2015年 03月 08日 ( 1 )

2015年3月8 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年3/8礼拝説教「違いを受け入れてこそ」マルコ9:38~41

 今日は最初に、この俳句から始めます。「やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり」。おそらく皆さんもどこかでこの句を目にしたり、聞いたことがあると思います。小林一茶の代表的な作品です。先日新聞を読んでいたら、小林一茶のことが書かれていていまして興味を持ちました。小林一茶は、松尾芭蕉、与謝蕪村と共に江戸時代の三大俳人の一人と呼ばれている人です。

 何でも一茶は、私生活では恵まれず、大変苦労が多かったようです。でも、かえってそのことが、彼が作った俳句に生かされていたようです。それは、生きとし生けるもの、それも人間だけではなく、犬や猫、蛙、蚤や虱にいたるまで、特にいと小さき者への愛おしさと、権力への批判的な考えが作品に反映されていたということです。一茶は、すべてのものは尊いという差別なき大前提に立っていたのです。一茶は北信濃の人でした。わりと近いですので機会があれば一茶ゆかりの地を訪ねてみたいと思いました。


 さて今日は、マルコによる福音書9章の四つ目の話をご一緒に学んでみようと思います。弟子の側近の一人であるヨハネが言います。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」とあります。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。イエスの名を使って悪霊を追い出すということは、イエスを利用して、苦しむ人々の救済の業を行っていたということです。悪霊を追い出しているというのですから、実際に救済の効果があったということです。決して悪いことではありません。しかし弟子たちは、これを見てやめさせようとしたとあるのです。


 なぜでしょうか?それは、自分たちに従わないからだというのです。この部分が少しわからないところです。従わせるとはどういうことでしょうか。自分たちの仲間になれということでしょうか。これはあくまでも憶測ですが、その人たちは救済の業によって金銭的な利益を得ていたのではないかと思うのです。イエスは無報酬で救済の業を行っていました。もしもその人たちが、憶測のように救済活動によって利益を得ていたのならば、弟子たちにすれば、「それは違うだろ!本末転倒だろ!」。そういいたくなるはずです。弟子たちの思いはよくわかります。


 さて、話は変わります。宗教という言葉の意味ですが、宗教の「宗」というのは、根源的なことということです。つまり根源的なことを教えること。それが宗教の意味です。しかしよく考えると、これは矛盾していると思います。根源的なこととは、真理というか、いうなれば神のことです。神のことはわたしたちにはわからないはずです。よって、その教えを伝えることはできないというのが正しい答えです。宗教という言葉は、そもそも矛盾しているのです。

 一方英語では、宗教をレリジョンといいます。これはレリゴーというラテン語、「再び合わせる」という意味から派生した言葉です。では、何と何を再び合わせるのか。それは、神と人を再び合わせるということです。神と人との関係を正しくするということです。キリスト教的な意味での言葉です。いかにも西洋的な概念です。

 基本的にキリスト教では、創世記にあるように、そもそも人間は、神に反抗したから、そのままだと地獄行きになってしまう。しかし、それを解決するために、救いのために定められた教義を信じることを奨励されるわけです。その内容は、十字架と復活を信じることです。具体的には、その教えを信じて信者になるということです。でもそれはキリスト教に限定されます。キリスト教以外では救われないということになります。排他的、独善的になる恐れがあるわけです。

 かつてカトリック教会は、2000年間「キリスト教以外に救いはない」というスタンスでした。しかし、1960年代に行われた第二バチカン公会議からカトリック教会はこうした独善を改めました。他の宗教を尊重するようになりました。むしろ今はプロテスタント教会が、キリスト教以外には救われないとするスタンスをとるところが多いです。

 しかし世界にはあまた宗教があるのが現実です。それぞれに教えが違います。にもかかわらず、それぞれが自分こそが絶対に正しいと主張したら、他の宗教はすべて間違いとなります。あるいはすべて偽物となります。しかし、どれが正しくてどれが間違っているといった判定はわたしたちにはできません。もしも「それができる」といったら、それは自らを神の位置に置くことであり、それこそ傲慢な態度です。

 しかしある意味、違いを利用したのがこれまでの世界ではないでしょうか。今世界を揺るがしているイスラム国による蛮行も、宗教の問題だと認識する者も多いと思います。でも、根本的な問題は格差や差別です。しかし、それが情報操作というか、問題を宗教にすり替えようとする権力者の思惑というか、宗教が利用されているように思うのです。だから多くの人は、宗教こそが問題だ、宗教って恐いよねと宗教を嫌悪するのではないでしょうか。特に日本ではその傾向が強いと思います。

 わたしは思うのですが、そもそも宗教の目的とは、根源的なことを伝えたいとすることです。根源的とはわたしたちでいう「神」です。ただ一口に「神」といっては、伝えきれないように思っています。わたしはその意味で今の人たちにも理解できるように宗教用語を翻訳するべきだと思っています。わたしが尊敬する藤木正三牧師は、そのことを実践した方です。わたしは、根源的なこと、すなわち神のことを、「ほんとうに大切なこと」と捉えたらどうかと提案したいのです。


 人類は、ほんとうに大切なことを守ってこれなかった。それが人類史の問題だと思うのです。だからこれを守るために仏教であれキリスト教であれ宗教と呼ばれる「教え」が生まれたと思うのです。その先駆者が仏陀でありキリストだと思うのです。そう考えれば、すべてではありませんが、他宗教でも根本は同じではないだろうか。少なくとも伝統宗教といわれるものは、本質において同じではないかと思います。

 では、ほんとうに大切なこととは何でしょうか。ほんとうに大切なこととは、すべての者が、それは人間に限ったことではありません。動植物も含めたすべてのものが尊いということではないでしょうか。

 旧約聖書創世記の冒頭、天地創造物語の言葉を思い出して欲しいのです。天地創造の働きを終えた神が、被造物をご覧になって言うのです。すべては甚だ良かったとあるのです。神という根源からすれば、すべてはよい。つまりすべては尊いのだということです。小林一茶の悟りと同じなんです。わたしたちは往往にして偏見を持っています。キリスト教が示すことは正しいけれど、他の宗教や他の思想が示すことは間違いだと思ってしまうことが多い。

 わたしはこれまで、他の宗教を非難する牧師たちの言動を、何度も聞いたり、目にしてきました。わたしは無礼だと思いました。そもそもある宗教を理解するならば、その宗教の信徒となって、その道を生きなければ、ほんとうにその宗教を理解することにはならないと思うのです。けれどもその宗教の道を真剣に生きたことがないのに、つまり詳しく知りもしないくせに、ちょっと何かを読んだだけの浅い知識にしか過ぎないのに、さもすべてわかったかのように非難する人がとても多い。こういう態度はとても無礼ではないでしょうか。そして見苦しいです。あまりにも幼稚です。こういう態度はほんと自戒しなければならないと思います。


 さて、本文に戻ります。今日の箇所は、逆らわない者は味方だとイエスは説くのです。これは要するに、苦しむ人々を救う働きをしているなら、必ずしもわたしたちとその立場や方法や動機が同じでなくても良いのだということではないでしょうか。

 イエスにとってほんとうに大切なことは、いのちは平等であり、そのどれもが尊いのだということです。誰もが与えられたいのちを生き抜ぬいて全うするということです。しかしそのためには、それを支える社会の基盤が公平であり、整っていなくてはなりません。それがイエスの思想、信仰の大前提だと思うのです。で、そのような社会の実現のために働くならば、キリスト教でなくてもいいはずだ。宗教でなくても良いはずです。たとえ利益を得ても良いはずだということではないでしょうか。

 先月、普天間基地を辺野古に移転することに反対する活動で、沖縄平和活動センターの山城博治さんという方が不当に逮捕されました。結果、直ぐ釈放されました。権力側に正当性がなかったからです。彼は、昨年岐阜地区の沖縄の旅で出会った方です。自らの私生活をなげうって沖縄の平和のためにいのちを削っている方です。彼はクリスチャンではありません。でも、アメリカ政府や日本政府の理不尽さに命懸けで闘っている人です。わたしは彼こそイエスの弟子だと思っています。

 イエスは最後に言います。「あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。つまり、人生の歩みにおいて渇いている者、それは、苦しみや悲しみに置き去りにされた者ということではないでしょか。そういう者たちに、手を差し伸べる者なら、それは、だいそれたことをしなくてはならないということではない。たとえ小さな業であっても、そういう者たちに共感し、少しでも助けになろうとするならば、立場や身分や属するところが異なったとしても、神は喜ぶのだということではないでしょうか。


 人類の歴史を全体的に考えるとき、昔も、そして今も、世界は利益を公平に分配することをせず、それぞれが自分たちの利益だけを求めて争っていることがわかります。このことこそが最大の罪であり、わたしたちでいうなら、神への反逆ではないでしょうか。

 これに終止符を打てるのは宗教だと思います。ですから、宗教者がその違いを超えて協力し、それぞれの信徒に働きかけて欲しいと思うのです。もしそれがほんとうに実行されるなら、そして、それぞれの信者もそれを受け入れるなら、時間は掛かるかも知れませんが、世界の争いは解決に向かうのかも知れないと思うのです。他宗教にも宗教ではない思想にも尊敬の念を持ちたい。偏見という罪をわたしたちから取り除いて欲しい。そう祈りたいのです。


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by buku1054 | 2015-03-08 12:50 | 礼拝メッセージ | Comments(0)