2015年4月26日坂下教会礼拝メッセージ

2015年4/26礼拝説教「救い」マルコ10;17~31

 今日も引き続き、マルコによる福音書を読んで行きます。ところでわたしの神学校での卒業論文は、「救済論」でした。つまり「救い」とはいったい何かということをテーマとしたのです。その論考を進める上で、わたしは滝沢克己という神学者を手懸かりとして進めました。

 滝沢克己という人は、1960年代から70年代にかけて活躍された方です。でも、その考え方が正統的なキリスト教からすると外れていたため、その当時はもちろん、今でも大きな支持を受けてはいません。

 滝沢が訴えたことの根本は、インマヌエル。神われらと共にいますということです。これが私たちの人生を支える根源だと説いたのです。とてもシンプルなのです。聖書に基づいています。さらに、滝沢が伝えたことは、神と私たちとの関係は、不可同(同じではない)・不可分(分けられない)・不可逆(逆にできない)と説いたのです。

 さらに詳しくいいますと、「不可同」というのは、神と私たちは同じではないということです。これまでの歴史では、神と人とが同じという事例があまたありました。古代では、王様は神でした。戦前戦中の日本でも、天皇が「現人神」すなわち神でした。このように、この世のある存在を神とすることは誤りであり、世の中を悪い方向に誘ってしまう可能性があるという意味で「不可同」なのです。神と私たち被造物とは、絶対に同じではないということなのです。

 次に「不可分」です。これは、神と私たちとは分けることができないということです。私たちの通常の理解は、神と私たちとが断絶している。神様というのはどこか遠くに存在しているとイメージします。しかし、神と私たちとは絶対に離れていない。私たちを常にもっとも身近で支えているというか寄り添っている。それが「不可分」です。まさに「神われらと共にいます」なんです。


 最後に「不可逆」です。これは、私たちから神へ到達することはできないということです。救いにしても、恵みや祝福にしても、私たちの努力や身分など、私たちが持っている要素に根拠があるのではなく、神から一方的に与えられるということでなのす。したがって、修行を極めれば悟りにいたる、つまり人間の努力や能力、資質を重んじる考え方は否定されます。

 今述べた事ついては正統的キリスト教が伝えてきたことと何ら変わりません。しかし滝沢は、これに留まらなかったのです。それは、イエスにおいてこのことが顕わになったという正統的キリスト教に対して、イエスでなくてもインマヌエルは顕わにされたのだと説くのです。

 たとえば、仏教の開祖である仏陀においてもインマヌエルが顕わにされたと説くのです。これが正統派からすると受け入れられないのです。なぜなら、キリスト教だけが絶対に正しい宗教とは言えなくなるからです。もっともこのことは今後も結論が出ることはないと思います。要は、インマヌエルはイエスにおいてのみ顕わになったのか。それとも他の場合もあるのか。どちらかを信じるしかありません。信じるということは、基本的に私たち人間の行為です。したがって絶対ではありません。その意味でどちらが正しくてどちらが間違いだとは言えないのです。


 さて、今日の箇所を読み進んで行きたいと思います。イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、跪いて尋ねたとあります。この人はどんな人かといえば、小見出しにあるように「お金持ちの青年」でした。平行箇所のルカによる福音書では、ユダヤの議員となっています。つまりこの人は裕福で優れた人です。当時のエリートです。世間的には欠けたところがない人です。


 でもこのような恵まれた人がイエスに尋ねるのです。それもわざわざ跪いてというのですから、余程のことです。その願いとは、永遠の命を得るには何をすればいいのでしょうか?ということだったのです。

 永遠の命とは何でしょうか?私たちは通常、永遠の命と言ったら、いつまでも生きられること。すなわち、肉体の死をもってしても終わらないと理解します。それは、死を克服するわけですからありがたい理解です。ただし聖書では、永遠の命とは時間的な概念ではありません。未来永劫いつまでも生きるということではないのです。命と訳されている言葉は「ゾーエー」といいます。これは質的な命、本質的な命ということです。いつの世にも変わらない命だということです。生き生きとした輝いている状態ともいえます。もう少しいえば、今ここで、この瞬間に、神の思いに生きるということです。ただしここでは、永遠の命自体が主題ではありません。ともかくどう解釈しようが、人が望む最高のものと捉えていいのではないでしょうか。

 イエスはこの青年に対して、律法の掟を告げます。永遠の命を得たいのなら、律法の掟を守ればいいじゃないかというのです。ユダヤ教の教えに基づいて答えています。

 すると青年は言います。そんなことは子どもの頃から既に行っていますと。この人は完璧なのです。ユダヤ教において模範的な人なのです。すると、イエスは、こんなことを言います。財産を売り払って貧しい人たちに施せと勧めるのです。何もかも棄てよというのです。すると、彼は彼は悲しみながら立ち去るのです。たくさんの財産を持っていたからだというのです。そんなことできるわけがないということです。


 皆さんはどう思うでしょうか。彼はこれまで一生懸命頑張って今の立場を築いたのです。その御陰でかなりの財産も持てたのです。そんな人に向かって、これまで築きあげてきた財産をすべて施せというのです。一文無しになれというのです。私だったら、やはりこの青年と同じく、そんなことはできないと立ち去ると思います。それが常識的な思いではないでしょうか。

 私はここで孔子の言葉を思いました。「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(みみした)がう。七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず」。

 現代語にします。私は十五歳で学問を志した。そして三十歳で一本立ちした。四十歳であれこれと迷うことがなくなり、五十歳になると天が命じたこの世での役割と自らの限界を知った。そして六十歳になったときには、人の言葉を素直に聞けるようになった。七十歳になると、自分の思い通りにふるまっても道に外れることはなくなったということです。

 今日のこの青年が幾つなのかはわかりませんが、孔子の言葉から言うと、四十代から六十の代の間を彷徨っています。一番最高のものを得たい。そのためにはどうしたらよいのだろうか。まさに迷っています。この世での自分の役割、それもわかっていません。そしてイエスの言葉も素直に聴いていません。

 孔子の言葉からいえば、この人は悟っていません。では、我が身を振り返るとどうでしょうか。この人を笑えるでしょうか。愚かな奴だと言えるのでしょうか。言えません。これが私たちのほんとうの姿ではないでしょうか。ここにいる私たちは、信仰に生きています。ほとんど毎週礼拝にも参加します。しかし、だからといって信仰の確信があるといえるのでしょうか。信仰者として相応しい言動を行っているでしょうか。自信はありません。その意味で、この青年のように迷いつつ不確かに生きていると思います。


 私たちは、幾つになっても、孔子の言葉にあるような理想通りには行かないものです。それどころか、死を迎えるそのときまで、迷いつつ、躓きながら生きる者といえるかも知れません。この後イエスは、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言います。凄いことを言うもんです。絶対にあり得ない事です。神の国に入るとは、要するに、救いを自力で得るということは、ほとんど不可能なことだと言いたいのではないでしょうか。


 そもそもこの青年、永遠の命を受け継ぐには何をすればいいのでしょうかと尋ねました。どうすれば最高のものを得られるのでしょうかと。突き詰めれば、どうすれば救いを得られるのですか。そう尋ねたわけです。しかし、どんなに優れた人であっても、どんなに高潔な人であっても、どんな人格者であっても、ましてや、迷いながら、躓きながら生きる私たち凡人にとって、自力で救いを得られるなどあり得ないということではないでしょうか。

 ですから弟子たちは、では、いったい誰が救われるのだろうかとつぶやくのです。イエスは言います。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。つまり救いとは、神から一方的に与えられることだと伝えているのではないでしょうか。

 であるならば、私たちがとるべき態度とは何でしょうか。それは、すべて神にお委ねること、お任せ切ること。それ以外の何ものでもないと思います。もう少し言えば、救いとは、私たちがどうであるとか、何をしたとか、どう考えているとか、そういったこととはまったく関係なく、無条件に、一方的に神から与えられる恵みなのだ、だから迷いがあっても、躓いても、愚かでも構わないのだ。そこをわかってほしい。それがイエスからのメッセージだったのではないでしょうか。


 先週の週報「今週の糧」に引用した星野正興牧師の言葉を改めて読みます。「今日も窓の外に風が吹いている。木の葉や草はその風になびいている。肩肘張らず、強がらず、小さな葉のまま、細い草のまま風になびいている。ありのままの姿でごまかさないで風になびいている。我々よりずっと、ごまかされない方をおぼえて生きている」。

 ここで「風」とは神を意味します。つまり、私たちを生かし支える根源である「神」にすべて委ねなさいということです。もっとも、すべて委ねるなど私たちにはできません。それほどの信仰を持っていません。しかし、にもかかわらず、私たちは支えられ、生かされ、死後も導かれている。そうしてくださる方と一緒に生きている。そこにこそ、ほんとうの救いがあるのではないでしょうか。そう信じられたら、なんと幸いではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-04-27 11:27 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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