2015年3月22日礼拝説教

2015年3/22礼拝説教「赦しに逃げる罪」マルコ9:42~50

 今日は、マルコによる福音書9章の最後の物語をご一緒に考えたいと思います。実は今日の箇所はわたしにとって懐かしい箇所です。それは神学生時代に遡ります。神学校では聖書釈義という授業があります。釈義というのは、それぞれの聖書箇所について、言葉の使われ方や、文脈や、時代背景や、教義など、様々な視点を駆使して、記者の意図を読み解くということです。要するに聖書を解釈することです。説教を作る上での前段階と言えます。牧師は説教を作る際、必ずこの作業を行います。

 神学生の2年生とき、釈義の授業でこの箇所がわたしの担当となりました。未熟なわたしにとって、この箇所はあまりにも難しいところでした。一応はレポートしましたが、しどろもどろだったことを思い出します。あれから20数年が経ちました。あのときのような未熟さはないと思いますが、やはりここは難しい箇所だと思いました。もちろん今でも十分な解釈はできてはいないと思います。でも、 今のわたしならこう読むということで皆さんと分かち合いたいと思います。

 さて、キリスト教は一般的に赦しの宗教だといわれます。ではいったい何を赦すのでしょうか。罪を赦すということです。では、罪とは何でしょうか。それはいわゆる犯罪ではなくて、神に反逆したというのがキリスト教の基本的な理解です。では、神に反逆するとはどういうことなのでしょうか。神を信じないことです。

 でも、それは大きな罪なのでしょうか?世の中、神を信じない人は沢山います。特に現代の日本はそうです。戦後の科学万能主義が影響しています。公の教育でも宗教を一切排除していまから、それも影響しています。政教分離という意味では良いとは思いますが。日本人の宗教的センスはかなり後退したと思います。

 では、神を信じない人たちはすべて不幸な人生を歩むのでしょうか。そんなことはありません。神を信じる信者にならないから、不幸が襲ってくるわけではありません。神を信じなくても良い人生を全うする人はたくさんいます。それに対して、いや、神を信じないと、死んだ後に天国へ行けないのだ。だから神を信じなくてはならないという反論があるでしょう。

 でもその場合、キリスト教の神を信じないということです。しかし、他の宗教もそれぞれに信じる神がいます。これについて正統的なキリスト教では、他宗教の神は神ではない、偶像だというかも知れません。しかし、それは少し傲慢ではないでしょうか。

 そもそもキリスト教でいう罪とは、ハマルティアといいます。この意味は「的外れ」ということです。ですから、的外れとはどういうことなのか、つまり人生において的外れな生き方、的外れな考え方とはどういうことなのか。それを考えなくてはならないと思います。単純に神を信じないことが罪なんだと言い切ってしまうと、その内実もわからないのに、言葉通りに受け入れてしまうのです。これが洗脳なんです。思考を停止をさせるのです。

 そもそも神とは何でしょうか、もちろん、神とはこうだと断定することは不可能です。その意味で、神とはこうだとするのはあくまでも仮説にしか過ぎません。ですから以下述べることも仮説です。

 わたしは、神とはわたしたちを生かす大前提というか、根源というか、根拠というか、土台だと思います。生きとし生けるものは、その大前提があればこそ、生きていけるということです。パウロも使徒言行録17章の中で同様のことを述べています。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。生きていけるのは、神の中に在るからだとパウロはいうのです。


 では、生きとし生けるものが生きられる大前提の中身とはどういうことでしょうか。それは関係性です。己の力だけでは生きられない。他の存在があればこそ生きることができるということです。これは仏教の教えと同じです。これは紛れもない事実です。思想とか信仰を超えた事実です。

 したがって、自分の力だけでは生きることができないという意味で、キリスト教も仏教も本質的には同じことを伝えていると思います。生きているということは、他の存在があればということです。それがキリスト教では、神によって生かされていると表現されるのです。

 自然の世界はそれを受け入れています。動植物をはじめ、大地も、海も、川も、山も、他の存在があればこそ、今そこにおいて成り立つのです。これに反論する方もいるでしょう。他の存在が無くたってあるものはあるのだと。

 でもどうでしょうか。わたしたちが日常見ている恵那山。恵那山は未来永劫盤石でしょうか。永遠にそこにあるのでしょうか。恵那山は地盤が脆い山だそうです。今でも神坂峠付近は徐々に崩れてきています。大きな地殻変動があれば恵那山の様相は大きく変わる可能性があります。つまり、盤石だと思われているあの恵那山でさえ、その時々の状況、つまり他との関わりによって変わるのです。絶対ではないのです。

 しかし、わたしたち現代人は、この事実にあまりにも鈍感です。他の存在によって生かされて生きていることに思いがゆかない。自分の能力や努力があればそれで道は開けると思い込んでいます。ゆえに感謝が足りない。それこそが的外れな生き方であり、罪ではないでしょうか。

 わたしを信じるこれら小さな者を躓かせるのは地獄行きだとイエスは説きます。かなり厳しい言葉です。これほど厳しい言葉をあえて記すのは、イエスのほんとうの思いがここに示されていると思います。小さな者とは、文脈からして36節に登場するこどもを指します。親を失い、あるいは親から捨てられて、行き場のない、生き延びる保証もない、もっとも弱い者です。


 今の世の中も、子どもが犠牲になっている事件があまりにも多い。川崎市の上村君、イスラム国などによって自爆テロを強要されている子供たち、洗脳されて武器を取るアフリカの子供たち。このような痛ましい現実がある中で、それでもキリスト教は、信じるものにとって赦しの宗教だといわれます。ほんとうにこれでいいのでしょうか。

 小さな者を迫害する者は赦されない。イエスはそう断言しています。したがって、迫害する者はもちろんのこと、そういう蛮行に追従する者は然り、そうでなくても、見て見ぬふりをする者ならば、あるいは自分一人が反省しても何も変わらないと傍観者を決め込む者のなら、それらは赦されないと述べるのではないでしょうか。

 今日の説教題を「赦しに逃げる罪」としました。罪の赦しというのは、神がイエスの十字架の苦難と死を通して行ったことといいます。たしかに教義としては大切なことです。しかし、キリスト教の教義を思考停止した状態で鵜呑みにして、そこに逃げ込んではならないと思うのです。ナチスドイツによるホロコースト、ユダヤ人の大量虐殺。それを支持した当時のドイツの教会。あるいは広島・長崎に原爆投下したアメリカ。これが20世紀以降、キリスト教が信用されなくなったもっとも大きな原因だといわれています。そこには、罪が赦されるのだから何をしても仕方がないという思いがあります。

 ドイツではこのことで多くの信者が教会から離れたといいます。ドイツの教会は観光遺産となっているようです。さらにいうと、ドイツでは仏教の禅宗が支持されて、座禅道場が盛んだといいます。教会から離れた信者が、そこに流れているというのです。一方アメリカの教会の場合、社会派、良心派と呼ばれる教会以外の多くはあまり反省がありません。それは、罪赦されるという教義があるからです。信者だから罪赦された。だから広島長崎の原爆投下も赦されるのだ。そう言い切れるのでしょうか。

 それでも赦されるとしてきたのが、アメリカの原理主義的キリスト者です。いわゆる敬虔なキリスト者です。熱心に教会生活を行っている人たちです。彼らの中には、核戦争が起きても良いと思っている人もいます。なぜなら、自分たちは信者だから天国へ行けるのだからということです。

 だから、レーガン政権当時、核軍拡に賛同したのです。そのためにアメリカは、軍備に予算をつぎ込むあまり、財政が破綻し、国民の格差が大きくなったのです。その反省がないままで、国力を強くするために弱肉強食のグローバル経済を推し進め、アメリカ国内はもとより、世界の格差を招いたのです。それがイスラム国を生み出したのです。

 どんなに酷いことも赦されるのだ。ただしその条件として信者になれば。だから伝道しなくてはならない。赦しの傘の下に逃げ込む人を増やす。それが伝道であるというのなら、わたしは違和感を覚えます。わたしは、クリスチャンであることとは、イエスに従う者であることと思います。それは、いと小さき者、弱くされてしまった者に優しい眼差しを向ける者といえるのではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-03-22 18:31 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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