主の祈りについて

主の祈り
主の祈りとは、イエスが人々に対して、祈るときにはこのように祈りなさいと教えられた祈りです。聖書では、マタイによる福音書6章10~13節、ルカによる福音書11章2~4節にあります。内容は若干違います。教会で祈る言葉は、両方を参考にしてまとめたものです。「主」とは、わたしたちを導くご主人様ということで、キリスト者は基本的には「神」ですが、ここでは、キリスト者が救い主と信じるイエスのことです。

天にまします我らの父よ
「天におられるわたしたちの父よ」ということです。「父」は「神」を意味します。古代ユダヤ人は、神を家族を守る父のような強くて優しいイメージを持っていたのです。「天」は空や宇宙ではありません。神は未知なる存在です。古代人にとって「天」は未知なる世界でした。だから神は「天」にいるということなのです。ただし居場所がはっきりしなくても、神が確かにいてくださるという信仰が前提となっています。「神様~!」という呼びかけです。

願わくは御名を崇めさせたまえ
「御名が崇められますように」ということです。御名とは神の名前ですが、本当のこといえば、見ることも、触ることもできない神の名前などわかるわけがありません。ただ、古代社会は「名前」とはその人のすべてを意味すると捉えられていました。ですから、神のすべてということです。崇められるというのは、絶大な信頼を得るということです。したがって、神のすべてが絶大な信頼を得られるようにという願いです。

御国を来たらせたまえ
御国とは「神の国」です。イエスがもっとも大切にしたことでした。神の国とは厳密には「神の支配」です。この世界は神が支配しているということです。聖書信仰の根本は、「神は愛」ということです。したがって、神は愛をもってこの世界を支配しているということです。もっというと、この世界にあるすべのものは尊いものだということが神の支配の中身です。世界は古来より現代にいたるまで戦争が絶えず、差別、飢餓、貧困、環境破壊などが終わりません。ですから、すべてのものは尊いという考えに立った世界、つまり平和な世界が来てくださいという願いです。

御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ
「御心」とは神の心です。神は愛という理解ですから、神の心も「愛」です。神がいるところでは愛が満ちあふれているわけで、つまり平和ということですが、わたしたちが生きるこの世界は平和とはいえません。そこで、この世界にも平和をもたらしてくださいという願いです。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
「日用の糧」とは、生きるために必要な食料ということです。それを今日も与えてくださいということです。食料は自分でつくる人、お店で買う人、様々ですが、太陽の光や水や土や肥料や微生物など様々な存在の助けがなくては得られません。つまり、食べることはとってもありがたいことなのです。だから心から感謝しよう!ということです。それと、「我らの」なのです。自分だけが食べられたらそれでいいのではありません。この世界に生きるすべてのものが食べられるようにという願いです。貧困のため餓死していく人たちを助けてくださいという祈りでもあるのです。

我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ
実際の順番は、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちに罪をおかした人を赦します」です。聖書で言う「罪」とはニュースにあるような犯罪ではありません。元々の意味は「的外れ」です。どういうことかというと、自分の力だけで生きているという傲慢です。この世界で自分の力だけで生きている者などただの一人もいません。親をはじめとした先祖がいなくては生まれていません。空気、水、太陽、大地、他人、ともかく他の存在無くして一瞬も生きられません。そういう事実であるにもかかわらず、少しも感謝せず、自分の努力、能力だけで生きているという思い上がった心が「罪」です。そんな的外れな思いで生きているわたしを赦してくださいということです。で、自分も傲慢なのだから、自分のことは棚に上げて、他人の傲慢を非難するのはおかしいではないですか?大目に見てあげましょう。

我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ
「試み」とは「誘惑」です。聖書では誘惑が「悪」なのです。様々な誘惑があります。たとえば「お酒」が好きな人は、お酒が誘惑です。適度に飲むならいいのですが、意志の弱いわたしたちは、ついついもう少しということで過剰に飲んでしまいます。そのために、自分の体を壊し、家族や他人に不快な思いを与えてしまうことになります。そのような悪い状態から抜け出せるように助けてくださいという願いです。つまり、わたしたちは誘惑に弱い存在なんだということを認める素直な自分でありなさいという意味もあるのです。だから神の助けが必要だということです。

国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり
実はこの部分は聖書にありません。ここはイエスが死んで教会が成立した後に付け加えられたものです。国、力、栄えとは、現実の政治経済によって成り立つ世界を意味しています。人間の本性は「傲慢」です。自分だけが幸せになればいい。他人が不幸になっても構わないということです。ですから、現実の世界で行われる政治経済も、神の愛に基づく、すべてのものが幸せであるようなあり方であるようにという願いです。
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by buku1054 | 2014-11-20 18:54 | その他 | Comments(0)
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