2014年11月2日坂下教会礼拝メッセージ

201411/2礼拝説教「真理」ローマ11:3336
                  

今日、11月第一主日は、わたしたちプロテスタント教会の暦で「聖徒の日」です。「聖徒」とは聖なる信徒と書きます。すでに天に召された信仰者ということです。この人たち記念する日です。

今日の説教題を「真理」としました。真理の定義は、いつの時代でも、どこでも、誰にとっても、変わらないほんとうのことです。ちなみに新約聖書の原語であるギリシア語では、真理はアレーテイヤといいます。本来の意味は「忘れてはならない」です。いつでもどこでも誰にとっても忘れてはならない、ほんとうに大切なこと、それが真理なのです。で、なぜ、召天者記念のときに真理なのかですが、それをこれからお話しします。

ここ数年、わたしは「臨死体験」についての本を何冊も読んできました。臨死体験というのは、一度、心肺停止や脳死によって昏睡状態になった人が、蘇生して、死後の世界の体験したことをはっきりと認識したということです。

これは全世界にたいへんな数の経験者がいます。そこには共通することがあると言われています。トンネルのような暗闇を通って、光り輝く素晴らしい至福の世界に行った、過去に亡くなった家族、友人、知人などに会えたといったものです。しかし一昔前までは、というか今でも、臨死体験は眉唾物で、夢や幻想、馬鹿馬鹿しいと思われていました。

とりわけ医学の分野では、臨死体験は死の直前に脳から放出される「エンドルフィン」という物質によるものと分析されています。この「エンドルフィン」は、死の痛みを和らげる効果があるのですが、大量に分泌されると、緩和を通り越して快楽を与えるのです。つまり、麻薬のような働きをして、幻覚を見るのと同じような状態になるというのです。ですから臨死体験も、この脳内麻薬「エンドルフィン」による幻覚だと思われていました。


 しかし、徐々にこうした常識が覆されています。日本では、医学界の最高権威ともいうべき東京大学付属病院救急部、集中治療室部長の矢作直樹医師が『人は死なない』という著書を数年前発表しました。矢作先生は何千人という臨終の人を見てきたこと、またご自身、登山中に不思議な体験をしたこと、さらには亡くなった母親と確かに交信できたことを通して、われわれは死んでも終わらない。次元が違うところで生きるということを確信したと述べています。


 脳神経外科の世界的権威、アメリカのエベン・アレグサンダー医師は、「死後の世界など絶対ない。臨死体験は脳内麻薬エンドルフィンによる幻覚によるものだ」と強く主張してきた人でした。しかし彼は54歳の時、「細菌性髄膜炎」で心肺停止、昏睡状態に陥ります。その間に見た臨死体験は、今までの脳科学の常識を一変させるものでした。なぜなら、彼が臨死体験をしたとき、彼の脳機能は止まっていたからです。エンドルフィンは放出されていなかったわけです。ですから「死後の世界はある」とアレグサンダー医師は認めざるを得なかったのです。

もっともキリスト教は、死後の世界があることを2000年以上前からずっと伝え続けてきたのです。その意味では、2000年経って、ようやく科学が宗教を認めはじめたといえるのかも知れません。

さて、今日の聖書の言葉について考えてみたいと思います。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。パウロの言葉です。わたしたち信仰者の究極的な告白と言っていいでしょう。この言葉に確信を持てたら恐いものはなくなると思います。

すべてのものは神から出るというのです。生まれるではありません。些細なことかも知れませんが重要なことではないでしょうか。たとえばあなたの誕生日はいつですか?そう聞かれたら皆さんはどう答えますか。そんなの決っているじゃないか、母親の胎から出てきた日だ。それが誕生日、命が生まれた日だ。そう答えるはずです。

しかしそれは、命が生まれた日とは言えません。だって、いのちはお母さんの胎の中にいるときからあります。では、母親の胎の中に宿るとき、つまり、受精卵が子宮に着床したときが命のはじまりでしょうか。それも違います。両親の精子と卵子にも命はあるのです。

そう考えると、命にははじまりはないということがわかります。ずっとつながっているのです。ですから、「生まれる」。つまり無から有ではなく、つながりの中から出た。顕れた。ということではないでしょうか。で、それをずっと太古の昔まで遡っていくと、科学的には「ビッグ・バン」になるのです。でも、ビッグ・バンのさらにその先を考えると、どうしても「神」と呼ぶしかない存在へ行き着くのではないでしょうか。

次に、「神によって保たれ」とはどういうことでしょうか。これはおそらく、わたしたちは自己完結的な存在ではない。つまり100%自分で何でもできる存在ではないことを示していると思うのです。考えてもみてください。100%自らの力で自らの命を維持できる人は果たしているでしょうか。空気も水も全部自分で造り出す。食べ物を得るにしても、一切、土や太陽や水の世話にならず造り出せる人がいるでしょうか。いるわけがありません。自分の力だけでは一瞬たりとも生きられないのです。他の存在が必要不可欠なのです。だから、自己完結的ではないわけです。

これは、まさに仏教の根本である縁起という教えに相当します。すべてのものは、縁によって起こる。つまり関係によってあるということです。自分だけでは存在できないということです。仏教ではここまでですが、その先があると思います。つまり、縁起の源があるはずです。それは、すべてのものは、すべてでない何かとの関係によって顕れたと言えるはずです。その何かが「神」です。もっとも便宜上神と呼ぶしかないものです。

わたしたちは教えられてきました。というか刷り込まれてきました。この世に生まれたわたしたちは、死に向かって生きる。死んだら無になる。死んだら終わり。今でもこれが常識です。ほんとうにそうでしょうか。

神と呼ぶ大いなる源から連綿とつながってきたのが命です。つまり命には生まれるということがないのです。生まれるではなく、その時々の縁によって、関係によって出てきた。顕れたということのようです。そして、個別の命はいつかやがて姿が消えてなくなります。わたしたちが捉えている「死」です。でも、そこで終わるのでしょうか。命のつながりは断絶するのでしょうか。

わたしたちが以前飼っていた愛犬の遺体は自宅のの庭に埋めました。今そこからはたくさんの草花が咲いています。愛犬の遺体の成分が養分となって草花を咲かせているわけです。草花に愛犬の命が宿っているのです。愛犬と草花を分離することはできません。やはり命はつながっているのです。終わってはいないのです。

仏教でもっともポピュラーなお経、般若心経に「不生不滅」という言葉があります。「この世のすべてのものは、生まれることもなく、死ぬこともない」ということです。これって、神から出て神に向かうという今日のパウロの言葉と本質的に同じことを述べているのではないでしょうか。

わたしたちの次元というかわたしたちの思考というか、そこからすれば、生まれる、死ぬというようにしか捉えられないことが、別の次元からすれば、生まれもしなければ、死ぬこともない。キリスト教的にいえば、神から出る。神に向かう。神に戻る。神に帰るのだということではないでしょうか。

わたしは、あの世とか天国と呼ばれるところがあることを信じます。死んだら終わり、無になるとは思いません。新たなはじまりがあると思っています。そうでなければ信仰者の名折れです。というか信仰者をやっている意味がありません。もちろん100%信じているとは言えません。わたしたちは不完全だからです。どれだけ信じているか、数字的なことはどうでもよいのです。そう信じよう、そう信じたい。その気持ちを大切に育んで守ってゆければそれでいいのです。

まとめます。わたしたちは、誰もが例外なく神とつながって個別の存在として存在させられ、様々な他者と、その背後にある神によって存在を維持され、わたしたちの源である神に向かって歩んでいるといえます。この恵みを感謝して、折角与えられた人生という機会を味わい尽くす。そうでないともったいないと思うのです。で、生き抜いたら神のもとへ帰って行きましょう。というか、神から召されるのです。その時が来たら、わたしたちは、その働きにすべてお任せしていればいいのです。恐いことは何もないのです。


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by buku1054 | 2014-11-20 12:17 | 礼拝メッセージ | Comments(0)
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