2015年7月26日坂下教会礼拝メッセージ

2015年7/26礼拝説教「人は皆、誰もが祈りの家」マルコ11;15~19

 今朝は、昨年から継続して読み進んでいますマルコによる福音書に戻ります。辺境の地ガリラヤで人々の救済活動をしていたイエスと弟子たち、また、その支持者たち。彼らの一行は、ユダヤの政治、経済、文化、生活、宗教の中心地であったエルサレムへとやって来ました。

 今日の前の箇所、11節に「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った」とあります。イエスがエルサレムで真っ先に向かった場所が、神殿だったのです。イエスは神殿の様子を見回しながら、いったい何を思ったのでしょうか。それが、12節以下の段落「いちじくの木を呪う」と題がついたところ、前回学んだことです。それは、人々を搾取し差別しているにもかかわらず、自らを神の正義の側に立つものと自負していた神殿体制、それがユダヤ教の根幹であったわけですが、その欺瞞に対するイエスの厳しい批判でありました。

 さらに言えば、社会から理不尽に小さくされ、弱くされたベタニアの人々を支援したイエスでした。そのことは「イエス飢え給う」、新共同訳では「イエスは空腹を覚えられた」という小さな言葉に示されていることも学びました。イエスは再びエルサレムへと向かいます。行き先は決めていました。否、そこにしか行かないとでもいうような覚悟があった。そう感じます。イエスはきっと、ベタニア村で底辺を這いつくばってしか生きられない人々の悲しく辛い思いを背負いながら、今日ここで、自らの将来が決まるかも知れない。そんな覚悟をもって、再び神殿境内へとやって来た。そう思うのです。


 四つの福音書すべてに記録されたこの出来事、それゆえイエスを語る上で避けて通れないこの出来事を、わたしたちは今日読み進みます。この出来事こそ、イエスが殺害されるその根拠となったことなのです。18節にそのことが確りと記されているのです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」。ユダヤの権力の中心であったこの人たちは、何故イエスを殺そうとしたのでしょうか。何故そんなにもイエスを憎んだのでしょうか。そのことをご一緒に考えてみたいと思うのです。


 「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された」。

 神の子、救い主と信じられ、愛と平和を求める方といわれたイエスには、ここで記された行動は似つかわしくないものです。人を傷つけてはいませんが、明らかに暴力行為です。台をひっくり返された商人たちやそこにいた参拝者たちはさぞ驚いたはずです。突然、気が狂った男が飛び込んできたといった感じでしょうか。いったいこいつは何者だ。そんな空気が辺りを覆った。そんな印象を受けます。イエスは何故このような行動に及んだのでしょうか。

 「売り買いをしていた人々」とは、神殿で祭司が執行する罪の赦しの儀式に必要な生け贄となる、動物や植物を売っていた商人、そしてそれを購入する参拝者です。神殿において罪の赦しを受けることは、当時のユダヤ人にとって最も大切なことです。神の掟である「律法」これを守ることで神の救いと祝福が与えられる。逆にいえば、守れない者は罪人で永遠の呪いに落とされる。そう信じることが当然の社会でした。


 律法の規定を完全に守れる者などいません。なにしろ全部で613もの規定があったというのですから当然です。ですから人々は、律法違反の罪を赦してもらうため、生け贄を献げることで罪赦されるという儀式に参加せざるを得なかったのです。このような文化とは無縁のわたしたちからすれば、滑稽に映るでしょうが、この文化の渦中にいる者にしてみたら、何の疑問も起こらないわけです。しかし、だからこそ、そこに歪みが生じるのです。

 生け贄とされるのは、牛や羊といった動物が主ですが、植物もありました。今日の箇所では「鳩」が記されていますが、鳩は、牛とか羊などが買えない貧しい者たちの代用として許されたものでした。そもそも参拝者自らが生け贄を用意してこなかったのかという疑問もあるでしょう。そこなのです。生け贄の儀式に用いられる動植物は、完全な状態でなくてはならないという定めがありました。どんなに小さな傷すら許されなかったのです。

 参拝者が自ら生け贄を用意しても、祭司は何かと難癖を付け追い返します。そこから神殿体制が契約した業者が売る生け贄のみが許可されるというシステムになっていったのです。神殿側は、手数料を取る。業者はここで利益の安定を確保できるというわけです。参拝者にとってはたまりません。おそらく世間の相場以上の金額を支払わなくてはならなかったと思います。鳩しか買えない貧しい者からも搾取する。ここに神殿体制の歪みがあったわけです。

 また、両替人とは、売り買いに用いられる貨幣は、古代のユダヤの貨幣のみという定めでした。ですから参拝者は、生け贄を購入する際に、先ず普段用いている貨幣を両替する必要があったわけです。おそらくここにも神殿と両替商との癒着があったと思われます。

 イエスはこうした神殿側の理不尽さに怒りを覚え、商売人たちの台や腰掛けをひっくり返したということなのです。これが「宮清め」と呼ばれるこの箇所の意味なのだ。そう読まれてきました。たぶん多くの者は、今もこのように読むのではないでしょうか。わたしもずっとそう思ってきました。

 しかし、改めてここを読んでみて気がついたことがあります。それは、イエスが追い出したのは、神殿側と契約を結んでいた商人たちだけではないということです。イエスの怒りの矛先は、罪を赦してもらうために神殿に赴いた参拝者たちにも向けられていたのです。そう考えると、これは「宮清め」というよりも、むしろ「宮壊し」と言った方が良いのではないかと思うのです。神殿という存在そのものへの否ということです。

 今日の説教題を「人は皆、誰もが祈りの家」と付けてみました。これは、17節のイエスの言葉から導かれたものです。イエスはイザヤ書の言葉を用いて、ここで一つのメッセージを語ったのです。そしてこのことこそが、イエスが殺される理由になったのではないか。わたしはそう思いました。暴力行為もユダヤ当局を怒らせたでしょうが、それ以上にイエスが語ったこの言葉が問題だったと思うのです。

 イエスは言います。「わたしの家は、すべての国の人々の祈りの家と呼ばれるべきである」。「わたしの家」とは何のことでしょうか。ルカ福音書によれば、イエスは12歳の時、両親と一緒に神殿参拝に行きました。そこで迷子になります。両親が必死に捜索した結果、イエスは神殿にいました。その際イエスは両親に向かって「わたしが自分の父の家にいるのはあたりまえだということを、知らなかったのですか」と述べるのです。ですから、「わたしの家」とは「神殿」です。

 神殿は、すべての人の祈りの家と呼ばれるべきである。イエスはここでそう告げるのです。どういうことなのでしょうか。この意味を解きほぐすヒントとなる言葉をパウロが述べています。第一コリントの3章に次のような言葉があります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」。わたしたちすべての人間は、神殿であり、神の働きがわたしたちの中にあるというのです。つまり、人間とは、神の神殿。神が働かれているの場所なのだということです。その証はいったい何か。それは祈りである。これがイエスが伝えたかったことではないでしょうか。

 わたしの好きな音楽家、山下達郎の歌で「MY MORNING PRAYER」という作品があります。訳すと「わたしの朝の祈り」となるのでしょうか。この歌は元々某テレビ局、朝の情報番組のオープニングソングとして作られたものです。しかし完成後すぐ、東日本大震災が起きました。山下達郎は、直ぐに作り替えることを申し出たといいます。作り直された歌詩の内容の一部を紹介します。

「夜明けが瞬いている/あなたを照らすために/ 小さな想いがある/あなたに届けるために/ 今日という日が/昨日より/少しだけ優しく/あなたを包んでくれることを祈って/これがわたしの祈り/わたしの朝の祈り 

溢れるその悲しみ/僕には消せないけど/せめてこのメロディー/あなたを励ませたら/ ひとときでも/耳を澄ませ/心を委ねたら/微かな希望の音を聴いておくれ/これがわたしの祈り/わたしの朝の祈り」

 山下達郎は、東日本大地震の被災者、家族を失った者、故郷を失った者、そうした者たちに、音楽という自分ができる手段を通して励まし、慰めようとしました。それがこの作品です。作り直されたこの歌を聴いた番組のスタッフは、全員涙を流したといいます。山下達郎が作ったこの歌は、彼の祈りです。被災者たちに向けられた祈りです。他者の悲しみや苦しみに向けられた祈りです。わたしたちも、悲しむ誰かのために、辛い思いにいる誰かのために祈りを献げます。その祈りを献げるそのことこそが、わたしたちが神殿であることの証、神がわたしたちの中で働かれていることの証、もっというならば、神とわたしたちとが結ばれていることの証ではないでしょうか。

 神殿に赴き、定められた儀式を敢行する。そうではくては、神との断絶を解くことはできない。神の祝福と恵みをいただけない。そうした信仰の理解が当然であったこの当時、イエスはその神殿にやって来て、わたしたちは誰もが皆、他者のために祈りを献げられる。それゆえに神と結ばれた存在だ。神殿だ。そう言いきったのです。

 まさに宮壊しです。神殿体制そのものを、ユダヤ教の根幹そのものを否定したのです、この言葉。これがイエスの運命を決定づけてしまったのです。人は皆、誰もが祈りの家。わたしたちが誰かのためにしてあげられる最低限の行為である「祈り」。誰かを直接助けることはできないけれど、そこで献げられる祈りが、祈る対象に伝わるかも知れない。祈りの力が、具体的な何かを引き起こすかも知れない。

 祈りは、わたしと誰かを結ぶことに他ならない、それゆえ、祈ること事態、神とわたしたちとが結ばれていうことの証ではないだろうか。なぜなら、イエスは、神を愛することは、同時に人を愛することだと述べているからです。今日の箇所、イエスがそう伝えたであろうこのメッセージを心に留めて、また新たな週の旅路をはじめたいと思います。


[PR]
by buku1054 | 2015-07-27 16:23 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
<< 人生は短い 円空 >>