2015年 03月 01日 ( 1 )

2015年3月1 日坂下教会礼拝メッセージ

3月1日礼拝説教「心はどこにあるのか」マルコ9:30~37

 今日もマルコによる福音書に聴いて行きたいと思います。今日の説教題を「心はどこにあるのか」としました。わたしたちの心がどこに立つのかによってわたしたち自身が違ってくるということと、さらにいえば世の中が違ってくるのではないだろうかということ。今日の箇所を読んで、まずはそう思いました。

 藤木正三牧師がこんな言葉を述べていました。「これでよいのだろうかという問いを、自分に限りなく問うてゆく働き、それを心といいます」。言い得て妙だと思います。ある事柄に相対したとき、単に自分はそう思うというのは、その人の感想や意見です。また、どう感じるかは感情でしょう。それに対して心とは、藤木先生が言うように、ある事柄に相対したとき、自分はそれについてどう向き合っているのか、あるいはそのことの本質に気がついているのだろうか、何か見落としていないだろうか、それを問う働きが「心」だと思います。

 さて、今日は9章の三つ目の話を考えたいと思います。前の段落で、穢れた霊に取り憑かれた子どもを癒やしたイエスの一行は、ガリラヤの旅を続けます。イエスは人々に気づかれるのを好まなかったとあります。おそらくそれは、受難予告をしたからではないでしょうか。受難予告を聞いていたのは弟子たちだけではありません。民衆も聞いていたでしょう。密かに監視する当局も聞いていたかも知れません。

 イエスは自分の運命を覚悟していたものの、イエスも一人の人間です。常にユダヤ当局から付け狙われていたこともわかっていたはずです。したがって、正直いって恐かったと思うのです。ですから救済の業を行わなくてはと思いつつ、一方でなるたけ目立たず、波風を立てて当局を刺激したくないという思いもあったのではないでしょうか。イエスはわたしたちと同じく弱さを抱えていた方だったのです。


 一行はカファルナウムに着きました。家に着いたとあります。どこの家かは記されていません。でも、1章の記事に、やはりカファルナウムでペテロの家に入ったとありますから、ここでもおそらくペテロの家だったと思います。ここにはペテロの姑もいましたし、ペテロには妻もいましたから、何かとかいがいしく世話をしてもらったと思います。その意味でここは、彼らが落ち着ける数少ない場所だったのではないでしょうか。イエスの緊張感というか、これから起こるであろう困難にあって少しでも安息のときを持ちたかった。そのように思うのです。

 イエスは弟子たちに訊ねます。おそらく落ち着いたところで道々気になったことを訊ねたのでしょう。途中、あなたがたはいったい何を議論していたのかというのです。議論の内容は、自分たちの中で誰が一番偉いのかということであったのでした。ここでも、イエスと弟子たちとの思いというか考え方というか理想というか、目的というか、ズレていたことがわかります。これからどんな大きな苦難が待っているかも知れないと恐れるイエスがいます。おそらくイエスは、弟子たちにも覚悟を持っていて欲しいと思ったはずです。

 しかし彼らの思いは、イエスとは大きくずれているのです。彼らは、自分たちがこれから栄光を得ると思っているのです。イエスについて行けば栄光を得られ、そこで誰がイエスの側近になれるのか、誰がより良い思いができるのか、そういうことに思いが行っていたのではないでしょうか。つまり、自分たちが今おかれている状況を見極められないのです。


 話は変わりますが、今、日本の教会は、これまで以上に宣教の危機を迎えていると思います。その危機とは、信徒の高齢化と新たな信者獲得の困難という現実にあって、教会が衰退し、果たして今後教会が存続していけるかどうかということに終始しているように思います。


 もっともこの問題は、日本の教会だけではありません。先日こんなニュースを知りました。それは、イギリスの国教会でも教会の高齢化と新たな信者獲得の困難が著しくて、このままではイギリスの農村部の教会は、10年後にはかなりの教会が消滅する可能性があるということでした。ドイツをはじめヨーロッパもそうですが、キリスト教の本場である先進諸国の教会は、どこでも衰退しているのです。今やキリスト教は決して世界宗教とは言えなくなりつつあるのです。

 ともかく日本の教会は衰退傾向にあって、全般的に伝道を声高に叫んでいます。それもできるだけ若い世代の信徒を獲得して将来の安心を確保したいのです。もちろんその気持ちはてもよくわかります。農村に立つわたしたちにとって、そんな思いというか願いは、今はじまったことではありません。ずっとそのことで悩んできたのです。

 しかしもしかすると、教会のほんとうの危機は、今の社会がどんどん悪くなる中で、それに抗うことを第一とせず、また、小さくされた者たちに寄り添えず、自己の安定を望むということ、その姿勢こそがほんとうの教会の危機ではないでしょうか。

 イエスは不条理な世の中に否を掲げ、その改善のために奔走した人です。そんなイエスを思うならば、自分の安心や安定を望むだけでは、むしろイエスから遠のいていくことになるのではないか。それこそ教会の危機ではないでしょうか。イエスは言うのです。先になりたかったら、一番後になって、人に仕えなさい。最も低くなれというのです。自分のことより弱い者たちのためになるのなら、たとえ損をしてもそれで満足せよというのです。

 そして一人の子どもを抱き上げて、このような子どもを受け入れる者こそ神を受け入れるといいます。神を受け入れるとは、神を信じることであり、神に従うことということです。わたしは思うのですが、ここで唐突に子どもが登場する。ここがこの箇所のポイントではないでしょうか。なぜここで、にわかに子どもが登場するのでしょうか。

 当時のパレスチナには、孤児がたくさんいたといわれています。戦禍や過酷な生活環境などで両親を失った者、生活苦のために捨てられた者、そういう子どもたちが、そこら中にたくさんいたといいます。おそらくここで取り上げられた子どもは、道々イエスの一行についてきた者だったはずです。いつ行き倒れになるかわからない危機的状況にあった子どもたちです。

 いつの時代も子どもというのは無邪気です。彼ら孤児たちは、イエスの一行に興味を覚え、というか、この人たちについていくと何かいい事があるのではないか、そんな思いでついてきたのでしょう。しかし、弟子たちはその存在に気がつきもせず、自分たちのことしか考えていなかったのです。少し周囲を見渡せば、孤児たちが一緒にいる。そのことに気がつくはずです。気がついていたとしても眼中にない。たぶんイエスはそのことを嘆いたに違いないのです。


 今、世界はイスラム国との関係で頭を抱えています。イスラム国だけではありません。世界各地で過激派がテロを繰り返しています。でもそれを解決するたために、先進諸国は、とりわけアメリカ主導の有志連合国は、テロとは断固闘う。テロに屈するなと声高に叫んでいます。イスラム国や過激派たちを滅ぼせばそれで解決すると思っています。でも、その闘いで犠牲になるのは、もっとも弱い立場におかれた子どもたちです。そのことに思いを馳せる人がどれだけいるのでしょうか。

 ほんとうにこの問題を解決するには、アメリカが推進しているグローバル経済、すなわち弱肉強食の経済体制によってもたらされた著しい格差。それろヨーロッパ諸国の植民地時代から連綿として続いている根深い差別を悔い改めなくてはならない。わたしはそう思います。

 しかしいつの時代もそうでしょうが、持つ者は持たざる者のために富を使おうとしない。ましてアメリカはアメリカンドリームが好きなお国柄です。努力した者が成功し富を得るのは当たり前。得られないのはその人の努力が足りないからだという考え方に固執しています。


 しかしことはそう単純ではないわけです。そもそも、格差や差別は個人が努力すればいいという前提を奪っていると思います。ヨーロッパにはたくさんの移民がいます。その多くはイスラム圏の人々です。自由・平等・博愛を掲げるフランスでも、彼らは不条理な扱いを受けています。たとえ能力があり大学まで卒業しても、イスラムというだけで就職差別を受けるのです。そういう人たちがイスラム国へと流れているのです。でも、そのことが先進諸国の特に社会をリードする富裕層にはわかっていないのではないでしょうか。恵まれている人々には弱い者の思いなどわからないのが現実なのです。

 殺害された後藤健二さんは、まさにそのことを世界に訴えるために活動していたのです。あえて危険を冒してシリアに行ったのです。ある有名タレントは、そんな後藤さんに対して、こんなに国に迷惑を掛けているのだから、いっそ自決すれば良かったと述べていました。世界で物議を醸している発言です。自分は安全なところにいて後藤さんの働きを少しも理解せずなんと酷いことを言うのかと怒りを覚えました。でも、ひょっとすると、今の多くの日本人は、この有名タレントの発言を肯定しているのかも知れません。

 弟子たちの心は、自分たちのところに集まってきた孤児たちに向いていなかったのです。それよりも、自分たちが得をしたり優位になることばかりを考えていたのです。でも、弟子たちを批判できません。これが、今に生きるわたしたちにとっても現実なのかも知れません。

 いかに小さな者、弱い者が犠牲になっているのか。そのことを見極めること、それが後藤さんの心を大切にすることであり、イエスに従う者の心ではないでしょうか。日本の教会、世界の教会は、この先どこへ向かうのでしょうか。イエスに従う者として歩むのでしょうか。それともイエスを看板にしただけの自己満足の存在なのでしょうか。それをこそ今、わたしたちの心に問われている。そう考えなくてはならないのではないでしょうか。わたしたちの心はどこにあるのでしょうか。


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by buku1054 | 2015-03-01 17:07 | 礼拝メッセージ | Comments(1)