところであり、ファリサイ派の勢力強い地域でした。今日の箇所では、特にファリサイ派の勢力の強さがこの物語の重要な鍵ではないかと思ったのです。ファリサイ派は、律法を厳格に遵守する人たちです。そのことが神の祝福を受ける根拠だと信じていた人たちです。

 当時、子供の存在価値はたいへん低いものでした。今のように子供の人権といった考え方は皆無です。人として価値があるのはユダヤ教徒、それは男性に限られたわけです。女性や子供、病人や障がい者、また律法を守れない人たちは神の祝福の対象外だったのです。

 ただし辛うじて男の子は別でした。男の子はユダヤ教の将来の担い手です。幼い頃からシナゴークで律法教育を受けさせました。そのことそのものが、が神の祝福だったのです。

 したがって、神の祝福の対象外は、子供に限っていえば、女の子、病気の子供、障がいの子供だったのです。こうした者たちは、神の祝福の外側に置かれた者たちだったのです。

 このような当時の時代背景を踏まえると、ここで親が連れてきた子供たちは、女の子、病気の子供、障がいを持った子供だったと言えるのではないでしょうか。さらにいうと、こうした子供たちをイエスの元に連れてきた親とは誰か。それは、母親だったと思うのです。

 おそらく次のような状況を想像します。神の祝福を受けられるのは、五体満足の男の子だけ。女の子をはじめ、それ以外の子供を持った母親たちは、親の素直な願いとして、その子たちにも神の祝福があってもいいではないか。そう思っていたはずです。しかし、夫や父親たちは耳を傾けない。取り付く島がない。そこで、母親たちが意を決して、一致団結して、当時のタブーを冒して、イエスの元へやって来たのではないか。わたしはそう思うのです。

 しかし、そんな母親の思いに気がつかない。それが弟子たちだったのです。彼らはユダヤ教徒です。男性です。神の祝福は男性にのみにあると刷り込まれていた者たちです。ですから、弟子たちはこの者たちを叱ったのです。おそらく彼らはこう思ったはずです。「お前たち、いったい何を考えているんだ。女、子供の分際で。常識外れも甚だしい。さあ、帰れ、帰れ。お前たちの相手などしている暇はないんだ」。

 すると、弟子たちの行為に対して、イエスは憤るとあるのです。ここは訳が弱いと思います。イエスが「憤った」という言葉は、原文では激怒する。激昂するという意味の、とても強い言葉なのです。つまり、このような子供たち、すなわち、ユダヤ教の基準からしたら、神の祝福から弾かれた者たちを受け入れなくては、神の国に入れない。神から認められない。イエスはかなり激しく弟子たちに説くわけです。

 話は変わりますが、ここで子供を巡る一つの物語をご紹介します。神戸市東灘区にあるYKK六甲株式会社で社長を務める江口敬一さんという方がいます。江口さんはアメリカ西海岸にあるYKKのシアトル支社に勤務していました。シアトル市内の病院で、次男・裕介さんが生まれました。

 しばらくして医師から裕介君の思いがけない診断結果を知らされました。裕介君は、染色体検査の結果、ダウン症であること、そして知的障がいもあるという内容でした。江口さん夫妻は大変なショックを受け、すぐには言葉が出ませんでした。体中の力が抜けた感じだったそうです。

 しかし、この医師は医学的な診断結果の説明をしただけで会話を終わりにはしませんでした。ショックで今にも倒れそうな江口さん夫妻の心を支えて、こう続けたというのです。「あなたがたは、障がいをもった子供を立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」と。

 江口さん夫妻はこの言葉で我に返りました。この子を自分たちが育てなくて、誰が育てられようか。この子の親として選ばれたからには、愛情をこめて育てなければならない。医師が言ってくれたように、自分たちには力があるはずだ。可愛いこの子のためなら、できないことはない。

 江口さんご夫妻は、医師の言葉によって勇気づけられ、思い直すことが出来たのです。裕介君は養護学校高等部を卒業した後、ホームヘルパー2級の資格を取得し、現在は東大阪市内の高齢者デイ・サービス・センター「アンデスのトマト」に就職し働いておられます。


 イエスは、子供がわたしのところにくることを妨げてはならないと語りました。わたしたちはさまざまな命の状況、さまざまな命の形を持ってこの世に神が送り出される存在と出会っていきます。

 しかしながら、時にその違いをもった命に対して、その存在をそのまま自らの所に抱きとめるのではなくて、受けとめるのではなくて、招くのではなくて、拒絶したり、絶望したり、あきらめるということがあるのではないでしょうか。

 わたしたちの意識の中に、思いの中に、子供がそのままの姿でこちらに来ることを拒否する、受け止めることができない、どこかで子供の状況を否定しようとする思いが働くことがあるのではないでしょうか。


 江口さんの次男裕介君をこの世に迎えるときに立ち会った医師は、両親の心に向かって語りかけました。この医師の言葉あなたがたは、障がいをもった子供を立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」は、「あなたがたは、子供がわたしのもとに来るのを妨げてはならない」というイエスの言葉に重なっていたことを感じるのです。

 前回の話の中で、わたしたちの出会いと関係は、神が結び合わせてくださったものだと述べました。わたしたちの思いや願いを遙かに超えた働きがあるのだということです。それは、わたしたちの思いからすれば、願いからすれば、受け入れたくはない、拒否したい。そんな出会いや関係も然りなのです。

 わたしたちにそれぞれ与えられている出会いや関係は、神があなたにはこのことを担っていくことが出来るということを知った上で、わたしたちに与えて下さっているのだということを信じたい。それを忘れずに、向き合い、受けとめる者でありたい。そう思います。

 「子供をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。イエスのこの言葉は、神がその子を選び、そして送って下さっているのだからという意味ではないでしょうか。このイエスの言葉を素直に信じて受け入れること。それがわたしたちに託されたことではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-04-12 12:39 | 礼拝メッセージ | Comments(0)