2014年12月28日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/28礼拝説教「信頼」マルコ8:1~10

 2014年最後の礼拝となりました。教会の暦の上では、クリスマスは1月6日まで続きますが、実際には24日の燭火礼拝が終わると、クリスマスも終わって新しい年に気持ちが切り替わるというのが日本の教会です。もちろんそれについて良いとか悪いとかはありません。

 年末の慌ただしいときですが、しばし心鎮めて聖書からのメッセージに耳を傾けたいと思います。2月から読み進んできましたマルコによる福音書も今日から8章に入ります。この福音書は全体で16章からなっていますので、やっと半分まで差し掛かったことになります。およそ月三回の説教ですから、半分にいたるまで約一年掛かったことになります。そうすると読み終わる頃は来年の今頃になるかも知れません。もっとも急ぐ必要もないので、ゆっくり進んで行きたいと思います。

 さて、今日はどんな物語かと言いますと4000人の群衆に食べ物を与えたという話です。これと似た話は6章にありました。6章では5000人の群衆に食べ物を与えたという話でした。多少の違いはありますが、ほとんど同じ内容です。注解書などによれば、6章の話も8章の話も、もともとは同じ出来事で、やがて異なる伝承となったと考えられているようです。6章の時には「腸がちぎれる」という主題でお話ししました。イエスが空腹の難民たちを見て腸がちぎれる思いになった事に着目したのでした。

 今日のところでも2節に「群衆がかわいそうだ」とイエスが言われたとあります。「かわいそうだ」は、原文ではやはり「腸がちぎれる思い」 となっていました。ですからやはり同じ出来事なのかと思いました。もしそうならここは飛ばそうかなと思ったのですが、もし同じ出来事だとしたら、何故マルコは、同じ話を掲載したのだろうかと考えたのです。誤って載せてしまったということは考えられません。載せるからには意味があるはずです。そこで取り組んでみようと思ったのです。

 ところで、6章の話と今日の話。基本的には同じ内容です。おそらく学者さんたちは同じ部分に着目して、これは元々同じ一つの出来事だったと判断されたと思うのです。しかし、違う部分もあるわけです。そこに着目すると何か見えてくるのではないでしょうか。

 6章の話と今日の話、違いは何でしょうか。5000人と4000人という群衆の数がそうです。パンと魚の数の違いがあります。残った数も違います。それらにも意味があるとは思いますが、でもそれよりも重要な違いがあると思いました。何でしょうか。場所が違うのです。

 6章の時はガリラヤでした。パレスチナです。しかしここは、前回の耳と口の不自由な人の癒し物語の場所と同じです。デカポリス地方です。外国なのです。6章の時はユダヤ人の難民、今回は外国人の難民が対象です。ということは、満足に食べることもできず行き倒れてもおかしくない難民は、パレスチナにだけいたのではなく、周辺諸国にもいたということです。もっともこの辺り一帯がローマ帝国の植民地だったことからすれば、当然といえば当然です。

 この福音書記者マルコは、ひょっとすると、イエスの活動の重要な内容として、難民救済があったのだということを伝えたくて似たような話を、あえて掲載したのではないでしょうか。6章の時にも話しましたが、人数はさほど問題ではないと思うのです。前回は5000人、今回は4000人。でも、人数に拘ると、いかにそれだけの人々を救ったかということで、奇跡行為に固執することになるのです。でも、大切なのは難民救済なのです。それも食を与えるということです。きっとイエスは難民たちに食を与える業を、繰り返し繰り返し各地で行ったのではないでしょうか。

 考えてみれば、イエスの活動には、食に関する事が多いです。罪人の家で食事をしたこと。弟子たちが麦の穂を積んで食べたことについての問答、食事の前に手を洗うか洗わないかについての問題、そして今日の難民の供食。食べることにおいてメッセージが伝えられているのです。

 食べることは、生きることそのものです。それゆえに、そこにはいろいろな意味づけがなされます。ユダヤ教社会では、食事は神との交わりという宗教的な意味がありました。ですから、誰と食べるのか。何を食べたらいいのか。食前には自らを清めなくてはならないとか、様々なタブーというかきまりが定められていたわけです。要するに人生における最も大切な行為だからこそ、そこで分け隔てがなされていく。そのような人間の心理があるのではないでしょうか。どうでも良いようなことは対象にはなりにくいものです。

それに対してイエスは、食べるという人生の最も大切な行為には、些かの不公平も差別も不条理もあってはならないという考え方を基本にしていたと思います。

 先月亡くなった俳優の菅原文太さん。彼は「仁義なき戦い」のようなヤクザものといった役柄には似ず、私生活では良心派というか革新的というか、左寄りの人でした。反戦、脱原発、反米を様々な場で訴え、沖縄の基地問題でも沖縄の立場に立ち、在日朝鮮人の福祉への尽力、有機農業への尽力など、かなりの活動家でもありました。その菅原さんが亡くなる前、沖縄知事選で立候補した翁長さんの応援のために自ら馳せ参じたのです。翁長さんは普天間基地を辺野古ではなく県外という立場です。会場には車椅子で赴き、演説後は入院され、その数日後に亡くなったのでした。

 その演説をインターネットで見ました。ゆっくりと言葉の一つ一つを噛みしめるようにして語るその姿に感動を覚えました。その演説の中で菅原さんは言いました。「政治がやらなくてはならないことは二つある。一つは、国民を飢えさせないこと。安全で安心な食物を提供すること。二つ目は、絶対に戦争しないこと」。シンプルですがまさに最も大切なことです。余談ですがこういうニュースをテレビや新聞といったマスコミはほとんど報道しません。明らかに体制寄りだということがわかります。今回の選挙でも自民党がマスコミに報道の規制を掛けたといいますが、ほんとこの国は戦前戦中に戻りつつあると思います。


 今日本で、この二つが大切にされているでしょうか。格差社会が拡がりつつあります。一方では安全で高額な食材を食べられる階層があります。しかし、一円でも安いものを求めて、それが防腐剤や農薬にまみれたものであっても買わざるを得ない人たちもいます。集団的自衛権に沖縄の基地問題についても、すぐに中国や北朝鮮の脅威をちらつかせ、有事に備えるのは当然であり、沖縄が最適だとという風潮が支配しています。

 政治家、官僚、財界、そしてマスコミ。。国を導く彼らの中で、この二つをほんとうに大切にしている人たちが果たしてどれくらいいるでしょうか。また、この二つこそ大切だと思う国民がどれだけいるでしょうか。

 イエスが生きた時代のユダヤとその周辺は、この二つがまったく守られていなかった時代です。ほんの一握りの豊かで贅沢な暮らしが送れる人と今日食べられるかどうかわからないといった多くの人々。そして絶えず戦火に見舞われていた状勢だったのです。

 指導者たちは何をしていたのか。自分たちの同胞を大切にしていたとはとても言えない。ましてパレスチナでは、ユダヤ教という神を仰ぎ見る人たちです。その人たちが、人間を分け隔てていた。困窮する人々を見殺しにしていた。それで、自分たちは、神から選ばれた、神に忠実な人間と自負していたのです。それは周辺諸国もまた同じだったのです。イエスはこのことを心底嘆き、怒りに震えたと思うのです。

 だから繰り返し繰り返し、難民救済の業を行ったのです。この福音書記者マルコはその重要性を後世の人々に伝えようとしたのではないでしょうか、その結果が、同じような話をあえてこの福音書に掲載したということだった。わたしはそう思いました。


 ところでこの物語には、もう一つ大切なことが伝えられていると思いました。それは、弟子たちの有様です。イエスは必死です。腸がちぎれる思いで難民たちに接し、できる限りのことをしようとします。しかし弟子たちは、5000人の時と同じように、「こんな人里離れたところで、いったい何ができるのか」といってイエスの要請を拒絶します。

 わたしはここにイエスと弟子たちとの違いがあるように思うのです。イエスは世の中の不条理、不公平、不公正を改めて、誰もが等しく幸せを享受できる世の中をつくりたいと考えています。それが「神の国」の内実なのです。しかし、弟子たちはそれよりも、かつてのイスラエルの繁栄を求めて、イエスに期待してついてきていたのです。その違いがここではっきりと表れていると思うのです。

 弟子たちはかつてのイスラエルの栄光の中に入りたいのです。まず何よりも自分が恵みを受けたい。これが彼らのイエスについてきた動機なのです。だから、何で俺たちがこんなことをやらなくちゃならないんだという思いなのです。それがイエスの要請に対する拒絶となって表れていると思うのです。

 この弟子たちの姿は、今に生きるわたしたち信者の姿ではないでしょうか。イエスを救い主と信じた。洗礼を受けた。信者になった。その理由の根本は、自分の救いです。究極的には「永遠の命」です。もちろんそれはそれでいいのです。ただし、もしもそれだけならば、クリスチャンになるというのは、自分さえ良ければそれでいいということになりかねません。イエスがわたしたちに伝えようとしたことは、神にあっては誰もがかけがえのない存在だということです。そのことを自分の生き方を通して示そうよ。それがイエスがわたしたちに期待することです。



 ちょっと余談ですが、「グレートジャーニー」という言葉を聞いたことがありますか。直訳すると「偉大なる旅」です。これは、人類の歴史を言い表したものです。人類の起源は370万年前だといわれています。ホモ・サピエンスという種です。現代の科学ではその起源が明らかにされています。人類の祖先はアフリカのタンザニアだそうです。

 人類はそこから各地に拡散していったということです。基本的な流れは、アフリカ大陸から、ヨーロッパ大陸、北米、南米大陸と流れていったそうです。その過程で、傍流である様々な流れが拡がったそうです。で、何故人類は旅をしたのかというと、好奇心と向上心が動機のようです。未知なる世界を見たい。この先にはもっと暮らしやすい場所があるかも知れないということです。

 そうして実際に旅をして定住する。でもそこで、必ず弾かれた弱い者たちが生じる。だから弱い者たちは出て行かざるを得ない。新たに旅をはじめる。その繰り返しが、人類がこの地球のいたるところに住んでいる証といいます。ですから、アフリカのタンザニアから遠いほど弱い者たちだったと言えるのです。わたしたち日本人はその意味でかなり弱者といえます。

 ちょっと外れましたが、グレートジャーニーの理論から今日の主題に沿っていいたかった事は次のことです。人類の起源はアフリカです。つまり、はじめは黒人だったのです。しかし旅をする中で、それぞれの環境の中で、具体的には紫外線の違いによって、肌の色が白くなったり黄色くなったりしたのです。ですから、今もアメリカで黒人差別による事件が問題になっていますが、そもそも人類は皆同じなのに、いまだに差別があるというのは、言語道断なのです。いかに現代人が無知というか、やはり聖書がいうように「原罪」という理屈が当てはまるのかなと思うのです。


 本題に戻ります。弟子たちは、イエスの難民救済の業に素直に従いません。それは、自分の救いとは関係ないと思ったからです。わたしたちもそう変わりません。先ずは自分の救いです。これが何よりも大事なのです。天国へ行ければそれでいいのだという思いがあります。この福音書記者は、要するにそういった自己満足的な目的の弟子たちを非難する意味でも、この物語を掲載したと思うのです。

 弟子たちの存在は、そのままわたしたちだといえます。ならば、この箇所はわたしたちにとって、痛みを覚える箇所です。そのことはきちんと向き合わなければと思います。でも、こんな風にも思います。イエスは、こんな弟子たち、すなわちこんなわたしたち。愚かで、情けなくて、ずる賢くて、自分勝手で。こんなわたしたちを、繰り返し、繰り返し、用いるのです。それはわたしたちへの「信頼」があるからです。イエスは徹底して信頼する方なのです。裏切られても信頼するのです。それが十字架のキリストが意味することなのです。

 イエス・キリストのこの信頼に、少しでも、ほんのちょっとでも、応えて生きてゆく。そうできたらいいよね。来年はそうでありたい。そんな思いでこの年を締めくくって、新しい年を迎えたいと思います。


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by buku1054 | 2014-12-27 19:01 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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