2015年2月8日坂下教会礼拝メッセージ

2015年2/8礼拝説教「この声に導かれ」マルコ9:2~13

 今朝も引き続きマルコによる福音書に聴いてゆきます。前回で8章が終わりました。やっと半分が終わりました。今日から9章に入ります。いよいよこの福音書の後半を迎えたわけです。さあこれから後半戦だと意気込む思いですが、後半の最初の物語は、その意気込みを挫くようなとても難解な箇所です。にわかには信じがたいというか理解がとても難しい箇所です。

 読んでおわかりだと思いますが、幻想的というか神秘的というか。そんな印象を抱く箇所です。おそらくここに記されていることは、文字通りの出来事というよりは、暗示というか隠喩というのか一つの譬えではないかと思います。おそらくベースとなる出来事があって、それに脚色が加わってこのような物語に仕上げられたのだと思います。ともかくこの福音書記者が、この記述を通して何を示したかったのかを探ることが今日のポイントです。

 前回はペテロによるイエスのメシア告白、それとイエス自らの受難予告でありました。登山に譬えるなら、まさにこの福音書のピークといえるところです。とても重要な箇所でした。しかしそこでは、イエスと弟子たちとの間に大きなズレがあることに気がつきました。メシア観の違いです。そしてイエスの一行は、これから十字架への道を進むのです。登山で言うなら下山していくことになります。

 この箇所は、さあこれから下山しようとするとき、すなわち十字架の苦難の道が始まろうとするとき、弟子たちと群衆とこれを読むわたしたち読者に何かを示そうとしたのではないでしょうか。その何かを探ってみたいと思います。

 イエスは、弟子たちの中で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登ります。この三人はイエスからもっとも信頼されていた弟子たちです。十字架を前にしたゲッセマネの園でも、この三人だけを連れて行ったとあります。彼らは、後の初代教会の牽引者たちです。イエスは、とても重要なことを伝えようとしたのではないでしょうか。

 ところで彼らが登った「山」」とはどこなのでしょうか。ヘルモン山(2800)という説もあります。タボル山(588)という説もあります。諸説あるわけですががハッキリとしたことはわかりません。高い山というからヘルモン山かも知れません。すると、山の上でイエスの姿が変貌したというのです。もっともどのように変わったのかは書いてありません。ただし着ていた服が真っ白に輝いたというのです。

 しかもそこにエリヤとモーセが現れて、イエスと語りあったといいます。この光景を見て、ペテロが自分たちがここにいることはなんと素晴らしいことかと言います。そしてイエス、モーセ、エリアのために仮小屋を三つ建てましょうと述べるのです。そうこうすると、雲が彼らを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。辺りにはイエスしかいなかったというのです。さて、ざっと振り返ってみましたが、やはりにわかにはわかりません。聖書の難解さが際だったところだと言えるでしょう。

 いくつかのキーワードと思える事柄をたどりながら進めることにします。先ずは、イエスの姿が変わったということです。どういうことなのか。何故変わる必要があるのか。何故服が白く輝いたのか。いずれにしても推測の域を出ないのですが、これから始まるイエスの歩みが、わたしたちの想像を超えた素晴らしさ、喜び、栄光、そういった事を顕わにするようになる。直ぐにそれを受け入れることはできないけれども、やがてそれを見出せる。そういう意味ではないか。そう思います。

 次は、モーセとエリヤの存在です。彼らはユダヤ人のもっとも尊敬する人物だと言えます。モーセはイスラエル民族をエジプトの奴隷状態からから救い出した人です。元祖メシアといっていい人です。ユダヤ人が一番尊敬するのがモーセだといわれています。一方エリヤは、預言者の中でももっとも尊敬されていた預言者です。彼はバアル宗教という、いうなれば現世利益的な宗教と対決し勝利します。最後は天に登っていったとあることからエリヤは死んでいないというのがユダヤ人の理解です。彼は再びこの世にやってくると信じられています。

 イエスは、キリスト教信徒にとって、モーセとエリヤの存在を継承した存在だと捉えられているようです。つまり、苦難の同胞を救済し、でも自分は約束の地カナンに入れず、その墓すらわからないというこの世的には不運な人生のモーセ。そしてやがて再臨するというエリヤ。おそらく原始キリスト教時代のキリスト者たちは、イエスにモーセとエリヤを重ね合わせていたのではないでしょうか。キリスト教はユダヤ教を母体としています。ですからこのような理解も自然なことだと言えるでしょう。

 さて、ペテロは感激して、仮小屋を建てると言います。仮小屋とは幕屋のことです。幕屋とは、移動式のテントで、遊牧生活者の住居でありました。かつて国を持たない流浪の民であったユダヤ人は、この幕屋を住居とし、また幕屋の中の一つを神殿としても用いていたのです。おそらくペテロは、神殿という思いでこの言葉が口から出たのではないでしょうか。

 ところが、やがてこの素晴らしき光景が消え失せるのです。そして、ただイエスだけが一緒にいたというのです。さらに、雲の中から、このイエスに聴きなさいという声があったというのです。

 話は変わります。あれはこの地へ来た翌年、1998年のGWのことでした。富士見台に登りました。当時飼っていた愛犬チャーリーと一緒に登りました。神坂峠からではなく、下の強清水から登りました。何故富士見台に登ったのかといいますと、牧師としての人生をはじめて一年、まだまだ未熟だったこともありまして、いろいろな意味で行き詰まっていました。神学生時代に読んだ神学書を読み直したりしもしていた頃です。なんとか今の状況を打開したい。そんな願いを抱きつつ登ったのです。

 頂上で見た、あの景色の素晴らしさはいまだに忘れられません。360°見渡せました。中央アルプスの山並みに感激しました。遠くに坂下の町が見えました。そのとき、あんな小さなところで悩んでいる自分が、なんだかおかしく思えました。気持ちがすっきりしたことを覚えています。

 人は何故山に登るのでしょうか。「そこに山があるから」という有名な言葉もあります。修行のためもあります。単なる趣味もあります。他にもいろいろな理由があるでしょう。ただし山に登ることは、非日常性の中に逃避することではない。それが共通することだと思うのです。

 なぜなら必ず下山するからです。現実の中に帰るからです。山登りとは、日常性からひととき離れるそのことに意味があるのではないでしょうか。それは旅も同じだと思います。登ったまま戻らない登山は死ぬことになります。出掛けたまま戻らない旅は、ほんとうの現実逃避となります。

 宗教というのは、日常性からひととき非日常に離れさせることで自らを見つめさせ、覚醒させ、再び日常の中へ復帰させる役割があるように思うのです。礼拝はまさにそうです。一見現実逃避に見える山岳宗教の修行もそうです。その意味で、日常の中に返さないような宗教、日常においても幻想の中に彷徨っているかのような状態に置くような宗教が、怪しいカルト宗教ではないでしょうか。

 モーセとエリヤも去り、弟子たちと一緒にいたのはイエスだけだったといいます。輝きというか栄光は一瞬であったわけです。この後イエスは十字架の道を歩むのです。苦難の道です。弟子たちにとっても予想もしない苦難が待ち受けているのです。しかし、このイエスに聞けという声があった。この福音書記者は記すのです。しかもイエスはやがて殺されるのです。弟子たちの前からも、これを読むわたしたちにも姿を見せることはありません。この地上においてイエス・キリストという存在を見ることはできません。実在のイエスに出会うことはできないのです。しかし、イエスに聞けと聖書は語るのです。



 今日の箇所を全体的に考えると、登山がキーワードだと思います。登山は人生と似ています。登山口は誕生です。上りは成長期です。困難な中にもいろいろな出会いがあり、力を伸ばしてゆく機会があり、そして感動が多い時期です。やがて頂上へたどり着きます。様々な経験を経て、様々なものを身につけた人生最高の時です。しかし、ピークに到達した時点から下山しなくてはなりません。終焉に向かうのです。上りとはひと味違う苦難が待っています。

 そして、下山して人生が終わります。重荷はいっぺんに軽くなります。けれども、終わってしまうという寂しさと未知なる世界へ行くという不安と恐れがあります。まさに登山は人生の縮図です。でも、そんなわたしたちに、聖書はイエスに聞けと語るのです。つまり、どこにいても、どんな状況にあっても、聞こえてくるイエスの声があるということです。

 もっともその声は、ハッキリと聞こえることはないでしょう。心が濁っていたら聞き逃してしまうようなか細い声です。でもその声は必ずある。わたしたちに常に語りかける声ではないでしょうか。

 苦しむとき、悲しむとき、不安なとき、恐れているとき、打ちひしがれているとき、絶望のとき、驕り高ぶっているとき、この声なき声にわたしたちは導かれているのではないでしょうか。このことを信じる。それが信仰者の証でしょう。また、信じられるようになるために礼拝に集うのではないでしょうか。

最後に、クリスチャンの詩人、水野源三さんの一編の詩を読んで結びにします。

目には見えない主イエスよ
新しい朝を迎えるたびに
深い愛を思わせたまえ

目には見えない主イエスよ
いかなるときも事あるごとに
御旨いかにと訪ねさせたまえ

目には見えない主イエスよ
一人のときもわたしと共に
おられることを覚えさせたまえ

目には見えない主イエスよ
あふれる涙胸の中まで
曇らすときも仰がせたまえ

目には見えない主イエスよ
脇道に逸れやすいわたしの
手を 強く取り 歩ませたまえ


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by buku1054 | 2015-02-08 17:13 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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