2015年1月25日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1月25日礼拝説教「村人の中に入ってはならない」マルコ8:22~26

 今日も引き続きマルコによる福音書を読んでゆきます。前回は、ガリラヤ湖を航行中にイエスと弟子たちとの間で交わされたやり取りについての話でした。そこでは、イエスと弟子たちとのズレがあまりにも大きかったことが示されていました。突き詰めれば、「救済についての考え方」の違いです。弟子たちは、あくまでも自分自身が救われる。それが救いでした。それに対してイエスは、誰もが分け隔て無く救われることを目指していたのです。

 救済ということで思い出したのですが、わたしが神学生時代に属した東京の三鷹教会の初代牧師、石島三郎先生は、その著書の中で、イエス・キリストとはどのような方だったかを説明する上で、次のような譬えを述べていました。「深い穴に落ち込んでしまった人がいる。とても自力では上れない。その状況で、上からロープを降ろして引き上げるのではなく、先ずは自分が穴に落ちた人のところまで下りていく」。それがイエスだということです。何よりもまず他者のことを考えるのがイエスの姿勢だというのです。

 イエスの一行はベトサイダに着いたとあります。ガリラヤ湖の北東部に位置する町です。ここは、注解書や辞典、その他の参考文献を見ても、特筆したことは書いてありません。つまり、ガリラヤのどこにでもある町だったということです。当時のガリラヤは、ローマ帝国の植民地であり、その直接の支配を任されたヘロデ・アンティパスの地域でした。そこで特筆したことがないということは、徹底してローマとその傀儡であるヘロデ政権の支配下にあったということではないでしょうか。住民はまったく手も足も出ない、そんな状況だったと思うのです。

 イエスはここで一人の盲人を救います。そして、最後のところで、「この村に入ってはいけない」と述べています。このことと、ここが権力によって徹底して支配されていたということに何らかの関係があるのではないか。それがこの物語を解釈する上でのポイントではないかと思いました。


 他の箇所と同じように、ここも、イエスがやって来ると、人々が障がい者を連れてくるのです。いつものパターンです。たぶん、イエスが病気治しの神様というか、特別な能力を持ったすごい存在だということが、かなり広まっていたことの証だと思います。それと、いかに、病いと障がいに苦しむ人たちがいかに多かったかということも示していると思うのです。

 さて、イエスは連れてこられた盲人を、村から連れ出したとあります。7章に同じような物語がありました。耳と口に障害がある人の癒しです。そこも、その人だけを連れ出して癒すのです。ただそこでは、群衆から連れ出したとなっています。でもここは、村から連れ出したとあるのです。しかも最後で、村には入るなとあるのです。どうも、「村」というのがこの物語の鍵だと思うのです。

 わたしたちは9年前に川上に住みました。川上は合併前は、旧川上村です。現在の人口は800人台です。わたしたちが住んでから約200人が減りました。自然環境が素晴らしく、人も穏やかです。その意味では、とても暮らしやすいところだと思います。

 でも、地域の縛りという意味では、坂下以上かも知れません。今年度、わたしが地区長なのですが、その任務を真面目に行ったら、かなり礼拝を休むことになります。さすがにそれはできないので、妻がわたしの代行をしています。正直言って、根が都会人のわたしにとって、このような地域の体制は嫌だなとは思います。でも、地域の立場からすれば当然のことです。

 わたしはこの地で18年やってきて思うのですが、農村では、クリスチャンとしても、教会としても、ものすごく不利だと思いました。都会とはまったく違います。地域を考えると、個々の自由は制約されます。かといって個々の主張を顕わにすれば、地域は煙たがります。場合によっては弾きます。教会の礼拝は地域活動の中心である日曜日ですから、当然、地域活動に参加できないことが多いわけです。したがって、日本の農村では、教会は振るわないのです。残念ですが、この先も変わることはないでしょう。


 ですからなのでしょうが、某大学の神学部は、かなり前に、農村伝道から撤退したと宣言したと聞きました。別の大学の神学部も農村は伝道の対象にはなっていません。昨年、日本創成会議だったでしょうか。21世紀内に日本の市町村の内、896箇所が消滅する可能性があると発表しました。そのことが各地で物議を醸しているようです。国の本音は、この分析を受けて、主要地域に百万人単位の都市を作り、そこに住民を集め、周辺は切り捨てるということが日本を救うと考えているようです。ものすごく暴力的な発想です。

でも、今の教団の主流は、否、教団だけではないでしょう。日本の教会の全体は、この考えとそう変わらないと思います。田舎の小さな教会は無くなってもいい。それに費やせる分を、成果が見込める都市部の教会へ支援した方が良いということです。実際,中部教区でそういうことを述べた牧師がいました。

 さて、本題から外れましたので戻ります。イエスはこの盲人を癒して見えるようにします。するとこんなことを言うのです。「この村に入ってはいけない」。そして、その人を家に帰されたとあります。この、さらっと書いてある部分が意外にも大切だと思うのです。盲人だったこの人の家は、この村にあるのでしょうか。だとしたら、村には入るなというのは矛盾しています。家には帰れません。

 ということは、この人の家は、村にはないということです。ならば何の問題もないと思うのです。村に行かなければいいのです。しかしイエスは、村には入るなというのです。どういうことなのでしょうか。

 今日の説教題を「村人の中に入ってはならない」としました。これは岩波書店の聖書の訳からとったのです。村に入るなということも、村人の中に入るなということも。同じ事です。村に入ることは、そこにいる村人と接することです。岩波の聖書は原文に忠実ですから、あえてそこに「人」を入れるのです。おそらくこの聖書記者は、この村の、「人」ということに重きを置いているのではないでしょうか。そこに入るなというのは、村の人たちと関わるなということではないでしょうか。

 わたしは思います。これは、この盲人が関わってきた、ある村の人々との関わりを捨てなさい。さもないと再び苦しむというか、問題が解決しないというか、ともかくあなたにとってよくないよ。ということではないでしょうか。では、村の人々との関わりとは何でしょうか。

 昨年から、川上では草刈り事業が増えました。それまでは年二回だったのが、年三回になったのです。特に三回目は10月の末なので草なんか伸びてない時期です。やる必要がありません。ならば何故行うのか。中津川市からの援助を受けるために実行するのです。実施は日曜日ですから、皆、休みを犠牲にします。水面下では不平や不満があります。しかし、上からの命令で抗えないのです。地区長のわたしは、礼拝のため出ないのですが、そうはいきませんので妻が代行します。

 もっとも、こんなことはまだ何とか我慢して対処できます。しかし、その地域の掟というか慣習といか、絶対に従わざるを得ない状況になったとき、抗うことは益々できません。村とはそういうものです。村の人たちに、帰属意識を高めるために、強制するのが村のあり方なのです。

 イエスによって癒されたこの盲人は、この村と何らかの関わりにあった人です。でも、イエスはこの村の人々とは関わるなというのです。冒頭で、この話の舞台であるベトサイダは徹底してローマの支配下にあると述べました。ローマに対して手も足も出ないということでした。こういう場合、ローマに対して抗うという気持ちはなくなると思います。するとどうなるでしょうか。おそらく、ローマに対して、さらにはユダヤ体制に対して、いい顔をしてうまく立ち回るという卑屈な精神が生まれると思うのです。

 ローマにもユダヤにも従っていれば、この村は安泰だという意識になるはずです。そこで生じるのは、ローマにもユダヤにも逆らう者を一切出さないということです。そのために相互監視が始まるのです。あいつはこんなことを言った。こいつはあんなことをした。けしからん。赦せん。村にとって不利になる状態は攻撃の対象になります。排除する対象になります。


 イエスによって癒されたこの人は、これまでのように監視され、差別され、排除される対象ではありません。しかし、このような村のシステムというか村の精神のあり方の中で、この人が、かつての自分と同じような苦しみにある人に同情し、手を差し伸べることができるでしょうか。

 できないと思います。手を差し伸べたその瞬間に本人も差別と排除の対象になるはずです。したがって、この人が村の人々と関われば、今度はこの人も、村のシステムと精神に取り込まれざるをえなくなると思うのです。つまり、この人自身が弱者を差別し、排除する側になってしまうということです。

 マルコ福音書の8章は、この福音書の分水嶺です。ここを境にしてイエスの十字架への歩みが一層濃くなってゆきます。それを臭わせるのがこの物語だと思います。というのは、イエスの十字架の場面で、何故助ける者がいなかったのか。何故イエスは孤独のままに死んでいったのか。イエスによって救われた者、助けられた者、癒やされた者はたくさんいたはずです。でも、そうした者の誰もイエスの側に立てなかったのです。それは今日の物語に見ることができます。

 イエスによって助けられた者たちは、その後、徹底したローマ支配、ユダヤ支配の中で、再び声を挙げられなくされてしまったのではないでしょうか。

 イエスは、穴に落ちてしまった人を上から引き上げるのではなく、自ら穴の底に降り、苦しみを共有した方です。そこから引き上げられた者が、今度は他者を穴に突き落とすことを望みはしなかったはずです。しかし、人間は弱いのです。自分が救われても、次には他者を穴に突き落とす側になることもあるのです。いや、そうならざるを得ない現実があるのです。それが人間の悲しさです。でもイエスは、そんなわたしたちをも庇うのではないでしょうか。十字架はそのことも顕しているのではないでしょうか。


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by buku1054 | 2015-01-24 22:20 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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