2015年 04月 05日 ( 1 )

2015年4月5 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/5礼拝説教「包み込んだ」マルコ16:9~11

 2015年度の最初の礼拝がイースターとなりました。キリスト教にとってもっとも大切な事柄、それがイースターです。イエスが復活されたということです。イエスの復活がなかったとしたら、キリスト教は起こらなかったのです。つまり教会という存在もなかったのです。したがって、わたしたちの存在もなかったのです。その意味でもっとも大切ななこと、それがイースターなのです。

 しかしこの復活、なかなかよくわからないと言えます。クリスマスのように、イエスが誕生したというハッキリとした歴史的事実ではないので、そう思われてしまうのではないでしょうか。ですから、長らく信仰生活を送ってきた方でも、はっきりと、復活をわたしは信じます。復活とはこういうことです。そんなふうに自信に満ちて言える方はそう多くないように思います。むしろ、聖書にそう書いてあるのだから信じなくてはならないとか、信じなくては駄目ですよといわれてきたので、なんだかよくわからないけれども、信じることにしておこうといった曖昧な思いを持つ方が多いのではないでしょうか。

 さて、教会にとってもっとも喜ばしい日であるイースター、けれども意外にも曖昧な捉え方をされる復活、今日は改めて復活について考えてみたいと思います。この度選んだ箇所は、今、継続して読んでいるマルコ福音書から選びました。マルコ福音書16章9~11節です。ここはご覧になっておわかりのように括弧で括られています。

 この9節から最後20節までが括弧で括られているのです。これは新共同訳聖書のはじめの解説のところにありますが、括弧括られたところは、後の時代に書き加えられたことを意味します。したがってこの部分は、マルコが書いたものではありません。マルコではない他の誰かが後の世になって書き加えたとされているのです。聖書学ではマルコ福音書というのは、16章の8節で終わっているというのが定説になっています。ですからそのことが9節以下に反映されて括弧で括られているのです。

 だとすると括弧の部分、9節以下に記されていることは、作り話なのか。信じるに値しないのかという思いになる人もいるかも知れません。わたしはそうは思いません。マルコ福音書の記者の意志を受け継いだ後の世の誰かが、マルコの意思を尊重しつつも、後に自分が知った伝承というか、実際に経験したというか、それをどうしても記さないではいられなくなって、書き加えたのではないか。そう思うのです。

 さて、16章の最初を見ると、イエスが殺されて、一切の仕事をしてはならない安息日が終わって、三人の女性たちがイエスの遺体に葬りの儀式を行うために、遺体が納められた墓に行きます。その三人とは、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人でした。彼女たちはイエスの遺体が墓になかったことや天使のような存在の言葉を聞いて恐れおののいたとあるのです。

 元来のマルコ福音書はこの場面で終わっているわけです。で、括弧付きの今日の箇所に入るわけです。イエスは、週の初めの日、それも朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現されたというのです。前の段落の続きからすると、あれっ、おかしいなと思うことがあるのです。というのは、そもそも三人の女性が連れ立ってイエスの墓に来ていたわけです。しかし、復活のイエスはマグダラのマリアにしか現れなかったというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。



 この後マリアについての説明が書かれています。「以前イエスに七つの霊を追い出していただいた婦人である」というのです。イエスをめぐる女性は何人もいます。おそらくその中で母マリアを除けば、このマグダラのマリアがもっとも有名な女性だと思います。マグダラというのは地名です。ガリラヤ湖畔にあった漁業が中心の町でした。ここでは捕れた魚を加工して、海外にも輸出していたことから、諸外国の商人たちもたくさん行き交いしていた町で、当時として4万人というたくさんの人口の町です。


 いろんな人がたくさん行き交う町では、当然そうした人たちを当て込んだ様々な商売や仕事が生まれます。そういうことでここは水商売の女性や娼婦もたくさんいたといわれています。このような状況もあって、イエスによって悪霊を追い出してもらったこのマリアは、娼婦だったのではないか。そういう解釈をする人がたくさんいます。もちろんほんとうのところはわかりません。

 だだ、たしかなことは、七つの霊に取り憑かれていたということ、これは並々ならぬ酷い状態にあったということです。いや、もっというなら、人格を破壊され、必要ない者として弾かれ、絶望的な状態にあった。生きる気力もなかった。それが七つの霊に取り憑かれていたと表現された内容ではないでしょうか。

 もし彼女が娼婦だったとすれば、人格が破壊してしまうほど自分の身体を売らないと食べていくことができない。そういう悲しい女性だったのではないか。身も心もボロボロになって、涙さえ出てこない。楽しいことがあっても微笑むことすらできない。そんな状態に貶められていた、それがマグダラのマリアという人だったのではないでしょうか。

 そのマリアにイエスは現れたというのです。他の誰でもないこのマリアだけになのです。今日の説教題を「包み込んだ」としました。これはマリアにイエスが御自身を現されたというところの「現された」という言葉をイメージしたものです。わたしはこの「現された」を「包み込んだ」、イエスがマリアを包み込んだというように感じたのです。

 時は朝早くです。夜が明けて太陽が昇ってきます。こんな状況に身を置くとどんな感じでしょうか。夏場でも早朝はひんやりとして少々肌寒い、冬場なら震え上がるような状態です。そこへ太陽が昇ってくる。明るく暖かい日差しが射し込んでくる。そういうときわたしたちは太陽の光に包まれていると感じるのではないでしょうか。あるいは暖かくてホッとしたというか安心したというか、そんな感覚を覚えるのではないでしょうか。


 復活のイエスがマリアと出会っているこの状況が、歴史的事実として具体的にどのようなものであったか、それを知る術はありません。しかしそんなことはそれほど大切ではないと思うのです。過酷な人生を過ごしてきたマリア、人格も破壊され、世間からは必要無い存在と罵られ、ただ男の慰み者としてしか生きられなかったマリア、そのマリアに、他の誰でもないマリアにイエスは現れた。イエスはマリアを包み込んだ。マリアはそのことをたしかに経験した。それが大切なことではないでしょうか。

 さらにいうと、マリアを包み込むイエスは復活のイエスです。多くの者は復活のイエスを「勝利のキリスト」と表現します。死に勝利したキリストだということです。それもいいでしょう。でもわたしはそれだけではないと思うのです。復活のキリストは、十字架で無残に殺されたイエスです。まさに人格を破壊され、必要なき者と罵られ、棄てられたイエスです。そのイエスがマリアを包み込んでいる。マリアの悲しみも、絶望も、涙も、彼女と同じように人格を破壊され、棄てられた、必要がない者とされたイエスが包み込んでいるのです。

 そこにあるのは、全能の力で上から救いあげるようなイエスではない。勝利のキリストと崇められた栄光のイエスではない。まさにご自分もボロボロになってしまったその有様で、虫けらのように棄てられたその姿で、いやだからこそ、マリアの絶望にほんとうに寄り添えるそのあり方で、イエスはマリアを包み込んだのだ。人智では計り知れない何かが起こったのだ。それが神の愛ということなのかも知れません。

 さてマリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせます。しかし彼らは、イエスが生きておられることも、マリアがそのイエスを見たということも信じなかったというのです。これはどういうことなのでしょうか。それは、この人たちは実際に体験したのではないから当然だという解釈が一番わかりやすい。しかしそれだけでしょうか。


 彼らはイエスが殺されて悲しんでいるのです。泣いているのです。最愛の人に先立たれたのです。そんなときわたしたちは平常心ではいられない。嘆き悲しみます。それが普通の姿です。正常な姿です。そこにマリアがやって来た。おそらくマリアの表情は微笑みを湛えた、安心した落ち着いた幸福な表情だったと思います。泣き崩れるのが当然なんだ。それが正常な者の態度なんだというそこで、一人マリアが微笑んでいる。安心している。それは彼らにとって異常なこと、普通ではないと思えたのは当然ではないでしょうか。

 あるいは、マリアが復活のイエスに出会った体験を話しても人々は信じなかったというのは、教会が成立した後のマリアのおかれた状態を示していたのかも知れません。あの女は所詮、娼婦ではないか。いかがわしい罪深い女ではないか。あんな女の言うことなど信じられようか、あいつは正常ではないんだ。そんなマリアに対する否定的な状況というか弾かれた状況というか、それが、この部分にこういう形で表現されているのではないでしょうか。


 しかし、この箇所を書き加えた誰かは、マグダラのマリアを知っていた誰かだと思います。人格を破壊されるほど貶められ、絶望していたマリア、生きる気力のかけらも持ち合わせていなかったマリア。しかしそのマリアが顔を上げて生き生きとその後の人生を生きていった。その姿に、これを書き加えた誰かは、イエスがたしかに復活されたことを信じたのではないでしょうか。

 だからどうしてもこのことを書き加えなくてはならない。たとえ括弧付きでも末尾であっても残さないではいられない。そう思ったのではないでしょうか。でもそのおかげで、2000年以上も時を経たわたしたちがこれを読むことができるのです。その意味で、マグダラのマリアは永遠にこの世界に刻み込まれたのです。これこそまさにマリアの復活ではないでしょうか。


 わたしたちも、ここで記されているこのマリアの体験、それは文章ではほんの数行しかない小さなものです。しかし、目を懲らして行間を読みながら、少しでもマリアの心境に心を寄せながら読んでいくとき、必ず感じることがあると思います。

 それは、人格を破壊され、棄てられたイエスだからこそ、このわたしの悲しみも辛さも絶望も包み込んでくださっているのだ。安心していいのだ。大丈夫なんだということではないでしょうか。それをわがこととして感じるならば、信じられるならば、それは、他でもない、このわたしのイースター。このわたしの復活になるのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2015-04-05 13:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)