2014年11月30日坂下教会礼拝メッセージ

2014年11月30日礼拝説教「いのちの掟」マルコ7:1~23

 今日からマルコによる福音書7章に入ります。この7章は三つの物語で構成されています。この三つはイエスの基本的な活動のすべてを反映していると思います。

 イエスの基本的な活動は大きく三つに分けることができます。まずは、ファリサイ派、律法学者といったユダヤ教の指導者たちとの論争です。これがイエスの死を早めたと思います。そして二つ目は、病人や障がい者の癒しです。イエスの最も中心的な活動です。イエスが殺される理由です。もう一つは、罪人とレッテルを貼られた人たちとの分け隔てのない自由な交流です。差別社会であった当時のユダヤにおいては革命的といっていい活動です。やはりイエスが殺される理由です。つまり、イエスの活動は、すべて当時のユダヤ教の考え方からすると殺されることになる理由だったのです。すなわち、イエスの活動はすべて命懸けだったといえます。自分の身を犠牲にしてまでやらなくてはならない。イエスはそう考えて行動したのです。

 今日のところは論争です。次の箇所、シリア・フェニキアの女の信仰のところは、癒しにも取れますが、彼女は異邦人だったので、罪人との自由な交わりともいえます。三つ目は、障がい者の癒しですが、ここも異邦人が対象ですので自由な交わりも重なっています。すなわち、イエスの基本的な活動のすべてがこの章では記されているのです。

 先取りするのですが、この福音書は全体で16章からなっています。次の8章で量的には丁度半分となるのですが、内容的にも分岐点になっています。8章からのイエスの歩みは、十字架へとまっしぐらに進んで行きます。その意味で7章までは、十字架に行かざるを得なかったイエスの生き様が記されていると言っていいのではないでしょうか。


 特に、この7章にイエスの生き様のすべてが記されていると思うのです。そう考えると、この福音書記者マルコは、イエスの生涯をここまで進めてきて、ここでイエスの生き様の一つの結論を示したかったのではないかと思います。

 では、順を追って考えて行きたいと思います。ここは、エルサレムからやって来たファリサイ派と律法学者たちという書き出しではじまります。わざわざユダヤ教の総本山から来たわけです。イエスの影響力が遠くエルサレムまで鳴り響いていたということです。このことは、ユダヤの指導者にしてみたら、たいへん深刻な事態だったのではないでしょうか。ですから彼らは、何としてでもイエスを貶めるためにわざわざガリラヤのゲネサレトまでやって来たのです。そして言いがかりをつける機会を狙っていたのです。

 すると一つのことが問題になったのです。弟子たちの中に手を洗わずに食事をする者がいたのです。それを非難の材料としたのです。もっとも弟子たちすべてではないのです。弟子の中の何人かです。つまり弟子の中で手を洗う者もいたということなのです。これは重要なことなのです。後でこのことには触れたいと思います。

 まずここで、食事の前に手を洗う行為ですが、これは衛生上のことではありませんでした。宗教的な意味があったのです。ユダヤ人にとって食事というのは、命を維持するための行為という意味だけではありませんでした。食事をすることは、神との交流という意味があったのです。

 もちろんこのことが意味することの本質は大切なことです。食べるという行為は、それを提供してくれる様々な命の存在や食べるにいたるまでの働きがあってこそあり得るわけですから、まさに恵みといっていい事柄です。わたしたちも、食前の祈りをすること、あるいは、いただきますと言って手を合わせることは大事なことです。


 しかしユダヤの指導者たちは、それに留まりませんでした。自分の身が穢れていることは神に対して申し訳ないと考えたのです。したがって穢れを清めるという考えが生じました。食前に手を洗うことはもちろんのこと、市場から帰ったら体を清めるということまでしたのです。ミクヴァーという水槽で沐浴をしたのです。なぜなら、異邦人に触れたかも知れないからということです。このように異常なほど穢れに固執する社会だったのです。

 汚れた身のままでは神に喜ばれない。神から裁かれる。そういう理解であっのです。ただしこれは律法の掟ではありません。昔からの人の言い伝えだったというのです。つまり、ある人たちが自分たちの価値基準で決めたことなのです。それがいつしか絶対の尺度となり、それを破った者は神を冒涜したというように見なされるようになったのです。

 イエスはこれに対して、どう言ったかというと、あなたがたは人の言い伝えを大事にして、神の掟を捨てていると非難したのです。かなり手厳しいです。自分たちこそ神の掟に忠実に生きていると信じ込んでいる者に向かって、いうなれば「お前ら、少しも神を大事にしていないじゃないか!」といったようなものです。当然、言われたファリサイ派、律法学者たちは怒り狂ったでしょう。イエスがやがて殺される運命になるのも仕方がないなと思います。でもイエスは黙ってはいられなかったのです。

 ところでイエスの言う神の掟とは何でしょうか。通常、神の掟とは「律法」を指します。でも、律法ならば他の箇所と同様に律法と記されているはずです。でもイエスは、律法とは言わず、あえて「神の掟」というのです。ということは、イエスは、律法のことを述べてはいないのです。では何でしょうか。

 神についてはいろいろな捉え方があると思います。捉え方がいろいろあるというのは、神を認識することができないからです。だから様々な捉え方になるのです。ですからどのような捉え方でもいいのです。というかどれが間違いだとか正しいとかはいえないのです。それぞれに信じていればいいのです。

 わたしもその都度変わりますが、今は、神とは「命の源」だと思っています。天地創造物語では、神がすべてのものを創られたとあります。やはり源です。ローマ書では「すべてのものは神から出た」とパウロは捉えているのです。したがって、神の掟とは、わたしなりに解釈すると、命の掟というか、命の根本精神というか、命についてのもっとも大切なことだと思うのです。

 命とは何でしょうか。つまり、生きているということは何でしょうか。こういう問いは学校で学ぶのでしょうか。少なくともわたしは学んだ記憶がありません。数学、英語、物理、国語、歴史に地理。学ぶべきことはたくさんあります。でも、わたしたちが生きる上でもっとも大切なこと、根源的なことは、学校では案外なおざりにされているような気がします。家庭でも、親からこのような話を聞いたことはありませんでした。

 命とは、生きるとは、あえて定義するならば、それは、関係的であるということ、つながりだということです。つまり、そのものの力、そのものの意志だけでは存在しえないということです。この真実には例外がありません。イエスだろうが、安倍首相だろうが、蛙だろうが、まったく同じです。したがって命には優劣はありません。誰もが皆かけがえない存在なのです。言い方を変えれば、どんな小さな者も大切だということなのです。これが神の掟が意味することではないでしょうか。

 人の言い伝えに固執するユダヤ教の指導者たちは、神の前では穢れていてはならないと思い込んでいます。特別でなくてはならないわけです。存在における差別を容認する考えです。自分で勝手に神の前で相応しい者はどんな者かということを決めているのです。しかし、この倒錯した状態に気がつかないのです。


 後半でイエスは語ります。悪いものは人の心の中から出ると。正確には自我から出るということでしょう。自我とは、自分の力だけで存在しているという意識です。そこから、自分を守るのは自分自身だということになります。ほんとうは、自分以外の存在があって守られているのですが、そこはすっかり抜け落ちるのです。自分だけなのです。したがって、他者は基本的に競争相手となるのです。場合によっては敵対の対象にもなります。ともかく自我は自己保身に執着します。さらに自己拡大へと進みます。貪欲な思い。弱肉強食の考えを生むのです。グローバル経済はその典型的な例といえます。

 結果として、他者を出し抜いてでも自分がよくなろうとする。そこで自分の方が優れていると思い込む。立派だと自負する。正しいと誇る。そして、それらの思いを正当化するための仕組み、きまり、考え方などをつくろうとする。まさにこれが、当時のユダヤ教の指導者たちの実態だったのです。彼らは神様、神様と敬虔ぶってはいますが、実はまったく神から離れているのです。心の深いところでは、少しも神を信じていないのです。でもそれに気がついていないわけなのです。

 ただ今日のわたしたちが、果たして、当時のユダヤ教指導者を非難できるかというと、口をつぐんでしまうと思うのです。わたしたちもまた同じような過ちを冒しているのではないでしょうか。

 冒頭で、手を洗う弟子もいたことが重要だと述べました。イエスは皆同じにしようとは思っていないのです。いろいろな考え、いろいろな立場があっていいと考えているのです。命はつながりであると同時にそれぞれに違いもあるのです。関係を大切にすることは、何でも同じにしなくてはならないということではありません。それでは同調圧力です。

 そうではなく、それぞれの違いを受け入れ合いながら支え合ってゆくということではないでしょうか。それがイエスの思いなのです。このイエスの考えを、今、個々の地域社会で、それぞれの国で、そして教会はどこまで実現しているのでしょうか。問われていると思います。


 今日から教会の暦でアドヴェントとなりました。クリスマスへの備えの時期です。備えの中心的な事柄は悔い改めです。この一年の来し方を振り返り、果たして自分はどう生きてきたか、自分に偽りなく向き合い、新たに生き直す決意をするときです。なぜこの時期にそうするのか。それは救い主が誕生したことの意味を思い起こすからです。

 イエスは救い主キリストとして誕生しました。初代教会が定めた信仰です。そしてその救いとは、信じた者が永遠の命を与えられるといった自分のことだけに留まるものではありません。先週も述べたように、救いとは、他者と共に愛し合って生きるように変えられるというところまで含まれるのです。

 これは最も難しいことです。一朝一夕にできることではありません。でも、だから、折に触れて自らを振り返るときが必要だと思うのです。礼拝を守るという修行が必要なのです。それは、そうしなくては駄目なんだとか、そうしなければ救われないとかいうことではありません。神の愛に対する応答なんです。その応答の日々がわたしたちの生きる意味だと思うのです。このアドヴェント少しでもそのような思いで過ごせたらと思うのです。



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by buku1054 | 2014-11-30 17:47 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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