2015年1月4日坂下教会礼拝メッセージ

2015年1/4礼拝説教「今の時代」マルコ8:11~13

 新しい年2015年を迎えました。この一年は、いったいどんな年になるのかと考えます。21世紀になってからでしょうか、新年を迎えて、明るく希望に満ちた年になりそうだと思ったことは一度もありません。どんどん悪くなっているように思います。

 地球温暖化の影響なのでしょうか、ここ数年、想定外の豪雨によって国の内外で大きな災害が起きています。昨年は広島で大きな土砂災害がありました。たくさんの犠牲者が生じました。身近なところでは、南木曾の土石流で中学生の男の子が犠牲になりました。

 また、東日本大震災以降、火山列島の日本は活動期に入っているようです。昨年には御嶽山の噴火がありました。多くの犠牲者がありました。長野県北部の地震もありました。死者はなかったものの数多くの被害がありました。今年も再びどこかで大きな地震や噴火が起きるかも知れません。その筋の専門家によれば富士山が噴火する可能性が高いといいます。事実その兆候らしき現象がいくつも起きているといいます。東南海地震や東京直下型地震も近々懸念されるようです。

 政治的には昨年末、衆議院選挙が行われました。自公の圧勝という結果でした。しかし中身を精査すれば、決して現政権が信任されたとは言えないと思います。投票率の悪さがまずそれを物語っています。52%では民意を反映してるとはとても言えません。野党では共産党が躍進しました。反自公の表れです。他の野党が、反自公の受け皿にならなかったと言えます。もっとも共産党の躍進も、力にはなり得ません。沖縄では自民は全敗しました。本土と沖縄の思いがかなり違うことが改めてわかりました。以前からいわれていることですが、今後、沖縄が日本から独立する動きが具体化されるかも知れません。


 しかし安倍首相は、今回の選挙結果に、国民の信任を得たとして、集団的自衛権の法整備、改憲、原発推進、普天間基地の辺野古移転を粛々と進めると述べています。消費税も再度上がり。労働者派遣法も改悪されるでしょう。TPPも国益が損なわれる決定になると思います。

 そもそもこの度の消費税8%も、社会保障との一体化で進められたものです。しかし、介護保険も健康保険も生活保護も国民の負担が増えました。なぜなら、消費税の増税分のうち社会保障費に使われるのは一割にも満たないからです。マスコミはこれを一切報道しません。明らかにわたしたちは、国に騙されています。しかしそれでも、国民の半分は、投票に行かないのです。行っても自公に入れる人たちがほとんどなのです。

 大企業やお金持ちのように現政権の恩恵を受けている人ならわかります。でも、恩恵を受けるどころか、苦しめられている人々が現政権を支持するのです。なぜこんなことになるのでしょうか。それは、思考停止だからです。政治に対して、世の中に対して、考える力がないのです。この国は末期的だと思います。みんなで手をつないで地獄へ行くことになるようです。

 今後、格差社会は益々進むでしょう。少子高齢化もどんどん進みます。このままなら、地方は限界集落、消滅集落のオンパレードです。わたしたちのような農山村社会は21世紀内に多くが息絶えると思います。

 大都市圏は一部の特権階級とその他大勢の貧困階層に極端に分かれるでしょう。街はスラム化し、犯罪が激増するはずです。国は国民の様々な不満をナショナリズムに転嫁します。中国や北朝鮮の脅威を益々訴えてゆくでしょう。同時に軍備増強を図るはずです。ですから国家財政は益々疲弊してゆきます。社会保障などに充てる余裕がなくなります。老人、病人、障害者は早く死んでくれることを願い。生活保護世帯には冷たく保護を切り捨てる。そんな世の中になるのではないでしょうか。ちょっと考えたら、こんなことになってしまいました。こんな想定は杞憂であって欲しいです。でも、これが現実になったとしたら、皆さんのお孫さんの世代は、かなり厳しい状況に晒されていると思います。

 大切なのはそこなんです。今自分たちが、どうにか生きていける。そこに思いを向けるのではなく、子どもや孫の世代、さらにその先の世代が幸せに暮らせる。そのように長期的に考えることが大切だと思うのです。しかし現実は、官僚、政治家、財界、マスコミ、これらが癒着し、自らの利益を貪る巨大な体制になっているのです。東日本の復興財源を、霞ヶ関の改築費用に流用した事がそれを物語っていると思うのです。

 さて、一年の最初の礼拝説教くらい、希望に満ちた話にしたいと思いました。でも、現実を思うと、単純に希望を語ることができないのです。それほど今の時代は、そうとうに病んだ時代になっていると思うのです。わたしたち教会は、このような時代にあって、何を語ることができるのか。考えてしまいます。

 さて、気を取り直して、今年最初の聖書に聞きたいと思います。今年の最初は、昨年の続きです。マルコによる福音書8章11~13節です。4000人の難民が、皆、満足に食べられたという奇跡物語の後の話です。この出来事の後、イエスの一行は、舟に乗ってダルマヌタという地方に行きます。ここはガリラヤ湖の西部ですが、並行箇所のマタイではマガダンとなっています。マガダンはマグダラのことです。つまりここはマグダラのマリアの出身地なのです。

 ダルマヌタ、すなわちマグダラに到着するとファリサイ派の人々がイエスの元にやってきます。その目的は、イエスを試すためでした。どんなことかというと、「天からのしるし」を求め、議論を仕掛けたとあります。おそらく彼らは、直前の4000人の供食はもちろんのこと、耳と口の不自由な人の癒しやシリア・フェニキアの女性とのやりとりの噂を聞きつけてやって来たと思います。

 天のしるしとは、神のしるしということです。神の存在、神の業が、はっきりと目に見えて、確認できる証拠です。ファリサイ派は、ユダヤ教の掟である「律法」を金科玉条のように大切にしています。律法は成文化されています。具体化され目に見えるものです。ですから彼らは、神のしるしは確認できるという理解を持っているのです。

 そもそもなぜ、彼らはイエスを試そうとしたのでしょうか。それはおそらく外国での救済の業がイエスによって行われたからだと思います。ファリサイ派にとって、外国人は神の救いには与れない人間です。神が外国人を救済することなどあり得ないと信じています。だから、神が外国人を救済した証拠を示してみよ。これが彼らの要求の内容だと思います。

 イエスはこれに深く嘆いたとあります。イエスにとって救済とは、病気や抑圧、理不尽な押しつけなど、そうした心身の圧迫によってもたらされた不健康から解放されることです。与えられたいのちを精一杯輝かせて生きられるようになる人生の回復です。そこにはユダヤ人も外国人もありません。一人の病人が癒された、一人の抑圧された人が解放された。それでいいではないか。それ以上何が必要なのか。それがイエスの考えです。

 しかしファリサイ派は、それでは納得できないのです。人を救済するのは神のみと彼らは信じています。だから救われた以上そこには、納得できる神のしるし、証拠が必要だというのです。現代のわたしたちからすると、理解することが困難です。たぶん彼らは、幼い頃からそう刷り込まれて思考停止になっているのだと思うのです。それがファリサイ派だったのです。

 でも、このことは、今日の教会にも些か当てはまるところがあります。教義とか信仰告白とか、人間が定めたものにすぎないのに、それを神の教えとして絶対化して、それを基準にして、正しい信者、そうでない信者、信者、非信者というように人を分け隔ててゆくのです。キリスト教の中には、実はファリサイ派的な要素が入り込んでいると思います。しかし渦中にいて熱心になればなるほど、そのことに気がつかないのです。人を傷つけてもわからないということが起きるのです。

 イエスは、今の時代の者たちには、決して、しるしは与えられないと強く告げるのです。注意すべき点は、イエスは、天からのしるしとはいわないことです。神の業、神の存在、その証拠などわかるわけがないと理解しているからです。だから天からのしるしとはいわないのです。イエスは単に「しるし」といいます。そして、「今の時代」はしるしを与えられないとを繰り返すのです。

 今の時代とは何でしょうか。イエスが生きた時代です。ローマ帝国の支配下にある時代です。多くの民衆が困窮していた時代です。一部の特権階級が利益を貪っていた時代です。その恩恵を受けていたのは、ヘロデ派、サドカイ派だったのです。ファリサイ派は庶民階層だったので、それほど利益はなかったのです。彼らはローマ帝国の支配を良いとは思ってはいません。何とか覆そうと思っていました。つまり、不条理なことに対して、抵抗する思いはあるわけです。

 しかしファリサイ派の限界は、そこにすべての人が入っていないことです。律法の規定から外れた者は、外国人であれ病人であれ障がい者であれ、不幸になるのは当然だと思っているのです。神観が違うのです。前回、人類の起源の話をしました。もともと人類は黒人でした。それが旅する中で紫外線の影響で白人や黄色人になったということでした。ですから分け隔ては人為的なことなのです。神は人智を超えたものです。つまり、人間が定めたものを超えたものです。分け隔てを超えているのです。神は分け隔てはしない。使徒言行録ではペテロがそう述べています。ガラテヤの信徒への手紙ではパウロがそう述べているのです。

 しかし、わたしたち信仰者でさえ分け隔てをしてしまうのです。つまり、差別意識をなくせないのです。もっとも、わたし自身の中にも差別意識があります。「こんな奴ら、生きてる価値なんかない」。正直そういう対象があります。皆さんにもあるはずです。

 人はそう簡単に、自らの差別意識を解決することはできないのです。それがわたしたちの弱さであり愚かさなのです。でも、それに居直ってはならないのです。だからわたしたちは、繰り返し繰り返し、、差別意識は間違っているというメッセージを受けることが必要なのではないでしょうか。聖書はイエスを通してそのことをとても大事なこととして伝えているのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2015-01-04 17:57 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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