2015年2月22 日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/22礼拝説教「祈りによらなければ」マルコ9;14~29

 兼務する付知教会では、基本的に第四主日の礼拝後に祈祷会を行っています。大概は4~5名、時折2~3名になる小さな祈りの群れです。はじめるにあたり、その都度、祈れない人は無理に祈らなくていいいのですよという前提で行っています。

というのは、祈祷会というと、参加した全員が祈らなくてはならないといった、ある意味強迫観念に囚われるので、祈れる人は祈り、祈れない人は祈らなくて良いという自由さを大切にしています。祈祷会に参加することが重荷にならないためです。もちろんこんな緩いことをしたら信徒教育にならないという意見もあるでしょう。でも、そうすると意外にもほぼみんな祈るのです。

 この祈祷会、そもそも脳梗塞で倒れて教会活動に参加できない曽我よしゑ姉の発案でした。それを受けてはじまったものです。もう4年目になるでしょうか。でも時折、虚しさを覚えるときもあります。というのは教会が置かれた状況が一向に変わらないからです。でも続けています。なぜなら、やらないと気持ちが悪いというか、なんだか続けないと自分たちが駄目になってしまうのではないだろうか。そんな気持ちがするからなのです。


 さて、今日はマルコによる福音書9章の二つ目の物語についてご一緒に考えたいと思います。小見出しに「汚れた霊に取り憑かれた子を癒やす」とあります。いわゆる癒しの奇跡物語に分類される物語です。しかし今日の箇所には次の言葉があります。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。この言葉から、ここは癒しの奇跡だけを伝えようとした箇所ではないと思ったのです。キーワードは「祈り」です。キリスト教に限らず、すべての宗教にとって必須のことである「祈り」がテーマだと思います。

 さて、わたしは今日の箇所を読んだとき、真っ先に浮かんだのは、作家の大江健三郎さんの言葉でした。大江さんは以前こんなことを述べていました。「戦後、世界は何度も核戦争の危機を迎えた。しかし、それにはいたらなかった。ある意味それは奇跡だと思う。なぜ奇跡が起きたのか。それは、核戦争を回避するために世界中の多くの人々が祈りを捧げ、それが聞かれたとした思えない」ということでした。

 祈りは聞かれる。わたしたちはそれを信じるから祈るわけです。しかしどうでしょうか。大江健三郎さんのいう核戦争回避の祈りに反して、戦後もし核爆弾がどこかで炸裂していたら、祈りなど価値がないとして祈る者がいなくなったでしょうか。もちろん祈りをしなくなる者もいるでしょう。しかし、それでも祈り続ける者はなくならないと思うのです。

 今日の箇所は、イエスと側近である三人の弟子たちが山を降ったところで遭遇した出来事です。どんなことだったかざっと振り返ってみます。

 イエスと三人の弟子たちが山を降りると、山に行かなかった弟子たちが群衆に囲まれ、律法学者たちと議論をしていたのです。何を議論していたかというと、群衆の中の一人が幼い頃から霊に取り憑かれ、時折「てんかん」のような発作を繰り返す息子の癒しを弟子たちに頼みました。しかし、弟子たちは癒せなかったのです。

 おそらくイエスたちを監視していた律法学者たちが、その行為に対して非難し、周囲に居た群衆も弟子たちが癒せなかったことに対してああだこうだと騒いでいたという状況だったのです。この状況に対してイエスは弟子たちの不甲斐なさを嘆き、その息子を癒やします。すると弟子たちはいうのです。なぜ自分たちは癒やせなかったのでしょうかと。これにイエスは言うのです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」。


 イエスによる癒やし物語りは福音書にたくさんあります。大筋ではそれほど大きな違いがあるわけではありません。しかし、よく読むと必ず他と違った何らかの事柄があることに気がつかされます。今日の箇所で特徴的なことは、今いったようにイエスの最後の言葉だと思います。この種のものは、祈りによらなければ解決しないということです。

 今日の説教題にもしましたが、祈りによらなければとは、どういうことなのでしょか。イエスはこれまでにまで多くの癒しを行ってきました。弟子たちも独自の宣教の旅の中で癒しを行ってきました。ならば、そこでは祈りがなくても癒せたということなのでしょうか。

 しかし今回、弟子たちは癒せなかったのです。それは祈りがないからだということになるわけです。癒やしにおいて、祈りが必要な病とそうでない病があるのでしょうか。その分類については記されていませんからわかりません。この箇所はいったい何を伝えようとしているのでしょうか。

 そもそも祈るとは何でしょうか。基本的に祈るとは「願う」ことです。自分の願いを叶えて欲しい。それが多くの人が考える祈りだと思います。その動機にはお金が欲しいといった身勝手なこともありますが、病気が治って欲しいといった切実なこともあります。

 あえて定義するなら、祈りとは、自分の能力や努力ではどうにもならない事態に相対したとき、この世を超えた存在というか、何かに、わたしたちでいう神に委ねるということです。委ねるとは、どういうことかというと、それは、これから起こる一切の事態をすべてをお任せするということです。その結果がどうなろうと、それでも受け入れるということです。果たしてそこまで信頼できるのか。それが祈る上で問われていることではないでしょうか。おそらくわたしたちは、祈ったからには、願いが叶って欲しいと思っているはずです。でも、そうした願いを持つことは、ひょっとすると、祈りの根本から外れているのかも知れません。


 イスラム国によって殺害された後藤健二さん。おそらく世界中の多くの方々が宗派や教派を超えて彼の無事を祈ったはずです。しかし、結果として後藤さんは、無残にも殺害されました。すべての祈りは聞き入れられなかったのです。わたしは、残念だがそんなもんだろうと思いました。祈ったからといって、現実を動かすことはできないと思っていました。

 しかしその後、彼が殺害された後、東京のあるイスラム教のモスクでそこに属するイスラム教徒が祈ったという記事を読みました。彼らは後藤さんが生きて帰ってくることを祈ったはずです。しかし結果は最悪の事態になったのです。その意味で祈りは叶えられなかったのです。しかし、それでも彼らはさらに祈るのです。なぜそれでも彼らは祈ったのでしょうか。それは、後藤さんの遺族の慰めと、こんなことが二度とあってはならないという願いと、神がそれでもわたしたちにこのことの意味を伝えることを願ったと思うのです。そう信じているのです。わたしは、そのイスラム教徒の信仰のすごさを思いました。そこまでいかなければ、それは信仰ではないのかも知れない。そう思いました。

 わたしたちはどうだったでしょうか。わたしはどうだったでしょうか。この結果を受けて祈ったでしょうか。たぶん多くは、諦めとやるせない思いのまえに打ちひしがれてそれで終わったのではないでしょうか。わたしも祈れませんでした。

 しかし東京のそのイスラム教徒は、絶望の内にありながらも、神からの意味を願い、後藤さんの家族の慰めのために祈ったのです。どんな悲惨な結果を受けても祈り続けたのです。それが祈りの精神ではないでしょうか。あきらめつつも委ねる。それが信仰ではないででしょうか。そこに踏みとどまれるのか。それとも単にあきらめるのか。そこに信仰者であるかないかがかかっているのです。


 わたしたちは、あまりにも事態が悪いとき、その先に希望を抱けないとき、あきらめます。何をしても無駄だと思います。しかし、それでもなお祈るというのは、神への信頼があるからだと思うのです。というか神への信頼を捨てたくないからです。いや、ひょっとすると無意識のレベルで神に抱かれていることを知っているからではないでしょうか。

 信仰者とは、あきらめない者をいうのでしょう。繰り返し繰り返し最悪の事態が襲ってきても、それでも踏みとどまる者だと思います。この2000年間、教会は祈り続けてきました。イスラエル民族の宗教の時代からすれば約4000年祈りが続いてきているのです。なぜそれができるのでしょうか。普通はできないです。それでも踏みとどまろうとするその理由とは何でしょうか、それは、わたしたちをそうさせている方がいるからではないでしょうか。

 昔ドイツに、トゥルナイゼンという牧師がいました。彼はこんな言葉を残しています。「皆様が神についてどんなふうに考えるのかわたしは存じません。けれども、そういうことをわたしはあえて存じ上げなくてもよいのです。なぜなら、わたしたちが神についてどんなふうに考えるのかが大切なのではなく、神御自身がわたしたちをどんなふうに考えているのかが大切なのです。神についてのわたしたち人間の思いがわたしたちを支えるのではなくて、神がわたしたち人間のことを考えていて下さるという、そのことこそがわたしたちを支えるのです」。わたしたちの信仰も、わたしたちの祈りも、わたしたちの生きるすべても、わたしたちの己の力によって支えているのではない。わたしたちではなく、神が支えている。それがトゥルナイゼンの悟りです。

 イエスが弟子たちに、この種のものは祈りによらなければなし得ないのだといったのは、あなたがたは本気で神に委ねたのか。どんな結果になろうとも神にお任せしたのか。そこまで神を信じたのか。そのような意味で問われたのではないでしょうか。


 わたしたちはこれからも様々な事態に遭遇するでしょう。個人的なことに限りません。日本も世界も様々な事態に遭遇するでしょう。ときに絶望的な思いになることもあるでしょう。

 しかし、それでもわたしたちは祈りを捨てることはできないはずです。なぜならそれは、神がわたしたちにそうさせているからではないでしょうか。どんなに絶望的な状況にあっても、それでも神がわたしたちに寄り添っている。それが祈りが示していることではないでしょうか。

 祈りによらなければとイエスは言います。それは、突き詰めれば、神はわたしたちを決して見捨てていないのだ。だから一切を神に委ねなさい。そう腹を据えて、今自分たちができることを精一杯行いなさい。たとえ望んだ結果にならなくても、それを受け入れてゆきなさい。そのことの示しではないでしょうか。 祈ることは、神がわたしたちとつながっている証ではないでしょうか。それぞれにどんな形でも良いです。祈る幸いを覚えたいものです。



[PR]
by buku1054 | 2015-02-22 13:02 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
<< 龍馬 祈り >>