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2014年12月14日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/14礼拝説教「群衆」マルコ7:31~37

 今日は、マルコによる福音書7章の最後の物語です。この箇所はどんなメッセージを伝えようとしているのか、そのことを考えつつ、ご一緒に読み進めて行きたいと思います。ここは、「それからまた、イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖にやって来られた」。という書き出しで始まっています。

 以前のわたしは、このような記述にほとんど反応しませんでした。本質を考えるのに大事なことではないと思っていたからです。しかし、この福音書を連続して読み進めていると、このような、ある意味そんな重要ではないように思える記述が、意外に重要だと思うようになりました。

 前回の話は、シリア・フェニキアで起きたことです。つまり外国です。この後イエスの一行は、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、そしてガリラヤ湖にいたったとあるのです。地図を見るとわかるのですが、イエスの一行は、ものすごく大回りをしているのです。つまり、できる限りパレスチナを避けるようにして移動していたことがわかるのです。

 これは、どういうことなのでしょうか。前回も話しましたが、イエスたちは休息の時を持ちたかったのです。しかし、休もうとして、狙った場所に行っても、人々はイエスに気がつき、休んで入られない状態になるのです。ですからこの冒頭の記述は、明らかにイエスたちが何としてでも休息を得ようとしたことを物語っているのではないかと思いました。

 さて、イエスの一行は、「ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。ここがどこなのかというのは、漠然と読むとわかりません。しかし丁寧に読むとわかるのです。ガリラヤという名称があると、ここはパレスチナ、ユダヤ人の地域と思ってしまうのですが、聖書には、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に着いたとあるのです。イエスの一行は、まだデカポリス、外国にいるのです。デカポリスはガリラヤ湖に面しています。なぜこのような瑣末のことに拘るかというと、それが重要だからなのです。

 そこでこの物語が始まるのです。デカポリスの人々がイエスの一行に気がつきます。すかさず、耳の聞こえない、喋ることが不自由な人を連れてきます。そしてその人に手を置いて欲しいというのです。つまり手当をしてくださいというのです。

 するとイエスは、何を思ったのか、この人だけを群衆から連れ出して癒しの業を行うのです。その癒しの業とは、自分の指をその人の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触られた。そして天を仰いで深くため息をつき、その人に向かって「エッファタ」「開け」と言うのです。そうしたら、この人の耳は開かれ、舌のもつれもなくなったというのです。

 中部学院大学の事務方をされている村上 進さん。以前ご紹介しましたが、村上 伸牧師の息子さんです。彼が中部学院大学のチャペルアワーで、この箇所について次のように述べていました。

 「実は、私は子どもの頃「日曜学校」という教会が子どものために開いていた集会に通っていて、そこでこのお話を聞いたことがあります。 そのときの私の感想は、「うえぇ、他人の舌につばをつけるなんてキモチわりぃ」でした。 愛の行為として「他人の舌を唾液で潤す」など、小学生の男子には理解できなくて当然です。大人になってから知りました。「これは、ディープキスだ!」

 そう思い込んで読み返してみると、ここの描写は全く違う印象で迫ってきます。皆さん、心から愛しいと思う誰か、たとえば恋人が、心からだにひどい苦しみを抱えていると知ったとき、どうするでしょうか。その人の辛さをわかってあげたい。でも現実にはその痛みを共有したりわずかでも肩代わりすることはできないのです。ならばせめて、私があなたの痛みをわかりたいと心から願っている、そのことだけでも伝えたいと思うでしょう?その人の頬を両手でくるみ、その涙を指でぬぐい、抱きしめ、くちづけをし、「あなたの辛さと一つになりたい」と祈るでしょう?

 この聖書では「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」と訳されています。「エッファタ」とは、「ひらく/ほどく」の「受身命令形」です。直訳すれば「ほどかれよ」ですが、これは杖を一振りして「アーブラカターブラ」と唱えるような魔法の呪文の類ではありません。

 イエスは無我夢中なのです。その人の硬直した舌を、自分のつばでやわらかくしたら何とかなるかもと思い、そしてその頭をかき抱き、その人が縛られている二重の苦しみと、それを肩代わりできないもどかしさに心を痛め、 深くため息をついて「お願い・・・ほどけて・・・」と祈ったのです」。

 村上 進さんは、牧師の息子さんということもあるのでしょうか、何度か彼のメッセージを読んでみて、とても深く聖書を読まれる方だと思っています。村上さんがいわれるように、イエスの無我夢中さ、つまり、何としてもこの人を救いたい。そんな気持ちの表れが、この行為となっているのです。

 ただしイエスのこの行為は、ユダヤ社会では絶対にあり得ない行為です。ユダヤ人からすれば外国人は穢れた人間です。こんなことが知られたら、即、死罪にさえなりかねません。つまりイエスは、命懸けで分け隔ての壁を越えているのです。

 おそらく前回のシリア・フェニキアの女性との出会いによって、イエス自身、完全にユダヤ的な一切のわだかまりから解かれたのだと思います。それがこの行為に表れたと思うのです。さらに癒しの後で、イエスは、人々にこのことは誰にも話すなと口止めをされます。何故なのか。これがこの箇所のポイントだと思います。


 前に、こんな話を読んだたことがあります。ある夫婦がいました。両方とも学校の先生でした。あるとき、奧さんの耳がほとんど聞こえなくなってしまったそうです。突発性難聴ということでしょうか。しかも、特にご主人の話すことが聞こえないというのです。実はこの奧さんは、結婚して以来ずっとご主人から抑圧されてきたというのです。いまで言うDVです。おそらくその精神的ストレスから、ご主人の声に拒絶反応を起こすようになったのだと思います。しかし、ご主人が亡くなった途端、耳は完全に回復したというのです。

 耳と口が不自由なこの人も、誰かに抑圧されていた人だったのではないか。そう思ったのです。しかも、その抑圧を群衆は誰も見ていない。知らない。たとえ知っていた人がいても意に介さない。群衆は興味本位に彼をダシに使ってイエスを試している。その寒々とした群衆の行為に、イエスはこの人だけと向き合ったのではないでしょうか。そして口止めされたのではないでしょうか。

 しかし群衆は、口止めされればされるほど、ますますイエスを賞賛してゆきます。わたしはこの描写を読むとき、イエスの救い主としての素晴らしさを人々がわかったんだとか、褒め称えているのだとか、だからわたしたちもイエス様を信じましょうといったような護教的な解釈には抵抗があるのです。わたしは思います。デカポリスの群衆が、この出来事で大騒ぎしているその陰で、イエスは深い悲しみにあったのではないかと。

 おそらくイエスによって癒されたこの人は、以前、特定の個人なのか、地域の人々なのか、ともかく徹底した非難、拒絶、排除、呪い、そうした言葉を執拗に浴びせられ、また少しでも反論しようとするなら何倍にも仕返しされるといった攻撃を受けてきた人だったのではないかと思うのです。それゆえに耳と口が不自由になってしまったのではないでしょうか。

 そんな彼がイエスによって癒されました。心も身体も解放されました。しかし、彼を群衆は放っておかないのです。大騒ぎです。お祭り騒ぎです。おそらく彼をいたるところに引っ張っていって、「見ろ、この人は、あのイエスというユダヤのメシアによって癒されたんだ」。公衆の面前で見せ物にされていったのではないでしょうか。

 たぶんこんな場面が展開されたと想像します。公衆の面前で見せ物となったこの人に実験するのです。今から俺が言ったことを復唱してみろ!と誰かが迫ります。これまで散々いたぶられてきたのです。ある意味また同じような仕打ちです。彼は聞いたとおりの言葉を発するでしょう。そうしなくては何をされるか知れません。そして群衆は益々熱狂的に騒ぎ立てるのです。

 イエスはこのような情景を予測したゆえに、人々に口止めされたと思うのです。群衆の騒ぎがエスカレートする様に深い失望を抱き、晒し者となっていったこの人に深い同情を抱かれたのではないでしょうか。

 今日の説教題を「群衆」としました。この物語は一見すると、イエスの癒し、耳と口の不自由な人の解放に焦点が当てられる箇所です。わたしも前に取り組んだときにはそう思いました。でもこの度読み直してみて、わたしは、群衆の有り様について描かれた箇所でもあるかも知れないと思ったのです。

 人間というのは、一人一人はそんなに悪い人はいないと思います。困った人を見たら助けたいと思うだろうし。素晴らしい映画や音楽に涙する感性もあるはずです。しかし、そんな個人であっても、一度集まってしまうとき、何かが狂うのではないでしょうか。

 ナチスドイツ時代のドイツ国民がそうだったのです。戦前戦中の日本国民もそうだったのです。現代もそのような例はいくらでもあるのです。9.11以後のアメリカはまさにそうでした。国の扇動にアメリカ国民は拳を掲げて怒りを顕わにしました。そして、大儀のないアフガニスタン侵攻、イラク戦争が起こされてしまったのです。その結果が巡り巡って今のイスラム国です。一人一人はいい人でも、群衆となったとき、あっという間に狂気の集団になる。それは理屈では計り知れない現象ではないでしょうか。


 耳と口が不自由だったこの人が、この後どうなったのかはわかりません。ただこの物語は、イエスのこの後をも示している物語だったのではないかと思いました。無責任な群衆と耳と口が不自由だった人、その構図は、イエスと十字架を前にした群衆との関係を予感していたようにも思えてならないのです。すなわち、イエス殺害を後押しした者たちです。そして、その者の一人にわたしたちも加わってしまう可能性がある。そのことを受けとめなくてはならないと思うのです。権力や体制に媚びない、流されない、属さない。たぶん今後の日本を思うとき、わたしたちが肝に銘じなくてはならないことではないだろうか。今わたしはそう思うのです。


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by buku1054 | 2014-12-14 17:34 | 礼拝メッセージ | Comments(0)