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2015年3月29日礼拝説教

2015年3/29礼拝説教「今ここにある奇跡」マルコ10:1~12

 2014年度最後の礼拝となりました。今年度は、マルコによる福音書を継続して読んできました。イエスとはいったいどんな人だったのか。それもできるだけ素顔のイエスを追い求めてみたい。そのことを改めて考えてみたいというのがその動機でした。その際、もっとも最初に書かれたマルコによる福音を選んだのです。というのは、他の福音書に比べて、この福音書のイエスは実在したイエスの素顔に最も近いと思うからです。


 さて、今日から10章に入ります。10章最初の物語は、ファリサイ派との論争物語となっています。小見出しに「離縁について教える」とあるように、離婚が主題となっています。ただ、いきなり離婚の問題が問われるのは、なんだか唐突な思いがしました。しかしその理由が、冒頭の書き出しから読み取れるのです。

 イエスはそこを去ってとあります。「そこ」とはカファルナウムです。イエスと弟子たちのホームグランドといってもいいところです。そのカファルナウムを去って、イエスの一行は、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれたとあります。このさりげなく書かれていることが実は重要だと思いました。

 ヨルダン川の向こう側というのは、ペレアと呼ばれた地域です。ここはガリラヤ同様、ヘロデ・アンティパスが統治していたところです。ヘロデ大王の三人の息子の一人です。しかもここはファリサイ派の勢力がとても強かった地域だったというのです。アンティパスが統治していたこと。それとファリサイ派の勢力が強かったこと。このことから見えてくることがあります。

 ヘロデ・アンティパスによって殺害された有名人がいました。バプテスマのヨハネです。彼がなぜ殺害されたのか、それは、アンティパスの離婚問題でした。アンティパスには政略結婚によって外国から娶った妻がいました。しかしアンティパスは、自分の兄弟フィリッポスの妻に恋をしてしまうのです。ヘロデアです。その経過はわかりませんが、アンティパスはヘロデアを妻に迎えるのです。しかも、政略結婚した妻を強引に離縁するのです。当時は一夫多妻ですから、なにも妻を離縁しなくてもよかったはずです。おそらくそこには単純に割り切れない事情があったのだと思います。

 こうした事情に対してバプテスマのヨハネは、アンティパスを厳しく非難するのです。ただ前にも言いましたが、それは倫理的なことだけではありません。アンティパスの行動によって、離縁された妻の父親が怒り、戦争になったからです。そのことで民衆の多くが犠牲になったのです。ヨハネの非難は政治的でもあったのです。ですから、、ヨハネは逮捕され殺害されたのです。こうした背景もあって、当地に住むファリサイ派たちは、離婚問題を楯にイエスに挑んだのではないでしょうか。

 ファリサイ派は言います。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているのでしょうか」。ここで考えたいことは、夫が妻を離縁するということです。主語は夫です。当時離婚は、一方的に夫の側からなされたのです。妻には離婚を要求する権利はなかったのです。男尊女卑の社会であることの典型的な事実です。

 これに対してイエスはモーセの律法を持ち出します。「モーセはあなたたちになんと命じたのか」と訊ねます。彼らは答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することをゆるしました」。これは申命記の掟です。より詳細には、「人が妻を娶り、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」というのです。

 皆さんはこれを聞いてどう思うでしょうか。特に女性である皆さんは不快感を覚えるのではないでしょうか。ここでも男尊女卑です。離婚する権利は男にあるのです。それも、妻に恥ずべきことがあったらというのです。この恥ずべきこととは、家事がうまくできなかったり、子どもを産めなかったりといったことがありました。


 子孫を残してこそ神の祝福に与れるという当時の常識にあって、子どもができないというのは致命的でした。しかし子どもが授かれないのは女性だけの問題ではない無いわけです。男性側にも問題があります。今ならそういうことも考慮されます。しかしこの時代はそんなことに考えが及びません。いやどうでしょうか。現在でも子どもができないと女性の問題にされることが多いのではないでしょうか。

 しかしそれ以上に問題なのは、子どもを産めない妻、それ以外の恥ずべきことがあったらということです。要するに、夫が気に入らなくなったら離婚できたということです。恥ずべきことはどんどんどん拡大解釈されて、ほんの些細なことでも、夫が気に入らなければ一方的にというか身勝手な離婚の理由になったのです。それが正式に認められたのです。ともかく結婚とは、何もかも男性にとって有利なように定められていたのです。

 ただここでモーセによれば、離縁状を書けば離婚をゆるしたというのは、女性を保護する意味があったということです。夫が離婚する際、離縁状を書けば、その離縁状をもって妻は再婚することができたそうです。そうでないと、どうしょうもない女として以後再婚することは難しかったといいます。ただ実際にどれだけの男がこうしたルールを守ったかというと、おそらくごく僅かだったのではないかと思うのです。

 さて、こうしたやり取りを経て、イエスは自分の考えを述べるのです。「天地創造のはじめから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人は別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 この部分は結婚式のときに新郎新婦に対して聖書からの勧告としてよく読まれるところです。ただしこの言葉は、結婚式を迎えた二人だけに通用する言葉なのでしょうか。わたしはそうは思いません。夫婦になる二人だけに適用するのではなく、すべての人々にも適用された言葉ではないかと思うのです。

 神が結び合わせてくださった。人と人の関係は、出会いは、わたしたちの意思や思惑や感情を超えているのだ。そのことがここでいわれているのではないでしょうか。その一つの例としてお話しします。

 わたしがこの坂下教会に赴任した経緯をお話ししたいと思います。皆さんにははじめてお話しすることかも知れません。ある意味牧師が教会に赴任することは、結婚と同じようなことと言えるでしょう。実際、赴任前に後任の候補者が来て為される説教を「お見合い説教」と呼ばれていることが、そのことを物語っています。

 さて、神学校の最終学年のときは、赴任先のことで不安や恐れや期待など、様々な思いに翻弄されるものです。わたしは原則的には神学校に委ねていました。すると、神学校からあった話は九州は福岡県の教会でした。坂下よりも小さな教会でした。ただそこは幼稚園をはじめ幾つもの施設を持っていたのです。教会よりも施設の運営を主にして欲しいと言われました。教会を主として働きたいと思っていたわたしは、よくよく考えて断りました。

 他にも、恩師の一人から札幌の教会の話がありました。その牧師がわざわざ東京まで来て下さって、夫婦揃って面会までしました。ぜひ、来て欲しいと言われました。でも、迷った末に受け入れなかったのです。仲介の労をして下さった恩師にはすまないと思いました。

 本来こうした教会の人事の話は、素直に受け入れることが基本的な姿勢です。神の働きがそこにあるからという理解だからです。しかし現実には年齢的なことや家族のことなど様々な状況を抱えています。ですから、すんなりとはいかないのです。で、このままだと就職浪人になるかも知れない。そんな不安を抱えていたときです。


 あれは、最終学年の11月のある日のことでした。これから授業に行こうと思って今まさに出掛けようとしたそのときでした。星野先生から電話がありました。赴任先についての話でした。それが坂下教会だったのです。最初、岐阜県の教会だといわれましたが、まったくイメージできませんでした。それまで岐阜県に来たことが一度もなかったからです。飛騨高山は岐阜なのか長野なのか、それすらハッキリしない程度の認識だったのです。

 その後いろいろ聞くと、その年の夏、田中先生が夏期伝道実習生という名目で、農伝のある神学生を後任候補ということで招いたそうです。まさにお見合いです。実はその学生はわたしの友人でした。

 しかし、田中先生は彼を後任にはできないと判断し、母校からの招聘を断念したのです。そこで信頼していた星野牧師に直接頼んだのです。たまたまそこにわたしがいたということです。こういうやり取りを思うと、わたしがここへ来たことは、間違いなく奇跡です。このことをただの偶然と捉えるのか、それともわたしたちを超えた働きがあたと捉えるのかが問題なのです。

 夫婦に限らず、わたしたちの出会い、それは、神が結び合わせたことです。イエスはそう伝えていると思うのです。自分が選んだのではない。相手がそうしようと選択したのではない。あくまでも主語は神なのです。神がそうしたというのです。

 わたしたちの出会いや関係は、たとえそれが自分にとって好ましいことではなくても、わたしたちにはどうすることもできない神秘、奇跡だということではないでしょうか。それが「神が合わせたもう」という意味ではないでしょうか。大切なことは、この奇跡を感謝できるのかということです。もちろん出会いや関係には、受け入れがたいこともあります。こんな人と出会わなければよかったと思うこともしばしばあるでしょう。


 しかし、いろいろ問題があったとしても、悪い関係は悪いなりに何らかの示しがあるはずです。そのことを受け入れるか否かで、その人のその後の歩みが変わっていくと思うのです。わたしたちのそれぞれの出会いと関係に、自分の思いを超えた大いなる働きを覚えるか否か。それをイエスは、わたしたちに問うのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2015-03-29 18:18 | 礼拝メッセージ | Comments(0)