2014年12月7日坂下教会礼拝メッセージ

2014年12/7礼拝説教「神と出会うとき」マルコ7:24~30

 
今日はマルコによる福音書7章の二つ目の話となります。舞台はシリア・フェニキアの町です。外国です。フェニキアというのは、航海術に長けた海洋民族の国です。アルファベットを発明した人々としても有名です。彼らは地中海を渡って、北アフリカの北岸、現在のチュニジア辺りにカルタゴというとても繁栄した植民地を築きました。ローマ帝国の強敵で将軍ハンニバルもよく知られた存在です。このカルタゴはアフリカでのフェニキアですが、それと区別するためシリア・フェニキアという呼び方が生まれるのです。

 ところでなぜイエスは外国へ行ったのでしょうか。冒頭に次のような言葉があります。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っていたが、人々に気づかれてしまった」。イエスは誰とも関わりたくなかったのです。その理由は、疲労困憊だったからではないでしょうか。

 ここに至るまで数多くの癒しがありました。5000人の群衆への対応もありました。弟子たちは自分たちだけで宣教活動もしました。ユダヤ教の指導者たちとの論争もありました。イエスの一行は疲れ切っていたはずです。もうそろそろ骨休めをしたい。次の活動への充電もしたい。そんな心境だったのではないかと思うのです。ですから、わたしはここは、イエスのバカンスだったと思うのです。

 さて本文を見て行きます。誰にも気づかれないようにしてひっそりと休息の時を得ていたイエスでした。しかし、せっかくのバカンスも人々に気つかれ、元の忙しい日々に引き戻されてしまいました。一人の女性がやって来ます。シリア・フェニキア生まれといいますから異邦人です。彼女は娘を助けて欲しいとやって来たのです。娘が汚れた霊に取り憑かれたというのです。しかも彼女はイエスの足もとにひれ伏しているのです。必死に懇願しているのです。


 この女性の姿は、当時としてはあり得ない事です。ユダヤ人と異邦人との間には深い隔たりがありました。その原因は、ユダヤ人による異邦人への差別です。それゆえに両者に間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人であるイエスに救いを願うなどあり得ない事だったのです。まして、ひれ伏して懇願するなど考えられないのです。

 したがってこの女性は、恥も外聞も何もかもすべて捨てているわけです。それほど切羽詰まっていたのです。何としても娘を救いたかったのです。それに対してイエスはこう言います。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。

 これはいったいどのような意味なのでしょうか。「子供たち」とはユダヤ人を意味します。「小犬」は異邦人です。つまりイエスは、「わたしの救い、わたしの恵みは、ユダヤ人のためにあるのであって、異邦人に与える分はない」と述べたのです。イエスの言葉はあまりにも冷たい。というか随分酷いことをいうものだというのが率直な感想です。

 だとしたら、イエスの真意は何だったのでしょうか。せっかくのバカンスの邪魔をされて苛立っていたのでしょうか。人間イエスという視点に立てば、それも十分あり得ます。だからつい本音が出てしまったのかも知れません。

 あるいは、イエスも時代の子だったのでしょうか。イエスはあくまでユダヤ人であり、ユダヤ教徒です。ユダヤ教の改革を目指してはいたでしょうが、異邦人にまで恩恵を拡大しようとは思ってはいなかったのかも知れません。それが本音だったことは十分考えられます。

 これに対して女性はどう反応したのでしょうか。「人を犬呼ばわりするとは何だ」。そういって怒り、恨み節の一つも言い返してその場を離れたのでしょうか。普通ならそうするはずです。すごい救い主で慈愛に満ちたお方だと聞いたから来たものの、とんだペテン師だった。やっぱり傲慢なユダヤ人の男に過ぎないと思われても不思議ではないのです。

 しかしこの女性は怒ったわけでも、立ち去ったのでもありません。こう言うのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。彼女はこれほどの侮辱を受けても怯みません。わたしたちだってユダヤ人のおこぼれに与れますというのです。

 この言葉をわたしたちはどう受けとめたらいいのでしょうか。これはあまりにも卑屈すぎる。彼女は人間の尊厳を否定している。いくら救って欲しいとは言え、ここまで自分を貶めるべきではない。そう考える人もいるのではないでしょうか。ほんとうに解釈が難しいところです。考えてみました。もしも、彼女が卑屈すぎる、人間の尊厳の否定だと思うならば、その前提は、自分は犬ではない。恵みを受けるに値する者、価値ある者という意識です。現代では当然の意識です。だから人間の尊厳とか人権という言葉も当たり前のように用いられるわけです。したがって人権侵害を赦してはならないということになるわけです。

 もしここで彼女がそう思っていたのなら立ち去ったはずです。しかし立ち去らなかった。それはなぜか。間違っているかも知れませんが、彼女の思いはこうだったのではないでしょうか。「わたしたちは惠に値するような人間ではありません。救いに与れるような人間ではありません。でも、いのちを与えられた以上生きてゆきたいのです。生きさせてください。どうか娘を助けてください」ということだったのではないでしょうか。民族とか人種とか身分とか、そんなことは一切関係のない、人間としての根源的な願いだったのではないでしょうか。

 イエスはこれに対してどう言ったのでしょうか。「それほど言うなら、よろしい、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。新共同訳ではこう訳されていますが、ここは訳するのがとても難しいところだそうです。岩波書店の聖書ではこうなっています。「そう言われてはかなわない。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出てしまった」。


 厳密には、う~んとうなって言葉にならないような感じだそうです。おそらくその感じを察して岩波では、そこまで言われたら、かなわないとなったと思います。つまりイエスは降参しているのです。自分の負けだ。自分は間違っていた。そう認めているのです。

 わたしたちはイエスをキリストだと信仰するあまり、イエスが間違いを犯す。そんなことはこれっぽっちも思わないはずです。常に完璧な方、一分の隙もない立派な方、慈愛に満ちた方、そう思っています。またそうではくてはならないと思っています。だから新共同訳では「そこまで言うなら、よろしい。家に帰りなさい」としか訳せないのです。でも、これではあまりにも上から目線です。彼女の頑張りに対して、だったら救ってやるぞと言わんばかりです。

 でも、イエスはそういう人ではなかったのです。人間ですから間違いも犯すのです。時代の限界もあったのです。そしてこの出会いがイエスを変えたのです。彼女の執拗な食い下がりによって、イエスは深く恥じ入り、回心したのです。

 わたしは自分の間違いを認め、自分を変えることができるのは、愛だと思います。愛があるから変えることができるのです。世の中には、絶対に自分を変えようとしない人がいます。ほんとうに正しいのならそれでいいでしょう。しかし自分が明らかに間違っていても変えようとはしない人がいます。自分は絶対に正しいという信念なのか、それとも意地なのか、あるいはトラウマからなのか、悔しさからなのか、その理由は様々です。

 でもそんな人にも、その頑なさを変えようとする機会がしばしば訪れるはずです。わたしはあえていうなら、それが神と出会っているときだと思いたい。イエスはまさにここで神と出会ったのではないでしょうか。そしてイエスは間違いを認めるのです。ユダヤ人として持っていた差別や偏見に気がついたのです。そして悔い改めたのです。


 この福音書記者は、イエスのイメージにとって都合の悪いこの伝承を残すことで、神と出会うときとは何か、神の御心に生きようとすることとは何か。それをイエスが自らの非を通して、自分のイメージダウンになることを通して示しているのだ。だからわたしたちも、そうできたらいいよね。そう伝えたかったのではないでしょうか。



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by buku1054 | 2014-12-06 17:45 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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