2014年 11月 20日 ( 5 )

主の祈りについて

主の祈り
主の祈りとは、イエスが人々に対して、祈るときにはこのように祈りなさいと教えられた祈りです。聖書では、マタイによる福音書6章10~13節、ルカによる福音書11章2~4節にあります。内容は若干違います。教会で祈る言葉は、両方を参考にしてまとめたものです。「主」とは、わたしたちを導くご主人様ということで、キリスト者は基本的には「神」ですが、ここでは、キリスト者が救い主と信じるイエスのことです。

天にまします我らの父よ
「天におられるわたしたちの父よ」ということです。「父」は「神」を意味します。古代ユダヤ人は、神を家族を守る父のような強くて優しいイメージを持っていたのです。「天」は空や宇宙ではありません。神は未知なる存在です。古代人にとって「天」は未知なる世界でした。だから神は「天」にいるということなのです。ただし居場所がはっきりしなくても、神が確かにいてくださるという信仰が前提となっています。「神様~!」という呼びかけです。

願わくは御名を崇めさせたまえ
「御名が崇められますように」ということです。御名とは神の名前ですが、本当のこといえば、見ることも、触ることもできない神の名前などわかるわけがありません。ただ、古代社会は「名前」とはその人のすべてを意味すると捉えられていました。ですから、神のすべてということです。崇められるというのは、絶大な信頼を得るということです。したがって、神のすべてが絶大な信頼を得られるようにという願いです。

御国を来たらせたまえ
御国とは「神の国」です。イエスがもっとも大切にしたことでした。神の国とは厳密には「神の支配」です。この世界は神が支配しているということです。聖書信仰の根本は、「神は愛」ということです。したがって、神は愛をもってこの世界を支配しているということです。もっというと、この世界にあるすべのものは尊いものだということが神の支配の中身です。世界は古来より現代にいたるまで戦争が絶えず、差別、飢餓、貧困、環境破壊などが終わりません。ですから、すべてのものは尊いという考えに立った世界、つまり平和な世界が来てくださいという願いです。

御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ
「御心」とは神の心です。神は愛という理解ですから、神の心も「愛」です。神がいるところでは愛が満ちあふれているわけで、つまり平和ということですが、わたしたちが生きるこの世界は平和とはいえません。そこで、この世界にも平和をもたらしてくださいという願いです。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
「日用の糧」とは、生きるために必要な食料ということです。それを今日も与えてくださいということです。食料は自分でつくる人、お店で買う人、様々ですが、太陽の光や水や土や肥料や微生物など様々な存在の助けがなくては得られません。つまり、食べることはとってもありがたいことなのです。だから心から感謝しよう!ということです。それと、「我らの」なのです。自分だけが食べられたらそれでいいのではありません。この世界に生きるすべてのものが食べられるようにという願いです。貧困のため餓死していく人たちを助けてくださいという祈りでもあるのです。

我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ
実際の順番は、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちに罪をおかした人を赦します」です。聖書で言う「罪」とはニュースにあるような犯罪ではありません。元々の意味は「的外れ」です。どういうことかというと、自分の力だけで生きているという傲慢です。この世界で自分の力だけで生きている者などただの一人もいません。親をはじめとした先祖がいなくては生まれていません。空気、水、太陽、大地、他人、ともかく他の存在無くして一瞬も生きられません。そういう事実であるにもかかわらず、少しも感謝せず、自分の努力、能力だけで生きているという思い上がった心が「罪」です。そんな的外れな思いで生きているわたしを赦してくださいということです。で、自分も傲慢なのだから、自分のことは棚に上げて、他人の傲慢を非難するのはおかしいではないですか?大目に見てあげましょう。

我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ
「試み」とは「誘惑」です。聖書では誘惑が「悪」なのです。様々な誘惑があります。たとえば「お酒」が好きな人は、お酒が誘惑です。適度に飲むならいいのですが、意志の弱いわたしたちは、ついついもう少しということで過剰に飲んでしまいます。そのために、自分の体を壊し、家族や他人に不快な思いを与えてしまうことになります。そのような悪い状態から抜け出せるように助けてくださいという願いです。つまり、わたしたちは誘惑に弱い存在なんだということを認める素直な自分でありなさいという意味もあるのです。だから神の助けが必要だということです。

国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり
実はこの部分は聖書にありません。ここはイエスが死んで教会が成立した後に付け加えられたものです。国、力、栄えとは、現実の政治経済によって成り立つ世界を意味しています。人間の本性は「傲慢」です。自分だけが幸せになればいい。他人が不幸になっても構わないということです。ですから、現実の世界で行われる政治経済も、神の愛に基づく、すべてのものが幸せであるようなあり方であるようにという願いです。
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by buku1054 | 2014-11-20 18:54 | その他 | Comments(0)

クリスマス礼拝

坂下教会クリスマス礼拝2014

日時;12月24日(水)19時~

場所;坂下教会

内容;礼拝、祝会(ケーキなどを食べながら楽しく過ごせます)



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by buku1054 | 2014-11-20 17:48 | お知らせ | Comments(0)

坂下教会案内

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礼拝 毎日曜日 10時30分から(約45分) 礼拝後ティータイム(お昼頃まで)

祈祷会 毎月はじめの日 9時30分

婦人会 毎月第二金曜日 13時30分
              ※どの集会も、どなたでも参加できます。

509-9232
岐阜県中津川市坂下856
0573-75-4673
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牧師 木下忠司
連絡先 0573-74-2651
 携帯 090-4407-6985

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by buku1054 | 2014-11-20 13:13 | 全体 | Comments(0)

2014年11月2日坂下教会礼拝メッセージ

201411/2礼拝説教「真理」ローマ11:3336
                  

今日、11月第一主日は、わたしたちプロテスタント教会の暦で「聖徒の日」です。「聖徒」とは聖なる信徒と書きます。すでに天に召された信仰者ということです。この人たち記念する日です。

今日の説教題を「真理」としました。真理の定義は、いつの時代でも、どこでも、誰にとっても、変わらないほんとうのことです。ちなみに新約聖書の原語であるギリシア語では、真理はアレーテイヤといいます。本来の意味は「忘れてはならない」です。いつでもどこでも誰にとっても忘れてはならない、ほんとうに大切なこと、それが真理なのです。で、なぜ、召天者記念のときに真理なのかですが、それをこれからお話しします。

ここ数年、わたしは「臨死体験」についての本を何冊も読んできました。臨死体験というのは、一度、心肺停止や脳死によって昏睡状態になった人が、蘇生して、死後の世界の体験したことをはっきりと認識したということです。

これは全世界にたいへんな数の経験者がいます。そこには共通することがあると言われています。トンネルのような暗闇を通って、光り輝く素晴らしい至福の世界に行った、過去に亡くなった家族、友人、知人などに会えたといったものです。しかし一昔前までは、というか今でも、臨死体験は眉唾物で、夢や幻想、馬鹿馬鹿しいと思われていました。

とりわけ医学の分野では、臨死体験は死の直前に脳から放出される「エンドルフィン」という物質によるものと分析されています。この「エンドルフィン」は、死の痛みを和らげる効果があるのですが、大量に分泌されると、緩和を通り越して快楽を与えるのです。つまり、麻薬のような働きをして、幻覚を見るのと同じような状態になるというのです。ですから臨死体験も、この脳内麻薬「エンドルフィン」による幻覚だと思われていました。


 しかし、徐々にこうした常識が覆されています。日本では、医学界の最高権威ともいうべき東京大学付属病院救急部、集中治療室部長の矢作直樹医師が『人は死なない』という著書を数年前発表しました。矢作先生は何千人という臨終の人を見てきたこと、またご自身、登山中に不思議な体験をしたこと、さらには亡くなった母親と確かに交信できたことを通して、われわれは死んでも終わらない。次元が違うところで生きるということを確信したと述べています。


 脳神経外科の世界的権威、アメリカのエベン・アレグサンダー医師は、「死後の世界など絶対ない。臨死体験は脳内麻薬エンドルフィンによる幻覚によるものだ」と強く主張してきた人でした。しかし彼は54歳の時、「細菌性髄膜炎」で心肺停止、昏睡状態に陥ります。その間に見た臨死体験は、今までの脳科学の常識を一変させるものでした。なぜなら、彼が臨死体験をしたとき、彼の脳機能は止まっていたからです。エンドルフィンは放出されていなかったわけです。ですから「死後の世界はある」とアレグサンダー医師は認めざるを得なかったのです。

もっともキリスト教は、死後の世界があることを2000年以上前からずっと伝え続けてきたのです。その意味では、2000年経って、ようやく科学が宗教を認めはじめたといえるのかも知れません。

さて、今日の聖書の言葉について考えてみたいと思います。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。パウロの言葉です。わたしたち信仰者の究極的な告白と言っていいでしょう。この言葉に確信を持てたら恐いものはなくなると思います。

すべてのものは神から出るというのです。生まれるではありません。些細なことかも知れませんが重要なことではないでしょうか。たとえばあなたの誕生日はいつですか?そう聞かれたら皆さんはどう答えますか。そんなの決っているじゃないか、母親の胎から出てきた日だ。それが誕生日、命が生まれた日だ。そう答えるはずです。

しかしそれは、命が生まれた日とは言えません。だって、いのちはお母さんの胎の中にいるときからあります。では、母親の胎の中に宿るとき、つまり、受精卵が子宮に着床したときが命のはじまりでしょうか。それも違います。両親の精子と卵子にも命はあるのです。

そう考えると、命にははじまりはないということがわかります。ずっとつながっているのです。ですから、「生まれる」。つまり無から有ではなく、つながりの中から出た。顕れた。ということではないでしょうか。で、それをずっと太古の昔まで遡っていくと、科学的には「ビッグ・バン」になるのです。でも、ビッグ・バンのさらにその先を考えると、どうしても「神」と呼ぶしかない存在へ行き着くのではないでしょうか。

次に、「神によって保たれ」とはどういうことでしょうか。これはおそらく、わたしたちは自己完結的な存在ではない。つまり100%自分で何でもできる存在ではないことを示していると思うのです。考えてもみてください。100%自らの力で自らの命を維持できる人は果たしているでしょうか。空気も水も全部自分で造り出す。食べ物を得るにしても、一切、土や太陽や水の世話にならず造り出せる人がいるでしょうか。いるわけがありません。自分の力だけでは一瞬たりとも生きられないのです。他の存在が必要不可欠なのです。だから、自己完結的ではないわけです。

これは、まさに仏教の根本である縁起という教えに相当します。すべてのものは、縁によって起こる。つまり関係によってあるということです。自分だけでは存在できないということです。仏教ではここまでですが、その先があると思います。つまり、縁起の源があるはずです。それは、すべてのものは、すべてでない何かとの関係によって顕れたと言えるはずです。その何かが「神」です。もっとも便宜上神と呼ぶしかないものです。

わたしたちは教えられてきました。というか刷り込まれてきました。この世に生まれたわたしたちは、死に向かって生きる。死んだら無になる。死んだら終わり。今でもこれが常識です。ほんとうにそうでしょうか。

神と呼ぶ大いなる源から連綿とつながってきたのが命です。つまり命には生まれるということがないのです。生まれるではなく、その時々の縁によって、関係によって出てきた。顕れたということのようです。そして、個別の命はいつかやがて姿が消えてなくなります。わたしたちが捉えている「死」です。でも、そこで終わるのでしょうか。命のつながりは断絶するのでしょうか。

わたしたちが以前飼っていた愛犬の遺体は自宅のの庭に埋めました。今そこからはたくさんの草花が咲いています。愛犬の遺体の成分が養分となって草花を咲かせているわけです。草花に愛犬の命が宿っているのです。愛犬と草花を分離することはできません。やはり命はつながっているのです。終わってはいないのです。

仏教でもっともポピュラーなお経、般若心経に「不生不滅」という言葉があります。「この世のすべてのものは、生まれることもなく、死ぬこともない」ということです。これって、神から出て神に向かうという今日のパウロの言葉と本質的に同じことを述べているのではないでしょうか。

わたしたちの次元というかわたしたちの思考というか、そこからすれば、生まれる、死ぬというようにしか捉えられないことが、別の次元からすれば、生まれもしなければ、死ぬこともない。キリスト教的にいえば、神から出る。神に向かう。神に戻る。神に帰るのだということではないでしょうか。

わたしは、あの世とか天国と呼ばれるところがあることを信じます。死んだら終わり、無になるとは思いません。新たなはじまりがあると思っています。そうでなければ信仰者の名折れです。というか信仰者をやっている意味がありません。もちろん100%信じているとは言えません。わたしたちは不完全だからです。どれだけ信じているか、数字的なことはどうでもよいのです。そう信じよう、そう信じたい。その気持ちを大切に育んで守ってゆければそれでいいのです。

まとめます。わたしたちは、誰もが例外なく神とつながって個別の存在として存在させられ、様々な他者と、その背後にある神によって存在を維持され、わたしたちの源である神に向かって歩んでいるといえます。この恵みを感謝して、折角与えられた人生という機会を味わい尽くす。そうでないともったいないと思うのです。で、生き抜いたら神のもとへ帰って行きましょう。というか、神から召されるのです。その時が来たら、わたしたちは、その働きにすべてお任せしていればいいのです。恐いことは何もないのです。


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by buku1054 | 2014-11-20 12:17 | 礼拝メッセージ | Comments(0)

2014年11月23日坂下教会礼拝メッセージ

2014年11月23日礼拝説教「救われた」マルコ6:53~56
                        
 今日もマルコによる福音書を通して、わたしたちに必要な福音のメッセージを聴きたいと思います。前回は湖の上を歩くイエスという物語について考えました。この後、イエスの一行はガリラヤ湖を渡り、ゲネサレトという土地に着きました。そこで起きた話です。6章の最後の物語です。

ここはガリラヤ湖の北西に位置する地域で、肥沃な土地で気候も温暖だったということです。したがって農産物も豊富だったでしょうし暮らしやすい地域だったと思うのです。
しかしこんな良い場所を、ローマ帝国の商人たちが放っておくわけがりません。おそらくローマの商人たちは、この地域の農民たちと不当な交渉をして利益を奪い取っていたのではないでしょうか。ですからこの地域の農民たちもまた貧しく生活に困窮していたと思うのです。

 イエスの一行が上陸すると、すぐに人々はイエスだと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運びはじめた。また、村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせて欲しいと願ったというのです。そして触れた者は皆癒されたというのです。

 救済者としてのイエスの評判がいかに大きかったことを思います。服のすそに触れさえすればというのは、おそらく「長血を患った女性」のことが知れ渡っていたのではないかと思います。

 さて、今日の説教題を「救われた」としました。これは、一番最後の言葉「触れた者は皆癒された」からとりました。新共同訳で「癒された」とあるのは、原文では「救われた」なのです。癒されたでも救われたでも同じことではないかと思う方もいるかも知れませんが、この違いを見過ごしてはならないと思ったのです。癒されただと、あくまでも個人的な事柄です。しかし救われただと、もっと拡がりのある意味になるのではないでしょうか。

 救われる。救い。キリスト教に限らず、宗教最大のテーマです。救いを語らない宗教はありません。わたしたちも宗教に求めるのは「救い」です。では、救いとは何でしょうか。病気が治ることでしょうか、問題が解決されることでしょうか、死後のいのちが保障されることでしょうか、立派な人格者になれることでしょうか、常に平安な心にいられることでしょうか。いろいろあると思います。そしてそのどれもが救われることでしょう。しかし、聖書が語る救いとは今あげたような事柄に留まるのでしょうか。

 まえにもご紹介したのですが、『なぜわたしだけが苦しむのか』という本があります。この本はアメリカのユダヤ教のラビ、ユダヤ教の聖職者ですが、ハロルド・クシュナーという方が書いたものです。クシュナーさんは、14歳の息子を、早く年をとってしまうという世にも珍しい難病で亡くしたというたいへんな不幸を経験された方です。

 クシュナーさんはその苦しみと悲しみの体験から、「なぜわたしたちだけがこんな苦しみに遭わなくてはならないのか?」という不条理を自らに問い続け、そこから、神とは何か、人生とは何か、苦悩とは何かといった思索をするのです。その結果、彼が到達したことを詳細に記しました。それがこの本です。これは1980年にアメリカで出版されると、たちまちベストセラーとなり、現在14カ国で翻訳されている名著です。この中でクシュナーさんが、ある若い未亡人に対してアドヴァイスした件が印象に残りましたので、ご紹介したいと思います。

 「彼女の夫は癌でなくなりました。夫が末期の状態であったあいだじゅう、彼女は夫の回復を祈り続けたそうです。彼女の両親も、夫の両親も、そして近所の人たちも、みんな祈りを捧げたのです。近所に住むプロテスタントの友人も教会の祈祷会で祈り、カトリックの友人も、絶望的な状態にある者のために守護聖人である聖ユダの執り成しを求めたのです。ありとあらゆる言葉や形式の祈りが動員されましたが、どれ一つとして聞き入れられなかったのです。彼女の夫は予告通りに、妻と幼い子どもたちを残して死んでしまいました。すべてが終わってから、彼女はわたしに、どうして祈りを真面目に信じることができますか、と言いました。

 祈りが応えられなかったのはほんとうですか、とわたしは彼女にたずねました。ご主人は亡くなりましたし、奇跡的な治癒も起こりませんでした。でも、何が起こったのでしょう?あなたの友だちや身内の人たちが祈りました。ユダヤ教の人たちも、カトリックの人たちも、プロテスタントの人たちも祈ったのです。孤独の極みに立たされたその時に、あなたは一人きりではないことを知ったではありませんか。あなたは、多くの人があなたのために心痛め、あなたと共に傷ついたことを知ったのです。

 ……あなたの祈りはどうだったでしょう、とわたしはたずねました。応答がなかったのですか?あなたは精神的に今にも崩れそうな状況に直面していましたし、意地悪で世間を信じない女性になっていたとしても不思議ではありません。夫婦揃って元気なまわりの家庭に嫉妬し、生きていくことさえできなくなっていたかも知れません。ところが、そういう状態にはなりませんでした。もちこたえる力をあなたは見出したのです。もう一度立ち上がって生きていく力と、まわりの物事に心を配る力を取り戻したのです」。

 この件を読みまして、わたしは「救い」について考えさせられました。この若い未亡人のために、これだけ多くの様々な立場の人たちが、その主義主張や宗教的立場を超えて、サポートし、共に悲しみを担っていたこと。また、幼い子どもと共に残されたこの若い未亡人が、多くの人たちに支えられ、もう一度生きていこうと立ち直っていく。こうした姿。こうした一連の出来事。もしかしたら、これこそが「救い」というのではないかと思ったのです。

 今日の箇所の前にある二つの物語は、今にも倒れそうな難民たちを目の当たりにしたイエスが腸がちぎれるような思いに駆られたという話と困難な状況にあるときこそ神がもっとも近くにいてくださるときだということを示しているのではないかということでした。おそらくこの福音書記者マルコは、この6章で、神とはどのような方なのかということを示そうとしたのではないかと思うのです。


 すなわち神とは、わたしたちを無償の愛で包み込んでいる。特にわたしたちが困難にあるとき、その愛がもっとも強くなるときだということです。もちろん神は直接わたしたちを手助けすることはできません。でも、神の無償の愛は、必ずこの世に存在する具体的な何かによって伝わり、示されるのではないでしょうか。

 そしてそのことに気がついた者、悟った者は、今度は自らが他者のために愛の働きに勤しむことになるのではないでしょうか。この6章の最後の物語は、そんな人たちの物語を描いたのではないでしょうか。

 ゲネサレト、おそらくかつては肥沃な土地ゆえ、人々は豊かに平和に暮らしていたはずです。しかしローマ帝国の支配の時代になって平和は脅かされ、人々は貧しくなりました。一家の大黒柱は出稼ぎに出ざるを得ず、家族は困窮し、餓死者や病人が続出するような状況だったに違いありません。

 そんな中で彼らはイエスと出会ったのです。彼らはそこでイエスという方の言葉と行い、その人柄を通して、神を感じたのではないでしょうか。イエスが説く神の支配とはこういうことだったのかということに気がついたのではないでしょうか。

 そして彼らは、神の愛に押し出され、他者のためにという姿勢に変えられていったのではないかと思うのです。その地方にうずくまっていた病人や障がい者たちを捜すために走り回った人々、見つけたらイエスの元へと運ぶ人々、彼らの姿はまさに他者のために生きようとする者の姿です。そしてそれこそが、救われた者の真の姿ではないでしょうか。


 最後に、長らく教団の牧師として務められた村上 伸先生の言葉をもって結びにしたいと思います。

「聖書で言う救いとは、自分だけの願いを叶えられて幸せになるということではなく、神によって赦され、和解を受け、新たな力と希望を与えられて、この世の中で他者と愛し合って共に生きていけるように変えられるということです」。



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by buku1054 | 2014-11-20 11:32 | 礼拝メッセージ | Comments(0)