2014年クリスマス燭火礼拝メッセージ

2014年クリスマス燭火礼拝マタイ1:18~25

 2014年も、もうすぐ終わろうとしています。時はただ流れてゆくという意味では、今年も来年もないわけですが、暦の上で区切りがなされます。ですから、終わりがあってはじめがある。そんな思いになるのでしょうか。

 ところでわたしたちは、過去を振り返って、あの時ああすればよかった。こうしたらよかったと後悔することがあります。冷静に考えれば、あの時ああすればよかったという選択が、必ずしもよい結果を招くとは限らないわけです。でも、そうした冷静な思いになれないのがわたしたちの弱さではないでしょうか。

 クリスマスの主人公、マリアとヨセフ。彼らは自分たちの結婚に際して、聖書の記述とは違う選択が可能でした。特にヨセフはそうでした。許嫁のマリアのお腹のこどもは、彼のこどもではありません。聖書では、この後イエスのことを、世間は「マリアの息子」と呼んでいたと記されています。当時こどもは必ず父親の名前で呼ばれたのです。ですから、イエスは紛れもなくヨセフの子ではなかったのです。

 「正しい人」と記されたヨセフ、つまりユダヤの掟に忠実な人であったヨセフ。その彼が、我が子でない子どもを宿したマリアと結婚することは、当時の常識では考えられないことでした。しかしヨセフは、マリアを妻として迎えます。二人はヨセフの故郷ベツレヘムで出産を迎えます。でも、身内からも世間からも拒絶されます。常識外れの結婚だったからです。二人は仕方なく、家畜小屋で、誰の助けも借りず、出産を迎えたのです。

 飼い葉桶の中で寝かされた赤ちゃんを見て、マリアとヨセフにどんな思いがよぎったのでしょうか。これから先どんなことが待っているのだろうか。世間の人たちはわれわれをどう見るだろうか。この子は幸せになれるのだろうか。そんな心配と不安がこの親子三人を包んでいたように思うのです。


 藤木正三という牧師が、こんなことを述べておりました。「どんなに世の中が平和になっても、人間が抱える問題は決して解決されない。そこに宗教の役割がある」。確かにそうだと思いました。仮に世界中の核兵器も他の武器も一切なくなって、環境破壊も改善され、飢餓や貧困といった格差問題も解消され、世界中の人々が利益を公平に分かち合い、どこの国のどんな人も生活に困らない、そんな夢のような世界が実現したとして、果たして人生がいつもバラ色となるでしょうか。

 もちろん幸福度のレベルは格段に高くなるでしょう。でも、それでも人生に伴う問題がなくなることは決してありません。病気から逃れることはできません。他人との関係での様々な問題もなくなりません。そして最後には、必ず死についての不安や恐れといった問題が待っています。どんなに暮らしやすい理想的な世の中になったとしても、人生の問題が一切無くなることはないのです。

 マリアとヨセフが迎えた困難も、どんなに平和な世の中であってもあり得ることです。けれどもこの聖書記者は、この過酷な状況を、インマヌエル、神は我らと共にいますと告げるのです。

 神は我らと共にいますとは、どういうことなのでしょうか。神が一緒にいて下さる。それはわかります。しかし、それがいったい何だというのでしょうか。神が一緒にいるから幸せになれるのでしょうか。問題が解決されるのでしょうか。

 神が我らと共にいる。これは、2000年前のユダヤ人が信じたことです。今に生きるわたしたちにとって大切なことは、文字通りそのまま受け入れることではなく、神が共にいるということの本質というか意味といいますか、それを見出すことではないでしょうか。

 それは、今、この時が大切な時ということではないでしょうか。今、自分が置かれている状況、それがたとえ辛いものであったとしても、そこには必ずわたしたちを導く意味がある。だからその状況を拒絶するのではなく、恨むのではなく、その状況を受け入れて日々生き抜く、その人生態度ではないでしょうか。

 もちろん戦争で苦しむ人々、大災害にあって悲しみに打ちひしがれている人々、食べられずに死んでいく人々、愛する人を失った人々、そういう人々に、それを受け入れよ。安易にいうことはできません。でも、そういう最中にある人々にも人智を越えた励ましや慰めが与えられている。生きる力が与えられている。それが神が共にという言葉が意味することではないでしょうか。

 2000年前のベツレヘム、人気の途絶えた家畜小屋、たった二人きりの若い夫婦マリアとヨセフ。彼らが迎えた現実は、困難な状況でした。そして、その先に待っていたのは、ヨセフの若死、生活の貧しさ、世間からの差別、そしてイエスの惨殺という結末だったのです。でも、神が共にだったのです。


 この一年、皆さんそれぞれにいろいろなことがあったはずです。受け入れがたい辛い出来事があった方もいると思います。悔やんだり、辛かったり、悲しかったり、心が虚しくなったり。酷く落ち込んだり、いろいろあったはずです。

 でも、この一年も神が共にであったのです。すなわち、この一年過ごしてきたどの時も意味があったのです。どの時も大切な時であったのです。人生の一コマ一コマ、無駄なことは一つもないのです。

 来る2015年が、どんな一年になるかはわかりません。ひょっとすると、思いも掛けない悲しみや苦しみが襲うかも知れません。でも、来年も神が共にいる。その先もずっと神が共にいる。すなわち、これからもやってくる、今、その時が、大切な意味ある時である。そのことを信じながら新しい年を迎えたいと思うのです。


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by buku1054 | 2014-12-24 23:24 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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