2014年 11月 23日 ( 2 )

葬儀メッセージ

あるときの葬儀メッセージ

今日ここにお集まりの皆さんにとって親しみを覚えておられたAさんが、その生涯を閉じられました。満50歳という若さでした。あまりにも早すぎる死といっていいでしょう。それだけに本人もそしてここにお集まりの皆さんも、無念というか悔しいというか深い嘆きを覚えていらっしゃると思います。

わたしたちは人生において、様々な経験をいたします。良いことも悪いことも、辛いことも悲しいこともあります。それが人生です。若いときは力が漲っています。希望があります。楽しいことが多い。しかし歳を重ね、衰えていきます。わたしもAさんとは同世代でして、50を過ぎた頃からでしょうか、漠然とですが、人生のゴールということを意識するようになってきました。

でもそれは、同時に死を意識することでもありますから、楽しいことではありません。むしろ不安であり、時に恐怖を感じることでもあります。なぜなら、死の先に何が待っているか。わたしたちにはわからないからです。そして、家族や親しい者たちとの関係を断ち切られてしまうからです。悲しいかなわたしたちは、例外なく死を迎えなくてはなりません。

ある日突然、自分でさえ気がつかないうちに一瞬にして命が奪い去られるならいいでしょう。長野県の標語である、ピンピンコロリと死ねたら最高です。しかし、難病であるとか重い病を宣告されたとか、死がヒタヒタと迫ってくる様な状況を迎えたとするならば、それは、相当に辛い心境に立たされるのではないでしょうか。

まさにAさんは、この若さで、それを徹底的に味わったのです。昨年の9月に癌の宣告を受け、余命1年という残酷な報せの中で、その苦しみはいかに凄かったのか。その辛さは同様の体験をした者でなければわからないことです。ほんとうに辛かったのだろうなと思います。ほんとうに恐かったのだろうなと思います。本当に悔しかったのだろうなと思います。

夫やこどもたちを残して逝くことも無念であったでしょう。悔しかったでしょう。わたしはAさんに何の慰めの言葉も掛けてあげられなかったことを悔やみます。何の力にもなってあげられませんでした。

でも今、Aさんは、そっとこの場にいるような気がします。何の根拠もありませんがそんな気がします。天国へと行く前に皆さんにお別れをするために、この場にいるような気がします。ですから、わたしは皆さんだけではなくAさんにも伝えたいのです。大丈夫だよ。何の心配もいらないんだよ。これから天国での新しい人生が始まるのだからと。

先ほど読みました聖書の言葉に、どんなものであっても、わたしたちを神の愛から引き離すことはできないとありました。これは見て確かめた言葉ではありません。信じるという信仰の言葉です。わたしはこの言葉を信じたいのです。皆さんにも信じて欲しいのです。

わたしたちの人生は、この世に命を与えられたはじまりと命を奪われる終わり。このはじまりと終わりの間にあるものです。間であるわたしたちの人生は、先ほど申し上げたように、幸不幸の繰り返しであり、様々なことがあります。多くの他者に支えられつつ、自らの意思や力で人生を切り拓くことができます。でも、誕生と死、これだけは自分ではどうすることもできません。

自分の力や意思で生まれてきた人はただの一人もおりません。また、自死であってもその後をコントロールすることもできないのです。わたしたちのはじまりと終わりは、わたしたちがどう逆立ちしても参与できないものです。何が言いたいかというと、わたしたちに命を与え、命を奪う何ものかがいるということではないでしょうか。

それを宇宙ということもできるかも知れません。自然という人もいるでしょう。グレート・サムシングという呼び方をする人たちもいます。わたしたちは神と呼んでいます。でも、呼び方は何でも良いのです。要は、わたしたちに命を与え、今生の人生での役割が終わったら、呼び戻す何かがわたしたちに関わっているということです。その意味でわたしたちは永遠に孤独ではない。死というものは、単なる通過点にしか過ぎない。わたしはそう信じたいのです。

Aさんの人生は終わりました。あまりにも短い人生でした。しかし、実は終わりではありません。わたしたちには想像できないけれど、イメージできないけれど、これから新たにはじまるのです。わたしたちより先に、それをはじめたに過ぎないのです。きっと、わたしたちが来るのを待っていてくれるはずです。

だから皆さんには、悲しいけれども、辛いけれども、必ずまたAさんと会える。どういう形かはわからないけれど、必ず会える。その希望と期待を持ってもらいたいのです。

どうか残された皆さんが、残された人生をそれぞれ精一杯生きてください。そして、天国でAさんと再会したとき、その人生の報告をしてください。また会えた喜びを分かち合ってください。ですから今日は、ほんとうは、Aさんとのお別れの日ではありません。天国での再会を約束する日なのです。希望に満ちた日なのです。



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by buku1054 | 2014-11-23 18:27 | その他 | Comments(0)

2014年11月9日坂下教会礼拝メッセージ

201411/9礼拝説教「困難な状況で」マルコ64552



今日の箇所も、にわかには理解し難い出来事が描かれています。なんと、イエスが湖の上を歩くという記事なのです。これも聖書の中ではとても有名な箇所です。なんてったって水の上を歩くわけです。重力に逆らっているわけです。現実的には不可能です。ですからここは物議を醸す箇所です。こんなことはあり得ない。だから聖書は信用できない、馬鹿馬鹿しくて相手にする価値もないという立場が生じます。近代以降、科学的な証明がなければ認めないというものの見方からすれば、当然そうなります。

逆にイエスは本当に水の上を歩いたのだ。なぜなら神の子、救い主だから。これを信じないのは信者とは言えないという立場もあるわけです。わたしたちは信者ですから、基本的には聖書を信頼しています。でも、水の上を歩くとなると、自信を持って信じますとはいえないように思います。皆さんはどうでしょうか。

もし、本当にイエスが水の上を歩いたら、わたしならどう思ったか考えてみました。もちろんすごい!とは思ったでしょう。ただし、すごいとは思いますが、そこに何の意味があるのかと思うはずです。インドのヨガのすごい導師になると、空中浮遊する人が確かにいるといわれています。

にわかには信じられませんが、世の中には信じがたい能力を持った人もいるはずです。古代にはもっといたはずです。でも、ああすごいな、でもだからどうなんだという思いを超えられないのではないでしょうか。ましてやそこに、神的存在を読み込み崇めるのは如何なものでしょうか。

この箇所は、イエスが湖の上を歩いたこと、そのことに焦点を当てると、ピントが外れてしまうのではないだろうかと思うのです。これまで述べてきたように、聖書は歴史的事実を伝える書物ではありません。もし歴史的事実を伝えたものであるならば、そもそも説教など必要ありません。そのまま読めばそれで事足ります。

聖書は信仰の書です。ある出来事に相対して、その時人は神からどんなメッセージを見出したかということが表現されたものです。その表現には古代人らしく神話的な表現になるものもあるわけです。ですからわたしたちは神話的な表現の背後にある本質というか感動というかそういうことを見出すことが必要だと思うのです。それが聖書を読むということではないでしょうか。

わたしは湖の上を歩くイエス。神話的表現の可能性が強いと思います。神話的表現をとったというは、現実に生きる人間にとって、理解できない面があったということではないでしょうか。その理解できない部分を神話的に表現するのです。そう考えると最後の部分が理解の助けになると思います。湖の上を歩くイエスを見て、弟子たちは驚き。幽霊だと思うわけです。これは、パンの出来事が理解できず、心が鈍くなっていたからというのです。

パンの出来事とは「5千人の供食」の出来事です。でも、弟子たちがこの出来事を理解できなかったというのは解せないのです。弟子たちは現場にいました。群衆を実際に救済するためにそこにいたのです。しかしそれを理解できなかったというのです。いったい何を理解できなかったというのでしょうか。

パンの出来事とは、イエスが難民のような群衆を見て「腸がちぎれる」思いになり、群衆のために心底尽くしたという出来事です。それが前回のわたしの解釈でした。それはまさにアガペーの愛、無償の愛の行動に他ならないわけです。それを理解できなかったということは、無償の愛を理解できなかったということではないでしょうか。

わたしは弟子たちの気持ちがわかるような気がしました。100%純粋な愛、無償の愛。イエスはその愛を抱き実行できる方だったのでしょう。だから「神」と同一視もされたわけです。しかしそんな愛を、人はそう簡単には抱けません。人は皆、何らかの見返りを期待しながら善意を施す。そういうものです。こんなことをやって何になる。報いがないじゃないか。弟子たちはイエスに命じられるままに奔走しましたが、イエスのアガペーには気がつかなかったのではないでしょうか。このようなイエスと弟子たちとのずれ、それが最後の裏切りとなるのではないでしょうか。

さて問題の部分です。弟子たちはガリラヤ湖の真ん中。逆風に吹かれてなかなか前に進めず難儀していたといいます。そこへイエスが歩いてやって来ます。湖の上を歩くイエスが神話的表現ということであるならば、航行中に難儀した弟子たちとは、彼らの経験した何らかの困難を、この福音書記者はこのような描写で表現しということではないでしょうか。

神様なんかいないと思うことがあります。普通はそれで神を信じなくなるものです。現代の日本人は特にそうでしょう。悪いことがあれば「神も仏もない」とうそぶくこともしばしばあります。また、一度信仰を持っても、問題が解決されなかったり、良いことがなければ、いとも簡単に信仰から離れるものです。神とはわたしたちの思い通りのことを実現してくれる。願いを叶えてくれる。そう考える人がいかに多いかということです。

ハンガリー出身のユダヤ人作家であるエリ・ヴィーゼル、彼は194416歳でアウシュビッツ強制収容所に入れられます。奇跡的に生き延びた彼は、後に「夜」という題の小説を書きます。小説の舞台はアウシュビッツ強制収容所です。ある日発電所が破壊される事件が起こり、その犯人として3人のユダヤ人が見せしめのため公開処刑されることになります。その内の一人は子どもでした。

「ある日、私たちは作業から戻ってきたときに、三羽の黒い烏のごとく、点呼広場に三本の絞首台が立っているのを見た。点呼。縛り上げられた三人の死刑囚―そして彼らの中に、あの幼いピーペル、悲しい目をした天使。何千名もの見物人の前で男の子を絞首刑にするのは些細な仕事ではなかった。収容所長は判決文を読み上げた。すべての目が子どもに注がれていた。彼は血の毛がなく、ほとんど落ち着いており、唇を噛みしめていた。三人の死刑囚は、一緒にそれぞれの椅子にのぼった。『自由万歳』と二人の大人は叫んだ。子どもはというと、黙っていた。『神様はどこだ、どこにおられるのだ。』私の後で誰かがそう尋ねた。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。全収容所内に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。

 二人の大人はもう生きてはいなかった。晴れ上がり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし、三番目の綱はじっとしてはいなかった―子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである。30分あまりというもの、彼は私たちの目の前で臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死との間で闘っていたのである。そして私たちは、彼を真っ向から見つめねばならなかった。彼はまだ生きていた。かれの舌は赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。私の後で、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。『いったい、神はどこにおられるのだ。』

この後、ヴィーゼルは一つの答えを私たちに与えるのです。「そうして、私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。
『どこだって。ここにおられる。―ここに、この絞首刑台に吊るされておられる』。
これが、ヴィーゼルの出した最後の結論でした。

弟子たちはおそらく何らかの困難な状況にあったのでしょう。そして、その渦中では理解することができなかったけれども、後になって、ああ、あのとき、自分たちは神に支えられていた、神の愛に包まれていたという思いに至ったのではないでしょうか。

わたしは思います。神は、わたしたちが困難の中に立たされている、まさにその時、そこにいてくださるのではないかと。つまり、もっともわたしたちが神を感じられないときです。自分の願いが叶わず、思い通りに行かず、苦しさや辛さばかりが覆い被さってくるそのときです。そのときこそ神がもっとも近くにいるときです。これは理屈ではないのです。

神はわたしたちを支えている。もちろんそれは認識できないけれども、神はわたしたちを支えている。見守っている。無償の愛をもって包んでいる。それがこの箇所で表現されたこと、すなわち、湖の上を歩いてまで側に来てくださったイエスという記事が伝えようとした意味ではないでしょうか。最後にボンヘッファーの言葉を紹介して結びにしたいと思います。

「われわれが挫折する、その時こそ、神は信じがたいほど近くにいます神であり、絶対に遠くに離れたもう時ではない」


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by buku1054 | 2014-11-23 16:44 | 礼拝メッセージ | Comments(0)