2015年 01月 10日 ( 1 )

2015年1月11日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1/11礼拝説教「そんなあなたがたを」マルコ8:14~21

 今日も引き続きマルコによる福音書を読み進みます。前回は、イエスとファリサイ派とのやり取りについての箇所でしたイイエスが外国人を救済したことに対して、ファリサイ派は良く思いません。というか憎しみさえ抱きます。
なぜなら彼らは、神が救うのはユダヤ人だけだと信じていたからです。イエスはそんな彼らを相手にしませんでした。
取り付く島がなかったからです。

 どんなに丁寧に真摯に話しても、まったく通じない人がいます。今もそうです。イスラム国のような過激な人たちと対立する勢力は、まったく通じ合えません。ロシアとウクライナ、パレスチナとイスラエルもそうでありましょう。

 おそらく、様々な違いがあるために同じにすることができないものを、無理矢理自分たちと同じにしようとすることが問題なのではないでしょうか。昨年「ありのままで」という歌が流行りましたが、いろいろな違いがあるのが現実です。その現実をうまく機能させるには、お互いに譲り合って、妥協点を見出すより他ありません。しかし、それが出来ないのが人間です。悲しいかな、人間はほんとうに愚かな存在だと思います。


 さて今日の本文を見てゆきます。向こう岸へと渡る舟の中、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れた、一つしか持ってこなかったというのです。この記述は、どうも不可解です。果たして必要な記述なのかというのが率直な思いです。というのは、前の段落でイエスとファリサイ派のやり取りがあります。イエスは彼らを相手にしません。取り付く島がないからです。

 それを踏まえると、今日のところでは、イエスが弟子たちに向かって、ファリサイ派のパン種には気をつけなさいという部分が直ぐに来るのが自然だと思います。ところがまず弟子たちのパンのことが記されているのです。どうも調子外れというか、必要のない部分のように思います、でも、弟子たちがパンを忘れたというこの部分が挿入されているのです。これがよくわからないのです。とりあえず先に進みます。

 イエスは弟子たちに言うのです。「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。不可解な言葉です。直ぐには理解できません。おそらく何らかの譬えなのでしょう。パン種は、イースト菌のことです。要するにパンを膨らますものです。余談ですが、カトリック教会の聖餐式では、イースト菌を入れないパンを使います。ウエハースみたいなものです。一方、カトリック教会と分かれた東方正教会は、イースト菌を入れたパン、わたしたちがイメージするパンを使います。11世紀にカトリック教会と東方正教会が分裂しますが、このパンの違いも分裂の一要因になったといわれています。わたしたちプロテスタントはカトリックの流れですが、東方正教会と同じです。普通のパンです。

 ともかくイエスは、ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種には気をつけろと弟子たちに勧告します。パン種は、パンを膨らますものです。つまり、膨らむということから、拡大してゆくということが意味されるのだと思います。では、ファリサイ派とヘロデ、その何が拡大してゆくというのでしょうか。イエスはそのことを問題にしているのです。

 この物語は、小見出しを見ると、マタイ福音書にも同様の記事があることがわかります。そこを参照すると明らかになります。パン種に譬えられたものは、マタイによれば「ファリサイ派とサドカイ派の教え」ということなのです。マルコではサドカイ派ではなくてヘロデという違いがありますが、ヘロデとサドカイ派は利害が一致していたので、同じと考えて間違いがありません。したがって、イエスはファリサイ派とサドカイ派、ないしヘロデ派の考えには気をつけなさいと勧告したわけです。では、何に気をつけなさいということなのでしょうか。

 ファリサイ派は、律法至上主義です。神の掟と信じた律法を何よりも大切にしていました。律法イコール神と捉えていたといっても過言ではありません。彼らはとにかく律法の規定を厳守すること。それが神から救われる事だと信じていました。ですから守れない者は神の救いから漏れた者、人として価値のない者と捉えたのです。

 もっといえば、非情に煩瑣な律法の規定を守れるのは、字が読めて、律法教育を受けて、安息日には仕事をしないですみ、神殿に足繁く参拝できるような恵まれていた人たちです。生活のためには安息日にも働かなくてはならない貧しい農民や漁師、羊飼い、日雇い人夫、娼婦といった者たちは穢れた者とされ、救いの対象からは外されていました。このような分け隔て、差別。それを当然のこととしていた。それがファリサイ派です。

 一方サドカイ派は、ユダヤのエリート階層であり、神殿体制の中心的な存在でした。神殿を司る祭司たちが主な人たちです。彼らも宗教指導者ですが、神殿儀式に際して、たくさんのお布施や賽銭、また犠牲の供え物となる動物を自分たちの用意したものを押しつけることで得る利益など、金儲けが当たり前になっていました。宗教、信仰という大義名分の裏で、巨大な経済利潤体制を築き上げていたのです。

 ヘロデ派は、ユダヤ人ではありません。イドマヤ人という外国人です。彼らはローマ帝国の権力者たちにうまく取り入って、パレスチナの統治権を手に入れた人たちです。ある意味最も美味しいところを手に入れた人たちです。民衆の貧困、不公正、不条理な社会の陰でローマ帝国と共に利益を搾取できた人たちです。彼らの一年間の利益は、一般庶民の一年間の収入の何百万倍というほど巨大な利益だったそうです。

 当時のユダヤ人のほとんどをしめた貧しい庶民階級は、こうした少数のエリートたちによって、政治的にも経済的にも宗教的にも虐げられていたのです。わたしが思うに、政治的経済的に虐げられていても、宗教が助けになるのならまだ救いはあります。でも、頼みの宗教が、率先して人を差別していたわけです。宗教が人間の尊厳を踏みにじっていた。人々の困窮にとどめを刺していた。これがこの時代の悲劇ではないでしょうか。

 ファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけなさいという戒めとは、こういうことだったのです。人間の尊厳を踏みにじるこうしたユダヤの権力体制は、ますます強大になり、益々民衆を苦しめる。このことをしっかりと認識していなさい。惑わされてはならないということだと思うのです。

 けれども弟子たちは、イエスの戒めにまったくといっていいほど気がついていません。彼らはイエスの言葉に対して「これは自分たちがパンを持っていないからだと論じ合っていた」とあるのです。なんというか、不可解なほど、イエスと弟子たちとがずれています。前回も述べましたが、弟子たちは自分の救いに執着しています。具体的にはダビデ王時代のイスラエルの復興です。政治的経済的に復興することです。豊かな暮らしの復活です。

 わたしたち人間は、自分の利益、それは政治的であろうが経済的であろうが、それとも宗教的であろうが、それを獲得したい、維持したい。手放したくない、そういう思いに心奪われているとき、ほんとうに大切なことに気持ちが行かない。あるいはほんとうに大事なことを見落とすものだということが言えるのではないでしょうか。


 それは今のわたしたち日本人にも言えると思います。今の日本人は、「景気回復」。この一言にとにかく弱いと思います。かつて諸外国からエコノミックアニマルと揶揄されましたが、本質的には今も変わらないでしょう。ともかく経済的豊かさが一番大切です。もちろんその気持ちもわかります。暮らしが苦しいのは嫌です。しかし、国は「景気回復」といいつつ、国民を騙し、自分たちの利益を優先させる。それでも国民は、「景気回復」という甘い言葉に惹きつけられ現体制を支持してゆくのです。原発推進でも、戦争国家になろうともです。これは弟子たちと同じく、自分の救いにのみ心が奪われているから、騙されても気がつかない。そういえるのではないでしょうか。

 イエスは弟子たちの無理解に相当がっかりしています。まだ悟らないのかという言葉を繰り返しているのです。そもそもイエスが弟子に選んだ者たちは、皆貧しい者たちであり、ユダヤの権力体制から虐げられていた人たちです。おそらくイエスは、そういう者たちだから、自分が展開する活動の意味を理解してくれるだろうという期待があったと思うのです。

 ましてや、イエスの行くところ、差別と不条理で苦しむ人たちばかりで、そうした人々の救いを行ってきたのです。しかしここへきて、弟子たちは何もわかっていなかった。それほど自分への執着が強かった。その現実を突きつけられたのではないでしょうか。

 ではイエスは、こんな弟子たちを見限って、新たな人材を登用したのでしょうか。先日新聞を見ていましたら、ラモス監督で昨年注目された、サッカーJ2のFC岐阜が、主力選手も含め17人も解雇したというニュースを目にしました。来期に向けてかなり大胆な人事を敢行したわけです。スポーツの世界とイエスの集団を単純に比較することは出来ませんが、神の国実現というイエスの究極の目標を思うなら、弟子の総入れ替えがあってもおかしくない。それほど弟子たちの思いはイエスとずれていたのです。


 しかし、次の段落の冒頭にはこう記されています。「一行はベトサイダに着いた」。「一行は」なのです。イエスは弟子たちとそれまでと変わらず、一緒に宣教の旅を続けているのです。それは十字架の死に至るまで変わらないのです。弟子たちの裏切りにあっても変わらないのです。

 おそらくイエス思ったでしょう。こんなにも鈍く、こんなにも愚かで、こんなにも自己中心でいる弟子たち、この先ほんと思いやられる。この弟子たちの姿というか本性は、今のわたしたちとそう変わらないと思います。今のわたしたち、信仰の確信はない。いざとなればあっさり捨てるかも知れない。精々そんな程度でしょう。また、信仰生活を維持していたとしても、その本性は、天国へ行ければそれでいいという自己保身とか、信仰を持たない者への見下しとか、同じ信仰でも解釈が異なる者への非難とか、欠陥だらけです。

 今日の説教題を「そんなあなたがたを」としました。そんなあなたがたとは、イエスの直弟子であり、その後のキリスト者であり、今ここにいるわたしたちです。イエスはこの後も弟子たちと活動を共にします。そして裏切られても、見捨てられても彼らを庇いました。そのイエスが、その後も共にいて下さるというのが、キリスト教の真髄です。徹底したわたしたち人間に対する赦しと信頼を貫いた方、それがナザレのイエスという方だったのです。

 きっとイエスは、自分の思いをまったくわかっていない弟子たちに対して、その後、過ちを繰り返した教会の歴史に対して、そして、弱くて情けない今のわたしたちに対して、こう思っているはずです。そんなあなたがたを、わたしはずっと背負ってゆくよ。



[PR]
by buku1054 | 2015-01-10 15:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)